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2008年5月

2008年5月31日 (土)

オリジナル−復刻版=歴史の重み 〜平成の玉虫厨子〜

 この三月から六月末日まで、奈良県斑鳩町の法隆寺で『特別公開「法隆寺秘宝展」春季 』が催されています。

 この秘宝展、目玉はなんといっても「平成の玉虫厨子(たまむしのずし)」でしょう。 

 しかし、「玉虫厨子」……。

 ほとんどの人は、歴史の授業で、その名を聞いたことがあるでしょうが、それがどんなものか、すぐに思い浮かべられる人はどれぐらいるでしょうか。

 私も小学校だったか中学校だったがで習ったはずなのですが、その姿形は、まるで覚えていませんでした。

 お恥ずかしい話ですが、そもそも厨子なるものが、具体的にどんなものなのかさえ、はっきりとは知りません。

 たしか「安寿と厨子王」なんて話もありましたが…… 

 ためしに広辞苑で引いてみると、


【厨子】(本来厨房において食品・食器を納めた棚形の置物)
1.仏像・舎利(しやり)または経巻を安置する仏具。両開きの扉がある。
                     [図]厨子2→玉虫厨子(図)。
2.調度・書籍などを載せる置き戸棚。棚の一部に両開きの扉をつけてある。厨子棚。
3.屋根裏。天井裏の物置場。つし。


とあります。

 乱暴にいってしまえば、開き戸のあるモノイレというものが厨子なのです。
 ここで、ちょっと驚いたのは、厨子の例として「玉虫厨子」の図まで用意されていることでした。やはり玉虫厨子は厨子のトップランナーなのです。
 もっとも、ご存じのように広辞苑の図版はお世辞にも写実的とはいえないものなので、図をみても、さして感銘は受けません。

 よほど歴史に造詣が深く、古代史に特別な思い入れを持っている人ならばともかく、正直なところ、実際に本物の玉虫厨子を見ても、それほどの衝撃は受けないでしょう。

 昨年、知人を案内してオリジナルを見たのですが、それが正直な感想でした。
 全体に黒ずんで歴史を感じさせますが、それだけのこと。

 あたかも、兼好法師が徒然草152段において、資朝卿(すけとものきょう)[日野資朝]をして、年老いた高僧を「年の寄りたるに候ふ(ただ年をとっているだけだ)」とバッサリ切って捨てたように、わたしには、ただ古いだけの入れ物に過ぎないように思えたのです、が……。


 さて、ここからが本題です。

 みなさん、玉虫厨子が、なぜ厨子の前に「玉虫」がついているかご存じでしょうか?

 それは、厨子のまわり、正確に言うと彫金の下に、美しく妖しく輝く玉虫の羽を張りつけた故のネーミングなのです。

 ただ、経年劣化で羽は黒ずみ、厨子に張られた彫金の下の黒っぽいものが、玉虫の羽であると言われても、それがどんなものか想像できなくなっています。

 さぞや昔は美しかったことだろう、と、これもまた想像力豊かな人のみが感動できる国宝になっているのです。




 しかし、幸いなことに、この6月末までに特別展に行った人は、燦然と輝く本当の玉虫厨子を見ることができます。

 というのも、岐阜県高山市で造園業を営んでいた中田金太氏(故人)らが、日本の伝統芸能をカプセル化して保存するために、1400年前の厨子を現代の技術で甦らせたからです。

 その考えに賛同した職人たちがプロジェクトに集い、約4年がかりでよみがえらせた厨子は二基あります。
 一基は飛鳥時代の技法で制作した「オーソドックス版」と呼ぶべきもの、もう一基は高蒔絵(たかまきえ)など現代の技法を随所に用いた「プログレス版」と呼ぶべきものとなっています。

 特に、プログレス版(私の勝手なネーミングですが)は、実際の厨子では、ただのペイントで描かれた扉の画を、貝殻を埋め込む螺鈿(らでん)に似た蒔絵手法で玉虫の羽を埋め込み、燦然と輝かせています。
こちらのサイトにわかりやすい写真があります。




「平成の玉虫厨子」は高さ約2.3メートル。
 案外、大きなものです。
 そして、二基に使用したタマムシの羽は約4万3000枚(約2万1500匹)。総勢約4000人の職人が参加し総費用は1億円を超えるといいます。

 このオーソドックス版とプログレス版を、同時に並べて見ることのできるのが、この特別展の最大のメリットです。

 展示が終わると二基は別々の場所に展示され、一堂に会する機会が今後どれほどあるか分かりません。



 復刻版の玉虫厨子を見た後、その足でオリジナルを見ました。

 今度ばかりは、歴史的想像力が欠如している私にも、その黒ずんだ下に隠された、かつての美をはっきりと感じることができました。
 その黒ずみこそが、かつての「輝き」を覆う、千数百年の歴史そのものなのだと改めて気づかされたのです。

 人の洞察力は弱く、目に見える美しさしか認識できないことが多いものです(私だけかもしれませんが)。

 しかし、現代の技術、努力で、本来の古の美を再現すると、それを見ることで、年を経た宝物の過ごしてきた時間を感じることができるのです。

 私にとって、それは新鮮な驚きでした。


 あとひとつ。

 余計なことと叱られるかも知れませんが、気になったことを……

 平成の厨子の周りの陳列ケースには、厨子から写し取られた図案が展示されています。

 その画は、紙に写されたものを見ると、ヘタウマというか、はっきり言ってあまり写実的ではありません。

 お釈迦様(ブッダ)が、前世で飢えた虎に我が身を投げ出す姿を描いた「捨身飼虎図」では、虎か猫か分からないくらいです。(さらに言うと、ブッダは、ちびまるこに出てくる花輪君に似ている……)

 しかし、これがひとたび厨子上に描かれると、まったく印象が変わってくるから不思議です。

 一見稚拙と思われた図案が、まるでところを得て命を吹き込まれたように、活き活きとして見えるのでした。

 二次元と三次元(ちょっとだけ立体ですね)、紙描きと埋め込みの差によるものかもしれません。


 余計なことを書いてしまいましたが、そういった図案の批評をしつつ、平成の玉虫厨子をご覧になるのも一興かと思います。

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2008年5月23日 (金)

全てのダイモンとともに 〜ライラの冒険〜 黄金の羅針盤


 公開直後に観てから、もうずいぶんと時間が経ってしまったが、「ライラの冒険」について、感じたことを書いておこう。

 わたしは、もともと、こういったファンタシーに関して特に興味は無い。

 実際に、連綿と歴史で形作られてきた魔術や導術に関して造詣が深くない者が書いた魔法世界モノ(多くの和製ジュブナイルやライトノベル、著名な外国作品でさえ)は、浅薄すぎて読むに堪えないし、そういった知識を持ちすぎた作者が書いたハナシは、知識の呪縛から逃れられずに、思い切ったプロットを作り得ず、全般に類型的なものになってしまいがちで、どちらにせよ、おもしろいものは少ないからだ。

 原作は知らず、映画を観る限りでは、本作もその傾向から免れていない。

 主人公ライラは、決して一般的な美形ではないから、美しい生き物が伸びやかに動く様を鑑賞する、といった映画の見方はできない。

 だが、映画が始まると、そんな不満はどこかに吹っ飛んで、すぐに胸中に鮮やかな感動が広がっていった。

 その理由は三つある。

 ひとつはダイモンだ。

 オープニングのモノローグで説明されるように、我々の住む世界では、魂は肉体の内にあり、外から見ることはできないし、切り離すこともできない。

 だが、ライラの世界では、魂はダイモンと呼ばれ、動物の形をとって常に人間の脇を歩いているのだ。


 つまり、否応なくあらゆる人が、ひとりに一匹の動物を従えて、町を野を部屋を歩いている。

 その魂の性格に見合った動物を。

 小柄な人物が巨大な虎を連れていることもあるし、大男が小さな猿を従えていることもある。

 問題は体格ではなく魂の性質なのだ。

 これが良い。

 全ての人間が、様々な種類の動物をひきつれ、道を歩いている。壮観だ。

 この景色を見るためだけでも本作を観るべきだ、といいたいくらいだ。



 少し気になったのは、悪の側の目的、動機がよくわからない点だ。ダイモンを人から切り離そうとしているのは分かるが、その理由がわからないことだ。

 いまのところ目的が不明。


 だが、「目的がよくわからない」ということは、この映画の疵にはなっていない。

 以前に、どこかで書いたかもしれないが、ゲド戦記でゲンナリしてしまったのは、悪役の魔女?が、彼女の最高の望みは不死の命だと叫んだことだった。

 あれには驚いた。

「そんなものが、その程度のモノが望みなのか」と。

 ヒトゲノムに知識のメスが入り、科学的な不老不死化が現実味を帯びてきた現代において、不老不死はそれほど高望みではない。

 それよりも、ひも理論によるミクロとマクロの融合、言い換えれば巨大なブラックホール内の極小な事象の解析、大きくて小さい出来事の解明の方がはるかにエキサイティングだし、ミステリアスだ。

 原作が書かれた年代を鑑みても、やはり、ゲドの作者のセンスの悪さは否めない。

 「この世の全ての事象を知り尽くしたい」という希有壮大な野心や、いっそもっと下世話に「世界を征服して人々を意のままに支配する」といったコテコテの野心の方が好感が持てる。


 不老不死などと、カビの生えたような目的を声高に叫ぶより、不明にして引っ張った方がおもしろい。


 この映画に関してもうひとつ感じたのは、絶滅を危惧されるホッキョクグマをライラのボディーガードに設定したのは正解だ、ということだ。

 後に、クマ王の座を賭けて行われる決闘は大迫力。

 敵の王(ホッキョクグマ)が、人間同様のダイモンを欲しているという設定も良い

 ライラの世界では、人だけが、動物の形をしたダイモンを傍らにはべらすことができるのだ。

 ライラはそれを利用して、ダイモンに化け、クマ王を陥れようとする。



 さらに、ライラを助ける老ハンター(クリストファー・リー)の恋人である若い魔女が、「昔の彼は本当に若くて力強くて美しかった」とライラに告げるところも良い。

 年を取らない魔女が、年老いてなお勇猛なかつての恋人を助けて闘うのだ。

 ストーリー自体は、ややもすれば陳腐になりがちなものではあるが、このように、設定がタッテいるために、観ていて飽きるということがない。

 我々の世界を舞台とすると言われている第二作が楽しみだ。



 ところで、黄金の羅針盤って何の意味があった?

 なんだか予知アイテムみたいな使われ方だったが……


 私のおすすめ:
ライラの冒険 黄金の羅針盤 コレクターズ・エディション(2枚組)

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2008年5月 4日 (日)

どうすりゃいいの ヤルッツェブラッシン!

 半年ほど前から、前歯下の歯の付け根に出っ張りができた。

 なんだかよく分からなかったし、忙しかったし、特に痛みも無かったし、いや本当のことを言うと、歯医者が嫌い、というか、医者全般が嫌いなので、放っておいたら、左下の歯の付け根にも出っ張りができた。

 これも特に痛みはないが、舌で触ってみると、明らかに、かなり出っ張っているので、ついに意を決して歯医者に出かけることにした。


 本当のことを言うと、歯医者に行くのが嫌だった一番の理由は、もし診察されてしまったら、あそこにも虫歯がある、ここにもある。そしてこっちは歯周病、などと恐ろしい指摘をされてしまうのでは、と、それが恐かったのだ。

 なんせ、もう八年近く歯医者には行ってない。


 子供の時に随分不摂生をしたので、かなりの歯が補修されている。つまり、わたしは、虫歯になりやすい体質(生活習慣?)なのだ。たぶん。


 おそるおそる診療台に座ると、顔見知りの歯医者は、ヘラのようなもので頬を外へ押し広げつつ、よく分からない符丁で歯の状態を読み上げていく。

 ついで、針のようなもので、歯茎を突っつきはじめた。

 痛みはそう感じなかったが、すべての歯の下の歯茎を、針で突っつきまくられたのには閉口した。


 調査後、口をゆすぐと、大量の血が出た。夥しい鮮血が排水口に流れていく。

 本当に歯周病の調査に、こんな暴挙が必要なのだろうか?

 釈然とせずに口元を拭いていると、

「やはり、以前に被せた樹脂がとれています。両方とも。他に虫歯はありません。歯周病も大丈夫です」

と、信じられないお言葉。

 ずっと若い時分ならともかく、今や、おまえも同世代の多くは歯周病があるトシなのだと、テレビでも新聞でも雑誌でも脅されていたからだ。

 うーん。やはり、寝る前に20分ほど歯ブラシをくわえて磨いている成果が出たのだ、と喜んでいると、

「被せたのが取れたのは、歯を磨きすぎるからです」

 え、そうなの?歯ってしっかり磨くのが吉、じゃないの?

 子供のころから、そう言われて育ったんだがなぁ。

「歯ブラシは、一番柔らかいものをつかって、ブラシの先が、軽く歯に当たるようにしつつ、左右にブラシが軽くしなる程度に往復させてください。エンピツ持ちで」

「一番細く柔らかいヤツで、エンピツ持ちでは磨いているんですがねぇ」

「では、大きく動かし過ぎです。だから、被せた樹脂が壊れるのです。そもそも、最初に歯の側面が虫歯になったのも、強く磨きすぎて表面が削られたからです。ゴシ、と音がなったら磨き過ぎ。音が鳴らない程度に小刻みに動かしてください」

 え、だって8年前に治療した時、あんた、そんなことを言わなかったじゃないの?と、すっかり頭が白くなった歯医者に向かって、腹の中で毒づいたのだが口には出さなかった。



 しかし、歯磨きというものに対する不信感は強まった。

 だいたい、子供の頃、最初に歯みがきを教えられた時は、ブラシを縦に動かすように言われたのだ。

 しばらく経つと、一本あたり10回程度を目安に横方向に磨く、というように変わり、

 そして、今、ブラシを動かすな、と言われた。


 聞くところによると、水泳の泳法は、四年に一度、オリンピックがある度に小刻みに変えられるそうな。

 つまり、より早く泳ぐために科学的な泳法が試され、開発され、それが一般にフィードバックされて、泳法が変化するのだ。


 すると何か?

 歯ブラシにもオリンピックがあるのか?四年に一度変わっているのか?

 そもそも、いったい、どこの誰がブラッシング法を変えているのだ?

 今は、教えられた通りに磨いていたとしても、しばらく経ったら、より良いブラッシング法が出てくるのではないのか?

 そう思いながら、ちょっと磨いては、エナメル質が減っていないかと心配し、これくらいにしておこうかと思っては、磨き足りないのではないか、と、汲々としながらブラッシンする今日この頃なのであった。

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2008年5月 3日 (土)

柳腰(やなぎごし)ならず 〜おせん〜


 昨年来、ドラマの録画を頼まれるようになって、民放のテレビドラマを観ることが多くなった。

 この「おせん」も、はじめ、何の前知識も無く録画し、うまく録れたかチェックするために流し観したのだが、原作者が、あの「獣王バイオ」の(せめて「(三四郎)2」っていうべき?)きくち正太であることを知って原作を読んでみた。

 よせばいいのに。

 で、久しぶりに、ちょっとショックを受けました。

 いまさら、こんなことを書く必要もないと思うが、テレビになるとどうしてあんなに原作を無視したひどい出来になるのだろう。

 多くの、良心的で才能あるドラマの作り手が嘆くように(最近ではそんなセンスも持たない脚本家もいるんだろうが)、よい原作は、テレビドラマ化するとたいてい駄目になる

 スポンサーのついた(つまり金主{きんす}の意向を汲まねばならない)、不特定多数を対称とした「てれびどらま」に何を期待しているのかと笑われそうだが、あらためてそう感じてしまった。

 今回の「おせん」、もっとも駄目なのは脚本だ。ついで演出もひどい

 たとえば、次のようなシーンがある。

 朝、狂言回しの青年ヨシオが、酒好きの仙の部屋を開けるなり後ろへのけぞり、「ウヘェ、酒くっせぇ〜」

 そりゃないんじゃないの。

 在りし日の景山民夫が嘆いたように、最低の演出というのは、かかってきた電話をとった刑事が、

「ん、何だって、港区の公園で、ああ、三十代の、うん、絞殺死体が見つかった。わかった、すぐいく」

などと、説明過剰というか、すべて言葉で説明だけするものだ。

 こういったやり方は、昔のテレビドラマでよく使われた。

 さすがに、最近は、こういった『演技とカメラワークでなく、単に言葉で説明する』貧困演出はなくなったと思っていたのに、まだこんなところで生き残っていたんだなぁ。

 まるで、出来の悪いコントだ。
 いや、コントについては、最小の小道具で、話を進めなければならないから、仕方がないところもある。

 だが、ドラマには、豊富な大道具、小道具、そしてカメラワークがあるのだ。言い訳はできない。

 せめて、

 ヨシオ、障子を開け、ほんの少し顔をしかめる。
 コタツのアップ。そこには数本の徳利、床には一升瓶が転がっている。
 『また飲んだんですか?』
 ヨシオ、障子を大きく開けて換気をしながら、呆れたように尋ねる

 ぐらいの表現はできないのかねぇ。何でもないと思うが。

 「ウグゥッ、酒くっせぇ〜」って、地方ミニFM局制作のラジオドラマじゃないんだからさ。




 作り手から言えば、「紙メディア」「テレビ放映」もっとも大きな違いは、放送が垂れ流しで、ナガラ観することができるメディアなのに対して、小説やコミックは読者自らがページをめくらなければならないという点だ。

 これはよく言われることだが確かに事実だ。
 たかが紙一ページをめくる労力。
 されど、その手間はテレビをつけて垂れ流しにするのと天と地ほども違う。

 もちろん、それより重要な違いは、雑誌などの場合、食堂においてあるものを読む場合を除いて、読者が金を払ってそれを手に入れるという点ではあろうが。

 だから、漫画家も小説家も内容を吟味し、中身で勝負する。
 ツマラナイ作品に金を出し、ページを繰ってくれる人がどこにいる?

 だが、テレビは垂れ流し、暇つぶしのメディアだ。
 視聴者のほとんどは、これから作品に接するのだという意識が(気づいていようと無自覚でろうとなかろうと)無い。

 それゆえ、テレビドラマは、とにかくアイ・キャッチ中心の、奇をてらったものになってしまう。目を引きさえすれば良いのだ。
 
 お笑い芸人の多くを占めるコント集団と同じ過ちに陥ってしまっているのだ。

 その最たるものが、コマーシャルだ。

 矍鑠(かくしゃく)とした威厳ある老人を登場させ、次のシーンで水着姿の女性に飛びつかせる。

 あるいは、子供や女性を並べて、意味不明で妙な踊りを踊らせる。

 だから、振り付け師がもてはやされる。

 常識の破壊による不安感につけいるのが、アイ・キャッチ手法だから。

 そうではない作品もあるのだが、どうしてもそういった駄目な作品に目がいって、がっかりしてしまうのだなぁ。

 だから、もう何年も前から民放テレビは意識的に観ないようにしていたのだが、最近は録画を頼まれているから、そうもいかない。



 話をもとに戻そう。

 原作では、ただのボンボンである主人公(というか狂言回しだな)の青年を、ドラマでは、野心家でホンモノ志向(それも上っつらだけの)である単純バカとして描いているが、その意図はなんなのだろう。

 先輩料理人との仙に対する「恋のさや当て」ってのも理解できない。
 どうやら、脚本家は、男と女が同じ職場で働けば、二秒で恋が芽生える思いこんでいるらしい。

 え、実際、そうなのか?だからそれを反映しているの?そうだとしたら、恐ろしいことだ。

 だが、少なくとも、原作者はそうは思っていない。

 ヨシオには恋人が居り(ま、あとでフラれるけれど)板前にも好きな女性がいる。

 ドラマの制作側は、きくち正太が描こうとしている世界観をまるで尊重していない(あるいは分かっていないのか、まさかな)。

 他に、あきらかに配役のミスがある。

 骨董屋のオヤジが、渡辺某というのは明らかにおかしい。
 もっと無骨な男でないと、後のエピソードに差し障りが出てくることもあるだろう。
 寡黙な大男だからこそ味の出る話が多くあるのだ。
 ひょろっとして洒脱な小男ではまるで印象が違ってしまうのだ。それは、演技云々の問題じゃない。

 主役にしても、半田仙のボンヤリしていながら、時として凛とした姿勢をしめす演技ができていない。

 役者の名前はあまり知らないのだが、ドラマの仙は、ふにゃふにゃと気持ち悪いだけの軟体生物のように見える。例えて言えば、大林監督「ふたり」における石田ひかりみたいな感じかな(あれはそういうつくりだから良かったが)。

 おそらく、きくち正太が描こうとしているであろう、柔らかそうに見えて、中にしっかりと一本芯の通った(たぶん江戸前の気質の)柳腰の女がまるで表現できていない

 以前、友人にその話をすると、
「無料(タダ)のものに、なにを期待してるの?」
と、まっぷたつにしてしまった。

 まぁ、それはそうなんだけど。

 本当にテレビドラマは駄目だなぁ

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猫のいる風景 〜フリージア〜

 昔から、リンドグレーンの「名探偵カッレくん」が好きだった。

 特に好きなのは、物語の冒頭、気だるく退屈で暢気な昼下がりの街角を、冒険がしたくてたまらない主人公カッレ少年が眺めているシーンだ。

 退屈でたまらない探偵志望のカッレの前を、靴屋の太った猫がゆっくりと横切っていく。行ったことのないスウェーデンという国の、空気の匂いが感じられる素晴らしい描写だ。

 良い人生とは?、と尋ねられてもわからない。

 良き人とは?、と尋ねられても同様。

 しかし、良い街とは?、と尋ねられたら即座に答えることができる。

 それは、太った野良猫がゆっくりと通りを横切っていくような街だ。

 英国でも米国でも、美しい田舎町では、通りを猫がのんびり横切っていたものだ。


 では、悪しき街とは?

 当然、その逆。

 つまり猫が一匹もいない街


 それがつまり「フリージア」の世界だ。(コミックのはなし、実写は観てないから知らない)

 すでにご存じだろうとは思うが、「フリージア」は、仇討ち法が制定された近未来日本のハナシだ。





 画は、昔からあったものの、「セクシーボイスアンドロボ」のように、最近特に目につくようになったフリーハンド調の雑いもので、慣れるまで読みにくい。

 内容は、ひとことで言えば気色悪いサイコ・ストーリーだ。


 登場人物全員精神を病んでいる(それが現代人?)。

 それはもう、あたかも「健康なヤツも、ただ『健康』という病気にかかっているだけだ」と言わんばかりのイキオイだ。


 好悪だけで考えれば、決して自らすすんで読まない作品である。


 内容も、一貫性のない、いわゆる流れの悪いストーリーで、設定の荒さが目立つ。


 インパクトの強さに惹かれる人もいるようだが、衝撃だけを求めるなら、笑いながら自らの指を刃物で切り落とすようなハナシを読めばいい。

 極端な自傷行為は、常に自己防衛する生き物にインパクトを与えるものだから。

 だが、そんな話がおもしろいのだろうか?

 わたしには、よくわからない。



 ただひとつ、気になったのが、フリージアの舞台が、上記の「猫のいない街」であることだった。

 なぜ猫がいないのか?

 駆除されているからだ。

 では、なぜ駆られるのか?

 近未来の日本では、猫インフルエンザが流行しつつあるからだ。


 ウイルスの媒介となる猫は、野良猫であろうが飼い猫であろうが、片端から駆られ焼却される。


 作者のセンスを、唯一感じるのは、この病気の流行を、あまり本筋には関係ないといった体で、新聞記事やテレビニュースなどで『猫インフルエンザの感染者7名に』などとしている点だった。

 実際に、すでに猫には猫だけに感染する「猫エイズ」という病がある。

 猫インフルエンザが出ても何ら不思議ではないのだ。


 「フリージア」、ストーリー自体は、ただのサイコものでたいして語ることはない。

 主人公は、記憶障害を抱えたサイコ野郎だ。

 仇討ち法自体は、よくある内容だが、魅力的な設定ではある。

 作者が、安易にサイコものに走らずに、健常な主人公が異常な仇討ちと関わっているうちに、いつしか人間性を失い、理性にも蔭りが広がっていく、といったストーリィにすれば、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」的良作になったかもしれない。

 今、精神を病む者は多い。そして、世界は陰惨な事件と出来事であふれている。

 だから、それをあらためてコミックにしても、真の陰惨さを知らない子供たち(あるいは大人コドモ)には、インパクトの強さで受けても、ただそれだけのものとなるだろう。作品としての成熟加減とは無関係だ。


 こういった作品に人気があるというのも時代なのだろうか。

 本作の好きな人は、「ホムンクルス」や「殺し屋イチ」、はては「バクネヤング」なども好きなのだろうな。

 まさか、抑圧された社会生活で歪みつつある自分の精神を、マンガのサイコと重ねて「あるある」と納得しているのではないだろうねぇ。

 たぶん、違うと思うが、そういった人が多いならば、それは社会にとっては少々アブナイことだ。



 かつて、沢木耕太郎が、そのエッセイで書いたように、人には大きく分けて二通りある。

 本来あるべきハードルを簡単に越えてしまうものと、越えられない者と。

 たとえば、それは、金が欲しければ簡単にヌードになり体を売ってしまう女性たちであったりする。

 本来、かなり高いハードルであったはずの羞恥を、彼女たちは簡単に越えてしまうのだ。
 おそらく、そんなことぐらい大したことじゃないよ」という、社会認識に後押しされて。



 フリージアの登場人物たちが越えるハードルは殺人だ。

 仇討ちの助っ人として殺人を許可されている彼らは、銃を使い、敵とその警護人たちを殺す。

 だが、彼らの精神の危うさは、容易に、その銃口を仇討ち以外の一般人に向けてしまうのだ。

 そして、「一般人は傷つけない殺さない」というハードルを容易に越えてしまう。


 といった、いかにも、猫のいない陰惨な街にはお似合いのストーリーなのだが、さきに書いたように、もし、読者が、彼らと自分を、たとえ緩くであっても重ねているならば恐ろしいことだ。

 この手の作品に惹かれる、ということは、無自覚であっても、自分の心の闇と重ねていることが多いものだから。

 登場人物たちが、いとも簡単に、殺人というハードルを越えてしまうのを読んで、彼らがその気にならないとも限らない。

 さきのストリップ嬢同様、マンガの世界観に後押しされて。
 



 閑話休題、フリージア世界の人々の精神を歪ませている要素の一つに、近未来の日本が戦時下であるということがある。

 しかも、負け戦。

 徐々に敗戦色が濃くなる戦時下故の精神不安ということだろうか?


 だが、大東亜戦争(世界史的にみれば第二次世界大戦)下の日本において、そのような奇妙で大規模な集団精神異常は発生してはいなかった。

 もちろん、田舎や局地的なものはあったかも知れない。

 戦に負けて占領され、敵兵に殺されるくらいなら、まず自分が殺人者になった方が良いと考えた者もいただろう。

 あたかも、イジめられる前に、イジめる側に回ったほうが良いと判断する中学生のように。



 まあ、確かに、当時も日本人お得意の集団ヒステリーは存在しただろうが、世情不安であるがゆえに、戦時下に同国人同士を殺し合わせる、という政策は、まずあり得ない。

 為政者たちは、危機に臨(のぞ)んでは国民に一致団結を望むからだ。
 
 あるいは、フリージアの最大の欠点は、その設定にあるのかも知れない。

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