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2008年10月

2008年10月31日 (金)

まだ家に帰らず伊豆・真鶴にきています

 今日は、かねてよりの念願であった、中川一政美術館にいってきました。

 その人生を歌人として始め、のちに画家となった異才の人物は、すばらしい文才の持ち主でもあります。
 
 画に添えられた随筆は、その内容、文体ともに、本分の画すら凌駕(りょうが)するすばらしさです。

 意外な「起」点、それを継「承」して話を広げ、破綻させずに「転」換して美しい「結」末に落とす。

「正午牡丹」、「腹の虫」、「うちには猛犬がゐる」など、随筆集を手にする機会があれば、ぜひ一読をおすすめします。

 世の、テレビ雑誌などに露出の多い自分の頭が良いと勘違いしている有象無象(うぞうむそう)たちに絶望しがちな暗い気持ちは、かくもすばらしい人物が存在した、という事実で明るく晴れ渡り、精進せねばナラヌ、などと浅学非才の我が身ながら元気がでてきました。

 また書家でもあった一政は、97歳の時に「正念場」という書を残しています。

 とにかく、生まれてから死ぬまで、フトイ人物でありました。

「われはでくなり つかはれて 踊るなり」という、入場券に印刷された、浄瑠璃人形の頭に添えられた歌は、自ら、あるいは我々を揶揄し揶揄された秀作でしょう。

 詳細は、帰宅後に。


   熱海のマクドナルドにて ネコを車に残し、
           イチャつく高校生カップルの横で……  かぶらや

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2008年10月29日 (水)

藤沢から書いています。

 今、藤沢のマクドナルド内より、BBモバイルを使ってこれを書いています。

 今日は、時間があったので、鎌倉に行ってきました。

 前々から江ノ電に乗ってみたかったので、車を江ノ島において、「パーク アンド レールライドパス」を使って、円覚寺、鶴岡八幡宮、文学館、鎌倉大仏などを観てまわりました。

 特に、興味深かったのは鎌倉大仏で、20円を払って中にはいると自由の女神のように、造形が内部からわかります。

 写真ともども、近々アップしますのでお楽しみに。

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2008年10月27日 (月)

一生モノのシャープナー 〜DUX〜

 子供の頃は、エンピツを、手動のエンピツ削りで、ぐるぐるハンドルを回して削ったものだった。

 欠点は、どれくらい回したら一番適当なトガリぐあいになるかが、わからないことだ。

 後になって、電動エンピツ削りが登場すると(ってトシがバレるね)、トンガリましたよ、とランプがついて教えてくれるようになって削り過ぎがなくなった。

 だが、学校などの出先でもエンピツの先はニブクなる。、

 そこで使うのが、エンピツをつっこんで、グリグリ回す携帯型エンピツ削りだ。

 わたしが持っていたのは、不透明プラスティック製で、どれぐらいエンピツを回転させたら良いかわからないヤツだった。

 不透明だから、いつの間にか中身が削りクズでいっぱいになって、それがカバンの中で勝手に開いて大惨事になってしまったこともある。

 何度かそんなことがあると、もう嫌になって、中学になるころにはナイフに代えてしまった(当時は、肥後守[ヒゴノカミ]など学校に持って行っても、それほどうるさくなかったのだ)。

 その後、筆記具はエンピツからシャープペン、万年筆と変わって、今はもっぱら万年筆を使って書いている。

 それでも昔から変わらず使い続けているものがひとつある。

 赤エンピツだ。三菱のバーミリオン。

 学生の頃は、これで線をひきまくり、辞書が真っ赤になった(電子辞書なんてなかったっスヨ)。

 わたしは、蛍光ペンというものが好きになれず、とにかくアンダーラインは赤エンピツでひく。

 だいたい、蛍光ペンでアンダーラインっておかしいでしょう?
 下に引くからアンダーラインなんですよ。


 赤エンピツは、ずっとカッターナイフで削ってきたが、最近になって、丸善で理想のエンピツ削りを見つけた。


 ドイツ、スタンダードクラフト社のDUXシャプナーだ。




 ダイアル操作で、三段階に芯のトガリ具合を選べ、最初から削りクズを溜めるところなんかないから、こぼれたりもしない。

 刃先が鈍ったら、替え刃も用意されている。つまり、一生使える(それが50年後か明日かは分からないが)。

 なにより、真鍮削りだしの重厚さがいい(35g)。革ケースも使いやすく持ちやすい。




 これで1,680円は安いのではないだろうか?


 送るなら替え刃つきギフトセットがオススメ↓


 私のおすすめ:
【DUX:ダックス】 シャープナー ギフトセット(ブラック)

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最初の生豆焙煎

 珈琲を飲み始めたのは小学生の頃だったと思う。

 母は珈琲を好きで、よく飲んでいた。

 わたしは、その横で、お湯でかなり薄めたインスタント・コーヒーをお相伴(おしょうばん)させてもらっていたのだ。

 また母は、たまに時間がある夜などサイフォンで濃い珈琲を点(た)ててくれた。

 わたしは、それにたっぷりとミルクを入れて飲むのが好きだった。

 子供ごころに、理科の科学実験のようにアルコールランプを使い、ガラス管を上下する琥珀色の液体を見るのがうれしかった。


 中学生になると、受験勉強をするようになり、珈琲の量が増えた。


 忙しいときはインスタントを飲んだが、時間のある時は、買ってきた焙煎豆をハンドミルで挽き、カリタ式ドリッパーでドリップして飲んだ。

 当時、ひとり暮らしをしていたので、洗いモノが増えるのを嫌ってブラックで飲むようになった。
 砂糖やミルクを入れると、カップにこびりついて汚れが落ちにくかったからだ。
 現在のように、一般家庭に食器洗い機がなかったころのことだ。

 日に20杯は飲むようになっていたように思う。




 自家焙煎を始めたのは、15,6年前のことだ。

 生豆を手にいれたので焙煎の方法を調べたが、よくわからなかった。

 当時は、個人が焙煎する方法の載っている本がほとんどなくインターネットも未発達だったからだ。

 わずかに、茶こしがふたつ合わさった、ゴマ炒り器のような焙煎器具を使い、ガスコンロから強火の遠火で長時間かけて丁寧に炒る、といったことを知ったが、その器具自体、どこにいけば手に入るのか分からなかったのだった。

 いろいろと探すうち、ニフティの珈琲フォーラム(パソコン通信の!)で焙煎の方法を知った。

 フォーラムの管理者は、分かりやすく簡単な焙煎方法を教えてくれていた。(次回掲載)
 

 彼は、そのフォーラムで最後にこう締めくくっていた。

「焙煎自体は、そんなに難しくない。慣れれば誰でもできる。一番難しいのは、生豆を手に入れることだ」

 確かに、当時は珈琲豆専門店に行っても、よほど親しくならないかぎり生豆は売ってくれない、そんな時代だった。


 時は流れ、今ではインターネットを通じて簡単に生豆を買い、器具をそろえて焙煎することができるようになった。




 焙煎器にしても、先に書いた手動焙煎以外に、機械的な焙煎器も各種売られていて、だれもが簡単に焙煎したての珈琲を飲めるようになった。

 素晴らしいことだ。

 このコーナーでは、それら各種器具の比較もしていきたいと思っている。


 一度、焙煎したての珈琲を飲んだら、なかなか挽き売りの豆に戻ることはできなくなる。
 (自家焙煎したのを、適切に冷凍すれば、かなりおいしく保存できるが)

 いくら、店で挽きたての豆を買って、冷凍庫で保管しても、味の違いは歴然だ。

 健康に対する珈琲の各種効能は、広く知られるようになったが、本当に高価があるのは、酸化する前の炒り珈琲なのだ。

 生豆は、常温で長期保管できる。だから樽や麻袋にいれて輸入されていた。

 焙煎した途端に珈琲豆は酸化しはじめ、有効成分が減りはじめる。

 だからこそ、ひとりでも多くの人に、炒りたて、挽きたての珈琲を飲んで欲しい。

-以下次号-

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2008年10月25日 (土)

わたしの手帳史2 〜こんな手帳を使ってきました〜

 そうなると飛びつくのが、いわゆるシステム手帳

 ファイロファクスを初めとして、ダビンチなど色々なメーカのものが売られていますね。

 わたしも色々買いました。


 これは学生の頃、生協で買ったやつで、本革なのに安かった。





 中身はこんな感じ。





 システム手帳といえば、中のカミ、いわゆるリフィルというのがイノチでしょう。

 もちろん、わたしも、かなりの種類を買いまくりました。

 でも、どうも、その全てがしっくり来なかった。

 だから、自作しました。
 まあ、それがシステム手帳のダイゴミであり、特長でしょうから。


 自作リフィルのなかで、一番長く使ったのが……

 デイリー用のこれです。


 左上にToDo用のリストが置かれ、右側には1日のスケジュール
 左下にはメモやイラスト、図を描くスペースを楕円でとってあります。

 それ以外に、上にイラスト、下に文字の備忘録。



 上がドットエリアで、下が文字スペース




 なんてのも作りました。

 健康のためと自己管理をするために、食べたものを控えるためのリフィルや、原稿書きのリフィルも作りました。

-以下次号-

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わたしの手帳史1 〜こんな手帳を使ってきました〜

 今、つかっている手帳ジュツについて書く前に、これまで使ってきた手帳の個人史を公表しましょう。

 誰でもそうでしょうが、まず初めはオーソドックスなタイプを使っていました。


こんなヤツ。




中身はこんな感じ。




 でも、どうも書くスペースが小さいし、マンスリー表示と横罫(よこけい)ノートだけというのが、物足りなかった。

 手帳というのは、もっと色々な機能と可能性をもっているはず、という夢と希望と期待を持っていたんだな。

 まあ、わたしも若かった……

-以下次号-

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日本で最初に自爆した男

 英国を訪れた時、向こうで落ちあった友人とともに、ドーバー海峡とドーバー城を見たあとで、要塞に行ってみた。




 有名なドーバーの白い崖(White cliffs of Dover:石灰質でできていて本当に白い)をくりぬいて作られた地下要塞は、第二次大戦の際、ドイツ軍に対する絶対防衛線として、英国を守る盾となった。




 いまでは観光地として一般に開放されている。

 広くて高い地下壕の廊下は、明るく清潔で、うっかりすると、それが地下深くにつくられた通路であることを忘れてしまいそうだ。

 観光経路を半分ほど歩いた時、友人が、ぽつりと呟いた。

やっぱり、戦争は勝たないといかんのかなぁ

 彼は、英国に来る少し前に、沖縄へ出かけており、そこで「沖縄旧海軍司令壕」を訪れていたのだ。




「戦争に負けた日本の壕とは随分違う。沖縄の海軍司令壕は、雰囲気も暗いが実際に暗かった。おまけに通路の一部分が、いきなり広がっているところがあって……」




 どういうことなのか問うと、そこには「**将校自爆(自決)の跡」といった看板が置かれているのだという。


 戦争の勝敗、あるいは戦争の正否はともかくとして、英国に行ったなら、ぜひともWhite cliffs of Doveを見た後、ドーバー要塞見学をおすすめする。


 ところで、自爆といえば、最近、テロの際に自爆することが多くなってきたようだが、あれは日本人が教えたものだ、という説がある。

 赤軍派が教えるまで、アラブ地方には、はっきりとした自爆テロという考えはなかったというのだ。

 そういえば、日本には、今ではフィクションであると分かってはいるものの、爆弾三勇士なんていう逸話もあった(知ってるかなぁ)。

 自爆という行為は、それほど珍しいことではない

 中東では違ったのだろうか。


 いつから日本人は、自爆なんて始めたのだろう。

 火薬の製法が日本に入ってくる前でないことは確かだから……?

 なんて悩むことはない

 実は、史実として、日本で最初に自爆した人物の名前は特定されているのだ。(異説はあるが)

 その名を松永弾正久秀、いわゆる松永弾正(まつながだんじょう)という




 織田信長と同じ戦国の世を生きた人(1510-1577)で、第13代足利義輝暗殺東大寺大仏殿焼き払いの黒幕とも考えられている。

 フクロウのオスとかいて、梟雄(きょうゆう)というコトバがある。

 意味は「残忍で強く荒々しい」で、ヒトの性質の激しいさまを猛禽類(もうきんるい)のフクロウに例えた表現だ。

 松永久秀は、北条早雲、齋藤道三と共に、下克上の三大梟雄と称せられ、部下に厳しいことで有名な織田信長を何度も裏切りながら、そのたびに許された希有の人物なのだ。

 その後、信長の石山本願寺攻略の際、勝手に戦線離脱し信貴山城に立てこもり、所有していた名器、平蜘蛛(ひらぐも)茶釜に爆薬を仕込んで爆死した。

 ご存じとは思うが、爆薬は、密閉容器に仕込んで、はじめて威力ある爆弾となる。
 弾正は、茶釜を使って爆弾をつくりだしたのだ。


 面白いのは、この最後の裏切りの際にも、信長は、なんとか弾正を救おうとして「平蜘蛛茶釜を差し出せば許す」と申し出たことだ。

 これはどうしたことだろうか?
 まさか、信長が茶器欲しさに裏切りを許すとも思えない
 弾正は、よほど優秀な武将であったのだろう。

 あるいは……

 松永弾正は、眉目秀麗な風流人であったらしい(年老いてはいたが)。
 ということは?
 なんだか信長女性説を支持したくなってしまうエピソードではないか。

 いずれにせよ、松永弾正は、さしのべられた信長の手を払って爆死した。

 地下壕で自爆したわけではないので、我々は、彼の自爆跡をこの目で確認することはできない。

 ただ、弾正が、信長が欲した名器に爆弾を詰めて自爆したというハナシが、今に伝わっているだけだ。

 追記
 ちなみに、弾正の眠る寺は、わたしの家の近くにあります。
 生前、松永弾正は、その寺に火をかけており、かつて攻め落とした地方豪族片岡氏の大きな墓の隣で、宿敵筒井順慶が建てたと言われるこぢんまりした墓に眠っている、って、ホント、どういう人物だったんだろうねぇ。
 自分が焼き討ちした寺の中、敵の墓の横、敵によって建てられた墓に眠っているのだから。

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映画じゃ、みんな机の上においている……

 ハリウッド映画なんかを観ていると、これがオフィスの机の上にも、家の机の上にも置いてある。

 こんなのいつもみていないとダメなのかなぁと、昔から不思議に思っていた。

 まあ、これはちょっとススんで、コンピュータモノになったやつだけど。


 私のおすすめ:
あのひとの机の上にもあった

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あの人もつかっていた

 ハンコックのラストシーン覚えていますか?

 ビルの上で月を見上げて、ハンコックが、彼のエージェント?であるレイ・エンブリーと会話をするシーンです。

 あのとき、彼の耳にかかっていたのが、このタイプのマシンです。

 あと、ブラッディ・マンディでもBluetooth通信のマシンは、重要な役を担っていましたね。



 私のおすすめ:
彼も使っていたモノ おまけに安い

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ヒョウタンから駒:コンピュータから親指

 たしか、アダムスファミリーに、ハンドくんという、手首から先だけのペット?がましたね。

 これをみて、それを思い出しました。

 アメリカでは「Thumb Drive(親指ドライブ)」と呼ばれているそうです。


 私のおすすめ:
親指だ

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2008年10月24日 (金)

ふでばこ……かな



 これは、本来ペンケースではありません。

 もう、ずっと以前、たばこを吸っていた時に、日本たばこ産業が発売した「STATS」という巻きたばこセットのケースをペンケースに使っているのです。

 大きすぎず小さすぎず、まるでペンケースとして作られたようなサイズで気に入っています。


 この中に、紙と煙草、そしてタバコ巻き器がセットされていました。

 今となってはどうでもいいことですが、STATSは、当時吸っていた「コンゴ」と違って、おそろしくマズいタバコで、すぐに消えてしまいました。


p.s.
 自営業を始めた時にタバコはやめました。再び吸いたいとは思いませんが、ときたま、パイプの薫りがなつかしくなります。

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現在使っている手帳

 まず、わたしの手帳をおみせしましょう。




 これです。

 何ですか?文庫本に見えますか?

 実は文庫なんです……というのはウソで、中身は、無印良品の文庫ノート(140円)です。
 それに、好みの文庫のカバーをつけて使っています。これがなかなかイイ。




 中身はこんなです。




 書き込み方は、いろいろ工夫しているつもりですが、基本的には、どんどん書き込んでいきます。
 資料もかたっぱしから貼り付けています。

 以下次号
 

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ふっきる瞬間。Go!DAIGO でも紅白には出られない? 


 正直に告白すると、わたしはDAIGOという歌手について、あまり知らない。

 だから、これから書くことは、ただ、今の時点でわたしが感じていることに過ぎない。
 

 わたしは、DAIGOを、よくは知らないが、それでも彼が消費税法を成立させた竹下登であることは知っている。


 先日、そのDAIGOが、早くも紅白落選と報じられた。

 まだ決定事項ではないようだが、なんでも、彼の大叔父竹下亘氏が、次期総選挙で衆議院に出馬するとのことで、DAIGOが表立って応援を表明しているために、公正中立をタテマエとするNHKが、彼を公に使うことを自粛するのだという。


 著名な家族を持ち、「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」……という心境は、ごく普通の家庭で育ったわたしにはわかるはずもない。

 だが、考えること、想像することはできる。

 もし、自分が有名人の関係者だったらどうなのだろうか、と。

 それを利用して安易に世に出るか、それとも自分の力でがんばるか?


 DAIGOは、デビュー後数年の間、出自を封印していた。

 「売れるものはどんなものでも売る」のがアタリマエの芸能界にあって、それは、プロダクションの戦略であったのか、それともDAIGO自身の「自分の力で世に出たい」というプライドであったのかはわからない。

 30才近くなって公表したことから考えると、おそらくは、自分の力で世に出たい、という矜恃で黙っていたのだろう。

 芸能界は、いやファンと言い換えても良いが、著名人の子弟を好むものだ。

 世の中は、あの人の子供、弟、孫は、どんな人なのだろうと、知りたくて仕方がない。


 現実に、その出自を明らかにしたとたん、彼は芸能界で頭角をあらわしはじめたそうだ。

 わたしは、ある女性から初めて彼の名前を聞いたのだが、そのとき彼女は、DAIGOの紹介として「竹下登の孫なのよ」とすぐに付け加えた。

 おそらく、今はまだ「竹下 登」というコトバが、まだDAIGOという歌手の一番のアイデンティティなのだろう。

 何年もの不遇時代のあとで、彼が出自を明かした、その心境ふっきれた瞬間の生の気持ちを、誰が書いたかわからないようなタレント本ではなく、彼自身の言葉でじかに聞いてみたい気がする。

 わたしは、彼の、いわゆるDAIGOポーズ話し方にも、そういった売れない時代の影響を感じてしまう。

 あるいは、わたしが深読みしすぎているだけなのかも知れないが……

 彼が、NHKでのキャリアを犠牲にしてまで、竹下ファミリーの応援をするかどうかはわからない。

 長い間、出自を隠してきた強い気持ちをふっきって「竹下の孫」と公表してやっていくと決めたのだ。

 DAIGOは、その「竹下」の名の重さゆえに大叔父を応援し続けるのか、あるいは、もっと現実的に、売り出す時期を見誤らないように、紅白出場に重きを置いて選挙応援を控えるのか。

 今後しばらく、彼の行動に注目していきたいと考えている。


追記:
 DAIGOと同じような、といったら失礼なのかもしれないが、出自で、年齢も似ているタレントに小泉孝太郎がいますが、たしか彼は、はじめから例の首相の子供だと公表してましたよね。
 芸能界の厳しい世界では、それがアタリマエだと思うのですが、やっぱりDAIGOって意地っ張り?
 あと、二人の仲ってどうなのかな?
 「住む世界が違う」ったって、やっぱりみんな比較したがるでしょう?
 対談とかしてるのかな?
 案外、仲が悪かったりして……

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2008年10月23日 (木)

現存するタイムマシン 〜2001 Google Search〜



 かつて、歌は世を写す鏡であった。歌は世につれ世は歌につれ……ていたのは、過去のハナシ。

 いまや、世を写す鏡、いや世の中そのものと言ってよいのは、YahooやGoogleといった、ポータルサイト、検索エンジンに登録されたデータベースだ?

 現在において、およそ「コトバで表せて、検索エンジンでひっかからないものは、ほとんど存在しない」といってよい状況になっている。

 ナァ、カァちゃんよぉ!いつから、こんなことになってしまったんだ?


 山崎浩一氏のエッセイを読んでいて、グーグルが「2001 Google Search」という、2008年10月末まで限定の「創立10周年記念サイト」を開設していることを知った。

 2001年までにGoogleに存在したコトバでしか検索できないサイトだ。

 検索ページ数は、13億2692万もあるというから、単なるジョークサイトなどではない

 完全に、「過去にタイムスリップ」できる検索サイトなのだ。

 おもしろいのは、現在、常識となっている単語が、「その語句を含むページはありませんでした」とか、今とはまったく違う意味、会社の名前が表示されることだ。

 山崎氏も、iPodやyoutube、ニコニコ動画など、もう100年も前からあるように感じる言葉を検索して、「その語句を含むページはありませんでした」を連発させて楽しんでいる。
 もちろん、ググルなんて言葉は、わたしはつかわないが、当時はなかったし、アマゾンは、まだ「アマゾン洋書店」なのだそうだ。

 わたしも色々と試してみたが、これは面白いですゼ、ダンナ

 特に、コンピュータ、ネットワーク、そして携帯電話関係がイイ

 10年ひと昔どころか、7年で、もう浦島太郎が竜宮城から帰ってきたような気持ちになってしまうな。

 いかに、我々が、急激な電脳化の(ちょっと安易な言葉だけど)奔流に、なすがままにされているか、そしてそのことに気づかされていないかがよく分かる。

 ぜひ、皆さんも体験してみてください。

 サイトはココ

 あと10年経ったら、またこういったイベントをやって欲しいな。

 願わくば、その時蓄えられているデータが幸福なものであらんことを。

 あるいは、データベースの素となるサーバー自体吹っ飛んでなくなっていませんように。

 情報を閲覧する人類が残っていますように。

追記:
「2001 Google Search」で、「音楽工房 ケツコ」を検索すると、
 お、ちゃんと、「音楽工房/ケツコのHP選択」が出てくるし、それをクリックすると、現在の音楽工房のトップページにいくじゃないの。

(ちなみにケツコは、わたしの飼い猫でメス猫です。余談ながら、わたしのプロフィールで表示されているのは、その息子)

 しかし、7年前からあったんだなぁ、わが音楽工房は……案外シニセじゃないの。
 だが、7年後にもあるだろうか?人類よりもそっちのほうが心配だな。

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ブラッディ・マンディなみの男 〜ザ・ハッカー〜

 コミック原作の「ブラッディ・マンディ」放映が始まり、また、ハッカー神話が盛んになりそうだ。

「ブラッディ〜」については、また項をあらためて書くかも知れないが、今は触れないでおこう。

 ただ、ひとこと言えば、最近は「デスノート」のように、論理に破綻のあるミョーな心理戦を長々描くのがハヤリのようだなぁ。

 ああいったものを読むと、読者は「まるで自分のアタマが良くなったような気がする」から人気があるのかもしれない、と、わたしの悪意ある部分(ゴースト)がササヤキかけます。

 いや、おそらく、ほとんどの人は論理のホコロビを見つけて楽しんでいるのだろうけど。

 それはともかく、

 今回、取り上げるのは、映画「ザ・ハッカー」(Take Down)




 1999年の作品だから、ちょっと時期を逸してはいるが、まあナツカシ映画レビューとして読んでください。

 スルドイ人は、「ははぁ」と思われたことでしょう。

 なぜ、10年前の作品を取り上げたか?

 まあ、答えは後のお楽しみ、ということで……


 ダイハード4.0の例を出すまでもなく、どうも、コンピュータに詳しくない人々は、ハッカーについて過剰な幻想を描いているような気がする。

 わたしもエラそうなことは言えないが、それについては、以前より感じていることがあるので書いておこう。


 確かに、一般人の入り得ぬサーバーに侵入し、知り得ぬ情報をゲットするハッカーは、「ウイザード」級と呼ぶにふさわしい技能を持っている。

(以後、面倒だから、悪いコンピュータ技能者を「クラッカー」と呼びます)

 しかし、ほとんどの場合、それは管理する側のミスに乗じての快挙?だ。

 完成されたシステムを、正しく教育された使用者が使う限り、クラッキングは、ほぼ不可能だ。

 ただ、残念なことに、ネットワーク化黎明期(れいめいき)の現在においては、「完成された」システムも「正しく教育された」使用者も存在しない。

 だから、ウイザード・クラスではない、クラッカーが暗躍する余地があるのだ。

 映画のように、クラッカーは、ただポチポチとキーを叩いてシステムに侵入しているわけではない。

 試行錯誤を繰り返しながら、障害をひとつひとつクリアしつつ、目指すディレクトリに一歩一歩近づくのだ。

 クラッカーの最終目的は、サーバーに入り込んで「管理者権限」を手に入れることだ。
 そうすれば、そのサーバーの神になれる。何でもできる。

 かつての、ハード的にもソフト的にもセキュリティが弱かった頃のサーバーは、大量のデータを一度に送りつけられると、ハングしてリスタートすることがあった。

 人間の寝起きと同じで、起動時のコンピュータは弱いものだから、その隙に、いろいろとクラッキングに都合の良い仕込みをすることができたのだ。

 そして、ゲストでシステムに入り込み、内部でいくつか走っている監視ソフトの目をくらまし、最終的に「ゲスト」から「管理者」になる。

 そうすれば、どのデータにもアクセスでき、システム設定も変えることができる。
 あとは、自分専用の出入り口(バックドア)を残してログアウト。

 銀行に例えれば、客の格好で行内に入り、変装して頭取になりすまし、銀行のルールを変え、機密を見て回るってかんじかな。

 最近では、システムもかなり安定してきたし、初心者サーバー管理者でも、ゲストでログインした後で、安易に管理者に変更できるような、脇のあまい設定はしなくなったが、数年前までは、個人はもちろん、かなりの大手サーバーでもそういった各種「セキュリティー・ホール」が存在したのだ。

 また、IDとパスワードをディスプレイに付箋で貼っておくといった、人為的管理ミスも多かった。

 実際、天才ハッカーと呼ばれたケビン・ミトニックも、掃除夫にばけて(メール・ボーイだったかな)社内のIDとパスワードを収集しまくり、ハッキングをしたのだ。

 いわゆるソーシアル・ハッキング(クラッキング)というやつだ。

 さすがに、近年そういった単純なミスは取り除かれてきてはいる。

 反面、Winnyに代表されるP2P方式のファイル共有ソフトは、タダでソフトを手に入れたいという人々(だけではないだろうが)の欲望をエネルギーに、正しいネットワーク・コンピューティングの知識に欠ける使われかたをして、クラッキングですらない自己情報流出を引き起こした。

 使用者は、個人のコンピュータのフォルダを世界に向けて公開する(実際はもう少し複雑だが)という恐ろしさを、もっと知っておかなければならなかったのだ。

 問題は、そういった人々に、セキュリティ関係の知識こそ乏しいものの、社会的には様々な教育をうけて重要な情報を扱う地位にいる人々が含まれていたことだ。

 子供とコンピュータを共有していて、親の知らない間に、ムスコがWinnyを仕込んでいた、という不幸なケースもあった。

 こういった、使用者の側に問題がある場合、機密情報の入手は簡単になる。


 だが、使用者に問題がなくてもクラッキングはおこなわれる。

 黎明期のコンピュータというものが持つハード的な未成熟さと、それゆえの短い期間での進化(変化)、ソフトウェア上の泥縄(ドロナワ)的な新しい機能の追加とそれに伴うバグの発生で、つねにサーバー・システムは不安定だ。

 クラッカーは、そこを突いてデータを盗み出すのだ。

 そう考えれば、彼らは、魔法使いというより、機械相手のダマシ屋、詐欺師といったほうが近いような気がする。

 たとえば、法の抜け穴をうまく利用して、心証的には明らかに有罪の金持ち無罪に導く弁護士を、誰も魔法使いとは呼ばないだろう。


「ザ・ハッカー」は、先にも書いた天才ハッカー、ケビン・ミトニックにクラッキングされた日本人が、彼を追いつめ、捕まえ、五年間のムショ暮らしをさせた経緯を描く実話(1995)の映画化作品だ。

 その日本人が書いた原作、Take Downは、刊行された当時、自意識過剰の男が書いたアンフェアな本だという批判があったそうだ。

 実際、ミトニックをけなし自画自賛まみれのノンフィクションだったらしい。


 しかし、わたしは2000年頃、ミステリ・チャンネルで、偶然この作品を観たのだが、映画を観るかぎり、そんな印象はうけなかった




 その日本人がエグゼクティブ・プロデューサーであるにもかかわらず、映画の主役はミトニックで、苦悩しつつ逃亡する、まあイイ奴に描かれ、日本人を演じるラッセル・ウオンは、ただの勝手で嫌な奴に描かれていたのだ。

 ワケガワカラナイ

 原作者が参加していて、なぜ、原作と映画が正反対なのだ?

 そういったチグハグさからも、この男が、かなりエキセントリックな天才であることはわかるだろう。

 ジッサイ、下の写真を観ても普通じゃない人物だ、というのはわかるね。



 男の名前を「下村 努」という。




 彼は、この事件で、「あの」ケビン・ミトニックを捕まえた男として、世界的に有名になった。

 ……が、今再び、このミスター・シモムラが、注目されている。

 なぜなら、彼の父、下村 修がノーベル化学賞を受賞したからだ。




 とはいえ、雑誌によると、当の息子は両親に連絡もせず、いまどこに住んでいるのかもわからないそうだ。

 10年遅れで父親が息子の知名度に追いついた、ということかもしれない。

 もっとも、研究自体は数十年前に完結しているのだが……評価おそすぎ、ノーベル賞


   注意:クラッキング法については、アウトラインしか書いていないので、
      そこに突っ込みを入れるのは勘弁してくださいね。


 蛇足ながら付け加えておくと、「ザ・ハッカー」のクラッキング場面は、現実離れした映画向けの脚色であったが、日本人が日本人として活躍するハリウッド映画というのは珍しいので、一見の価値はあるかもしれない。


 私のおすすめ:
ザ・ハッカー

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2008年10月22日 (水)

Welcome

★ようこそかぶらやのきせきへ★

かぶらやのきせきの公式サイトもよろしく。
 ブログではなく、ホームページ形式のサイトです

AnotherSite
 内容は同じですが自家製ブログです

●ラジオドラマをYoutubeにアップロード、
 そこからのリンクにしました。
  まだお聴きでない方は、この機会にどうぞ
 お聴きください。

    例) ↓

続きを読む "Welcome"

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2008年10月21日 (火)

脳以外がノウという 〜ビジネス脳のススメ〜


 もう、終わってしまったが、2008年8月号まで、VISAの月刊誌に、東京大学薬学部准教授、池谷裕二氏が「ビジネス脳のススメ」を連載されていた。

 脳の専門家の立場から、興味深い最先端の知識を分かりやすく解説する、すばらしい連載で、この一編のためだけに、妙に高いゴールドカードの会費を払っていたといっても良いほどだ。(もちろん、料金を払えばゴールドでなくても読むことができる)

 毎号のように、「先月の学会誌にこれこれといった興味深いレポートが載っていた。簡単に説明すると〜」と始められるのだから、たまらない。

 もちろん、学会誌であるから、「世間的に認められた確かな論」というより、最先端すぎてマユツバモノの論であることが、素人考えで見てもわかるようなものも多々ある。

 それがいい

 だが、そのどれもが、世界の脳科学の最先端を探る、素晴らしい実験とアイデアの宝庫であったのは間違いがなかった。

 たとえば、音痴と立体認識の関連という回がある。

 ある学者が、音痴の人の特徴を探るためにデータを集めると、歌の下手な人たちは共通して物の立体認識が苦手だったというのだ。

 いま、手元に記事がないために、ここは記憶に頼ることになるが、立体認識とは、展開図、つまり円錐だと扇形に円がちょこっとついているやつ、中学の図形なんかでよくでてきた、あれから立体の円錐を思い浮かべるという能力だそうだ。

 具体的なテストは、被験者に展開図をみせた後、いろいろな立体をみせて正解を当てさせるというものだった。

 結果からいえることは、どうも脳における「ヒトが立体を認識するフィールド」と「歌をうたうフィールド」が近いということらしい。

 だから関連性があるのだ。

 一見、まったく別の能力が、じつは密接に関係しているというのがおもしろい。

 その話を聞いて、分子式は同じに見えながら、性質が全く違う光学異性体を思い出した。

 まあ、この場合は音痴の例とは逆だが。


 わたしは、個人的に、人の行動や性癖、認知、認識をすべて脳に負わせるのは間違っているのではないかと思っている。

 たとえば、臓器としてみても、脳はその内容から考えて、決して肝臓より複雑で「上等」なものではない。

 だからこそ、脳のわがまま、必要、欲求で、眠いのをこらえて起きたり、肝機能が弱っているのに、さらに処理出来ないほどの酒を飲んだりすることは、対等であるべき臓器にとって、アンフェアな扱いだと思うのだ。

 身体は、脳のためにのみ存在しているのではないのだから。

 わたしは半可通の素人だから、そう思うのだが、脳の専門家はどう思うのだろう?

 連載の最後で、池谷氏は、「脳科学者がこんなことを言ったら、同じ専門分野の研究者にしかられそうですが……」と断って、脳と同じぐらい身体がスゴいのではないか、と述べている。

(以下、要約)

 たとえば、脳が疲れて眠ることもあるだろうが、時間を見て、ああ、もう寝なければ、と、考えて寝る方が多いのではないか?

 眠気は脳の内面からわき上がるのではなく、横になって、布団にくるまり、部屋の電気を消して「眠くなる」のが普通ではないか。眠気は、通常、体や感興によって作られるのだ。

 欲しいから買うのではなく、「見るから欲しくなる」ということは、ショッピング好きな女性ならよく知っているだろう。

 そういった例から、私たちは、脳の内側から自然と状況が変化するというより、仕草や姿勢を意図的に変えることで、後追いで脳がそれに見合ったように追随するというシステムになっていることが理解できる。

 ぜひ、この大切な点を見落とさないようにして日常生活を大切に送りたいものです……

 どうです。やはり、良い学者というものは良い見識を持っているものだと、あらためて感心すると同時に、専門家の言葉であるがゆえに、最後の一文は大切にしたいものだと思いますね。


 「ビジネス脳のススメ」は、「脳はなにかと言い訳する」として一冊の本にまとめられています。来年には、「2」も出るそうです。


 私のおすすめ:
脳はなにかと言い訳する

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ダイオキシンは無害だった……


「武田邦彦著 環境問題はなぜウソがまかりとおるのか
  The Lie of an Enviromental Problem.」2007年3月初版発行
を読んだ。

 以前に、新聞の広告欄で見て、ぜひ読んでみたいと思っていたのだが、先日、やっと読むことができたのだ。

 著者は、中部大学総合工学研究所教授。

目次を以下に示す。

第一章 資源7倍、ごみ7倍になるリサイクル
第二章 ダイオキシンはいかにして猛毒に仕立て上げられたか
第三章 地球温暖化で頻発する故意の誤報
第四章 チリ紙交換屋は街からなぜいなくなったのか
第五章 環境問題を弄ぶ人たち


 各章ごとに刺激的なタイトルが並んでいるが、特に気になったのが、第二章ダイオキシンだった。

 簡単に内容をまとめてみると……

「ダイオキシンは、人類史上もっとも強い毒性を持つ化合物」で、「焚き火をしたり、魚を焼いたりするだけで発生する」というのは、ウソらしい。

 著者も2000年まで、マスコミ報道のダイオキシン強毒説を信じていたそうだ。

 だが、2001年に人体への毒物研究の第一人者である、東京大学医学部教授(当時)和田攻氏が発表した「ダイオキシンはヒトの猛毒で最強の発ガン物質か」という論文を読んで、「ダイオキシンは、それほど強い発ガン性を持たず、急性毒性という点では非常に弱いものではないか」と考えて調査を開始したのだった。

 三年後、著者は「ダイオキシンにはほとんど毒性がない」ことを確信した。

 かつて、ダイオキシンは水田用の農薬(CNP:水田除草剤)に含まれていた。

 もっともダイオキシン濃度が高かったのは、1970年ごろで、当時は、ベトナム戦争でまかれた60倍もの量のダイオキシンが、水田に使われていたというのだ。

 その上、ダイオキシンは、「人類が作り出した極めて特殊な化合物」などではなく数億年前から自然界に存在していたのだ。

 では、当時、ダイオキシンが猛毒とされたのはなぜか。

 それは、いわゆる「ためにする」モルモット実験が原因だ、と著者は指摘する。
 「ダイオキシンが毒性を示しやすいモルモット」を選んだ結果なのだと。

 何のために?

 ダイオキシン問題をあおって、それを種に、金儲けをたくらむ団体および個人がいるのだという。著者は、一貫して、そういった利益団体を攻撃しているのだ。

 現在では、ダイオキシンの毒性が弱いのは、専門家の間では周知の事実なのだという。

 わたしは知らなかったなぁ。もちろん、専門家じゃないけどね。

 あと、「第三章 地球温暖化で頻発する故意の誤報」もおもしろかったなぁ。

 ざっと列挙すると、

北極の氷が溶けても海面は上がらない」→北極の氷は、南極と違って水に浮いているので
溶けても海の体積は増えない。

森林を増やしても二酸化炭素は減らない」→成長期に木は「体を作るため」に二酸化炭素を強吸収するが、成熟すると、あまり二酸化炭素を吸収しなくなり、枯れると分解されて二酸化炭素を放出する。

などがある。

 木の二酸化炭素吸収については、林野庁の試算(子供向けサイト)で「自動車一台の出す二酸化炭素の年間放出量は2,300Kgで、スギの木が160本で吸収する」とハッキリ書かれているそうだが、それは間違っているのだという。

 上記のサイトでは、その但し書きとして「50年生のスギの人工林には、1ヘクタールあたり約170トンの炭素を貯蔵……」と書いてあるそうだが、それはつまり「スギが死なないと仮定」した試算なのだ。
 生き物である限り枯死したり、材木として利用しても、結局、最後は使いつぶされて、同じ量の二酸化炭素になるので吸収されない、というのが著者の意見だ。


 確かに、南極の氷が解けたなら、あれは地面の上の氷だから水位は上がるだろうが、北極はあまり関係なさそうだ。
 でも、だれか北極の氷が溶けて土地が水没するって言ったのかな?

 どちらかというと、北極グマが孤立して死ぬからカワイソウ、というのが最近の論調のはずだ。

 植林がムダなのは、ちょっと意外だったけど、考えたらそうかも。

 木は、「自分の体を作るため」と「維持するため」に、二酸化炭素を分解しているだけなのだし、維持するより体を作る方が、たくさん二酸化炭素を吸収するのは当然だ。

 しょせん、石炭や石油として、何億年も前に、地中にカプセル化された高濃度な二酸化炭素を、エネルギーを取り出す代価として安易に使い続けたツケなのだから。

 付け焼き刃で、現代の小さな木を植えても根本的な快活にはならない。石炭のもとになったシダ類は巨木だったようだし。

 ただ、多くの木を植えて、それを様々に加工して、長く使えば、二酸化炭素対策にはなるようには思えるのだが。

 著者は、行政とマスコミへの怒りのあまり、筆が走りすぎている部分もあるような気もする。

 読者としては、冷静に内容を判断しなければならないだろうな。

(いま、このシリーズは3まで出ています)


 私のおすすめ:
環境問題はなぜウソがまかり通るのか (Yosensha Paperbacks (024))

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2008年10月19日 (日)

わたくし、ブンツーしています




 ここ二ヶ月あまり、ブログに載せる文章は、LinuxのUbuntu(ウブントゥ)のgeditを使って書いている。

 文章制作用マシンのインターリンクにインストールして使っているのだが、サイト閲覧と文章打ちするだけなら、必要にして充分な性能だ。

 Ubuntuで重いようなら、少メモリで軽く動くといわれているXubuntu(ズブントゥ)をいれようかとも思ったのだが、その必要もなかった。

 Fep(フロント・エンド・プロセッサ)はUbuntsuデフォルトのscimだ。
 それほど、変換効率はよくないが、単語さえ登録すれば、少々効率が悪くても問題はない。

 CPU遅め、メモリ少なめマシンに、(atok最新版のような)高機能Fepをいれると、タイピングに変換候補表示がついてこなくなって癇癪(かんしゃく)を起こしそうになる。

 ただ、自作デスクトップ機にインストールした際には問題がなかったのに、ノートにインストールすると、文字登録ができなくなった。

 変換効率は悪くとも、単語登録ができれば文章作成はなんとかなるが……単語登録できなければ、まったく使い物にならない。

 原因がわからないまま、しばらく文章を打ってみたが、やはり使いづらい。

 ネットで調べてみても、あまりそんな事例はないようだが、やっと一件みつけた。

 それによると、単語登録の別ソフトkasumiがインストールされていないことが原因らしい。
 さっそく、synapticアップデート・マネージャを起動させて、検索してみると、確かにkasumiは未インストールとなっていた。

 kasumiをインストールすると、無事、単語登録可能になって、今、この文章を書いているというわけだ。

 しかし、FEPと辞書管理ソフトが同時にインストールされないってのはどうなんだろうな。

 それがLinuxらしいといえばそうだろうが、

 初期設定のままのデスクトップは、ブラウンを貴重としたもので観ていて心地よい。
 ウインドウの開き方、メニューの表示方法も、優雅で美しい。

 そのおかげで重くはなっているのだろうが、VISTAのAeroより好感が持てる。

 いまのところ、XPとデュアル・ブートさせて使っているが、最近はほとんどXPを使わないので、近いうちにクリーン・インストールするつもりだ。

 ブラウザはFIREFOXで、FLASHプレイやーもJAVASCRIPTも最新が入っているので、どのサイトも快適にみることができる。

 YOUTUBEもストレスなく見える。

 が、YAHOOのサービスの多くは動画を含めてほとんど機能しない。
 どういうわけか、YAHOOは、ブラウザをマイクロソフトのIEと指定しているのだ。

 誰かが書いていたが、公共性の高いポータルサイトで、対応ブラウザを一社に限定するというのは、著しく社会性に欠けると言わざるを得ない。

 ぜひとも、一考を願いたいものだ。

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ぜったいお薦め。騙されたと思って買ってみて!


晴雨予報グラス1,200円

 個人的に、ヒトにものを勧めるのはあまりすきでは無いけれど、こいつはイイよ。本当にいい。

 実用的であり、かつ概念的であるスゴイ商品だ。

 構造簡単。ただのガラス球にパイプがついているだけ。

 そこに水を入れるだけ。水には食紅を溶かして色をつけてもいい。つけなくてもいい。

 そして半日ほどおくと……

 パイプ内の水位が、見事にあなたの地域、今いる場所の気圧を示して上下し、これからの天気を教えてくれます。

 台風が近づくと、パイプから水があふれそうになって、人間は気づかないけれど、本当に気圧ってスゴく上下しているんだなぁと理解できます。

 大げさにいえば、この小さいガラス球が、広大な地球とのつながりを意識させてくれるのです。

 それに比べればたいしたことはないのですが、この装置、天気予報マシンとしてもかなり正確です。

 値段もそれほど高くないし、本当にこれはイイですよ。

気になったら、ミラーサイトかぶらやのきせき(本家)に行ってみてください。

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The younger,the better. 〜第二言語学習〜

「子供は、本当に乾いた砂なのか?」

 みなさんは、どうお考えですか?

 砂といっても、味気ないとか、小粒であるといった例えではありません。

 多くの親たちが持っている、

「子供は、幼いほど、乾いた砂が水を吸収するかのように何でも学習することができる」

という考えの中で使われる「砂」です。

 つまり、The younger,the better. 

 それを信じて、たくさんの親が、子供に、ピアノ、ヴァイオリン、習字、そろばんは、さすがに少ないでしょうが、語学、特に英語を習わせています。

 まるで、自分が、そうしてもらえなかったことへの当てつけのように、幼児にナライゴトをさせているのを見ると、イマドキの子供って大変だなぁとかわいそうになります。

 とくに、英語の習得については、親の心の中に、自分がそうしてもらっていたら、何はなくとも、すぐに使えるスキルがあって後の人生が楽だったのに、という後悔めいた気持ちと、子供が、中学になった時に、わざわざ英語で苦労する必要がなくなる、という、二本柱が後押しして、習い事熱はさらにヒートアップするようです。

 これがヴァイオリンやピアノの場合だと、たとえ習わせても、よほど才能がないと、趣味にはなっても人生の大きな柱、つまり職業にはならないと考えるためか、熱はそれほど高くなりません。

 ここで、最初の疑問に戻ります。

 本当に、子供は乾いた砂のように何でも吸収するのか?

 わかりやすく、語学に絞って考えてみます。

 ここで、臨海期仮説(critical period hypothesis)という考えを引っぱり出しましょう。

 語学を身につける、母国語として自由自在に使えるようになるためには学習時期があり、それを過ぎたら不可能になる、という考えです。

 多くの親は、これを信じて子供に語学を学ばせています。

 たしかに、母国語(第一言語)として、使っているという気持ちすら持たずに使用できる能力を習得するという点では、臨海期仮説は有効です。

 ですが、外国語(第二言語)の習得となると、結構イイ大人になっても充分に可能であることは、数多くの例で証明されています。

 ここで、第二言語の習得とは、「コミュニケーション」の手段としての言語利用ができる、という意味です。

 つまり第二言語の学習において、臨海期仮説は有効ではありません。

 思いついたら、いつでも語学学習は可能なのです。

 ただ、その時点での環境が、習得度に大きく作用してきます。

 海外に住んでいるように、習得希望言語(英語など)が、日常的にしょっちゅう耳に入ってくる場合(外国環境と名付けます)は、「学習しているという意識なし」で、英語を獲得することができます。
 この場合は、年齢が若ければ若いほど有利でしょう。

 反対に、日本国内に住んで、一日のほとんどを日本語に囲まれて暮らしている場合(国内環境と呼びましょう)は、自然に外国語が耳に入ってくる、ということは考えられません。

 この場合は、「学習を意識して」語学習得を目指さなければなりませんが、そうなると動機づけの弱い幼児より、やらねばならないのだ、と自分を納得させられる大人の方が有利だということになります。

 子供はすぐに飽きて、集中力、持続力を欠いてしまうからです。

 さて、ヤラネバナラヌと決意した大人ですが、やはり外国環境の方が語学習得には有利です。

 そのためには、国内にいながら外国環境に近づける努力をしなければなりません。

 環境は、まあいろいろできるでしょう。
 普段から英語をポータブルプレイヤーで耳に流し込む。
 独り言を英語でつぶやく。
 英語を学びたいもの同士、英語で会話する
 英会話学校に通う。
など。

 わたしが外国に住む知人(日本人)たちから聞いたことから判断すると、一番大切なのは、

「それを使わなければ生活(仕事)していけない、という差し迫った必要性(Urgent Need)」 

です。

 そのため、定期的に近場の英語文化圏を中心に、飛行機の往復切符(できれば30日FIX程度の)をもって、ひとり旅をするのも良いでしょう。2,3日でもかまわないと思います。

 そこでは、道をたずねるのも、ホテルにチェックインするのも、ケンカすることにも切実な語学の必要性が生じるからです。

 肝心なのは、普段の学習時に、常にそういった差し迫った状況を頭に思い浮かべながら、ただ機械的に、単語とパターン会話の組み合わせで英語を話すのではなく、「ホントウニツタエタイコト」を英語で表す、表現者としての自分を意識しながら学ぶことです。

 あれ、随分始めのテーマからずれました。
 子供は砂なのか、でしたね。

 わたしは、「ヒトは、その思考を、習得する第一言語によって規定される」のではないかと考えています。

 言語はすなわち文化であるから。

 まあ、規定というと少しきついですから、なんとなく言葉のシバリにあっているということですね。

 日本語のように、文の最後に肯定否定がくる言語を使う国民は、優柔不断気味で、雰囲気で話すことが多い、とかね。

 しかしながら、以前、ギリシア語が論理的であるということを知って、ギリシア系カナダ人に、

「古代ギリシアで哲学が発達したのは、ギリシア語が、論理の構築に向いた語学であったからではないか」

、と尋ねたところ、

「自分も含め、知り合いのギリシア人は、それほど論理的ではないね」

と一蹴されてしまったことがある。

 実際はどうなんだろう。

 個人的に、歴史的に見れば、民族性・お国柄(くにがら)は言語に依っている点があるような気がする。

 確かにそんな気がする。いますぐに根拠は示せないけれど。


 そういった「言語規定説」が多少なりとも正しければ、「幼児期に複数の言語を同時に学ばせる」のは危険ではないだろうか?

 それは、アイデンティティの確立とも関わってくるような気がするから。

 3人兄弟で、真ん中の子が、兄貴体質と弟体質の両方を兼ね備えていることがある。

 アニキ的に責任感のあるところを見せたかと思うと、突然、弟のように甘えた言動をする。

 そういった大きな振幅の人間を、どう扱ったらよいか困ることがあるように、複数の国民性がランダムに出てくる子供がいたら、きっと扱いにくいだろうな。

 ともかく結論だ。

「確かに子供は砂である」

 どんどんいろいろなモノを吸収するだろう。

 だが、砂にも容量がある。
 コップ一杯分の砂に、バケツの水は入らない。

 ちまたで耳にする幼児教育でも、子供は乾いた砂だ、とばかりに大量の水を流しみ、結局オーバーフローしているような例を見ることがある。

 大切なのは、自分の子供の砂が、どのくらいの容量かを見極めながら水をふりかけることだろう。

 どうせ、わたしたちの子供なんだから、とんでもなく大きい砂場なわけないじゃないですか

 参考:慶應義塾大学教授 田中茂範氏 小論

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英語は道具だ 〜スピードラーニング〜

 日本人は、読み書きはともかく、英会話が苦手だとよく言われている。
 
 わたしも、英語を読み書きすることだけは、受験勉強で、なんとかできるようになった。

 疑問代名詞や疑問副詞、不定詞、動名詞、現在分詞、過去分詞、関係代名詞がわかれば、あとは単語と連語を、その都度、調べれば読むことはできる。

 書く方は、まず和文和訳して、英語らしい日本語にしたあとで、とにかく単文をつなげることで、複雑な内容を伝えることができる。みっともないかも知れないが、まずはそれで実用上は問題がないのだ。


 しかし、会話の上で、とっさに自分の言いたいことを組み立てて話したり、相手の話す英語を、その場で理解することは、なかなかできなかった。

 ボキャブラリ不足は確かにあったが、それ以上に問題だったのは、英語を聞き取る耳ができていなかったことだ。

 実際、中学生のころ、初めてネイティブの発音を聞いたときは、宇宙人が話しているのか、と思ったほどだった。

 本に書いてある通りのことを話しているはずなのに、欧米人は、わたしが音読した時の発音とはまるで違う話し方をする。

 イントネーション、アクセント、息の溜め方、文章全体のリズムまで、わざと、わかりにくく話しているのではないか、と疑いたくなるほどの話し方だ。

 「ジス イズ アン アップル」ではなく、「ジシズアナポ」というのだから、たまらない。

 以来、学生の頃から色々と英語の勉強はしてみたが、いちばん役に立ったのは、ゆっくりではなく、普通の速さで話される英語を、しつこく聞き続けることだった。

 さらに、通勤時間や電車の中で、会話の内容を理解しながら英会話をきくためには、英語だけではなく日本語の解説も交互に出てきたほうが、嫌にならなくてすむ。いちいち辞書を引かなくてすむからんだ。

 そういった条件をみたしているのが、スピードラーニングなのだが、みなさんも一度くらい耳にしてことはあるだろう。

 聴くことによって、いわゆる「英語耳」をつくる教材だ。

 似たようなものを、自分で色々な素材から作ることも可能だが、うまくできないということと、時間がかかる、という点が問題が。

 そんな時間があるなら、できあがったものを買って、一刻も早く始めるべきなのだ。

 買うにせよ、作るにせよ、こういったものを使いながら、気長に英語を聞き続けることが、英語を聞いて理解する近道であることは間違いない。




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2008年10月18日 (土)

げぇむが、こころをはかいする 〜脳内汚染〜


 これは、少し前(2005年)に出版された本ですが、ぜひ、内容を知ってもらいたいのと、文庫化されたので、ここに紹介することにしました。
 
 著者は、医療少年院勤務の精神科医。
 
 仕事柄、彼はあることが気になって調査を行いました。
 
 そして結論を得ました。

 その結論とは……


 その前に、昔ばなしをひとつ。
 
 かつて、高度経済成長期に、日本各地で、いっせいに奇病が多発したことがあります。ある者は呼吸困難におちいり、あるものは骨がもろくなり、起き上がろうと手をついただけで骨が折れました。
 
 いまなら、誰もが、その病名と原因を知っています。
  
 ヤミクモな発展を目指した結果、それに伴う公害が原因となって、人々の体を蝕んだのです。
  
 だが、当時は水俣病の原因が有機水銀であることも、喘息(ぜんそく)の原因が人々の懐をうるおす工場のケムリであるということもわかりませんでした(しばらくすると、社会問題になりましたが)。
  
 公害は、それほどに新しい、社会が生み出した病気の温床であったのです……
  
 今、似たようなことが起こってはいませんか?
  
 現代の人々、特に若年層のコドモたちを中心に蔓延(まんえん)する無関心、無慈悲、残虐さ、他人の痛みを共感することができず、平気でひとを、親ですら傷つけ、殺す異常さは、今までの日本には存在しなかったタイプの社会現象です。
  
 まるで、高度経済成長期の公害のように。
 当時、それは、わけがわからず、'無差別に人々を襲う脅威でした'。
 やがて人々は、大企業が無思慮に垂れ流す廃液、排煙が病気の原因であることを知ります。
 
 でも、初めはなにもできなかった。
 あまりにも工場に依存する生活であったから、表立った非難ができなかったのです。

 もう、誰もが知っている事実でしょう。
 

 そして……実は、昨今の若者の異常行動にも同じ図式が働いています。
 
 皆さんもうすうすは感じておられるはずです。
 子供たちに、昔なくて、今あるモノ
 しかも、大きな影響を与えているモノ
 それが発達してからコドモたちに、奇妙な乱暴さが目立ってきたというモノを。
  
 脳内汚染の著者が調べて分かったのは、それでした。
  
  彼は、ゲームやネット少年犯罪の関連性を詳細に調べたのです。

 「合成された情報の『毒性』が、それにもっともさらされる若者の心や行動に異常を引き起こしている。脳にとっては、物質以上に情報が、物質が体に及ぼすのと同じような有害作用をもちうるのである。我々の脳は、毒物によってだけでなく、有害な情報や疑似体験によっても汚染される」  
 
 その、有害情報というのが、ゲームでありネットであるというのです。

 ゲームによる仮想訓練によって、人の脳内に設定された禁忌プログラムの解除が行われる例として、米軍の新兵訓練の話が紹介されます。
 
「新兵の半数以上は実際に敵に遭遇しても、相手を殺戮することに本能的なブレーキがかかった。発砲して敵を殺すと、強い吐き気を覚えるなどの反応が起きたのである」

 もちろん、これは、人として当然の反応です。
 
「ところが、シミュレーション・ゲームにより、敵を殺戮(さつりく)することを訓練すると、九割以上の者が躊躇(ちゅうちょ)なく敵に向かって引き金を引き、しかも相手が倒れても、動揺することがない

 なんとなく、皆さんもそう感じていませんでしたか?

 たとえ、ゲームであれ何であれ一度、禁忌感(タブー)のレベルを下げてしまえば、人の心は、現実とゲームの区別なく同じタブー・レベルで機能するために、容易に現実で殺人を犯してしまえるのだ、と。
 
 ハナシは少し違いますが、たとえ、ダラダラといい加減でも、避難訓練を一度でもやるのと、やらないのとでは、実際に災害にあった時の、対応の仕方に雲泥の差があるというのも、根の部分で、これとつながっている気がします。

 さらに、ゲーム先進国の日本では、新しく発売されるゲームに中毒性を高める技術が、あの手この手で詰め込まれています。(ゲームをする人ならわかりますね)

「ゲーム開発者は、今にもやられそうな状況を、できるだけリアルに体験させるシチュエーションを作ることで、体にはアドレナリンを、脳内にはドーパミンを溢(あふ)れさせる」

 ドーパミンは脳内麻薬物質だ。それが出っぱなしということは、麻薬的な依存症になるということです。
 
 さらに、ゲームをやりつづけると、覚醒剤を打った人間に、酷似した身体反応が起きるらしい。

 ここ何年か、ざっと思いつくだけで、五指に余るコドモによる残虐事件(尊属殺人を含む)が起きていることはご存知でしょう。
 
 そして、その子供たちが、何を好み、何にふけっていたかも。

 恐ろしいのは、この問題が表に出てこない理由として、メディアにとってゲーム業界は、逆らうことのできないお得意様であるかららしい、ということです。
 
 この図式、さきの公害病に酷似しているとは思いませんか?

 ともかく、皆さんの中で、子供に殺戮ゲームなどを与えている方は、自分もやってきたし、みんなもやっているのだから大丈夫、と思い込まずに、一度、じっくりと考えて見てください。
 
 コドモの脳は、明らかにオトナの脳とは違います。今の親が子供だった時代には、いまほどリアルな殺戮ゲームなどなかったのですから。

 さらに、問題なのは、コドモ時代に学習したことが、半永久的な影響を及ばす可能性があることです。

 著者の資料引用にバイアスがかかっている等の批判もありますが、だからといって彼の主張は、全否定できるものではないと思います。
 
 わたしには子供はいませんが、親であるなら、そして自分自身、ゲームに耽溺(たんでき)しているという自覚があるなら、ぜひ一読することをおすすめします。


 私のおすすめ:
脳内汚染 (文春文庫 お 46-1)

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2008年10月16日 (木)

世界はまるでディズニーランド 〜魔法にかけられて〜


「魔法にかけられて」

 これは、ディズニー映画である。

 ディズニーのアニメーションだ。
 
 だが、ただのアニメーションではない。ちょっとした仕掛けがある



 映画が始まりーー

 美しい森のなか、日が昇り、朝がきて、小さいけれど小ぎれいな家の窓が開き、歌いながらヒロインが顔をだす。

 鳥たちも歌いながら、ヒロインにまとわりつく。

 まるで映画「白雪姫」のようだ(主人公の名前はジゼル:白鳥の湖だけど)。

 そして、彼女は、森で運命の王子さま(たとえではなく、本物の王子)にであう。
 たちまち二人は恋に落ち、結婚を誓う。

 が、そこへ、おきまりの悪いお妃(きさき)があらわれ、城に来たヒロインを底なしの井戸へと突き落とすのだ。

 しかしヒロインは死ななかった。
 井戸は、異世界への入り口であったからだ。

 気がつくと、アニメのヒロインは、現実の女性となって、ニューヨークの街角に立っていた……

 というのが、映画「魔法にかけられて」だ。

公開されたのは、ちょっと前だが、どうしても言っておきたいことがあるので、時季外れは承知の上で書かせていただく。


 さて、現実の人間となったヒロイン(どことなく「ローマの休日」のオードリー・ヘプバーンに似ているのは作為的?33歳のエイミー・アダムスが好演)は、ニューヨークで数々のピンボケ失敗を繰り返す。

 そりゃあそうだ。平和な森の中しか知らない、世間知らずのお姫さまなのだ。
 ヘヴィなNYの生活に対応できるわけがない。

 やがて、彼女は、子持ちの男性と出会い、大人の恋に落ちる。

 そこへ、彼女を追って王子が現れ、さらに悪い妃(スーザン・サランドンが熱演)も登場し……

 と、まあ、あらすじだけ書くと、ありがちな話なのだが、実は、わたしがこの映画に感嘆(感動じゃないよ)したのは、そこではない。

 物語中盤、ヒロインは、おとぎの国から必ず助けに来るであろう、王子を探してニューヨークの街をさまよう

 そして、彼女はセントラル・パークにやってきた。

 現実のパークでは、さまざまななストリート・パフォーマンスが行われている。(休日という設定だったかな)

 風船が空に放たれ、吹奏楽がなり響き、アクロバティックなダンスが披露され、そして人々は歌をうたい、笑う。

 それは、彼女が、おとぎの国の森で、動物たちと繰り広げていた、明るく楽しい歌とダンスにそっくりだ。

 だから、ヒロインも思わずパフォーマンスに加わって踊り出す。


 あ! ああ……これはどこかで見たことがあるぞ!!

 だが、いったい、どこだ? 何だ?

 明るい空の下、極彩色の色の渦、音楽、踊り、そして歌……

 そう、それは、ディズニー・ワールドで行われている、あのパレードそっくりなのだ。

 ああ、なんという力業(ちからわざ)!!

 映画の中に、ディズニーの中で、もっともディズニーらしいパレードを再現するとは。

 つまり、アニメの、おとぎの国から出てきたヒロインが、現実の世界で、自分の故郷(おおとぎの国)に似たものを見つけた、それこそが、ディズニー・パレードであるということなのだ。

 この映画を観た人が、もし、もっとこの映画の余韻に浸(ひた)っていたい、いつまでも終わらない感動を感じていたい、と考えたなら方法は簡単、かれらはディズニー・ワールドへ行きさえすればよい。

 下世話な言い方をすれば、「魔法にかけられて」は、映画の体裁をとった壮大なディズニー・ワールドのプロパガンダなのだ。

 しかし、不思議とあざとさは感じない

 おそらく、名人芸で一本とられた、という爽快感があるからだろうなぁ。


 私のおすすめ:
魔法にかけられて スペシャル・エディション(2枚組)

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2008年10月15日 (水)

おれたちゃ無防備だぜ!サァー殺せ  〜無防備地域宣言〜

 ちかごろの戦争は「ただ戦って勝てばよい」というものではない、らしい。

 近代の戦争は、国際条約:(戦時国際法)したがって戦うことになっているのだという。

 つまり、戦って相手を殺すにしても、そこに法律が存在するのだ。

 たとえば、有名なのがダムダム弾の所持。

 弾頭に十字の切れ込みをいれ、破壊力を増したダムダム弾(弾頭に凹みを持たせたホローポイント弾に含まれる)を所持していると、ハーグ陸戦条約違反で、敵に捕まった時点で軍事裁判を受けることなく直ちに処刑される。

 ヒトを殺すのに、厳しく殺すのも、優しく殺すのも(キリングミィソフトリィ)ないもんだと思うが、とにかく、そういうことになっているらしい。


 で、タイトルの「無防備地域宣言」であるが……

 内容は、

「自治体の長(おさ)などが、特定の地域について無防備を宣言すれば、そこを攻撃することは許されない」

 という、ジュネーブ条約追加第一議定書(世界の国のほとんどが承認している戦時国際法の規定)のことだ。

 簡単に言い換えると、「軍隊もおらず、戦争に対する用意をなーんもしてないし、抵抗もできんからバンザイするぞ。だから撃つなよな」という、開きなおりに近い、喧嘩必勝宣言なのだ。

 まさに負けるが勝ち

 なんか、使えそうな国際法じゃないの、と思ったら、じつは、長らく、日本ではコレが使えなかったそうな。

 「なんで!」と思ったら、「ニッポンは『戦争放棄の第9条』があるから、戦時法である議定書は、(タテマエ上)国会で承認される見込みがなかった」からだそうだ。

 が、しかし、例の2004年半ばに成された有事法整備のおかげで、議定書は国会承認され、現在では、大阪府寝屋川市と京都府精華町(学研都市のあるところだな)で、「無防備宣言」を盛り込んだ平和条例の制定を求める運動が進められているという。


 有事法整備がなされたことが、今後の日本にとって良かったのか悪かったのかは、いまだ定かではないが、少なくとも、単独国のひとりよがりにも見える、憲法による一方的戦争放棄(だが、わたしは、こういったヒトリツッパリ大好きなんだなぁ)から、ひとまわり大きな世界協定に枠組みをかえて、都市を法律で守ろうとする試みは、評価されるかもしれない。

 でも、国家って不思議だ。

 かつて、ソ連がロシアになって経済的に破綻(ハタン)しかかった時も、「あんな大男にバンザイして倒れられたら、みんな迷惑するから、なんとか介抱してやろう」と、世界中を出して底支えした。

 なんか言い方は悪いが、大男で、ウオッカばっかり飲んで肝臓をいためた酔っ払いおじさんが、地面に寝転がって大の字になって寝てしまったのを、なんとか起こし、なだめて服をなおしてやって、家に連れて帰る町内会の人々のような図式じゃないの。


 かつて、岸田 秀が、その著作の中で、国家を個人に見立てて精神分析をしたことがあったが、それほど、クニとは人に似るものなのだな。

 フラクタル図形のように、細部を拡大すると、その形が全体の形に瓜二つ、であるのは、珊瑚だけではなく、国家とそれを構成する個人にも当てはまるのだろう。 

 だから、ヒトも都市も、ヤラれそうになったら、万歳してホラ「無防備」宣言するのだ。

 まあ、実際、人工爆発による食料危機、あるいは疫病蔓延の世界的恐慌で、各国が戦争を始めてしまえば、こういった牧歌的性善説依(よ)った法律吹き飛んでしまうかも知れないが……

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テガミバチ 〜異世界のポストマン〜

 郵便配達といえば思い出すのは「ポストマン」だ。

 ケビン・コスナーの映画をご存知の方も多いだろう。




 わたしは、この映画が嫌いではない。

 だから、世間的にあまり人気が出なかったこと、あのウォーターワールドよりも知名度が低いことが残念でならなかった。


 良い機会だから、ちょっと「ポストマン」について書いてみよう。

 まず、我々は、何気なく郵便配達人ポストマンと呼んでいるが、アメリカでは、一般的にポストマンとは呼ばないそうだ。

 Please Mr.Postman(Beatls e.t.c)などで有名だから、英語文化圏では、どこでもそう呼ぶと思ったら、そうではなく、それは英国での呼び名らしい。

 なんでも、ラテン語からフランス語を通じて英国でpostになったそうだが、アメリカでは、ゲルマン語から派生したmailを(特に独立以後)場所を意味する以外の郵便関係の言葉に使うようになり、郵便配達人は「メイルマン」と呼ばれているのだという。

 作家デイヴィッド・ブリンの「ポストマン」は、ジョン・W・キャンベル賞・ローカス賞を受賞した作品、いわゆる「終末戦争後の世界」使い古されたアフター・ホロコーストもので、タダのチンピラだった男が、誤解で英雄に祭り上げられ(いわゆる、Reluctant Hero:リラクタント・ヒーローもの)、ついには世界を動かす組織を作り上げるという話だ。

 Reluctant Hero:リラクタント・ヒーローものについて補足すると、巻き込まれた主人公が、大志もなく、生き残るためにあがいているうちに、本人の意志に反し英雄になってしまう、という話のことだ。よくあるよね。


 アフター・ホロコーストの世界、荒野で偶然見つけた郵便配達人のジープと制服を使って、点在する小さなコロニーに入り込もうと考えた、流れ者の主人公ゴードン・クランツは、殺された配達人が持っていた手紙の反響に驚く

 人々にとって、離れた土地の情報や人の消息は、宝のように貴重だったのだ。

 ほら、杜甫も『春望』で言っているではないか、「家書抵万金」(カショバンキンニアタル)と。

 同時に、人々は、郵便という制度を象徴するポストマンに、失われた文明への憧れと、その復興の気配を感じて大いに盛り上がる。

 ちょっと、ウマい話にありつきたかっただけのチンピラが、人々が発する熱に低温火傷(ていおんやけど)し、ついには、英雄の役を演じ通さなければならなくなってしまうのだ。

 これぞ、Reluctant Heroモノの醍醐味。いいねぇ。

 人と人の心をつなぐ郵便配達の感動話に、巻き込まれヒーローを使えば面白くないわけがない

 映画の方は、ちょっと演出にミスがあったりして人気がでなかったが、小説は間違いなく傑作です。

 ちなみに、題名が「メイルマン」ならぬ「ポストマン」なのは、アフター・ホロコーストで、世界観が独立戦争前の西洋文明未発達時代(1700年代)に似てしまったため、あえてその頃に使われていた「ポストマン」を使ったのではないかと、評論家の高橋良平氏は指摘している。

「イル・ポスティーノ」
「山の郵便配達」
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」等、

 まこと、郵便関係の映画に不作はほとんどない

 あ、でもあのナガシマカズシゲの、その名もズバリ「ポストマン」はどうなんだろう?ひょっとしたら駄作もあるかも。彼はあまり演技がうまくないし……

 あと、人情バラエティ番組で、タレントが、ぞろぞろとスタッフを引き連れて、外国の誰かに手紙を届ける「ポストマン」ってのも、もうすぐ始まるね。
 ああいった、お膳立てされた、デキアイのお涙ちょうだいは観る気はないけれど。



 さて、「テガミバチ」
 これも郵便配達人の話だ。
 ということは、名作なのだろうか?





 テガミバチの舞台は、どことは知れぬ異星の、アンバーグラウンドと呼ばれる暗黒の土地

 権力者が住む、小さな島の真上にだけ人工太陽が輝き、辺境に行くほど暗くなってしまうという、きっちりとした階級のある世界だ。

 辺境に点在するコロニーに手紙を届けるのが「テガミバチ」と呼ばれる「メイルマン」だ。

 コロニーの間に横たわるのは、鎧虫(ガイチュウ)と呼ばれるバケモノが住む危険な荒野

 ほらほら、なんとなく似ているね。おそらく作者の浅田弘幸も、あの「ポストマン」からインスパイアされて「テガミバチ」を書いたに違いない。

 だが、「ポストマン」と違い、人々は、なぜかテガミバチを蔑(さげす)んでいる。


 ある時、ひとりの男の子(主人公:ラグ・シーイング)が、手紙(小荷物)として、届けられることになった。

 若きテガミバチ、ゴーシュ・スウェードは、様々な困難を乗り越えて、ラグを無事、目的地に届け、二人は親友になる。
 この旅の合間に、世界観やギミック心の弾で荒野の怪物を倒す武器「心弾銃」やその原動力の宝石)の説明がなされるのだ。
(って、この名前のセンス、なんとかならないかな。ゴーシュって、モロセロ弾きすぎ。あと、町の名前がヨダカってのも、まあ聖書から採ったのならいいが、まさか、あの少女コミックSFの名作から引っ張ってきたんじゃないよね?いや、たぶん宮沢賢治だな、ヨダカの星だ。じゃ、わたしの好きなグスコー・ブドリも出してほしいな)

 ゴーシュの目的は、人工太陽の下、日の沈まない首都で働くヘッド・ビーになって、足の不自由な妹治療することだという。


 数年後、ゴーシュを追ってテガミバチになるラグ。
 だが、ゴーシュはテガミバチをクビになり行方不明だった。

 主人公ラグにはいくつか目的がある。それは、自分にテガミバチへの憧れを与えてくれたゴーシュを探すことと、連れ去られた母親を見つけることだ。

 数々の仕事をこなすうちに、ラグは反政府組織ゴーシュがいることを知る……


 以上のように、テガミバチは、絵柄がちょっとわたしには合わないのと、いかにもコミックっぽいロリータ・ビースト(すぐにパンツを脱いでしまう亜人間)の出てくるのがちょっと辛いのだが、それを差し引いても、立った設定で、かなりのセンス・オブ・ワンダーを与えてくれる佳編だ。

 不思議な宝石の力を使い「自分の心を削って弾として打ち出す」という考えは、本当の銃弾に似ていて面白い。
 ほとんどの人が、現実の猟師銃弾で獲物を殺すと考えているようだが、本当はちがうのだ。
 良い猟師は、自分の心=魂を弾丸にのせて獲物を撃ち抜いている。
 だから、きわどい駆け引きをし、知恵比べをした末に打ち倒した獲物、好敵手といってもいい、を、たくさん知っている猟師は、例外なく哀しく寂しく優しい目をしているという。(蛇足ながら、わたしが実際に知っている限りでも、猟師は家庭が不幸なことが多い。

 あと、テガミバチで描かれる、相棒動物(ディンゴ)とテガミバチとの信頼と愛情の関係も、猟師と猟犬の関係に似ているな。


 まるで、手塚治虫の「火の鳥」のように、掲載誌(月刊ジャンプ)の休刊で、少年ジャンプ、ジャンプ・スクウェアと渡り歩いている作品ではあるが、魅力があるためか現在も連載が続いているのは幸運であるというべきか。


 1話あるいは数話で1エピソードのストーリーは、先の「ポストマン」同様、人と人との心をつなぐ話で、秀逸である。

 ただ、先に書いたように「ポストマン」と違うのは、テガミバチが、街と街の間に怪物を放って孤立させ、人々を思い通りに支配しようとしている権力の手先と見なされて、蔑まれているという点だが、それによって「ポストマン」に流れていた、ふんわか暖かい雰囲気を無くしてはいるものの、決して作品の味をそこなっていない。




 書き込みが多くパースが偏っていて、ちょっと見にくい作品ではあるが、機会があればぜひ読んで見てほしい。

 読んで、ラグが心弾を撃つことで、心を開かぬものの隠れた叫びが、荒野に谺(コダマ)する一瞬の感動を、ぜひ味わってほしい。

「テガミバチ」 棺を覆わないと定まらないが、いまのところ秀作です。


 私のおすすめ:
テガミバチ 1 (1) (ジャンプコミックス)

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2008年10月13日 (月)

PEACE POT MICRODOT 〜アバヨ、ダチ公〜


 ロスで自殺した三浦和義氏が被っていた帽子に、ドデカくかかれていた単語が

    PEACE POT MICRODOT

 つまり、

    ピース(麻薬) 大麻 LSD

を示すヒッピー・スラング(古いねぇ)で、軽い別れの言葉(「SO LONG」程度)、日本語でいえば「んじゃまた」って感じの言葉らしい。

 それが何となく自殺を示唆しているというので、ちょっと話題になっているが、帽子自体は逮捕前に買ったものらしく、自殺の意思表示とは特に関係なさそうだ。


 自殺かどうか、意思表示かどうかより、わたしが気になったのは、そんな内容のヒッピー・スラングの、しかも明らかにアンバランスな文字のデカさの帽子を買う彼のセンスだ。

 まったく逮捕を予期していなかったそうだから、普通の生活の過程であの帽子を買ったのだろう。

 麻薬の名を連ねた帽子を。


 最後に姿を見せたとき、その帽子を被っていたのが、いかにも彼らしい

 あるいは、ロスの留置所で、その帽子を被ってマスコミに出たことに彼自身が気づき(もちろん言葉の意味は知っていただろうし)、結果的に、それが彼の最後の行動の後押しをしたのかもしれない。

 つまり、あれは自殺する意思表示のための帽子ではなく、自殺をうながした帽子なのかもしれないのだ。


 私のおすすめ:
三浦和義事件 (角川文庫)

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〜峰岸徹死す〜 色々な意味で濃いバイプレイヤー

 わたしが、その男を最後に観たのは、特撮テレビドラマだった。

牙狼-GARO-

 別項でも書いたが、才人雨宮慶太監督の力作だ。
 特に、デザイナー、イラストレーターでもある監督自身が書く変形文字は一見の価値がある。(現在も週間アスキーでイラスト文字「画柳の花」を連載中)

 その第一回で、彼は、ヒロインに悪の呪いをかけて死ぬ魔獣役だった。

 うなり、身もだえし、目をむき顔を歪めて変身するその姿は、かつて、友人が、邦画「トイレの花子さん」岸田今日子が妖怪を演じた際にいった「仕事をえらべよ」という言葉を思い出させる怪演だった。

 彼ほどのキャリアのある役者が(当時で60才を越えていたはずだ)する役でもないはずだが、なんとなく楽しげに演じているように見えたのが印象的だった。この点では、先日死んだ緒形拳に似ている。


 その俳優 峰岸徹が死んだ。




 彼に関しては、デビュー当時からの濃い顔と演技、そしてあのオカダユキコとの関係、など、書きたいことは色々あるが、出演映画について思い出すのは、なぜか、もう今や誰も知らず、再放送もないであろう、中井貴一主演の「F2グランプリ」(84年東宝:原作海老沢泰久)だ。

 どういうわけか、わたしは、この映画を映画館でみている。おそらく、何かと併映されていたのだろうが、それが思い出せない。あるいはリバイバル上映だったのか……

 その中で峰岸徹は、中井貴一のライバルレーサーとして登場する。

 かなり汚いことをしてトップの座に座り続ける男なのだが、最後には中井貴一のマジメレーサーに破れてしまうという役だ。

 この役も、彼は、独特の男臭い雰囲気で好演していた。

 彼の死で、追悼番組が放送されるかどうかはわからない。

 だが、もし放送されても、この作品が選ばれることはないだろう。

 死因は肺ガンだったらしいが、昔の役者は、役どころで、よく煙草をふかしていた。

 脚本家によると、煙草による間、というのが映画やテレビではずいぶん使い勝手があったのだという。


 彼自身が、ヘヴィ・スモーカーだったのかどうかは知らないが、昭和の役者たちの中には、そういったことが原因で死期を早めるひとが多いのではないだろうか。

 まあ、当時は誰でも煙草を吸っていたってなモンかもしれないが。

 そういった後遺症が、後にトライアスロンに邁進する健康的な彼を襲ったのだろうか。




 残念だ。

 以上、長々と書き連ねてきたが、何が言いたかったかというと、とどのつまり、わたしは、このワイルドになった赤木圭一郎といった雰囲気の彼が嫌いではなかった、ということを記しておきたかったようだ。

 いま、そう気がついた。


 おそらく、今後、まだ訃報(ふほう)に接していない往年の役者たちも、次々と鬼籍(きせき)に入っていくことだろう。

 だが、見た目の生命力の強さから、まさか死ぬとは思っていなかった役者が突然死ぬことには、少なからずショックがある。

 まあ、そういっている自分いずれは病気で、あるいは事故ですぐにでも鬼籍に入るかも知れないのだが。

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黒塚−KUROZUKA−  伝奇になれなかった格闘モノ




 アニマックスで、開局10周年記念作品と銘打って「黒塚 KUROZUKA」が始まった。

 何となく第1回目を録って流し観してみたが、画面が黒過ぎてよくわからない。

 絵柄(エガラ)は、この間終わった「ウルトラ・バイオレット コード044」に似て、あまり好きではないが……

 これからも録りつづけるかどうか判断したかったので、コミックを全巻読んでみた。




 以下、ネタバレ多数ですので、本編を楽しみたい人は読まないでください。
 
 

 コミック喫茶で、どの棚にあるのか調べようと検索すると、「くろづか」では出てこず、KUROZUKAと打ってはじめて出てきたのには驚いた。ひらがなで検索するときは「くろずか」と打たないとダメなのだ。黒酢か……
 
 そういえば、アニマックスのタイトルも「KUROZUKA」となっていたから、まあ、そういうことなのだろう。
 
 だが、なんだかちょっと気持ち悪いな。
 
 日本の言葉は、もともと音ではじまり、それに外来の漢字を当てはめたものではあるが、黒塚は明らかに「くろづか」であり、「くろずか」ではないはずだ。

 ひょっとしたら、能の「黒塚」とは違うぞ、という意思表示なのかもしれないが、そんなことしても無意味だ。


 
 ともかく、夢枕獏作「KUROZUKA」
  
 結論は、はっきりいうとがっかりでした。

 
 デキアイの、しかも手垢がつきまくったギミックエピソード、それに「なんにょのおんねん」(男女の怨念)の数々……

 そりゃまぁ、もともと夢枕氏が「『能』の黒塚」をモチーフに、現代劇の原案を作って欲しいといわれて書いた話だから、仕方がないのかもしれないが……

 少しは、センスオブワンダーが欲しかったな。

 今から数百年まえ、不死者である八百比丘尼、安達原の鬼婆(見た目は若いけど)(名前は黒蜜:クロミツ)は、吸血鬼なのだが(個人的には人魚の肉を食べたってのほうが好きだ)、都から逃れてきた源義経(以後、名前はクロウ)を好きになって仲間にし……

って、なんとなくポーの一族の出来の悪いレプリカだな。
 
 原作は知らないが、コミックの方は、時代があっちこっちに飛びすぎて、どうなってるのか、わたしゴトキの頭ではよくわかりにくい。
 
 プロット上の工夫をあえて言えば、クロミツから血を分けられて完全不死化する前に首を切られたために、ヨシツネが完全体になれず、数百年ごとに体を代えなければならない、というところか。

 しかし、首を撥(は)ねたのが、あの武蔵坊弁慶で、それはクロミツを好きになったから、というのはいただけない

 古(いにしえ)の人間の思想考え方現代人の思考で考えると無理があると思うのだ。

 たとえば、現代人なら平気で仏壇を足蹴(あしげ)にして、小便をかけるくらいのことはやれるだろう。

 だが、何百年も前の人間にとっては、それは飛行機なしで空を飛ぶのと同じくらい、物理現象のように絶対不可能なことなのだ。

 なにが言いたいかというと、自分の命や立身出世などのためならともかく、義経のころの、しかも武士(もののふ)に属する男が、この場合は漢(おとこ)と書くべきかもしれないが、たかがオンナのために、(いや、当時の思考方法では、ね。今に生きるわたしは女性のためならやりますよ、いろいろと)、レンアイのために義をすてることは、水が下から上へ落ちていくようにありえないはずなのだ。

 そういった気持ちをハラに飲み込んで、なおかつ、いや、それほどに良いオンナだったのだ、と描けばよいが、「黒塚」では、まるで現代劇のような軽い扱い弁慶に裏切りをさせている。ペラペラだ。

 なんだかな。

 
 あと、他人の肉体という軛(クビキ)のためか、体が年老いて、あるいは傷ついて使えなくなって、生首の時だけ、かつてクロミツを愛し不死者となった義経としての記憶が蘇り、それ以外の五体満足(って使っていいのかな)の時は記憶喪失状態となって、毎回、体をすげかえる度にクロミツが過去を教えなければならない……
 
 という設定もよかったけど、それをうまくドラマに取り込めてなかったな。


 やがて、あっというまに現代から未来に時は流れ、人類は壊滅目前になる。これも唐突ありきたりな感じだ。


 その理由が、巨大なインセキが飛んできて、それをミサイルで爆破したものの、ハヘンが地上に降りそそいだ結果、いわゆる核の冬が起こったっていうのは、あんまりじゃないかな?

 工夫もなにもない。中学2年の子供がデタラメ思いつきで考えたストーリーのようだ。

 近未来になって、ゾロゾロと権力者のクローンが出てくるのも陳腐だなぁ。  
 

 ドラキュラものとしては、『HELLSING(ヘルシング)作者:平野耕太』の方が、絵は見にくいし、ちょっと長く読むのはキツいが、はるかに話がタっている。

 だって、ひとりの不死者の中に、今まで殺戮(さつりく)したすべての人間が閉じ込められているんだよ、ひとり軍隊、いやひとり国家だよ。 
 ソイツがひとり座っているだけで、国がひとつまるごと座布団の上にいるようなものなのだから、こいつはカナリすごいゼ。
 読んでいない方は、ぜひご一読をおすすめします。

 ヘルシング(エイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授:吸血鬼ドラキュラ<ブラム・ストーカー>に出てくる吸血鬼ハンターより命名)については、また項を改めてかくつもりです。
 
 
 夢枕氏は時代物が苦手なのか、黒塚は、あっというまに時が経って近未来となった。

 未来の方が、科学力を使った強いバケモノがでてきて、格闘シーンもりあがるからだろうか。

 あるいは、これも陳腐だが、不死の秘密を知りたがる秘密組織が、クローン技術を使って、不死者の血の秘密を部分的に解明し、それを利用して造った、クロウたちに似た(だがそれほど強くない)バケモノを出しやすいからだろうか。
(そういうのって、あのBLOODでも使ってたな、しかも、もっと手際よく)

 だが、科学でつくられたサイボーグらしき敵が「加速装置」を使ったのには、人目もはばからずズッコケそうになるのをこらえなければならなかった。

 いまさら素の加速装置ってないでしょう。
 
 同じ加速装置を使うなら、木城ゆきとが、初代「銃夢」でやったように、光のドップラー偏光とソニック・ブームを伴う「肌で感じる」加速感を出して欲しかった。

 ただ、格闘マンガと古き良き009を足して2でわってx0.001しているような感じだから、どうにもシマらない
 
 どうやら、夢枕氏は本来SF系の作家ではないようだ。
 SFのニオイは好きだが、ホネまで喰らついて味わいたい、というタイプではないのだろう。

 世間的な評価も「格闘系」の作家なんだろうけど……
 
 まだ、菊池秀行氏の方がSFの造詣(ぞうけい)は深そうだ。(文章があまりうまくなく、読んでいて頭が痛くなるのが欠点だが)

 とにかく「黒塚」は、アニマックスがいうような「伝奇もの」ではない
 不死性を持つ挌闘家が、なんか長生きして戦う、って感じかな。

 噂に聞く、オンミョージ(安倍晴明)伝奇モノだと思っていたが、このぶんでは怪しいかもしれない(読んでないけから分からないけど)。

 タイポグラフィ「カエルの死」がデビューの作家だけのことはある。夢枕氏は、文章よりビジュアルの人かもしれない。


 「KUROZUKA」−−−どうせ伝奇にするなら、モチーフにする能「黒塚」よりも「葛城」の方が、よかったかもしれない。
 

 あと、たぶん作者が、読者を驚かせる仕掛けとして、最後にとっておいたであろう、クロミツが不死者となる原因を作った「お方」が、あの人だった、というのも、とってつけたみたいに不発だった。
 
 ヨシツネとクロミツを、長年にわたって追う謎の男も、最初からあいつだろうな、と思ってたら、やっぱりあいつだったし……

 不老だけど、不死でない男と、不死だけど不老でない男、という図式を、もっときっちり出せば、話もちがったかもしれないけれど……格闘大好き人間には、不死だけど不老でない男、つまりものすごーい老人なんてかけないのかもしれない。

 どうせなら、諸星大二郎の「生命の木」のように、知恵の実だけをたべて利口になったモータル男(人類)と、生命の実だけを食べて白痴ながらイモータル(不死)になった男、みたいな対比だったらスゴかったのに。

 
 原作は、もう少しうまく作ってあるのだろうけど、貴重な1時間ちょっとを潰したわたしとしては、さらに原作までも読む気にはなれないな。

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2008年10月 9日 (木)

滅美(ほろび)  〜SF的人類終末考〜

 離婚遺伝子の項で人類滅亡に触れたので、それについて少し書いておこう。

「地球幼年期の終わり(Childhood's End)」や「太陽系最後の日(Rescue Party.)」(ともにA.C.クラーク)のように、人類のさらなる発達のための、新たな方向にシフトするために起こる人類滅亡ではなく、天変地異や兵器のために、ただなす術(すべ)もなく死んでいく滅亡話がSFには多く、秀作もまた多い。

 なかでも、わたしが好きなのは、

「大当たりの年(The year of Jacpot.)」(ハインライン)
「終わりの日(The Last Day)」(マティスン)
「睡魔のいる夏(筒井康隆)」

だろうか。

 あと、「波が砕ける夜の浜辺で(Night Surf)」(S.キング)も捨てがたい。
 これは、鳥インフルエンザに似た流感によって人類が滅亡する終末の姿を、いかにもキングらしい筆致で描く秀作だ。

 もうすぐ映画になるらしい「感染列島(スペリオール連載中)」末期ってカンジだな。

「睡魔がいる夏」は、人類滅亡ではなく、一都市の壊滅といった感じではあるが、人々が抵抗できない死に直面するという点では似ている。
 あの筒井康隆とは思えない、静かで穏やかで……優しい筆致が、ラスト・シーンを美しく彩る名作だ。


 上記作品のどの主人公も、迫り来る死を前に、狂気に走る人々をしりめに、諦観(ていかん)をもって、愛するものとふたり、手に手をとって終末を迎えるところで物語は終わっている。

 それは、まるで、鮮やかで澄んだ水彩絵の具で描かれた一枚の絵のように、穏やかで美しい印象を読後に残す。

 デビルマンの最終シーンにも似た、荘厳さが感じられる作品群だ。


 すっかり変わってしまった地球で、変わってしまった姿で、ゆらゆらと地上に立っているコドモたち、「地球幼年期の終わり(Childhood's End)」も、ある意味、絵画的であるが……


 余談ながら、主人公に諦観はないものの、内容のスリリングさ、タイトルとのシンクロ性の妙で「影が重なる時」(小松左京)も、破滅モノとしては捨てがたい。

 映画でも「渚にて(On the Beach)」という秀作がある。


 SF作家が、いやわれわれが、終末モノに興味をもって、そういったタイプの作品が数多く書かれるのは、潜在的に『なす術のない死』『避け得ない突然の死』に対して恐怖を持っているからであろうが、それだけではない。


 野生動物で、死を意識するほど知能があって、近づく死を感じたならば、生きるために死にものぐるいになるだろう。決して落ち着いた行動はとるまい


 あるいは、人類のように、もう少し知能があれば、クスリや快楽で死を忘れ、あるいは暴力にはしり、異変で死ぬ前に他人を殺し、自分も死のうとするかもしれない。


 しかし、死を目前に、ケダモノ化する人間たちにあって、『そうでない人々』が存在する、ということを、作家たちは、小説の中で、多くのシミュレーションを繰り返して示そうとしているように、わたしには思える。


 それこそが、原初、太古の生命のに生まれ、に上がり、ここまで知性を発達させた人間が獲得した何かの証明であろうから。

 人類が生み出した自然の低いレベルでの模倣=科学が、ヒトと動物とを区別するものであるとするなら、それでは止められ得ない強大な破滅に対して、人類が他の動物を違うことを示す、唯一の証が、愛するものの手をとって終末を迎える「諦観」なのかもしれない。


 が、個人的には、「影が重なる時」の主人公のように、最後まで走って、あがくというのも嫌いじゃないな。

 最近の風潮なら、最後まであがけってのが主流じゃないかな。

 ここ数百年の日本の文化では、諦観が主流だったから、その反動かも知れない。


 最後に、ざっと、思いつくままに海外SFの破滅ものを並べると、
「太陽自殺」「さなぎ」「トリフィドの日」「大破壊」「最終戦争の目撃者」「悪魔のベクトル」「魚が出てきた日(映画もあったね)」「1986年ゼロ時」「大地は永遠に」「長く大いなる沈黙」「フェイル・セーフ」「沈んだ世界」「狂風世界」「燃える世界」「結晶世界」「荒廃」「破滅への二時間」「長い明日」「暗黒星雲」「生き残る」「地球最後の男」「海が消えた日」「300対1」「レベル7」「世界の小さな終末」
といったところだろうか。

 古いものに秀作が多いのは、この頃ので、プロットが出尽くしたからかな。


 あと、完全な終末ものではないが、A.ベスター(虎よ、虎よ!、分解された男)の「昔を今になすよしもがな(They Don't Make Life Like They Used To)」は、十代の頃読んだ時には、まったく良いと思わなかったが、最近読み返してひどく感銘を受けた名作だ。

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2008年10月 7日 (火)

ひと華咲かせて 〜緒方 拳 死す〜




 緒形 拳が死んだ

 他の人の印象は知らないが、わたしにとって緒形 拳という役者は、妙に脂ぎって精悍で、ちょっと人情家で人懐っこく、トコロにより冷たいデコボクロ役者だった。



 真偽はしらないが、芸名を決める際に「自分の特徴は手だ」といったため、緒方テノヒラコブシといったものが候補にあがり(これじゃジャンケンだよ)、最終的にコブシ(拳)になったものの、皆からケンと呼ばれたために、結局はオガタケンにしたのだという。 その点、「飢餓海峡」の役名を芸名にした三國連太郎とは好対照だ。



 「太閤記」の秀吉、サル役は古過ぎて知らないから、特に、小林桂樹主演ではないテレビ版必殺仕事人の藤枝梅安の印象が強い。(映画「復讐するは我にあり」も悪くはないが、原作の方が優れているように思うので:あ、これって三國との共演だ)




 最近の彼の姿を「おみやさん(って古い?今は渡瀬恒彦?)」などでは見かけてはいたが(ナナメ観だが)、なんだかすっかり良い人になって覇気・元気共になくなったナァと感じて少し寂しい気がしたものだった。

 息子も世界遺産やCM(CF?どっちだ?)のナレーションなどで活路を見出しているし、心配もなくなったから枯れちゃったのかな、と思っていたら、晩年に彼は復活したのだった。

 その役で、彼は悪役を生き生きと役者らしく演じていた。

 「隠し剣鬼の爪」のワル家老だ。

 小林稔侍演じる腰巾着とともに、自分勝手に癇癪(かんしゃく)を起こし(キレるって言い方は安易でキショク悪いから使わない)、意地悪く主人公を足蹴(あしげ)にし、人妻を騙して犯し、そして最後に鬼の爪によって暗殺される。

 しばらく「良い人」が続き、なんだか気が抜けたような演技(まあ、テレビも邦画もあまり観ないから偉そうには言えないんだが)が続いていた緒方が、枯れてはいるものの、久しぶりに見せた生きた演技だった。

 たとえていうと、檻の中で、すっかり弱った老熊が、空を飛ぶ鷹を見て、突然立ち上がり、吼え、往年の激しさを一瞬だけ垣間見せた、という感じかな?その後すぐに、ぐったりと寝ちゃうんだけど……


 なにより、ワル役を楽しんで演じている気持ちが伝わってくるようで、わたしは嬉しかったのだ。

 今思えば、あの、「鬼の爪」に刺されてからしばらく歩き、そのままスッコロンデ死んだ死に様こそが「俳優」緒形拳の到達点だったのではないだろうか。

 ここ数年、肝臓を悪くして闘病していたらしいが、最近も製作発表に顔を見せていたので、唐突な死という印象は否めないが、突然の訃報は、ワル家老の死に方に似て、いかにも緒方らしい死に様のように、わたしには思えるのだ。

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2008年10月 6日 (月)

ビッグな男たちの小さな行動 〜リーマン・ブラザース倒産〜




『歴史的倒産のその日、リーマン・ブラザーズ証券では、大の男たちチョコレート菓子の自動販売機走った。社内でしか使えないプリペイドカードの残高を早く使い切ろうという駆け込み買いだ』

 先日、新聞で、こんな記事を読んだ。

だが、

自己の利益を真っ先に守り、損失を避けるというウォール街のルールに照らせば、正しい行動になる』

らしい。

 我々の生活感覚とは桁違いのビッグマネーを動かしていた(そして実際、給料も桁違いだったはずの)サスペンダー男(株屋の制服ね)たちが、わずかばかりのプリペイドカードを使いきることに汲々としているのは、なんとも滑稽だ(しかもチョコで)。

 あるいは、強欲な者が正しく、それを公言してはばからない相場師らしいミミッチく正しい振る舞いと考えたほうが良いのだろうか。




 以前、ニューヨークに滞在した時、MOMAや自由の女神(当時は頭のテッペンまで上ることができた)、ブロードウェイのマチネー通いの合間に、バッテリー・パークから歩いてウォール街を見にいったことがある。

 英国のシティ同様、スーツ姿のビジネスマンが目立つだけの、どうということのないビル街であったため(当時もソウバに興味はなかったし)、通りには入らず、突き当たりにあるトリニティ教会(あのニコラス・ケイジの駄作ナショナル・トレジャーの舞台)だけのぞいてタイムズ・スクウェアの安ホテルに帰った。

 あの場所では、常に大量のカネの流れがあり、世界の金融の中心で(愛は叫ばないだろうが)、カブに興味がある人なら何か感じるところのある場所かもしれないだろうが、わたしにとっては、ラジオ・シティやロックフェラー・センターのスケート・リンク、あるいはメーシー(百貨店)の方がよっぽど重要で、そこからオーラを感じられたのだった。
 いや、もっといえば、クリスマスの夜に、売れ残ったシシカバブを買った、移民らしい男の屋台のほうが印象深かった。


 ウォール街といえば、例の「ランチなんて意気地なしが食べるもの(Lunch is for wimps)」や「強欲は善(Greed is Good)」といった語録が著名な同名映画(M.ダグラス&C.シーンら二世俳優出演)があるが、まさしくGreedが闊歩(かっぽ)する世界だし、そんな場所には、なるべくならば関わりたくはない



 所詮、生まれてから死ぬまでが人生。

 その短いスパンで、人間が本当に手にいれられるものは、自分で墓場に持って行けるもの、獲得した能力知識モノの考え方、それに愛した女たちの記憶だけだ。

 金や名誉じゃない。

 わたし個人は、ただ、あまり人や世の中を恨まず、できれば恨まれず元気に生きて、元気に死にたい

 金は、それができる程度手に入れば充分だ。

 なにより、そうすれば、あさましくチョコの自動販売機に走らなくてすむじゃないの。

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2008年10月 5日 (日)

お前と別れるのはコイツのせいだ 〜離婚遺伝子〜


 少し前になるが、スウェーデンのカロリンスカ研究所が、オトコには「離婚遺伝子(Divorce Gene)」を持つものがいると発表した。

 わたしは、その記事をネットで見たが、被験者2000人!の遺伝子のうち、AVPR1Aと呼ばれる遺伝子の中で334型を持つ男は、妻に不満を持たれていることが多く、過去1年以内に家庭が破綻しかかった者は、334を持たない者の2倍近くあったらしい。

 とはいえ、人は(シツケや自己啓蒙などで)しっかりと自分を律しない限り、なんでも他人のせい(この場合は遺伝子のせいだが)にしたがるものだから、こんな記事を鵜呑みにはできない。

 「あの人と合わないのは、彼の離婚遺伝子のせいよ」
 「おれがひとりの女とうまくやっていけないのは離婚遺伝子のせいだ」

 そういっておけば、さぞ楽だろう……が

 だいたい怪しいじゃないの。そもそも、サンプルが2000人ってのが少なすぎる。
 そういった、心情がからむ実験の場合、男性の職業(収入)や女性との年齢差など、考えなければならないパラメータが多すぎて、とても単純比較できるものではない。
 これでは、学術的な実験とはいえない。

 と思ったら、実際の研究論文には「離婚遺伝子(Divorce Gene)」なる単語は一切出てこず、遺伝子によって離婚率が変わる、などという記述も一切なかったことを知った。
 ただ、ネズミを使った実験の結果を人間にも応用できるかもしれない、と示唆しただけだったようだ。

 ネズミが遺伝子によって、どのように雌雄不和になるのか、そして研究者はどうやってそれを見極めたのか興味がわくが、要するに、あの記事は、単に、誰もが感じる、かつてあれほど愛し合ったふたりの仲が冷え、いつしか憎みあうようになる男女間の、説明がつかない憤りを、この100年で世にあらわれ、最近、特にクローズアップされている「遺伝子」のせいにして話題づくりをしたい、というマスメディアの思惑だったようだ。

 確かに、恐怖をあまり感じない遺伝子というのは存在するようだが…。


 遺伝子はただの設計図だ。

 体は、それにしたがって組み立てられる。自動車と同じだ。

 もちろん、われわれの肉体は大きな影響をうけるだろう。

 そして、遺伝的に決まってしまった脳内麻薬物質、ホルモンの分泌の多寡(たか)によって、精神状態も大きく変わることがあるかもしれない。

 だが、それはあくまでも基本的な部分であって、器にいれる中身は、その後の学習によって大幅に変わるはずだ。

 また変わらねばおかしい。

 わたし自身は、そういった「遺伝子至上主義」的な傾向は危険だと思うし、間違っているとも思うが、まだ解明されていない部分が多いだけに、人々が遺伝子にいろいろな、そして原因不明な、われわれの行動原因を求めたがる気持ちもわかる。

 わからないことは、わからないもののせいにすると楽なのだ。

 しかし、結局は、この「ディボース・ジーン」、いつの間にか忘れ去られ、誰かがふと口にしたときに、あの「マギー・ミネンコ」同様、「あったあった、そんなの!」と大笑いされることになるのだろう。


 100年前、R.ドーソンが唱えたのが「利己的な遺伝子」セルフィッシュ・ジーンだった。
 50年前、映画界にあらわれた史上最高の「セックス・シンボル」はノーマ・ジーンだ。
 そしてさらに50年を経て、今、一時的にせよ「離婚遺伝子」ディボース・ジーンが登場したことに、わたしは歴史の暗黙の符合を……感じるわけないわな



 それはさておき、遺伝子の話題について、わたしが好きなのは「ボトルネック現象」だ。

 動物の遺伝子は多様性を持っている。冷徹な自然の中にあって、多様性こそが生き残る秘訣だからだ。


 似てはいても、免疫、抵抗力、体重、身長など、さまざまな部分で違えば、ある病気が流行ったところで、気候が少々変わったところで、そのイキモノがすべて死に絶えることはない


 多様性は、生き物が自分自身にかけた、いわば保険なのだ。

 しかし、現存する生き物の中には、遺伝子を調べると多様性が極端に少ない種が存在する。

 たとえばチーターだ。

 なぜ、遺伝子の多様性が少なくなったかというと、ある時期、絶滅寸前まで数が減ったために、ひとつの種族、集団だけが生き延びて、それが数を増やして現在のチーターになったからだと考えられている。

 つまり、何かが原因で、ポチ一家だけか生き残って、その一族が子孫を増やし、のちの犬全部になりました、って感じだな。


 このように、ある時期、その数が急激かつ極端に減少する現象(ややこしいね)をボトルネック現象と呼ぶ。


 チーター以外にボトルネック現象を体験したと考えられるのが、われわれ人類だ。

 他の大型霊長類(ゴリラなど)と比べても、人類の遺伝子の多様性は少ない。

 チンパンジーの小集団のミトコンドリア遺伝子の多様性の方が、人類全体のミトコンドリア遺伝子の多様性よりも大きいことがあるほどなのだ。

 つまり、人類も、かつて絶滅の危機に瀕したことがあって遺伝子に多様性が少なく、種として見れば、幅の狭い、弱い生き物だということだ。

 いったい何によって絶滅の危機に瀕したのか、SF的な想像力をかきたてられるが、それはともかく…

 ただでさえ、薄められた農薬やメラミンを体内に蓄積し続け、あるいは、それらを食べて毒物が生体濃縮された魚や貝、牛、豚を食べている人類だ。

 次に、大規模な疫病や気候の激変があれば、今度は危ないかもしれない。

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2008年10月 4日 (土)

クワセモノ 〜ホンダ・インサイト〜

 故伊丹十三が、かつて父親(伊丹万作:映画監督・無法松の一生は脚本)と共に旅館に泊まった際、父が職業欄「くわせもの」と記載したとエッセイに書いている。

「いくら映画監督とタテマツられても所詮は浮き草稼業、俺たちゃ人を騙して口に糊(のり)するクワセモノなのさ」という父のスタンスを、伊丹十三は、幾分誇らしげに紹介し、返す刀で、自分も風邪でかなり熱があった時に、どうしても出かけねばならなくなって、きちんと服を着て鏡をのぞくと、なんともスッキリとした容貌で、発熱のカケラも感じさせず、その時に「ああ、やっぱり私もクワセモノだった」ことを知ったと書いていたが、世の中は、そんな可愛いクワセモノばかりではない。


 ホンダが1999年に発売した「インサイト」を見たとたん、わたしはその車が欲しくなってしまった。




 どうせ乗るなら、スポーツカーもいいけれど、操る楽しみだったらバイクの方がいいに決まっているので、やはり車には低燃費で、プリウスみたいな中年デザインでない車が欲しいと思っていたのだ。

 なんたって、あの原付カブ(燃費110km/L)のホンダが本腰をいれて(当時はそう思った)作った低燃費カーだよ、悪いわけないじゃないの、とやみくもに思いこんでいたのだった。

 シトロエンに似た、リアホイールスカートと呼ばれるリアタイヤの上半分を覆う、つまりリアタイヤが半分しか見えないデザインもなかなか良かったし。



 が、いろいろ調べてみると、インサイトはかなりなクワセモノであったことが分かったのだった。

 当時は、トヨタがプリウスを発売して、とにかくホンダとしても、ハイブリッド競争に乗り遅れないように、一刻も早く低燃費カーを作らねばならなかった。

 そして、彼らはインサイトを作った。すごい低燃費だった。

 実際、インサイトは燃費世界一(世界最高の超低燃費35km/L)だったのだ。

 だが、彼らはそのために、やってはならないことをやってしまった。

 当時の事情通の話では、プリウスのような長期開発期間もなかった上に、一刻も早い市販ハイブリッド発売をせかされたおかげで、結果的に、とにかく燃費が良いだけの車を作ることになってしまったのだ。

 そのために(ハイブリッド技術の未熟だった後発メーカーの)彼らがしたのは、車重を減らし空力抵抗を減らすことだった(つまり、まるでギネスに認定されるために作られる低燃費挑戦カーのコンセプト。人が寝そべって走るやつね)。

 工夫の甲斐あって、空力抵抗を示す効力Cd値は0.25だった。
 先ほど書いた、ボディがタイヤハウスを半分覆っていたのも、そのためだ。

 だが、そんな付け焼き刃の低燃費化には無理がでる。

 そのイビツさは、インサイトの車載性能に出た

 燃費の敵は風と重量にある。風は克服した。次はオモサだ。

 およそ、ファミリー・ユースの車に積む重量で、一番重いものは人間の体重だ。

 だから、インサイトは二人乗りの車になった。荷物もほとんど積めなかった。

 しかし、考えてほしい。

 いったい、誰が(カイモク走らない)低燃費カーに、スポーツカーのようなスタイルと、荷物のほとんど積めない2シーターを求めるというのだ?

 低燃費車の基本コンセプトは、スポーツ用の乗り物ではなく(もちろん、そんな低燃費でスポーツ風の乗り方もできないだろうが)、普通に家族を乗せて、普通に荷物を積んで、普通に買い物に行けて、そして燃費が良い、というのが正当なものだろう。


 それでも、開発に「他社とは違い、ホンダはこの2シーター・スタイルでハイブリッド道をいくのだ」という覚悟が感じられれば、それもアリだと思うが、インサイトは、どうみても駆け込み開発&発売の感じ拭いきれず幻滅してしまった。

 つまり、ハイブリッドとしては、クワセモノだったのだ。

 その後、さらに付け焼き刃でバージョンアップもされたようだが、すっかり興味を失ってしまっていたのだが……



 先日、インサイトの新しいバージョンが出ると聞いて、思わずサイトを見てきた。


「ホンダは2008年9月4日、新型ハイブリッド専用車「インサイト」のコンセプトモデルを「パリモーターショー」(会期:10月2日〜19日)に出展すると発表した」

「2009年春から日米欧で発売。年間20万台の販売を計画している」


とある。


 おそらく、開発者側にも忸怩(じくじ)たる気持ちが溜まっていたのだろう。

 今度のインサイトは、なんと5人乗り5ドアであるという。






 やっと、クワセモノを脱却したのか?

 それとも、さらにクワセモノなのか?

 あと少し、洞察力(インサイト)をもって、見守りたいと思っている。

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2008年10月 2日 (木)

男の花道 〜正直な人・清原和博〜

 夏前に、京セラドーム大阪で行われるプロ野球オリックス・バファローズの内野自由席入場券を二枚手に入れた。

 ここ数年、野球は、セ・パ問わず結構好きになっているので、さっそく交流戦に行ってみた。

 中日−オリックス戦だったのだが、この試合が、知っている人は知っている、岩瀬が自身初のサヨナラ・ホームランをカブレラに打たれた試合だった。

 もう一枚を、いつ使おうかとグズグズしているうちに、最下位だったオリックスがどんどん強くなって、ついにクライマックス・シリーズ進出を果たしてしまった。
 最後の試合に行って、監督のBクラスゴメンサナイ挨拶を聞こうと思っていたのに、レギュラー・シーズンからさらに試合数が伸びてしまったのだ(おまけに監督まで替わってしまった)。

 チケットの有効期限は10月1日、つまり今日まで。
 というわけで、急遽、行ってきました。
 自営業は、こういったところ融通がきいてありがたい。

 清原和博選手の引退セレモニーもあるそうで、長淵剛が「とんぼ」を歌うだとか、イチローが来るといった噂もあったために、混雑を見越して早めにドームに入ることにして、3時過ぎに地下鉄ドーム前駅に着いたのだった。
 普通、ドームの開場は午後4時頃だが、今日は午後3時開場だった。

 午後6時になり、試合は始まった。

 清原の打席になると、ものすごい歓声だ。
 スタンディング・オベーションしている者も多い。

 行き交う人々の多くは清原のシャツを着ている。




 試合は、ローズのホームランと清原のヒット以外、あまり見るところなく、あっというまに4−1でオリックスの勝利に終わった。

 4点のうちの2点はローズの2ランホームラン、あとの1点が清原のタイムリー2ベースによるものだ。

 ホークス投手の杉内に元気がなかった(後に知ったところ、杉内は清原にストレートしか投げなかったそうだ)。

 その後、オリックス監督の大石大二郎監督のレギュラー・シーズン終了と、クライマックス・シリーズ進出の報告があったあと、清原和博引退セレモニーが始まった。

 その準備が始まって……いやぁ、驚きました

 実のところ、清原という選手について、わたしは詳しくない。
 巨人の桑田との確執というやつも、噂以上の知識はない。
 西武ライオンズで大活躍している時も、無冠の帝王と呼ばれ続けていたらしいが、それもあまり記憶になかった。

 ただ、FAで巨人に入団後、急に元気がなくなったように見えたのは覚えている。
 その後、監督の構想に、明らかにあわない人材としてお荷物扱いされたあげく、オリックスに行ったことも知っている。
 
 その時、清原は、故仰木監督から「俺がおまえに花道を作ってやるからオリックスに来い」といって誘われたそうだが……

 ざっと彼の足跡を見て、一番印象にのこるのは、彼の豪快さでも、野球人としてのすごさでもなく、彼の正直さ(人の良さといいかえてもいい)だ。

 彼も人並みにズルイことはやるだろう。

 だが、ここといった正念場で、いつも、人の良さゆえに貧乏くじをひいているように、私には見える。
(巨人軍入団時の騒動、隠し子、巨人へのFA、巨人軍退団、など)

 もちろん、彼のことをもっと良く知る人にとっては、また違う考えもあるだろう。

 しかし、わたしの印象はそうなのだ。

 仰木監督が花道を作ってくれると言った……彼は正直さゆえに、そのことを周りに言い続けたのだろう。その結果…、

 セレモニーで本当に、たとえではなく、ホンモノの花道を作ってしまったのだった(もちろん実際につくったのはスタッフだが)。

 黄色い花で作った花の道を……(ホント、バカがつくほど正直なハナシ)でも、そういうのって嫌いじゃないな。








 あと、球場に足を運んでよかったのは、おそらくここでしか手に入らない「男の花道カップ」(下写真)と、





裏に清原語録が書かれたポスター(写真下)をもらえたことだった。




 最後に付け加えれば、セレモニーで歌われた長淵剛の「とんぼ」は、重厚なPAの効果と老練なミュージシャンらしい長淵の盛り上げようによって、なかなか感動的だった。

 これほどの人、拍手、歌によって送られる野球人は少ない。

 もちろん、それだけの実力があったからだろうが、棺覆って定まる、現役野球人としての清原の最期は幸せなものだったのではないだろうか。

 打席に立つ顔を思い返しても、西武時代より、巨人時代より、オリックスの時のほうが、まるで憑きものが落ちたように洗われた表情をしていたような気がするから。


 あと、これは、本当に完全にどうでも良い蛇足だけど、後に清原引退セレモニーが映像化されたとしたら、その中で歌われる「とんぼ」の大合唱の3万175分の1の歌声はわたしの声です。





 うーん、反感が露骨に出てしまいそうだから、これは本文にではなく、コメントに書こうかと思ったけど、思いなおして付け加えておきます。


 家に帰って、ニュースや野球関係の番組をいろいろ観たけれど、どうしても納得がいかない。

 なぜ、東京読売巨人軍の関係者は、誰もコメントをしていないのだ(わたしの知らない地方番組で言っているのだろうか)?

 さすがに桑田は球場に来ていたが、彼は今や大リーグの人間だし、清原にとってはいろんな意味でトクベツな人間だから、ある意味来るのが当たり前だろう。

 だが、彼以外の東京読売巨人軍の面々はどうしたのだ?

 このわたしでさえも、高校生だった清原が大巨人軍に裏切られて、「これほど涙がでるとは思わなかった」というほど悔し涙を流したことは知っている。(わたしは桑田もどちらかというと被害者だと思うのだ)

 それが後ろめたいから誰も何もいわないのか?

 あの当時、清原でなく桑田をとった王監督が挨拶したからいいのか?

 だが、彼は、現ホークスの監督だ。

 11年在籍した西武は、オリックスに試合で負けたあとで清原を胴上げした。

 では9年在籍した巨人は、去りゆく清原にいったい何をした?

 なぜ、誰も何もいわないのだ。

 明日になれば、誰かが言わねばならないと考えてコメントするかもしれない。

 だが、今日、引退の当日、何もいわないのはなぜだ?

 マスコミの人間もそのことには全く触れない。

 長島は(王の引退にはコメントを出したぞ)?原は?ホリウチは?コブンだった元木は?同僚だった二岡は?上原は?
 なぜ、だれもなにもいわないのだ?
 ウエからの圧力か?
 もしそうだとしたら、アサマシイはなしだ。
 紳士たれ、を標榜する球団も底がしれるな。

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