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2008年9月

2008年9月28日 (日)

ポール・ニューマンの死 〜暴力脱獄〜

 俳優、レーサー、実業家(ニューマンズ・オウン社:輸入品店で、ドレッシングなんかよく見かけたね。ニューマンの顔がラベルのやつ)として活躍したポール・ニューマンが死んだ。享年83歳。

 決して短くはない人生であったし、早くに息子を亡くしもしたが、晩年まで映画スターとして活躍し(そんなことができるスターは、1パーセント未満だ)、そしてなにより、数々の「名作」に出演できた幸運な役者であった。


 色々な場所で、さまざまな追悼文が書かれるだろうから、彼自身についての話は、そちらにゆずるとして……

 「傷だらけの栄光」「動く標的」「評決」等、訃報とともに代表作が列記されていたが、わたしのもっとも好きな作品が入っていなかった(つまり、代表扱いされていない)ので、それについて書いて、彼への追悼としたい(実をいうと、前にもちょっと書いたのだが今回は別な角度から)。



 その作品は、「暴力脱獄」Cool Hand Luke (1967)





 もちろん、これは、本来、彼の代表作であるべき作品だが、なにせスーパースターだから、綺羅星(キラボシ)のごとく代表作があり、後発の「スティング」や「ハスラー」がクローズアップされ、男のみ出演の、汗くさくハードなこの作品は隅に押しやられている感がある。


 実際に囚人生活を送ったことのあるドン・ピアーズの小説を、「アンタッチャブル」(テレビ版)の演出をしていたスチュアート・ローゼンバーグが監督した作品……なんだが、脱獄がこの映画のテーマではない。


 理不尽な権力の横行と、それに負けない不屈の個人の魂との闘いを描いた、最高にカッコいい作品なのだ。


 観るたびに胸が熱くなり、意味もなくゆで卵を食べたくなってしまう(後述)。



 あらすじは単純そのもの、戦争(ベトナムだったかな)帰りの英雄ルークは、酔ってパーキングメーターをへし折り、懲役2年の刑で刑務所に送られる。

 刑務所で彼は独特の存在感を示し、囚人仲間の中で頭角をあらわしていく。

 昼間は炎天下の未舗装道路重労働(人力による草刈り!これがスゴイ。み、水をくれ)
 常に監視され、作業中は、トイレも水を飲むのも、ショットガンを持って立つ刑務官に、直立不動で許可を得ないと許されないのだ。

 すべてが管理された中での重労働、という極限状態の中でも、ルークは、自尊心を失わず、決して負けない

 いつしか仲間の囚人たちは、彼をクールなルーク:Cool Hand Luke(シャレだよ、もちろん英語でもね)と呼ぶようになる。

 まあ、ひとことでいうと、刑務所の囚人の話です。

 でも、後のOZ(知ってる人だけ頷いて)ショーシャンクみたいな、現代風ケダモノ刑務所話じゃない。もっと、気高い(うまくいえないが)囚人の話なのだ。

 あるいは重労働すぎて、刑務所内での権力闘争なんかできない、非人道的なムショの頃のハナシというべきか。

 OZ(オズ:重犯罪刑務所が舞台のテレビシリーズ)などの、現代の刑務所は、その是非(ぜひ)はともかくとして、人権重視重労働が無いから、中でミョーな人間ドラマが生まれてしまうのだ。


 閑話休題、クールなルークの話。

 役者もニューマンをはじめとして、アメリカ名脇役総出演といった豪華さだ。

 なんといっても、最高に良いのは、古株の囚人、刑務所のヌシであったジョージ・ケネディ(「大空港」そして日本映画「人間の証明」!)演じるドラグラインだ。


 ご存じのように、鯨のような大男である彼は、刑務所にあっても、やはりケンカなら無敵で、ムショのボスとしてハバをきかせている。

 だが、その彼にしても、冷徹で、強大な権力を持つ刑務官には、底知れぬ恐怖を感じ怯えながら毎日をくらしているのだ。


 もちろん、彼も、そんな自分を忸怩(じくじ)たる思いでみているのだが、そんなことどうしようもないぜ、だってここは奴ら(体制側)の支配するムショなんだから、と諦めている


 そこへ、ルークがやってくる。

 二枚目な上に、生意気な態度の若造に、まず彼はカチンとくる。

 そこで、いつものように、作業の無い日に、ボクシングと称してルークを血祭りにあげようとするのだ。

 刑務官たちも、スポーツという名目で、新入りをムショ内のヒエラルキーにはめ込むこの作業を見て見ぬふりをしている。

 だが、ルークは負けなかった。何度打ち倒されても、立ち上がり向かってくる。
 しまいに、ドラグラインは根負けして、やっと、ぶっ倒れたルークを見ていうのだ。
「たいした野郎だ」

 その後、何度となくこの言葉が彼の口から漏れることになる。


 そして、いつしか、ドラグラインは、自分より小柄で若いルークを尊敬するようになる。

 彼の底なしの反抗心矜恃(プライド)の高さには到底かなわないと、自らの負けを認め、惚れ込んでしまうのだ。


 その演技が実にイイ

 ちょっと、無知で無教養で、ハゲかかった中年で大男のケネディ(ドラグライン)が、ルークを見る時に見せる、憧れと思慕と、期待と不安と、友情の表情


 その演技を見る度に、わたしの胸は苦しく熱くなる。


 やがて、もっとも印象的なエピソードが幕開く。

 きっかけは、本当に単純な囚人同士の会話からだった。

「ルークは大食いだな。タマゴを何個食べられる」
「50個だ」
「嘘いえ」
 すぐに、ドラグラインがルークの側につき、囚人を二分した賭けが行われる。

 大量にゆでられたタマゴがルークの前に用意され、賭けが始まった。


 日本の「大食い選手権」に似た、おそろしく孤独でハードな激闘が終わった夜、

「どうしてあんな馬鹿な賭けを真剣にやるんだ?」

 ドラグラインが尋ねると、ルークはクールに笑って何も答えない。


 んで、またドラグラインは、ルークにゾッコン参ってしまうのだった。


 だが、そんな反抗的な囚人を体制が見逃すはずもない
 徐々にルークに対する締め付けを厳しくしていく。

 やがて、ルークは脱獄を繰り返すようになる(直接的には、あまり馴染めなかった母親の死が原因だが)。


 そして捕まる。

 その度に、木製の、デキの悪い電話ボックスに似た独房(まさしく独立した小屋、底辺1メートル四方)に、おまる代わりのバケツをもって押し込められるのだ。

 だが、ルークは脱獄をやめない。看守に目をつけられてもやめないのだ。

 その度に、ルークの足には、重い鉄鎖幾重にも巻かれるのだ。

 鎖が増えるにつれて、ルークの脱獄への情熱は激しくなる。

 さすがに、三度めに脱獄する前には、諦めて、看守たちになつくそぶりを見せたりもする。

 だが、やはり彼の芯の部分は折れず、脱獄を敢行するのだ。

 ルークが脱獄するのは、自由になってウマイ飯を食い、女を抱くためではない

 看守たち、体制側に押しつけられた抑圧を打ち破るためなのだ。

 もちろん、ルークは、声高にそんなことを叫びはしない。
 囚人たちを煽るような熱血漢でもない。
 どちらかというと、退廃的、というより、冷めた気持ちの男だ。
 ただ、なにものにも負けたくない、腹の底にそんな気持ちを飲み込んだ男なのだ。

 そして、何よりルークが負けたくない、と思ったのは、冷たく輝くレイバンのミラーグラスをかけて、囚人を睥睨(へいげい)する看守長だった。

 決して瞳を見せず、常にミラーグラスを光らせているその男は、不気味で囚人にとっての横暴な権力そのものだった。
 ルークは、彼といつもロッキングチェアにすわって囚人を断罪する所長の鼻をあかしたかったのだ。

 そうしないと、彼の心が押しつぶされてしまいそうだったのだ。

 そもそも、彼が、深夜にパーキングメーターをへし折って歩いたのも、大義なき戦争(ベトナム戦争)で負った虚無感に耐えきれず泥酔した上でのことだった。

 皮肉なことに、彼は、戦争で体制(軍)から押しつけられた抑圧から逃れた(退役した)とたん、投獄されてさらなる抑圧に甘んじることになってしまった。


 最後に、重労働の隙間をぬって、足鎖を巻いたルークは三度目の脱獄をする。

 ドラグラインも、初めてそれに続く。

 そして……


 ドラマのラストで、伝説となったルークの話を、夢見るようなまなざしで仲間に語るドラグライン。

 不屈の魂は形を変えて、人々に伝えられていくのだ、ということを示す、すばらしいシーンだ。

 
 ある意味、「暴力脱獄」という邦題は言い得て妙である。

 暴力脱獄、その繰り返しの映画だから。

 だが、観終わった後、悲しさ苦しさ悔しさと共に、不思議にある種爽やかな胸の熱さを感じてしまうのはなぜだろう。

 おそらく、どれほど厳しい環境に置かれても、「折れない魂」は存在する、ということを、声高ではなく、高らかに宣言した映画だからだ。


 Cool hand Luke が名作たり得たのは、G.ケネディら名脇役の演技もさることながら、主演ポール・ニューマンの存在があったればこそだ。

 誰がリメイクしても、この作品を越えることはないだろう。

 不思議に、伝え聞くニューマンという人物像はルークに似ていた。
 
 ならば、制作後40年たって、いま、クールなルークはあの世に旅立っていったのだ。 

 数々の不屈の精神を地上に残して。


 私のおすすめ:
ポール・ニューマン/暴力脱獄 特別版

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2008年9月26日 (金)

寺田屋は燃えていたか

 ルネ・クレマン監督、アラン・ドロン、ジャン・ポール・ベルモンド出演の大作映画に「パリは燃えているか」という作品がある。
 まあ、若い人には、それをパロった「ルパンは燃えているか?」のほうが通りがいいかもしれないが、それはともかく……

 京都伏見にある、坂本龍馬襲撃事件で有名な「寺田屋」が、鳥羽伏見の戦いで焼け落ちていたことが、市により確認され、説明の修正を要請したらしい。


 寺田屋が建つ伏見周辺は、個人的に好きな場所だ。

 川に面して造り酒屋の倉が並び、なんとものんびりとした昔ながらの風情が良い。

 だから、知人の何人かには行くことを勧めたこともある。

 リョカン寺田屋には学生時代に一度入っただけだが、入場料が高く甘酒はこれまでで飲んだ中で最も薄く店は小さいが主人の態度はデカかったことを覚えている。


 もうひとつ覚えているのは、「これが、襲撃を受けたとき、龍馬に異変を知らせるべく、おりょうが全裸駆け上がった階段です」「柱に残る刀傷寺田屋事件の際についたものです」と書かれていた説明板と、「午後四時(だったかな)以降は、宿泊客が使うため、入館はご遠慮申し上げます」という断り書きだった。

 当時、わたしはまだ若く、「をを、この階段を、美形で有名なおりょう(晩年の写真しかしらないが)が素っ裸でかけのぼったのだなぁ」と、あらぬ妄想を頭に浮かべて、黒光りする、梯子といった方が良いような小さな階段を眺めたものだった。

 が、今になって、それは偽物かもしれない、と、市が指摘したのだ。

 あの時のわたしの妄想の責任誰がとるのだ?

 付け加えれば、寺田屋を訪れた人の多くはそうだろうが、柱についた刀傷を指でなぞって、これこそが、嘘偽りのない命のやりとりの現場なのだなぁ、と、しみじみ感慨にふけったそのキモチは、誰が償ってくれるのだ。
 
 まさか、宿屋の主人が客を呼ぶために、荒川さんに指導をうける王貞治よろしく、和室で真剣を振り回して、わざとつけたんじゃないだろうね。

 寺田屋を運営する会社のシャチョーは「被災したのは一部だけ」と言っているらしいが、観光地寺田屋運営に都合良く、離れて建っていた、物置と風呂と便所だけが焼け落ちたとでもいうのだろうか?

 まあ、真贋(しんがん)はともかく、上でも書いた、伏見周辺は散策する値打ちはあると思うので、京都に行った折には、ちょっと南に足を伸ばしてもいいと思うな。

 ただ、運営会社の社長にはひとこと言っておく、多くの奈良京都の名所同様、もう過去のイブツトノサマ商売するのはやめろ。

 たぶんできないだろうが、正直に生きろ

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2008年9月22日 (月)

イキガミ  〜生きるつもりが死んじゃった〜

 藤沢周平の作品を読んで、胸を打たれるのは、主人公たちが常に腹をすかしていることだ。

 江戸時代は、よほど裕福で暇な者以外は、町人であろうと武士であろうと、常に空腹を感じて生活していたらしい。

 水戸黄門などの、いい加減な時代物TV番組(あれはあれで好きだが)に毒された現代人にはピンとこないかもしれないが、江戸や浪速の大都市ならともかく、地方の町のそこかしこに食べ物屋や夜泣き蕎麦があったはずがない

 冷蔵庫があるわけもないから、特に夏場なら、朝炊いた飯は、いちにち二日で食べ終わらなければならないし、まして独り者で外に出ることが多ければ、家に帰って食べるものがないことなど当たり前なのだ。

 腹が減るとは突き詰めれば命の危険につながること---つまり逆説的に、そのことで彼らは否応なしに生きているということを実感していたのだった。


 だが、医学の発達と平和、経済的繁栄(他の多くの諸外国に比べて)、そして家の機能の外部委託化(レストランやコンビニエンス・ストアの発達)のおかげで、空腹と死が日常生活から遠ざけられた結果、現代日本の若者たちは死を意識することが少なくなった。

 だったら、と多くの作家は考える(なんせ生きるというのは、モノカキの一大テーマだから)。

 突然の死が訪れたら、若者はどう考え行動するだろうか。

 死と違い、生とは曖昧模糊(アイマイモコ)とした概念だ。

 昔、子供相談室で、無着成恭が「生きるってどういうこと」と聞かれて、即座に「ご飯を食べて、おしっこやうんこを出すことだよ」と答えたのに唸らされたことがあるが、それは事実だ。

 つけ加えれば、自身の遺伝子を残すこと、そして、そのための行為をすること、というのも入るとは思うが、「食べて出すこと」が生きることなのは間違いない。

 だが、普通の人はそんな風には考えない。生活の上で嫌なことや嬉しいことが、辛いこと楽しいことが波状的にやってくるからだ。

 食べること(あるいは出すこと)を「喜び」と感じられなければ、生きる、あるいは生きている、という実感がわきにくくなる

 だったら、「生きる」ということを考えるために、それを際だたせるためにはどうすればよいのか?

 (コミック)作家を含め、ほとんどの人は、生は死の反対のものであると考えているだろうから、生というものをはっきりと意識させるために、突然の「死」を突きつけて、その反応を導きだし、結果、生を浮き彫りにしようと考えたのだ(わたし個人としては、死は生の一部と考えているが)。

 それが「バトルロワイアル」であり「フリージア」であり、ちょっとひねくれると「愛人(アイレン)」であり、今回とりあげた「イキガミ」なのだ。




 イキガミは、国家繁栄のために、確率的に何パーセントかの若者を「間引く」法律が制定された平行宇宙、あるいは近未来世界の話だ。

 死の二十四時間前に、役所から逝紙(イキガミ)という、太平洋戦争時の召集令状、通称赤紙(アカガミ)を模した通知書が届く。

 物語は、通知作業を行う公務員を狂言回しに、イキガミを受け取った若者の様々な反応を通じて、つまり、死という刷毛(ハケ)で、その若者にまとわりつく様々な不純物を払って、彼自身の生そのものを浮き彫りにしようとする。

 ある若者は、かつて自分をいじめた者に復讐し(もちろん、そのような行いをするものには、残された家族に激しいペナルティがある)、ある女性は、帰宅途中の愛する男の姿をひとめ見るために、違法の延命ドラッグを飲み過ぎて、かえって寿命を縮めてしまう。
 全体としては、よく練られた話であるし、何も不足はないのだが、暗すぎて、わたしには合わなかったなぁ。

 死をもって生を浮き彫りにするのは常套手段ではあるが、生は必ずしも死によってのみ浮き立たせられるものではない。

 生を生として輝かせる方法が個人的には好きなのだ。

 まあ、甘いといえばその通りだが。

生は暗く 死もまた暗い

 マーラーの「大地の歌」の歌詞どおりに諦観するには、わたしはまだ若いようだ。


 イベント(生ぬるい現実への気つけ薬)としての死は劇薬すぎる。

 だからこそ、連続で飲まされたら胸焼けがしてしまうのだ。

 それに、そういった対比手法は、ちょっと安直易な気もするしね。


 あと、キャッチフレーズの「死んだつもりで生きてみろ」は、ちょっと違うって感じがするな。
 結局死んじゃうんだしさ。


 「イキガミ」たしか、映画になるんだよね。

 観たい人は観ればいいんじゃないかな。 

 邦画の作り手の感性にはぴったり合っていると思うし、関西で食べるうどんに大ハズレがないように、そこそこの作品には仕上がると思うから。


 私のおすすめ:
イキガミ   1 /間瀬 元朗 著 [本]

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2008年9月21日 (日)

20世紀少年  〜思いつきが映画に世界に〜




 ミステリ、のみならず物語をつくる上で犯してはならないミスが二つある。

 ひとつめは、登場人物のモノワスレを謎の核にすることだ。
 真相、あるいはそれにつながるヒントは、必ず読者に、一度は示されなければならない。

 物語終盤になって、殺人現場にはもうひとりいたはずだ、ああ、あいつだ。なぜ忘れていたんだろう。あれが犯人だ、じゃあ、ミステリ以前のただのサギ話だ。

 もちろん、ミステリ、謎トキでなくてもダメだ。
 だって、その、物語終盤まで出てこなかった犯人の、背景や性格の作り込みがまるでなければ、物語としての意味をなさないからだ。

 想い出しました。だれか分からないですけども、犯人はこのヒトです。

 とても、金をとって話を売る作家の所行ではない。
 読者も、そんなことをされたら怒らなければいけない。

 直木賞作家、高橋克彦が「記憶」シリーズでよく使う手だが、あれはもっとタクミにうまく使われていて納得できる。

 そう、そういった卑怯ワザは、細心の注意を払って一点攻撃で使われるべきなのだ。しかも、真相の核心で使ってはいけない。

 そんなことをしたら、読んでいる時は、謎(らしきもの、ほとんどは真相を知っているヒトが口をつぐんでいるから謎にだっているだけ)に引っ張られて読み続けられるが、読み終わったらむなしさしか残らない作品になる。



 さて、やってはならないコトもうひとつ。

 それは、作者が、世の中の「質量」は、途方もなく大きい、という自覚を忘れてはならない、ということだ。

 この「質量」、とはモノの重さではない。

 「世に溢れる精神的質量の総和」と言い換えてもいい。

 つまり、多くの人が、それぞれの思惑で動き、それぞれがそこそこのプライドを持って生きていて、その各点は、容易に動かせない質量を持っている、ということだ。

 だからこそ「世の中は恐ろしい」のだ。
 自分程度の能力のものは、そこここに転がっている。自分が思いつくこと程度は誰かが先に思いついている。

 若者がそれを知らずに突っ走るのはいい。それは若者の特権だ。

 だが中年になった作者が、それを無視して、だれか一人の意思だけで、世の中を、世界を動かし得る話を書くのはどうだろうか?

 たしかに、先にわたしが言ったように精神の総和には質量がある。

 だから、初めはなかなか動かしにくいが、いちど勢いがついてしまう誰にも止められないほどのエネルギーをもってしまうこともある。第二次大戦のナチスのように。

 だが、それは国家レベルの外圧(外国からの侵略)がある場合のはなしだ。

 宇宙から、途方もない攻撃力を持った異星人が、やってきて、地球に何らかの圧力を掛けでもしないかぎり、現行の秩序が崩壊することなど考えにくい(後に述べる大災害が無い場合は)


 誰かの書いたコドモダマシ幼稚ななシナリオに、世の中が乗って動くなんてことがあるわけがないのだ。

 それを納得させるためには、よほど巧妙緻密な仕掛けが必要だろう。



 浦沢直樹「二十世紀少年」が、全三部作で映画化され、話題となっている。

 もうずっと前に、原作を読みかけたことがあったが、前作「モンスター」でガッカリした後だったので、やっぱり冗長な回り道にうんざりして、5巻ぐらいでやめてしまった。

 しかし、映画化もされるし、長かったハナシも一応完結したということで、とりあえず全巻を通して読んでみた。



 長編だ。いろんな意味で
 
 彼が、以前に描いた佳作「マスターキートン」「パイナップル・アーミー」は、短編で、キレが良い話だった。

 だが、あれは原作つきだった。

 彼の(自身原作の)特徴は、「YAWARA」を除いて、伏線を多くちりばめて、最後にそれを引き絞って話を完成させる、と言われているらしいが、実際に読んでみると、まるでそんな風には感じない。

 ただ、ダラダラと思いつくままにサイドストーリーを書いているようにしか思えない。
 いつ終わるとも分からない横道で、読者にガマンを強いているだけで、あとでそれらが見事に有機的につながって、美しい珊瑚のようなフラクタル模様にはなる、ということはまったくない

 なんか、「あ、そうだ、この登場人物にもなんかストーリー作っとこ」の連発で、あまり意味のない話が並べられているだけだ。

 「二十世紀少年」も本筋を書けば原稿用紙4枚程度に収まる話だ。

 そうだ、ちょっとやってみるか。

 えーと、主人公たちは昭和30年代生まれの少年少女で、成人した後に、昔小学生の時、彼らが空想した未来小説「よげんの書」どおりに事件がおこり始め、しがないコンビニ店長の主人公は、自分たちで何とかしないといけないと考えて、当時の仲間を呼び集める。

 仲間のひとりは、アジアでショーグンと呼ばれる豪傑になっており、ひとりは一対一では誰にもまけない武術の達人の女性、いじめっこだった双子は、巨大企業のオーナー(たったかな)、主人公の姉は、弟を育てるために大学進学を諦めたが、いきなり未婚の母となり、のち失踪、外国で細菌学の博士となった(らしい)。また仲間のひとりは、外国に行き、後のローマ法王と知り合う。
 2000年にエボラ熱に似た細菌兵器がまかれ、世の中が変わり、なぜか「ともだち」を中心とした社会になる。

 あと、なんだったかな?
 2000年にともだちの野望を阻止しようとした主人公たちはテロリストとして、逃亡、逮捕されている。
 ともだちは、一度殺されるが、別人がマスクをかぶって復活(顔も整形済み)。
 2015年(だったかな)に、そいつが、もっと強烈なウイルスで世界を破滅させようと行動しはじめると、記憶喪失だった主人公が復活し、仲間も再結集する。
 同時期、主人公の姉が命をかけて抗ウイルス剤を完成。

 コミックの巻数が20巻を越え、タイトルが「21世紀少年」に変わってから、突然、あれ、あの頃、もうひとり仲間がいたはずだ、と主人公が思い出す(ダカラ、それをやっちゃいけないんだってば……)。

 そいつが例の新しい「ともだち」で、すっかり忘れてたけど、子供の頃、主人公が万引きした時、犯人扱いされていたヤツだった。そいつは、それを逆恨みしていのだ。

 で、国連治安軍のぬるーい警備体制のもと、何の権限があるのか主人公たちが走り回って、ウイルスならぬ(いつのまにか変わってる)「反陽子爆弾」の起爆を阻止、大団円をむかえる。

 なんか抜けてるとろこもあるかも知れないが、コミック喫茶で4時間粘って読んだだけなので、細かいところは検証できないし、オオスジでは間違ってないからいいだろう。


 ということで、シノプシス(梗概、あらすじ)を見ると愕然とするが、なんともご都合主義のオンパレードだ。


 だいたい、ワレワレの(そして、あなたたたちの)アソビ仲間(大学の頃とかは別にしてね。偶然同じ町内で育った仲間、という関係)の中で、40歳代になった時に世の中に突出した能力を持つ人間が、何人いると思います?
 ひとりいりゃあ奇跡的、あとは普通の人間でしょう。

 それが現実であり、現実という重みが、ストーリーにリアル感を与える。

 もし、かつての友達全てが、社会に影響を与えているようなら、明確な理由が必要だし、それを考えるのが作家のつとめであり、仕事なんだから。

 はい思いつきました。ともかくこうなりました。じゃあ、(印税?時間?)ドロボーだよ。

 とにかく、「20世紀〜」のリアル感のなさは酷すぎる。

 物語終盤、多国籍軍による統治下の日本で、好き放題している主人公たちを見ていると、痛々しいほどだ。


 一世を風靡した作品(YAWARAってそうだよね?)を世に送り出した作者なら、分かっているはずだ。そういった成功は、自分の能力だけでなく、運(世の流れに合っていると言い換えてもいい)によることが多いということを。

 でも、いくら運があっても、子供の思いつきが世の中を動かすことなどあり得ない。

 もちろんギミック(仕掛け)はある。細菌兵器という切り札が

 しかし、それならば、まず細菌兵器をバラまいて、その後に新興宗教っぽい、ともだちナントカを立ち上げるべきだろう。

 なのに、ともだちは、平和時のニッポンで、企業トップを引き入れ、警察官を抱き込み、かなりな勢力を持っていた。
 世紀末退廃思想が世に蔓延していたとしても、ちょっとあり得なさすぎる。

 まあ、オウムの例などから、人々がワイヤーによる空中浮遊などの、タアイもないトリックにひっかかって入信する姿を見て、そんなハナシを思いついたのだろうが、平和な国では、いくら熱狂カルトを拡大しても、世の中にクサビを打ち込めるほどの力にはなり得ない。

 なんか違和感を感じてしまう。

 そのあたり、「北斗の拳」の武論尊は、よくわかっていた(安直であったともいえるが)。暴力が支配する新しい世界を生み出すには、核戦争後、といった世界設定が必要だったのだ。

 子供の思いつきは、子供の思いつきにすぎない。

 「20世紀少年」は、昭和三十年代初めに生まれた者たちの郷愁マンガにしか過ぎず、若い人たちの70年代生活テクストとしてのみ意味を持つ作品だ。


 のはずだが、けっこう多くの国で、出版されているらしいのが不思議だ。

 「世界中で好評」というのは売り手の惹句(コピー)だから信用はできないが、ヨーロッパでナントカマンガ賞をとったらしい(上記写真参照)。

 まあ、ヨーロッパのマンガの扱い、そしてマンガ賞ってのが、どの程度のものかは、わたしは、二、三年前の状況しか知らないからはっきりとはいえないが……中松博士が受賞している偉人賞程度のものかな?




 今回の映画も、原作を越えて新しい切り口をみせてくれたら観てもよいが、そうでなければ観る価値なしだな。

 主題に使われているロックなどに郷愁を感じるセダイなら観る価値ありかなぁ。


 追記
 個人的に、浦沢直樹が現在連載中の新鉄腕アトム「プルートゥ」を描きはじめたのは、「20世紀少年」で、中途半端な「キョダイロボット」を描かざるをえなかった不完全燃焼を解消するためだと思っているのだが、どうだろうか?

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2008年9月18日 (木)

〜崖の上のポニョ〜 ボーイ・ミーツ・ガールの佳編




 十代の頃、わたしはギターを弾いていた(上手くはなかったが)。
 もちろん、自作曲ではなくコピーをしていたのだが、気に入った曲が少なくて困ったものだ。

 なぜなら、当時流行の歌も、今と変わらず恋愛、恋の曲しかなかったからだ。

 当時からヘンクツだったわたしは、世の中はアイトコイでできているのではなく、思想や政治、陰謀と策略で満ちあふれ、だからこそ歌にもそれが反映されるべきだと考えていたのだ(押井に似てるな。じゃあ、あの気持ちって近親憎悪?)。

 愚かなことだ。思想をヒトに押しつけるメッセージ・ソングが、もっと世の中に必要だと思っていたのだから。

 おそらく寂しくて、過剰な生命エネルギーをもてあましていたからであろうが、とにかく愛だの恋だのと歌う歌が好きではなかった。

 そもそも、歌にはその出自から政治と恋の二面性があったというのに。

 かつて吟遊詩人は、歌にのせて社会を憂い、為政者をいましめ、批判し、ジャーナリストとして各地を旅して情報を集め、広めたのだ。

 そして一方、シラノ・ド・ベルジュラックは、美しい恋の歌を、シャイな友人に変わって、自分の思い人に捧げた


 現在のわたしはといえば、歌など恋の歌だけで充分、政治、思想的な歌などアブナイだけで一利なし、という考えに傾いている。


 少年が少女に出会い(BOY MEETS GIRL.)、子供が生まれなければ社会すら存続できないのだから。





 遅まきながら「崖の上のポニョ」を観た。
 まったく情報を得ないまま、ただ漠然と考えていたのは、ミヤザキは「愛・地球博」の「サツキとメイの家」人気に気を良くして、またトトロ系の話を作ったのだな、ということだった。

 だが、違った。「ポニョ」は、自然に回帰する子供の話ではなく、「ラピュタ」と同じ流れに属する映画だった。


 「崖の上のポニョ」は、典型的なボーイミーツガールの映画(正確にいうと、ガールミーツボーイ)だったのだ。


 意識してか年齢のためか、宮崎監督は、物語に伏線も張らずサイドストーリーも作らないまっすぐな映画を作った。

 「恋は、障害があれば、その炎をいや増す」らしいが、それはオトナの恋のはなし。


 五歳の少年とサカナの恋に、余計な障害は必要ない。
 だからまっすぐなストーリーこそが似つかわしい。大正解だ。


 ストーリーに抑揚はなく悪意は存在せず、優しさと愛情があふれる話。

 つまり、リアル感のない、寓話の世界。言い古されてちょっと恥ずかしいが、いわゆる「現代のおとぎばなし」が、ポニョの世界だ。


 不思議なサカナ(人面金魚?)のポニョは、親のもとを抜け出して、ヘドロとゴミで汚れた港町に流れ着き、少年と出会う。

 ガールミーツボーイ。そして幼い恋が芽生える。

 連れ戻された彼女は、少年に会いに再び港に戻ってくる。人間の少女の姿で。

 その時の激しい海のうねりと風、雨の描写は、なぜか郷愁をともなって迫ってくる。
 ドコカでみたような画、音楽、雰囲気……。

 あ、これって「ファンタジア」の「はげ山の一夜」にそっくりじゃないの。

 だが、もちろん時は流れている。

 さらなる技術の進化とジブリ的な感性で、ディズニーよりも遥かに豊かで大いなる海のうねりが丁寧に描かれるのだ。

 手塚治虫が生きていたら、さぞや喜び悔しがったことだろう。

 不思議なはずの少女を、少年と彼の母は何事もなく受け入れる。

 少女の両親(魔法使い?妖精?)は海からその様子をみて言葉を交わす。

「もし、少年が、あの娘をありのまま好きになってくれたら、あの子は人間になれる

 なんと、「崖の上のポニョ」は、アンデルセンを翻案したものだったのだ(カントク自身、明確な認識はなかったようだが)。

 人魚姫……

 翌日、出かけたまま戻らなかった母をさがしに、少年はポニョと、おもちゃのポンポン船(蒸気船)にのって外に出かける。

 これがいい。ポニョの魔法で巨大化したポンポン船(昔、よく夜店で売ってたなぁ)に乗って海原に乗り出す姿は、まるでお椀に乗って川下りをする一寸法師のようだ。

 ここでもこの映画の寓話性が良く出ている。

 昨夜の嵐で、村のあらかたは水没し、人々は船で避難所に向かっている。
 彼らは、母を捜しに行くポニョたちを見ても、別に心配もせず「気をつけて行くんだよ」と応援してくれるだけだ。

 少年の両親が、自分たちを名前で呼ばせていることに示されるように、ポニョでは一貫して子供をオトナとして扱っているのだ。

 すっかり嵐で洗われた港は、映画の冒頭で見せたヘドロやゴミが一掃され、魔法使いたちの登場もあって、古代魚の泳ぐ神秘の場所と化している。

 少年が親しくしていた介護施設の車椅子の老婆たちは、魔法使いたちに出会って、施設の庭を駆け回っている。

 少年の母は、そこでポニョの母親と話をしている。

 この時の二人の体の大小が良い。ポニョの母が、やたら大きいのだ。
 (神、あるいは精霊大きくなければならない。これシンピロンのジョーシキアルネ)

 やがて、少年とポニョが施設にやってくる。そして……


 ポニョの両親についての明確な説明はない。

 だが、そのことに違和感はまるでない。

 なぜなら、これは寓話だから。

 まっすぐで優しいおとぎばなしだ。

 わかりやすい文章は、その中の文字がいくつか抜けていても、問題なく読むことができる。

 だから、この映画の説明不足は問題ではないのだ。

 その点が「スカイクロラ」とは異なる。
 あれはキーワードとなる単語がごっそりと抜け落ちている映画だった。

 で、その後ふたりはどうなったかって?

 おとぎばなしの結末は決まっている。

 少年は少女に出会い、少女は少年に出会い、そしてキスが交わされ、ふたりはいつまでも……


 私のおすすめ:
ジブリ 崖の上のポニョ くらげ 置時計

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光モノかならずしも金ならず 〜昇圧回路を用いたミニマグLEDライト〜

 コドモの頃はよくラジオを聴いた。おもに深夜ラジオを聴いたものだ。

 まあ、それは一過性の「若気の至り」というヤツだったようで、その後ラジオからは遠ざかっていたのだが、最近、夜に仕事をすることが多く、その合間にラジオを聴くことが多くなった。

 深夜、というか未明に、NHKのラジオ深夜便の、妙に落ち着いたアナウンサーの声と、「東京のバスガイド」などの昭和20年代古代歌謡曲を聴いていると、ささくれた気持ちが落ち着くのがわかる。

 というわけで、ラジオの製作、といいたいが、あれはバリコンや同調コイルの調整が面倒なので、今回はパスして、もっと簡単なものにチャレンジしてみたい。


 現代の生活に電池はかかせない。eneloopやリチウムイオンのような充電池(二次電池)もよいが、アルカリ電池のような使い捨て(一次電池)も安価で使いやすいため、いつのまにか、電圧が下がって使えなくなった電池が多くたまってしまう。

 わたしの場合、例えば単三電池など、最初はアウトドアのライトに使って、暗くなったらトランジスタラジオに使い、その音が小さくなったら廃棄するようにしているが、それでも電圧を測ると1.1ボルトあたりは残っていることが多い(新品の場合は1.5ボルト前後)。

 それらを捨てるにしのびないので、何とかうまく最後まで利用できないかと考えたところ……

 それらを使って、ミニライトを点灯させることにした。

 わたしの趣味は、子供のころからアウトドア(ありていに言えばキャンプ、長じて登山)と自転車旅行がだった。

 そして、そのどちらでも重要だったのは明るいライトだ。

 しかし、昔のライトは電池の消耗が激しくすぐに暗くなるため、長く点けておくことはできなかった。

 だから、ちょっと点けてすぐに消す、その繰り返しだった。

 子供心に、いつか一晩中点けていても大丈夫なライトを持ちたいと思っていたが、その願いは、数年前にあっさりと叶えられてしまった。


 みなさんご存じのLED(高輝度LED)のお陰だ。

 わたしは狂喜して、いろんな種類のLEDライトを買い集めたが、それらにも欠点はあった。

 多くのライトが3ボルト以上の電圧でないと点灯しないため、電池を2本以上必要としたことだ。

 有名なミニマグ社のライトも最近LEDになったが、電池を三本必要としていて「重いわスタイルは悪いわ」ですっかり幻滅させられてものだった。

 だが、捨てる神あれば拾う神あり、電子工作さえすれば、なんとかそれを解決できる。

 使うのはDC−DCコンバータIC(HT7733A)とあと4つの部品のみ。

 それを使えば0.6Vまで下がった電圧を3.3Vに引き揚げてくれるのだ(昇圧回路)。
 そうすれば、弱った単三電池一本で明るくLEDを点灯させることができる。


 というわけで、今回は、単三電池2個使用のミニマグライトのオリジナル球をLED球に変えて、単三電池一個で点灯できるように改造を行います。

 昇圧回路は小さいので、不用になった電池一個分のスペースに納めることができるでしょう。


では、材料から。
(個数はすべて1個)

●DC−DCコンバータIC
(HT7733A PFM「PULSE FREQUENCY MODULATION」)
●電解コンデンサ 47uF
●電解コンデンサ 22uF
●マイクロインダクタ 100uH
●ダイオード

 コンデンサはタンタル電解コンデンサ、ダイオードは、ショットキー・バリア・ダイオードの方が良いのです(反応速度が速いため)が、普通のものでも、おそらく大丈夫でしょう。
 ただし、マイクロインダクタは、抵抗のなるべく小さいものの方がベターです。大きいと回路が働きません。相性もあるので、いくつかの種類を買った方がよいかもしれません。

 材料費は全部で300円もかからないでしょう。

 部品写真は以下です。




データシートに載っている回路図は以下。今回はこのまま製作します。






 できあがりは以下です。

 わかりにくいかも知れませんが、基盤(茶色の板です)の左端は、ライトの一番奥つまり+局にあたり、左端は単三電池の+局と接触しています。





 二本入れる電池の一本目の代わりに、昇圧回路をいれます。このあとに続けて単三電池を入れ、ふたを閉め……




 ミニマグライトに初めからついていた球を抜き、LED球(80円ほど:+−の極性あり)をさすと、見事に点灯しました。






 おもしろいので他にもいくつか作りました。
 (部品は10個買いなどで購入すると、さらに安くなる)
 下のものは、電池ボックス(単三2本用)の一本には電池を、もう一つには先の回路をいれて昇圧しています。




 昇圧回路は、汎用のタイマIC555を使ってもできますが、今回用いたパルスモデュレーションICの方が必要な部品数も少なくカンタンでした。さすが専用ICです。

 昇圧の仕組みですが、簡単にいうと、ICが一瞬だけパルス電流を流す度にマイクロインダクタ(コイル)に大きな電圧が生じ、それを一秒間に数百回繰り返して、充電池の一種であるコンデンサに貯め(電圧を足し算して)、必要な電圧を取り出します。
 その際、ICは生じる電圧を監視し、ちょうど3.3Vになるようにパルスの発生間隔を調整します。
 (低いときはどんどんパルスを出し、高いときはパルスを少なくする)

 効率は、データシートによると85%程度なので、それほど損はしていないでしょう。
 動作電圧は0.6V〜6Vなので、かなり弱った電池でも、むりやり電圧を上げてLEDを点灯させてくれるはずです。

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21世紀のホビー

 最近ではあまり見かけないが、以前(20世紀末まで)はよく、少年誌などの裏表紙に、「21世紀のホビー」あるいは「キング・オブ・ホビー」などと銘打って、電子工作の入門セットの広告が載っていた。

 だが、実際に21世紀になると、世はこぞってソフトウェアの時代となったようで、右手にハンダごて左手にフラックスを持ってトランジスタやOPアンプなど、ハードウェアと格闘するよりは、EXCEL VBAやSQL、PHPやJAVA、はてはFLASHのアクション・スクリプトを使いこなせることこそが、ビジネスでも求められるようになってしまったようだ。

 だいたい、わたしの知る限り、キング・オブ・ホビーなどと呼称される趣味が本当のキングであった試しがない

 電子工作以外にそう呼ばれていたものを、思いつくままに挙げると、ハム(シオブタではなくて、アマチュア無線のことだよ。わたしも免許は持っている)鉄道(時刻表)マニア、そしてNゲージなどの鉄道模型、あるいはジオラマ製作など、どうも人前で口にするのをはばかられるものが多いようだ(別に恥じることなぞまったくないが)。

 わたし自身、ハードは大学の専門でもあったのだが、実のところ勉学不熱心な学生であったし、卒業後は、ソフトウェアの会社で働いたこともあって、しばらく半田ごてなど握ってはいなかったが、何年か前必要に迫られて(留守中、猫に自動的に餌をやる装置が必要になって)、やり始めると、昔とは段違いに便利なICが作られていて、昔なら複雑だった回路が、カンタンに実現できるので嬉しくなったのだった。

 今さらハンダごて電子工作というのもナンだが、実のところ、やってみると楽しいし、実用的でもある(そうでないこともあるが)。


 というわけで、あなたも週末にはハンダごてを握ってみませんか?

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2008年9月11日 (木)

エンドレス・サマー1 〜スカイクロラ〜

 押井 守監督作品「スカイクロラ」を観た。


 かなり限定された映画館、時間帯だったので苦労しました(上映時間が21時〜23時のレイトショー・オンリーってアリ?)。


 観終わった感想は……さて何から書こうか。(いつもどおり、盛大にネタバレしてます。注意)










 「子連れ狼」「クライング・フリーマン」で著名な劇画原作家、小池一夫の作風を形容する言葉に「永遠の堂々巡り」というものがある。

 どの作品の主人公も、場所と敵は変わっても毎回の行動自体が、ほとんど変わらないことを揶揄して使われる言葉だ。

 それは、彼主催の劇画村塾で展開される持論「くっきりと立つキャラクターを作れば、物語は自然にできていく」という創作メソッドにも問題があるのだが、ともかく話が進んでいかない。

 かつて六田登が、レース漫画「F」で、主人公の父親に「レースは同じところをぐるぐる回っているだけじゃないか」と主人公を非難させ、後に主人公が「レースはただ同じところを回っているんじゃない、少しずつであっても螺旋状に進んでいるんだ」という答えにたどり着くシーンを描いたが、小池氏作品は螺旋ですらない。
 ただ円を描くだけだ。ぐるぐるぐるぐる、と。
 円周率同様、円には終わりがない。
 だから、小池氏の作品には終わりがない。(個人的には好きな作品が多いが)

 だから、昨日と変わらぬ今日があり、おそらく明日も同じように闘いの日々が続くだけ。
 最終回「サァ、これからもやりつづけるぞ、おわり」というように、すっきりとした収束感のないままラストを迎える作品がほとんどだ。



 そして、「スカイクロラ」は、まさしくそういったループ・タイプの作品だ。

 ただ、「スカイ〜」の問題点は、作者の体質で堂々巡りしてしまっている作品ではなく、作り手が考え出した設定、世界観で内容が堂々巡りしていることだ。

 小池氏のように、作者の限界でストーリーが無限ループに陥るのは仕方がない。
 これは正しく「死に至る病」で手当の施しようがないからだ。

 だが、他方、世界観、設定で堂々巡りになっているハナシは、それを破綻なく構築し、維持することが難しく、作者が意識的に創り出したループ世界ゆえに、彼には理屈をうまく整合させる責任がある

 よほどうまく設定を作っておかないと、イビツで穴だらけの話になって興ざめしてしまうのだ。


 ああ、設定で思い出した。
ヒトでないものによる代理戦争」という話は、ジャンル化するほどさまざまな種類のものが発案されてきた。

 永井豪の佳作「真夜中の戦士(ミッドナイト・ソルジャー)」(さすがに続編はいただけなかったが)などもそのうちのひとつだ。

 よって、よほどうまく世界を作らないと、二番煎じ、あるいはご都合主義感臭が鼻について嫌になってしまう。

 きちんと世界構築がなされ、説明責任が果たされないと、キルドレという名の人工生命体たちは、確かにカワイソウだけど、なんか嘘くさくて泣けネェなぁ、という気持ちが勝ってしまうのだ(わたしはね)。

 気になる点はいくつかあるが、特に気になるのは、スカイクロラが「いつまでも続くエンドレス・ウオー」みたいな体裁をとっているくせに、実際のところ、小池作品のように本当の円周を堂々巡りしているのではなく、少しずつ世界が変わって行っている点にある。

 たとえば、主人公である、年を取らない永遠のピーターパンたちが乗るプロペラ戦闘機は、牛歩の歩みながら着実に改良が続けられていることが作品内で語られている。

「彼らは変わらない、だが、彼らの装備と世界は変わる」→「しばらくすれば永遠(であるべき)ループは破綻する」

 つまり、「スカイ・クロラ」の行き場のない、やりようのない閉塞感の源、「永遠に続く(無意味な)闘い」が、永遠でなく、もうすぐ終わってしまいそうに感じられるから駄目なのだ。

 それともうひとつ、クローンたちに、勝手に性交渉をおこなわせ、生殖することを黙認しているのもおかしい。

 あるいは、何かの実験なのかもしれないが、それならば、周りからそれを監察する、公安のような存在(を我々に知らしめること)が必要だ。

 社会派(思想的)リアリズム(あるいはポリティカル・アクションと言い換えてもいいが)をカラーとしてきた押井監督ならば、そういった監視人の存在をもっと明確に出すべきだった。

 個のキルドレに蓄積された戦闘ノウハウ(知識)が、次のキルドレにコピーされている事実から、明らかに今作られつつあるキルドレと現役のキルドレ間で、「知識の並列化」が行われているようだが、映画の中でそういった描写は一切無い。

 かつて、押井は弟子に、攻殻機動隊(笑い男)で、AI戦車タチコマたちに知識を並列化(共有化)させていた。

 だから、考えが及ばないはずがないのに、その説明も割愛している。
 スカイクロラは、なんだかスカスカな感じのする映画なのだ。

 物語は、ただ、命じられるまま闘い、死ぬキルドレの視点によってのみ描かれる。
 それは、ある効果を狙った表現方法なのだろうが、映画が終わるまで、ほとんど世界に対する情報が観客に与えられないというのは、制作者の怠慢にしか感じられない。

 わたしは、理屈っぽい性格のためか、説明不足の物語は、SFやファンタシーすら抵抗を感じる。

 もう少し正確にいうと、たとえ平行宇宙であっても、あるいは天国でも、地獄でも、そこでは、その世界をその世界たらしめている経緯と、そこで動くイキモノの理屈にあった思惑があるはずだと考えてしまうのだ。

 それを無視して、とにかく自分の都合のよい設定だけで世界を構築し、あとは想像してください、じゃあ感動もなにもできない。

 わたしが興奮したり興味をもったりするのは、時代が違えば、あるいは立場が違えば、この状況下では自分も同じ事をしたに違いない、という、逃げようのない圧迫感、恐怖と言い換えてもいい、それを感じられる物語だ。

 例を挙げれば、横溝正史の「悪魔の手鞠唄」(市川昆監督)。

 冗長になるが、少しあらすじを紹介しよう。

 故郷に恨みをもつ男が、名を変え、詐欺師となって村に帰り、貧しさ故にかつて自分を蔑んだ名家の娘たち三人と、復讐心から関係を結び、子供を産ませる。

 男の妻(彼はすでに結婚していたのだ)は、その事実を知り、自分と二人の子供を捨て、娘の一人と村を出て行こうとしている夫を殺してしまう。
 頭を殴られた男は、そのまま囲炉裏の火に顔を突っ込んで顔の判別がつかなくなった。
 警察は、妻の証言から夫が詐欺師に殺されたと断定、そして二十年が過ぎ去った。

 ある日、妻は息子から恐ろしい事実を告白される。
 二十年前、夫が産ませた娘の一人と結婚したいというのだ。
 妻は、懸命に息子を止めるが、若い二人はいうことを聞かない。
 事実を息子に話すわけにはいかない。そのためには、自分の殺人を話さなければならないからだ。
 ついに妻は娘を殺す。
 だが、残った娘のひとりが、やはり息子を愛しており、ライバルが居なくなったために、息子に猛アタックをかけはじめる。
 結局、妻はその娘も殺す。
 折から、十数年前に村を捨てて出て行った最後の娘が、映画スターとなって凱旋帰国(というか帰村)してくるのだった。

 もし、息子があの娘を好きになったら……妻が次に狙うのは美しく育ったその娘だった。

 ね、舌足らずでもうしわけないが、なかなか良いでしょう(ヒトリヨガリデモウシワケナイガ)。



 「未来世紀ブラジル」や、G・オーウェルの「1984」も、自分が生きる世界だとしたら苦しいだろう。そう思わせるリアル感がある。

 わたしは、なにも非現実的なものがいけないといっているのではない。

 たとえば、これは項を変えて書こうと思っているが、バロウズの「裸のランチ」(映画版のクローネンバーグのやつね)などはなかなか良いのだ。

 あれは、麻薬中毒者のタワゴトで、幻覚だらけの作品だが、それはそれで背筋が通っていて好感が持てる。

 文字と同じで、個別の字はへたくそでも、行あるいは列のセンターが出ていれば、それなりに読みやすくわかりやすいものだから。

(以下エンドレスサマー2へ続く)

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エンドレス・サマー2 〜スカイクロラ〜

(エンドレス・サマー1より続く)




 わたしはスカイクロラの、人に内在する闘争本能を満足させるために、ヒトでないものに代理戦争をさせているらしい「平和を成し遂げた世界」というものの存在が、どうも画的に1950年っぽいのが気に入らなかった。

 もう少し科学力が進んだ世界観でも良いはずだ。

 物語の中でも、キルドレは偶然に生まれた技術で、と言われてはいたが、クローン技術や、記憶操作だけが発達した世界で、世の中全体が、ジェット機誕生以前の世界観のままというのはご都合主義すぎていただけない。

 ほんの少しだが画面に映る世界地図も、我々の世界とはまるで違うから、おそらくは欲しい部分だけが実現した世界を創り出す、ご都合主義的パラレルワールドなのだろうが、それでもおかしな点が多すぎる。

 だいたい、年を取らないクローンが生まれたら、そいつらを使って代理戦争をさせるより、もっとさせることがあるはずでしょう。

 まっさきに考えられるのは、いわゆる臓器移植の献体にすることであろうし、次いで下級労働に使うことが考えられる。


 「できてしまった技術」は封印することが難しい
 人類にできることは、ただ何か(神、仏、それとも?)に祈りつつ、それらをコントロールする術を身につけようと努力するしかないのだ。
 それは法的整備であったり倫理面の強化であったりする。

 数が揃えば地球を吹っ飛ばすことの出来る核爆弾が発明されてから、各国が持ち合いをし、協定を結び相互監視することで、今のところ何とかコントロールはされている。
 ま、この均衡がどれぐらい続くかは怪しいものだが。


 あるいは、ヒトゲノムの基本部分が写し取られ、人類がクローン技術の端緒についた近年、想像するだに恐ろしい悲劇が間近に迫っていることだろう。

 倫理部分をクリアするための、臓器のみをピンポイントで作る技術(いわゆる胚性幹細胞<ES細胞>)の開発)はまだ人の手に余る。

 だが、死にたくない高齢権力者は待つことができない。
 よって、生き延びんがために生み出される「部分的でない」クローン(こちらはまだ技術的に楽だ)から必要な臓器のみを取り出して利用するといった悲劇は今後次々と起こっていくだろう。

 そういった悲劇を乗り越えないと、おそらくヒトはクローン技術を制御し、あるいは封印することができない。

 そして、一般の人々が臓器移植やゲノム解析で不死になり、他の星からの資源搬入が円滑に行われナチュラル・リソースの不安が無くなって初めて、アソビのために資源を無限浪費する代理戦争を楽しめるようになるはずだ。

 そういった問題点をクリアせずに、いきなりクローンに代理戦争させる世界というのは実際考えられない。

 あるいは、「自分たちにはない永遠の青春」を手に入れてしまったピーターパンたちに対する、古き人類の嫉妬がその遠因となっているのかもしれないが。

 それにしても動機としては少し弱いようだ。

 そういった矛盾点は、アニメ世界に社会的リアリズムを求め続けてきた押井の作品としては甚だ奇妙に感じてしまう。

 「スカイクロラ」はシリーズの最後になる作品らしいから、原作では、それまでに、きっちりとした作り込みがなされているのかもしれないが、映画では、最後に出てくる、遺伝子操作で女性にされたらしい主人公のクローンの独白めいた台詞で少し語られるだけなので、何もわからないままだ。

 あと、キルドレって、たぶんチルドレンのことだろうが、なんとなく「ジル・ド・レィ」に音が似ているのが気になるな。

 もっとも、あっちはジャンヌ・ダルクの盟友、救国の英雄にして後に黒魔術に傾倒し、蒼髭のモデルになった男だからまったく無関係か。


 名前といえば、主人公の前に部隊にいた男が(つまり彼自身だが)「仁郎(ジンロウ:人狼)」と呼ばれていたのも面白いが、ヒロインの名前が草薙水素(クサナギスイト)で、顔は、まんま攻殻機動隊の草薙素子(クサナギモトコ)っていうのはどうなんだろう?


 作者の森博史嗣(モリヒロシ)の作品は、「すべてがFになる」しか読んだことがない。
 本人はどう思っているかわからないが、現役(当時)の理系大学(建築らしいが)の講師だったか助教授だった肩書きと、作品内容から理系本格推理(だったかな?)というようなことを言われていたはずだ。

 ちなみに、わたしは何の先入観もなく「すべてがF」と聞いて、まず頭に浮かんだのは、16進数のFのことだった。

 全部がFになったら、次の瞬間には、スタック・オーバーフローを起こしてしまうな、と思って読んだら、それがオチでびっくりした覚えがある。

 内容は変わった名前の主人公たち(「謎の天才女性科学者」など)が孤島の研究所で何かする話だったはずだ。

 あと、本来ならスカイ・クロウラーと発音すべきところを、クロラにしているのは、いくら理科系の論文では、JIS規格(Z 8301)にのっとって三文字以上の言葉の長音記号は省略するのが通例といっても、もと理科系のお学者さま(くどいようだが建築家らしい、今は辞めてフリーらしいが)を表に押し出した過ぎているような気がするな。
 なんとなく雰囲気で、いい加減に「コンピュータ」「イラストレーター」を混在表記するブンカケイの作家の方が、いっそ好感が持てる。


 とまあ、欠点をあげつらったが、「スカイクロラ」原作および設定はともかく、アニメーションにおける戦闘シーンはナカナカ良い

 乗降時の風防の手動オープンシーンに始まって、背面飛行しつつ飛んでいくところ、おそらくかつてあまり描かれたことがないであろう、着弾による操縦者の死亡シーンなども素晴らしい。

 ちょっとアンニュイな、というよりかなり病的に陰鬱な映像表現(フィルタリングによる空気感というべきか)も、一億総神経症に冒されつつある現代日本人には共感できるところもあるかもしれない。

 さらにいえば、戦闘妖精雪風のように、マッハの速度で飛ぶ怪物同士の闘いでないところがいい。
 主人公たちが、単発や双発のプロペラ機に乗ると言う設定が素晴らしい。

 空中戦が、もっとも面白いのは、飛行機の速度が人間の反射神経で制御できる程度であった内燃エンジン機までだからだ。

 ジェット系の外燃機関がメインの戦闘は、速すぎてコンピュータのアシストなしでは戦えない

 実際に、コンバット・フライト・シミュレーターなどのソフトを、フィードバック付操縦桿で遊ぶと、最高に面白く、わたしも一時期熱中した覚えがある。


 付け加えれば、(原作は知らないが)映画の中で語られる「戦争」が空中戦のみというのも、設定としては、なかなかにウマイ

 人類始まって以来、営々と続けられてきた戦争には、逃れようのない法則がいくつか存在する

曰く、
「戦略のミスは戦術では覆せない」
「戦争は地上部隊の投入によって初めて終結する」
等々。

 特に、二番目のものは、戦争を終わらせるためには絶対に避けられない行動パターンだ。

 さきの戦争で、アメリカ軍は、ミサイル攻撃と空爆の空中戦の後、地上部隊を投入したものの、それらはテロ攻撃を受け続けている。

 だったら空爆のみで戦争を終わらせれば良いと考えるのは素人だけで、戦争は陸軍なしには終わらない

 清潔なコクピット環境からの攻撃だけでは、絶対に戦争は終わらないのだ。

 兵士がドロにまみれ、現地の人間と直接接触してのみ、戦争は終結する。

 逆にいえば、永遠に戦争を続けたければ、空中戦のみをしていれば良いのだ。
 相手の土地を占領、制圧せずに、ゲームのようにただ戦闘戦術を競うだけの闘いを。

 つまり、これがキルドレが演じる戦闘ゲームだ。

 戦争を終結させないためには、戦闘によって流す血を世間に見せず、その量を限定することが肝要なのだ。

 それにぴったりなのが、飛行機によるコンバットだ。


 だが、血を流さないが故に終わりを迎えられない戦争という設定なら、かつてスタートレックオリジナルシリーズTOS(カーク船長のやつ)で描かれた、国同士のコンピュータによって戦況が決められ、確率で死亡決定されただけの人民が、黙々と自発的に処理マシーンに入って死んでいく戦争が二百年以上続いているという世界の方が私にははるかに恐ろしい



 あと、ティーチャーと呼ばれる、ただひとり大人のスーパー戦闘機乗り(大人げねぇ奴だよ、まったく)が出てくるんだが、説明不足だし、よくわからないし、そんな奴どうでもいいや。


 「スカイクロラ」
 雰囲気だけで映画を楽しめる人は、観てもいいんじゃないかな。

 実際、かなりの人が、この作品の雰囲気を愛し、静かでストイック(というか、わたしはそれを操作された無感情というべきだと思うが)なキルドレの言動を好ましく思っているようだ。

 これを、ほぼ書き終えてから他の人の感想を読んでみると、皆、すばらしく深読みをしていて感動させられるばかりだった。キルドレを現実のピーターパン・シンドローム(死語?)の若者と重ね合わせ、場合によっては、押井監督の言動、コメントを含めて解釈を試みる人すらいるようだ。

 でも、それって本当に作品自身を評価しているのかなぁ。

 そして作り手の態度はそれで正しいのだろうか?
 わたしが、何か作品を書くときに気をつけているのは、自分(作者だけ)が分かっていることを、皆が知っていると思って書かないようにする、ということだから。

 あ、そうだ。今、思いついた。
 たった、ひとつ、この作品を理解するのに最適な方法があった。
 「スカイクロラ」を寓話、つまりオトギバナシと考えることだ。そうすれば整合性など必要なくなる。雰囲気だけで、ほんのりメランコリックで女性的なストーリーも納得できる。
 女性あるいは、女性コミックに親しんだ男性にはウケるだろうな。

 最後に、この映画のキャッチ・コピーは

もう一度、生まれてきたいと思う?

という、ちょっとフェミニンなものだが(そうか、脚本は女性?)、多少の悪意と揶揄(やゆ)をこめて、わたしがコピーをつくるなら、

また、あのひとは新しくなって還ってくる

にするだろうな。

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2008年9月 6日 (土)

迷いの無い目 〜スピード・レーサー〜



 かなり多くの人が、CGを全面に押し出した映像に拒絶反応を示した結果、同時期に始まったインディ4がロングランを続ける中、早々に打ち切られてしまった。

 この作品については、観る前に一度書いていたと思うけど、実際に観た感想を以下に書いておきます。
 

 物語終盤、グランプリ・レースで出遅れたスピード・レーサー(三船剛)が先行車をゴボウ抜きしていく場面で、アナウンサーが叫ぶ。

「素晴らしく速い。迷いの無い走りです」

 そう、世間の評価はともかく、主人公同様、映画の制作者マトリックスのウォシャウスキー兄弟、そして監督のジョエル・シルバーの瞳にも全く迷いはなかったはずだ。

 いかにもアニメ的な原色使用のド派手な背景処理も、顔の向きが変わるにつれて背景が変化するといった、アニメ的なショットの切り替え方、そして三船オヤジが頭の上で悪漢どもをクルクル回すと、ポケットに隠し持ったシュリケンが、次々と壁に刺さる演出まで、原作通りの世界観で統一している。

 いくらオマージュったって、もうタツノコ作品をリスペクトしすぎ

 結論からいうと大好きな作品で、何度か観てしまいました。


 ただ、惜しむらくは、レースの最高峰グランプリ、つまり最終レースを、いかにも未来的な立体鋼鉄コースにしてしまったことだ。


 60年代、レースのことをよく知らなかった吉田竜夫たちが、憧れと勢いで作ってしまったアニメ作品「マッハGOGOGO」は、どう見たってオンロード使用のレースカーが、だだっ広いラリーコース(しかも、砂漠や洞窟などの極限コースばかり。不思議と雪コースはない)を、バリバリ違法なギミックを使用(ご存じのように、それらはステアリングポストにあるA−Gのボタンで起動する)しつつ駆け抜けるストーリーだった。

「スピード・レーサー」でも、物語の途中で「悪事を暴くため」ということで、ラリーに参加し、いかにもCGっぽい軽いジャンプを繰り返して優勝するシチュエーションはある。

 だが、それで我らが2シーター仕様のマッハ5(日本じゃマッハ号だったのに向こうじゃマッハ・ファイブと呼んでいた)の出番はおわり。

 最終グランプリには、スピード一家総出で、スーザン・サランドンママのアメリカではよくある、ママの愛情とコレステロール満載のジャムたっぷりパンケーキを食べながら、三十二時間で作り上げたシングルシート・タイプのマッハ6が出場する。

 しかし、シングル・シートじゃミッチ(じゃない、ドングリ眼のクリスティーナ・リッチ演じるキュートなトリクシー:好きです)とのデートもできゃあしないし、クリ坊&サンペイ(なんか英語名忘れたな)が、トランクに隠れることもできないじゃないの。

 やぱり現実的には、レースと言えばF1がメジャーであるから、未来においてもサーキット・コースが、最終グランプリコースになってしまうのだろうねぇ。

 そこんとこ、ちょっと頭が堅かったかな。

 本当に原作を敬愛するなら、最後もラリーでいってほしかった。

 どうせ未来の話じゃないの。

 積んでいるエンジンも、ベルヌーイ製のコンバーティネーターと称する、なにやら超伝導エンジン、つまり無煙電気エコエンジンみたいなんだから、レースのほうも、自然を駆け抜けるラリーが「キング オブ レース」になっていても不思議じゃないと思うんだがね。

 ホント、なんかあのグランプリが気にいらんのよね。

 ちゃちい鉄骨組み合わせたみたいなスケスケ・コース

 そりゃ最大斜度45度以上の下り坂とか、ぶつかったら一発オシャカのトゲトゲコースとか、魅力的な仕掛けはいろいろとはあるけれど、なんかねぇ。

 今なお、おもちゃ屋で販売され続けている、数種類あるレース・トイ(ホイールではじき出されたレースカーがレール上を走り回り、最後は空中に飛び出して、再びコースに戻っていく:商品名:ホットウィール・スピードレーサー・マッハグランプリ・スカイジャンプ)を売らんがための、設定のような気さえしてくる。


 まあ、その辺の事情は、日本の特撮モノとは違うと思うが……。
 (恥ずかしいから、ちっちゃい声でいうが、なんかこのコース欲しくなったな。イイトシして情けないが。しかし買っちまうと邪魔になるだろうな)


 前に書いたけど、ジョン・グッドマンって凄いねえ。

 何をやってもアニメ顔そっくりになってしまう。

 ベーブ・ルースも似ていたが、ヤバダバドゥーのフリントストーンもそっくりだった。
 そして、今度はあろうことか、日本人の三船オヤジにそっくりになってしまったのだ。

 たしかにタツノコの登場人物は、意味もなく純粋日本人の目が青かったりするが、あれはちょと異常なぐらい似ている(アゴの肉とかさ)。


 ともかく、スピード・レーサー。

 絵柄で毛嫌いせず、ぜひ一度観て欲しいものだ。
 


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2008年9月 4日 (木)

〜ハンコック〜 今になって気づく 若い頃わたしは孤独だった




 チャールトン・ヘストン主演、エリナ・パーカーヒロインの映画に「Naked Jungle」:邦題「黒い絨毯」という作品がある。

 ブラジルの奥地で、数十年に一度、すべてを覆い尽くし喰らいつくす蟻の大集団(マラブンタ)と闘う男の話で、わたしの大好きな作品だ。

 まあ、一種のパニックものであるが、この映画のアクション部分が好きなわけではない。

 時代は二十世紀の初頭、赤貧の中から単身南米に渡り、命をかけて大プランテーションを作り上げた男が、アメリカから花嫁を迎えるところから始まる。

 物語は、男に一度も会うことのないまま花嫁(エリナ・パーカー)となったヒロインの視点で描かれる。

 美しく教養もあり、男勝りなヒロイン(といったって、イマふうののガサツ女には描かれてはいないよ、凛とした芯の強さね)の目に映る男は、一見、精悍で傍若無人、超のつく自信家で乱暴者であるが、それは繊細で純情、夢想家の内面を隠すための仮面であることを、聡明な(そして若すぎない)彼女は、すぐに見抜いたのだった。

 ジャングルのまっただ中に建つ豪邸の、膨大な蔵書数を誇る書斎で彼女は尋ねる。
「誰の作品がお好き?」
「知らない。読んだことがないんだ。アメリカに金を送って、本を五百キロ送るように頼んだだけだ」
「それは嘘。本に細かい書き込みがいっぱいしてあるもの」
「……その通りだ。全部読んでいる。だが、この土地では、本が好きというだけでナメられる。ナメられたら命が危ないんだ」

 一目でヒロインに惹かれる男。
 だが男はヒロインが寡婦(つまり再婚)であったことを知って彼女を拒絶する。

「この家は新築だ。来るべき花嫁のために建てた。ベッドもカーテンも新品。このグランドピアノも新品だ。誰も弾いたことがない。それに……他の男は土地の女を買っていたが俺は嫌だった。そんなことはしたくはなかったんだ。周りの者は俺をバカだと思っていただろう。だが、俺は、俺の周りをまっさらなもので満たしたかった。だから、そうした。全てが新品。ただ、花嫁以外は」
 裏切られた思いに顔を歪める男に、ヒロインは決然と言い放つ。
「音楽をする人なら必ず知っています。ピアノは弾くほどに良い音を出すことを。このピアノは良いピアノとは言えません」
「とにかく、次の船でアメリカへ帰ってくれ」
 そこでエリナ・パーカーは、哀れみの目で男に言う。
可愛そうに。なんて孤独な人……

 そう、これは孤独な男の話なのだ。
 そして、どうやら、わたしは孤独な男の話が好きなようだ。


 もうひとつ。
 コナン・ドイルの(ホームズものでない)短編に、力も金も権力もある田舎貴族の暴君の話がある。

 大男で乱暴者で誰からも恐れられていた貴族は、ある女性に恋をして変わった。

 それまでの乱暴さが影を潜め、荒ぶる魂を抑えるようになったのだ。

 やがて、女性は病気で死ぬ。
 死ぬ直前まで、彼女は、夫の行く末を案じていた。
 彼女は、自分が彼の外部良心、ピノキオに例えればコオロギのジェミニィ・クリケットであることを知っていたのだ。だから自分の死後、夫が元通りの乱暴者になることを恐れた。
 周りの者もそれを恐れた。

 しかしながら、妻の死後も、人々の危惧した変化は起こらず、彼は静かなままだった。

 ただ、以前より無口になり、一日に数時間、妻が暮らしていた塔で過ごすようになっただけだ。

 ある時、青年が屋敷を訪れる。
 彼は屋敷内を歩き回るうち、塔から女性の声が聞こえるのを耳にした。
 暴君に尋ねても要領を得ぬ解答しか得られない彼は、やがて声の女性が閉じこめられていると判断し、塔に忍び込むのだが、事実は……という話だ。

 わたしは、この男の孤独さに胸を打たれる。
 孤独ゆえに暴君となり、それを自覚することを否定して絶望し、さらに孤独となる悪循環。


 余談になるが、わたし個人としては、外部に自分を律する規律を持つべきではないと考えている。

 願わくば、行動の基本ルールは自分の中に持っていたいものだ。



 さて「ハンコック

 この映画も孤独な男の話だ。

 例えて言えば、ロイス・レーンのいないスーパーマン。
 J.Jをなくしたスパイダーマン。

 孤独でガサツで乱暴者で、アル中のスーパーヒーロー。

 だが、魅力的だ。

 なにより、この男の孤独ぶりがいい。

 良心と善意で行う行為が、人々に認められず、年を取らない肉体と相まって孤独感を強め、荒れ続けている男。

 ちょっと悪人を懲らしめる行為が乱暴過ぎる点に制作者のあざとさを感じてしまうが、それはまあいい。

 自暴自棄になるほどに孤独なのだ、と納得することもできる。

 そう、結論から言わせてもらうと「ハンコック」はいい。

 ただし、前半だけは。

 後半になって、ハンコックが実際は独りではなく、彼より強い(いかにもイマドキ流行の、まるでターミネーター3やMR&MRSスミスに出てくるように乱暴者の、あんなのを見ていると、最近の女性は、オトコになりたがっているに違いない、と思ってしまう)スーパーガールが現れた時点で興味は失せた。

 それが、この映画の意外性だというなら、そんなものはいらない。

 男なら男、女なら女で、徹頭徹尾ただ独りの孤独なヒーローを創って欲しかった。



 どうも、W・スミス、あるいは彼のエージェントは、そういった孤独癖のある主人公が好きらしい。

 ただ、それも行きすぎると、「I am Regend」のような、観終わって「なんかスッキリせんな」という作品になってしまうのだろうな。


 そうそう、この作品の中で、印象に残った言葉は、ヒロインがハンコックに言う台詞だ。

「あなたは、神が地球のために残した最後の保険なのよ」

 あるいは、ハンコックの異常なまでの力は、地球そのものから得ている力なのかも知れない。

 そう考えるうち、ふと、関口シュンのコミック「地球力者ジーマ」を思い出してしまった。
 (地球力者というコトバを創り出した時点で、わたしはこの作者を尊敬しているのだ) 

 彼は、ガイア理論のいう、生命としての地球が渡すエネルギーで不老不死・不死身な男、なのかも。
 (スーパーマンは太陽系の黄色い太陽エネルギーのおかげで不死身なのだった)

 いずれにせよ、ハンコックはスーパーマンから生まれたヒーローであることに違いはない。
 (サイトで観ても、今はやりのマーベルものではなさそうだし、オリジナルなんだな)

 スーパーマンにとって、彼の力どころか命さえ奪う故郷のカケラ:クリプトナイトが、ハンコックにとってはアレだったのだな。(観た人はお分かりでしょう)

 しかし、今回のは敵が一般人で、弱すぎたな。

 かといって、銀河からやってきた悪の尖兵(ファンタスティック・フォー2)っていうのじゃ、ステロタイプ過ぎるしね。

 続編があるなら、敵作りが難しいだろうね(作らないかもしれないけど)。


 私のおすすめ:
ジョン・パウエル(音楽)/オリジナル・サウンドトラック ハンコ...

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