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2008年9月11日 (木)

エンドレス・サマー1 〜スカイクロラ〜

 押井 守監督作品「スカイクロラ」を観た。


 かなり限定された映画館、時間帯だったので苦労しました(上映時間が21時〜23時のレイトショー・オンリーってアリ?)。


 観終わった感想は……さて何から書こうか。(いつもどおり、盛大にネタバレしてます。注意)










 「子連れ狼」「クライング・フリーマン」で著名な劇画原作家、小池一夫の作風を形容する言葉に「永遠の堂々巡り」というものがある。

 どの作品の主人公も、場所と敵は変わっても毎回の行動自体が、ほとんど変わらないことを揶揄して使われる言葉だ。

 それは、彼主催の劇画村塾で展開される持論「くっきりと立つキャラクターを作れば、物語は自然にできていく」という創作メソッドにも問題があるのだが、ともかく話が進んでいかない。

 かつて六田登が、レース漫画「F」で、主人公の父親に「レースは同じところをぐるぐる回っているだけじゃないか」と主人公を非難させ、後に主人公が「レースはただ同じところを回っているんじゃない、少しずつであっても螺旋状に進んでいるんだ」という答えにたどり着くシーンを描いたが、小池氏作品は螺旋ですらない。
 ただ円を描くだけだ。ぐるぐるぐるぐる、と。
 円周率同様、円には終わりがない。
 だから、小池氏の作品には終わりがない。(個人的には好きな作品が多いが)

 だから、昨日と変わらぬ今日があり、おそらく明日も同じように闘いの日々が続くだけ。
 最終回「サァ、これからもやりつづけるぞ、おわり」というように、すっきりとした収束感のないままラストを迎える作品がほとんどだ。



 そして、「スカイクロラ」は、まさしくそういったループ・タイプの作品だ。

 ただ、「スカイ〜」の問題点は、作者の体質で堂々巡りしてしまっている作品ではなく、作り手が考え出した設定、世界観で内容が堂々巡りしていることだ。

 小池氏のように、作者の限界でストーリーが無限ループに陥るのは仕方がない。
 これは正しく「死に至る病」で手当の施しようがないからだ。

 だが、他方、世界観、設定で堂々巡りになっているハナシは、それを破綻なく構築し、維持することが難しく、作者が意識的に創り出したループ世界ゆえに、彼には理屈をうまく整合させる責任がある

 よほどうまく設定を作っておかないと、イビツで穴だらけの話になって興ざめしてしまうのだ。


 ああ、設定で思い出した。
ヒトでないものによる代理戦争」という話は、ジャンル化するほどさまざまな種類のものが発案されてきた。

 永井豪の佳作「真夜中の戦士(ミッドナイト・ソルジャー)」(さすがに続編はいただけなかったが)などもそのうちのひとつだ。

 よって、よほどうまく世界を作らないと、二番煎じ、あるいはご都合主義感臭が鼻について嫌になってしまう。

 きちんと世界構築がなされ、説明責任が果たされないと、キルドレという名の人工生命体たちは、確かにカワイソウだけど、なんか嘘くさくて泣けネェなぁ、という気持ちが勝ってしまうのだ(わたしはね)。

 気になる点はいくつかあるが、特に気になるのは、スカイクロラが「いつまでも続くエンドレス・ウオー」みたいな体裁をとっているくせに、実際のところ、小池作品のように本当の円周を堂々巡りしているのではなく、少しずつ世界が変わって行っている点にある。

 たとえば、主人公である、年を取らない永遠のピーターパンたちが乗るプロペラ戦闘機は、牛歩の歩みながら着実に改良が続けられていることが作品内で語られている。

「彼らは変わらない、だが、彼らの装備と世界は変わる」→「しばらくすれば永遠(であるべき)ループは破綻する」

 つまり、「スカイ・クロラ」の行き場のない、やりようのない閉塞感の源、「永遠に続く(無意味な)闘い」が、永遠でなく、もうすぐ終わってしまいそうに感じられるから駄目なのだ。

 それともうひとつ、クローンたちに、勝手に性交渉をおこなわせ、生殖することを黙認しているのもおかしい。

 あるいは、何かの実験なのかもしれないが、それならば、周りからそれを監察する、公安のような存在(を我々に知らしめること)が必要だ。

 社会派(思想的)リアリズム(あるいはポリティカル・アクションと言い換えてもいいが)をカラーとしてきた押井監督ならば、そういった監視人の存在をもっと明確に出すべきだった。

 個のキルドレに蓄積された戦闘ノウハウ(知識)が、次のキルドレにコピーされている事実から、明らかに今作られつつあるキルドレと現役のキルドレ間で、「知識の並列化」が行われているようだが、映画の中でそういった描写は一切無い。

 かつて、押井は弟子に、攻殻機動隊(笑い男)で、AI戦車タチコマたちに知識を並列化(共有化)させていた。

 だから、考えが及ばないはずがないのに、その説明も割愛している。
 スカイクロラは、なんだかスカスカな感じのする映画なのだ。

 物語は、ただ、命じられるまま闘い、死ぬキルドレの視点によってのみ描かれる。
 それは、ある効果を狙った表現方法なのだろうが、映画が終わるまで、ほとんど世界に対する情報が観客に与えられないというのは、制作者の怠慢にしか感じられない。

 わたしは、理屈っぽい性格のためか、説明不足の物語は、SFやファンタシーすら抵抗を感じる。

 もう少し正確にいうと、たとえ平行宇宙であっても、あるいは天国でも、地獄でも、そこでは、その世界をその世界たらしめている経緯と、そこで動くイキモノの理屈にあった思惑があるはずだと考えてしまうのだ。

 それを無視して、とにかく自分の都合のよい設定だけで世界を構築し、あとは想像してください、じゃあ感動もなにもできない。

 わたしが興奮したり興味をもったりするのは、時代が違えば、あるいは立場が違えば、この状況下では自分も同じ事をしたに違いない、という、逃げようのない圧迫感、恐怖と言い換えてもいい、それを感じられる物語だ。

 例を挙げれば、横溝正史の「悪魔の手鞠唄」(市川昆監督)。

 冗長になるが、少しあらすじを紹介しよう。

 故郷に恨みをもつ男が、名を変え、詐欺師となって村に帰り、貧しさ故にかつて自分を蔑んだ名家の娘たち三人と、復讐心から関係を結び、子供を産ませる。

 男の妻(彼はすでに結婚していたのだ)は、その事実を知り、自分と二人の子供を捨て、娘の一人と村を出て行こうとしている夫を殺してしまう。
 頭を殴られた男は、そのまま囲炉裏の火に顔を突っ込んで顔の判別がつかなくなった。
 警察は、妻の証言から夫が詐欺師に殺されたと断定、そして二十年が過ぎ去った。

 ある日、妻は息子から恐ろしい事実を告白される。
 二十年前、夫が産ませた娘の一人と結婚したいというのだ。
 妻は、懸命に息子を止めるが、若い二人はいうことを聞かない。
 事実を息子に話すわけにはいかない。そのためには、自分の殺人を話さなければならないからだ。
 ついに妻は娘を殺す。
 だが、残った娘のひとりが、やはり息子を愛しており、ライバルが居なくなったために、息子に猛アタックをかけはじめる。
 結局、妻はその娘も殺す。
 折から、十数年前に村を捨てて出て行った最後の娘が、映画スターとなって凱旋帰国(というか帰村)してくるのだった。

 もし、息子があの娘を好きになったら……妻が次に狙うのは美しく育ったその娘だった。

 ね、舌足らずでもうしわけないが、なかなか良いでしょう(ヒトリヨガリデモウシワケナイガ)。



 「未来世紀ブラジル」や、G・オーウェルの「1984」も、自分が生きる世界だとしたら苦しいだろう。そう思わせるリアル感がある。

 わたしは、なにも非現実的なものがいけないといっているのではない。

 たとえば、これは項を変えて書こうと思っているが、バロウズの「裸のランチ」(映画版のクローネンバーグのやつね)などはなかなか良いのだ。

 あれは、麻薬中毒者のタワゴトで、幻覚だらけの作品だが、それはそれで背筋が通っていて好感が持てる。

 文字と同じで、個別の字はへたくそでも、行あるいは列のセンターが出ていれば、それなりに読みやすくわかりやすいものだから。

(以下エンドレスサマー2へ続く)

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