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2007年12月 6日 (木)

残酷な美しさ

 先日、京都国立博物館でやっている狩野永徳展に出かけた。

 昔から、京都という土地には特に思い入れもなく、どちらかと言えば好きではない場所なのだが、久しぶりに出かけるのだから、ついでにどこかに寄ってみようと思い立ち、おもいっきり京都らしい場所ということで?太秦の映画村に寄ってみた。

 以前に行ったのは、二十年ちかく前だから、さぞかし変わっているだろうと思っていたのだが、思いの外変化は少なく、以前と同じように楽しめた。

 最近流行のアミューズメントパークとは違い、奇をてらわない展示方法に好感が持てる。

 もっとも、映画村は、遊園地にではなく、「村」という名前が現すように(明治村、リトルワールド同様)文化施設に分類されるべき場所だから、奇をてらった展示などしようが無いのかもしれない。

 その風貌、言葉から、南米から来ていると思われる団体が、日本橋の前で、実際に役者である同心と並んで刀を振りかざし記念撮影をしていた。

 よく忍者モノで使われる屋根裏セットを低い位置から見ることもできるし、ふざけて大江戸裁きのお白州に跪(ひざまず)くこともできる。

 芝居小屋では、蝦蟇の油売りの口上を聞くことができた。




 充分に楽しんだあと、太秦を三時過ぎに出発し、博物館に向かった。
 混雑する京都市内を抜けるのに、思いの外時間を取られ、京都博物館に着いたのは四時過ぎになる。

 博物館横のパーキングエリアに車を停めて、表門から中に入った。

 閉館六時で、入館は五時半までなので余裕だと思ったらとんでもない。
 建物の前に、かなり長い列ができていて、館員が三十分待ちと繰り返し叫んでいた。



 で、その内容だが、結論からいえば、先日行ったサントリーミュージアムの「ロートレック展」の方が客の質も含めて数段良かった。

 狩野派の主要作品は、派手好きだった秀吉が治世した時代を反映しているとはいえ、ただケバケバしさが目につく金箔張りの作品が多いのだ。

 しかし、さすがに洛中洛外図は、金色の霧に見え隠れする都の景色が素晴らしく重厚で、派手さを越えて、幻想感すら感じさせる迫力があった。

 それだけに人混みは尋常でなく、作品の前を(主に老人たちの)頭が右から左へゆっくりと機械仕掛けのように動くため、離れてじっくりと眺めようとしても下の方を観ることはできなかった。

 洛中洛外図周辺には、館員がいて「立ち止まらずに歩け」と催促するために、まだ人が流れていくのだが、それ以外の場所では、いたるところに人溜まりができている。

 作品をゆっくり眺めることな、到底できない状態だ。

 人溜まりの理由のひとつに、ガイドマシンを使う人が多いため、やたらと足を停めて作品を覗きこむ老人が多いということがある。

 あるいは、それは、近年、電車や駅で老人のヘッドフォン使用が多くなったことが関係しているかもしれない。
 以前は、唾棄すべきものとされてきた「ナガラ」が、便利だし楽だということで、彼ら戦後焼け跡世代の老人達に認知されてしまったのだ。
 人前で音楽を聴く、テレビを観ながら食べる、歩きながら電話をすることを彼らは認めてしまった。

 だから、じっくりと感覚を研ぎ澄ませ、ただ鑑賞すべき美術品を、テレビの美術番組よろしく解説を聞きナガラ回りたがるのだ。

 ガイドをレンタルしていない人も、一様に、作品ではなくその横につけられた解説に熱心に見入っている。

 彼らの多くは、説明を読んだ後、作品をさっと一瞥し通り過ぎている。

 後日、友人と会った時に高名な作品に関する蘊蓄を披露するために、あるいは、ただ歴史に名高い作品を、確かに目にしたと自分自身に証明したいだけなのだ。

 彼らの多くは、テレビの娯楽番組からではなく、確かに本物を目にしたという満足感が欲しいのだ。

 映像ではなく、本物を観れば何か得るものがあるという神話を信じている。

 だから、著名な作品が公開されれば、こぞって美術館に足を運ぶのだ。


 かつて、岡倉覚三が、その著作の中で、「休日には、人々が寄席ではなく美術館に足を運ぶような世界に冠たる美術国にしたい」と願った夢は、現実のものとなった。

 素晴らしいことだ。

 だが、現実に日本は美術王国にはなってはない。

 美術館は、国家の美術に対する興味と関心を示す指標とはなっても、その国の美術程度は反映しない。

 かつて、パリがアートの中心であった頃、パリジャンのほとんどは美術館に行けないほど貧しかった。

 芸術の多くは、美術館からではなく、カフェやバルでかたち作られたのだ。


 これは、山本周五郎が、その著「赤ひげ」の中で、遊女屋の悪徳遣り手婆に対し、「この女が悪いのではない、無知がいけないのだ」と主人公に嘆かせ、「人々に充分な教育さえ施せば、世の中の悲劇が少なくなるのだ」と断言させたことに似ている。

 だが、それは錯覚だ。

 現在、国民に対する教育は普及したが、それによって、人々が素晴らしくなったかというと、これはもう語る必要もないだろう。

 犯罪は相変わらず発生している、どころか肉親の絆も失われ、親兄弟による殺人は日常茶飯になった。

 確かに、その後の教育よろしく、文盲率数パーセントとなった日本は、一時、世界有数の安全な国になった。

 しかし、それは教育程度の高さによって明治期より犯罪が減ったのではなかった。
 
 単に、ムラ制度の残る五人組的告げ口体質が、警察組織の整備と相まって犯罪を抑止、検挙率を上げていたにすぎない。

 わたし自身を含め、人々の多くは、教育によって、美徳ではなく小賢しい理屈を身につけたに過ぎないのだ。

 審美眼も同様。

 人々は、テレビで有名な、あの作品を実際に目にした、という事実を手に入れたいと考えているに過ぎない。

 そして、それを助長しているのが音声ガイドだ。

 最近の美術展では必需品となっているが、「音声ガイド」というやつは、諸外国は知らず、日本においては、作品を多角的に評価するための道具ではなく、美術館を三流娯楽美術番組にするためのアイテムだ。

 わたしは、必ずしも音声ガイドを否定しているわけではない。
 かつて、英国のストーンヘンジで同様の日本語版ガイドを聞いたことがあるが、ああいった遺跡の説明としてはかなり有用ではないかと思う。
 おそらく、遺跡というものは、その性質上、年代やその成立過程が重要な要素であるからなのだろう。

 だが、美術品はちがう。ガイドは本来の鑑賞には邪魔だ。
 もし、それが必要ならば、あなたは実物など観ずにビデオを観るべき人なのだ。

 断言すれば、わたしも含め、あなたがたのほとんどは実物を観る必要などない。


 よく、愚か者が、ブランドものを指さして「良いものはやっぱりイイのよ」などという。

 確かに、「良いものは良い」、だが、問題なのは、オマエにそれを持つ値打ちがあるのか、ということなのだ。

 本当に、そのものの値打ちを知り、自分の身の丈を考えれば、それをそっとしておく知恵も必要だ。

 そのバッグは素晴らしい、でも、それは持つべき人が持てば良いのだ、と。

 世の中には、道具によって人が高められるという錯覚をもつ者がいるが、それはとんでもない盲信だ。

 (値段の)高い道具によって、人は堕落させられることはあっても、高められることなどあり得ない。

 真珠で飾り立てても、ブタは人にならない。


 美術品にも同様のことがいえる。 

 確かに本物は良い。素晴らしい。

 だが、解説を聞きながら、あるいは読みながらでしか観ることができないのなら、そういった人は、わたしも含め、美術館に行くべきではないのだ。

 美術品は、見せ物でも珍獣でもないのだから。
 
 美術館は、もっと観るべき人のために、混雑しない良い環境にしておくべきだ。


 HDハイ・デンシティ(ハイビジョン)放送とテレビが普及しつつある今日、我々は、胸に静かに手をあてて、もし解説付きで美術品を鑑賞したいと思うなら、実際に美術館にいくのではなく、ブルーレイディスクを手に入れて、家庭で鑑賞することを選ぶべきだ。

 どうか、美術館もいくつか越えねばならぬハードルはあると思うが、いたずらに入場者数を誇るのではなく、何とか開催した美術展のディスクを早めに発売し、実際に美術館に足を運ぶ人の数を減らして欲しい。

 テレビ屋(テレビマン?)の誇りとして、その黎明期から関わっている人の多くが語っているように、彼らの本当の仕事は、世界中の人々に24時間自分の番組を視聴させることではなく、つまらない番組が始まった時には、迷わずテレビのスイッチを切ることの出来る視聴者を育てることなのだから(たとえキレイゴトに聞こえるとしても、それは真実だ)。

 とにかく、テレビにせよ美術館にせよ、徒(いたずら)に自分たちが惹きつけた人々の数(視聴率や入場者数)を誇るのではなく、人々を良く啓蒙し、観るか観ないか、行くべきかそうするべきではないのかを自分で判断できる人々を育ててほしい。



 暗澹たる気分で永徳展示館を出ると、斜め前に常設展館があった。

 気分なおしに入ってみると、そこは人も少なく縄文式土器などがひっそりと展示されていた。

 ぶらぶらと銅鐸を眺めていると、学芸員が、二階に良い刀身が展示されていますよ、と教えてくれた。


 言われたとおりに行ってみると、そこには、この展示会一番の収穫が並んでいた。


 わが家にも数振りの刀剣があり、何度か手入れを手伝わされたことがある。

 その時の感想は、刀剣といへども、大きなナイフに過ぎない、という印象だった。


 とくに期待もせずにショーケースを覗きこんだのだが、その瞬間、過去の感想が大間違いだと思い知らされた。

 刀身を目にした瞬間、いきなり頭を殴られたようなショックを感じた。

 鳥肌がたった。

 重文、国宝クラスの刀剣とはそれほどのものだった。

 小紋が蒼白く冴えわたり、にじんだ匂いが、それだけで肌に食い込んでくるかのような錯覚を与える刀身の数々。

 その蒼白き光は、夜空に輝くフォーマルハウトの色に似て、冷たく熱い。

 ああ、この刀身が我が身に喰い込んだらどんな感触がするだろう、などと、危ない感想すら感じるほど蠱惑的だ。

 しばらくして、ふと見回すと、この展示室を訪れている、わずかばかりの中高年の男性たちも、一様に喰いいるように刀身を見つめている。

 もちろん、彼らの耳には無粋なガイドフォンは当たっていない(そもそも用意されていない)。
 刃の横に書かれた説明も読んでいない。
 読む必要などないのだ。そこに蒼く光る刀身がある。それだけで充分なのだ。

 このことは、いわゆる美術とはまた違った意味合いを持つのかも知れないが(たとえ、刀剣が美術品に分類されているとしても、だ)、ある意味、彼らのファナティックな目の光こそが、美を愛でる、審美の神髄なのではないかと、納得してしまった。



 おかしかったのは、男たちの連れの女性の大部分が、刀身にはまったく興味なさげに、夫の袖を引っ張ってなるべく早く刀剣展示室を立ち去るように促していたことだ。

 あるいは、それは、彼女たちが、連れ合いの目の中に、何か日頃よく知っている夫とは違う、男としての鋭角的な光を見て不安になった結果なのかも知れない。

 果たして、刀が持つ残酷な美しさの理解には、性差があるのだろうか。

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