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2007年12月

2007年12月31日 (月)

世界三大?今度はなに

 衛星放送のICカード切り替えに伴い、一ヶ月間全放送見放題となったので、ずっとクラシック専門チャンネルを流していたところ、ある番組の中で、世界三大バイオリン協奏曲は「ベートーヴェン」「ブラームス」「メンデルスゾーン」で、チャイコフスキーは入らない、というのを聞いた。

 クラシック界に蔓延するドイツ絶対主義のためらしいが、どうも釈然としない。

 確かに、手元にあるチャイコフスキーのレコードの解説(数十年前に買った)を読んでも、はっきりと「ロシア発の土臭い曲はドイツ楽曲よりも劣る」と書かれている。

 ムソルグスキー、コルサコフらロシア五人組同様、ロシア音楽は低く見られているのだ。

 実際、聞いてみると、確かに「わかりやす過ぎる」曲ではある。

 同時期に十五時間ぶっ続けで放送されていた、ワグナーのご大層な「(楽劇四部作)ニーベルングの指輪」(初めて全部観た、まあこれは協奏曲ではなくガクゲキだけど)あるいは、スターウォーズ公開時の「君は何回観た?」同様「(合唱のある第四楽章まで)君は何回寝た?」などと揶揄されるベートーヴェンの「第九」に比べれば難解さのかけらもない。

 だが、そういった重厚な曲の合間に流れるチャイコフスキーの曲、特に組曲「くるみ割り人形」は、水中から顔を出した時の空気の様に清々しく心地よい。

 だが、不思議なことに「くるみ割り〜」は、小学校の音楽室以来、きちんと聞いた記憶がない。

 なぜかと考えてはたと気づいた。ディズニーの「ファンタジア」が嫌いだからだ。

 「花のワルツ」を聞くと、どうしてもあのヌメヌメとした画を思い出してしまう。

 思えばあのチョビヒゲも余計なことをしてくれたものだ。

 ちなみに、わたし個人の三大V協奏曲は「チャイコフスキー」「ブルッフ」「メンデルスゾーン」です。

 勉強不足で「ベートーヴェン」と「ブラームス」のV協奏曲はすぐに思い出せませんでした。

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2007年12月25日 (火)

そうだ歌舞伎だったんだ・グレンラガン

「天元突破グレンラガン」



 2007年最大の収穫がこれだった。
 いや、過去5年で最大といってもいい。
 数ヶ月前に最終回を迎えたものの、長らくこの作品について書くことができなかったのは、あまりに「イイタイコト」「書かネバならぬコト」が多すぎて、書き始めると収集がつかなくなると思ったからだ。

 それに、作品の刺激で、気持ちが大ヤケドしてしまったために、冷静な評価ができないと考えたこともある。

「天元突破グレンラガン」

 これこそが、先達が作り出した様々なアニメの集大成ともいえる作品だ。

 数多くのアニメ、劇、SFから最良部分の抽出を行い、きれいに並べてくれていて、それがどれも心地よい。

 ここだ、というツボをピンポイントで強烈に押してくれる。

 というか、自分の中に、どれほどたくさんの鳥肌ツボがあるかということを教えてくれるのがこのアニメだ。



 かつて、シェクスピアの「ロミオとジュリエット」を読んで、登場人物の唇から流れ出る台詞のすべてが詩の響きをもっていることに驚いたことがある。

 語られる言葉すべてが詩だ。

 あるいは映画「シェルブールの雨傘」で、ドヌーブをはじめとする登場人物たちの台詞が、すべて歌になっていることにも衝撃を受けた。
 一般のミュージカルのように歌いながら踊るのではなく、もし音を消して観ていれば、まったく通常の映画と代わりがないのに、ただ台詞だけが歌になっているのだ。


 むろん、グレンラガンの台詞は詩ではない。歌でもない。
 商業ベースを考えれば、そんなことは不可能だ。

 ただ、誤解を恐れずに言えば、中で行われる行動および使われる台詞が、すべて漢(オトコ)モードに特化されているのだ。

 セリフの一言ひとことが突き抜けている。頭抜けている。

 言って欲しい台詞を、最高のタイミングで全員が話す。

 オープニングのナレーション、予告のナレーションも立ちまくっている。

 語られる言葉すべてが、自分の中の男児かくあるべし、というツボを押しまくってくれる。


 寡黙な自己犠牲、無謀な特攻など、現在の平和好きな母親たちが観ればおそらくは眉をひそめることだろうが、そんなことは知ったこっちゃない。

 グレンラガンの態度・言動の正反対(マギャクとはいわんよ。ヨシモト芸人が誤って使って広まった、おそらくは一過性のコトバだから)を、一つずつひろって物語を作れば、今、地上波のテレビで放映されているドラマやバラエティが出来上がる。

 つまり、そういった善良な人々の眉をひそめさせることこそ、グレンラガンの本望なのだ。



「とにかく観てください」と声を大にして言いたい。


 そろそろ、DVDも出そろい始めているので、観るならこの年末年始がお勧めだ。


 鑑賞する上での注意点をひとつだけ。

 第一部に分類される1〜8話までは、少し自分に合わないカモ、と思っても、とにかく我慢して観ること。


 テーマ(ドリル・螺旋、それから派生して二重螺旋・遺伝子・島宇宙の渦まき)は一貫しているし、先に述べた先達の作品「あしたのジョー」「トップをねらえ」「宇宙戦艦ヤマト」などから数多くのインスパイアされた珠玉の一品なのだから。


 ただ、特に第一部では、押井守いうところの、かつてよくあった思考停止型絶叫ヒーロー(カブトコージに代表される)のような描写がいたるところにある上、いわゆる巨乳タイプのヒロインがでてくるので、それらが苦手な人が見続けられるか心配だ。


 そんなものに惑わされてはいけない。それはただのスパイスだ。トッピングだ。

 とにかく見続けて、ぜひとも彼らの言動からストーリィの真意をくみとってほしい。

 正直にいうと、8話までは、かなり見続けるのが辛くなるクドさのある回もある。
 だが、とにかく16話までは頑張ってみてほしい。決して後悔はしないはずだ。

 ヒーローモノにおけるヒーローの資質は、闘いに負けないことでは無く、絶対の恐怖と絶望にあっても、決して下がらない意思の強さにある。グレンラガンにはそれがある。

 もちろんそれだけではないけれど。

 第二部9話〜15話で、ストーリィは二段ロケットに点火して加速し、16話が総集編、17話〜最終話27話で、美しい大団円を迎える。


 際限なく続く「戦闘規模のインフレ現象」(最後は、ロボットが銀河をつかみ投げ攻撃する!)も、破綻させず最後まで持ちこたえさせた力量は賞賛に値する。


また、これはぜひ書いておきたいが、出てくる女性たち全員が、観たことないほどカッコいいのだ。
 昨今のテレビドラマやCFに溢れている、自己主張の激しい自分中心の行動ができることがオンナのカッコヨサだと勘違いし、その実、男にとって都合の良いオンナに成り下がっているヒロインたちとは大違いだ。

 本来、男のカッコ良さ、オンナのカッコ良さなんていうのは存在しない。

 ヒトとしてカッコいいことが先にあり、その先に性別による表現分岐があるだけだ。


 ともかく、グレンラガンにおける、そういった男や女の行動を観ていると、自分の中にある子供っぽい漢(オトコ)の部分が異常に熱を持って疼いてくる。


 音を聞いているだけで、血がたぎってくる。


 この間、車で長野-東京まわりをした時、夜になって何となく眠気に襲われた時、PSPから(全話をMP4動画変換していれてあるのだ)音だけを聴くようにして走行すると、眠気はどこかに吹っ飛び、とうとう明け方まで休みなく走り続けることができた。



 ああ、こうして書いているだけで、また血液温度が上がってしまいそうだ。


 はやくみてくたされ。

 はやくみてくたされ

 はやくみてくたされ。

 はやくみてくたされ。

 いしよの(一生の)たのみて。ありまする


と、野口シカが息子英世にあてた、あの名文すら引用してお勧めします(あ、だめだこの手紙読むと泣けてくる)。



 最後に、最近気づいたことをひとつ。

 思考停止型絶叫ヒーロー(「ロケットパーーーーーンチ」とかね)が、なぜ叫ぶか。
 そして、我々が、それをさして奇異に思わないのはなぜか?

 グレンラガンでも「俺を誰だと思ってやがる!」を連発している。


 これはつまり、歌舞伎や能、狂言に於ける「見得を切る」ということの変型なのだ。

 弁天小僧菊之助 の「知らざあ云ってきかせやしょう」に代表される見得。
 裾をまくり、腕をまくり、顔をこわばらせて叫ぶ。ここぞという時のキメ台詞

 これこそが、アニメのヒーローが必殺技の名前を叫ぶ由来なのだ。

 だいたい、普通に考えたら闘いの最中に技の名を叫ぶのはおかしいでしょう?
 海外のコミック、アニメでそんなことをしているのはあまり観たとことがない。


 アニメという、一見もっとも伝統芸能から遠く見える新文化に古典が息づいているというのはなかなかに興味深い。

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人類の本懐●いくぞウルトラ警備隊。


 そもそも、ウルトラ警備隊あるいは科学特捜隊、MATとは何か?

 もちろん、彼らが、「怪獣から我が人類を護る科学の盾」「子供たちの英雄」「組織的には超国家の軍隊組織」などということは分かっている、が、そんな表向きの話ではなく、本当のところ彼らはいっい何のために存在しているのか、どう考えて行動しているのだろう?

 だって、あの人たち、怪獣退治には何の役にも立ってねーじゃん。

 と、いきなりヤング(死語)コトバになってしまったが、それほど彼らの武力はイマイチで、怪獣の周りをコバエよろしくとびまわるだけの存在に過ぎない。

 無力で情けない存在。ウルトラ超人が現れるまでの中継ぎ。

 だが、それでも、彼らは毎回怪獣退治に出動する。

 大いなる厄災(台風、地震にも似た)--> 「怪獣」の猛威にさらされた人類の唯一の抵抗が彼らなのだから。

 しかし、彼らの出撃は結局問題の根本解決とはならず、皆さんご存じのように、物語のラスト数分に、あたかも神国を救うために吹き荒れたカミカゼともいうべき、これも自然の猛威じみた銀色の巨人が現れて、台風よろしく格闘の最中にビルなどをぶっ壊したあげく、「んなもん最初から使えよ」的なスペシウム光線だのアイ・スラッガーだのトドメの必殺技で怪獣を殺すだけだ。

 さすがに、近年のウルトラシリーズでは、そういったステレオタイプな脚本は影をひそめているようだが、それでも大まかな(超人・怪獣・ウルトラ系軍隊の)力関係はそういったところだろう、

 いっそ、極端に弱いヒーローを、おだて、しかり、育て、バックアップして人類がなんとか勝たせる、といった設定にした方が面白いかもしれないが、それでは、子供たちのハートは掴めまい(その設定に近かったウルトラマンレオの人気はイマイチだった)。

 もちろん、名作「キャプテン・ウルトラ」の『シュピーゲル』や「怪奇大作戦」のSRIなど、組織自体がドラマの主人公である作品もあるにはある。



 今、ふと思ったが、キャプテン・ウルトラの愛機『シュピーゲル』号は、シュラフ、ザック、アイゼン、ザイルなどの山系ドイツ語を多用するアウトドア用品を使い始める前に触れた、最初のドイツ語体験だったような気がする。

 今や、山用品もすっかり英語化が進み、寝袋はシュラフからスリーピング・バックへと変貌を遂げた。有感隔世……。

 だいたい、大学でも理科系は第二外国語を履修しなくてもよいようになってるんじゃないの?
 ゆとり持ちすぎて、ちょっとスカスカになっている世代が少し可愛そうな気がする。



 余談だが、『理科系』出身であることを過剰に全面に押し出す(編集者と相談した上でのカラーであるのだろうが)ことの多い東野圭吾の、おそらく彼自身不満な直木賞受賞作「ガリレオ連作」は、氏も子供の頃に見たであろう怪奇大作戦のSRIに、多くの先達作家が作り出した偏屈探偵像をミクスしたものだ。
 まあ、小説およびテレビドラマ「ガリレオ連作」については、また別に書くつもりなので、ここでは触れないでおく。



 つまり、ウルトラ警備隊が、懸命に闘ってなんとか勝利をつかもうと努力しているうちに、思わぬところからカミカゼ(つまりウルトラ超人)が現れて、あっというまに怪獣を倒してしまうのだ。

 そんな彼らにどんな楽しみ、やりがい、モチベーションがあるというのだ、そんな疑問が最近になって見事に解けたのだった。

 一本のゲームソフトがその謎に答えてくれた。

 GBAソフト「ウルトラ警備隊・モンスターアタック」がそれだ。
 このソフト、もともとゲーム自体がしたくて買ったものでは無かった。
 初回特典の同梱「科学特捜隊バッヂ」が欲しくて買ってしまったのだった。

 そもそも、その当時、GBA自体持っていなかった。

 しばらくして、千数百円に成り下がったGBA本体を買ったため、少しゲームをしてみたが、如何せん画面が暗すぎて、同時期に買った「ピンボール オブ ザ デッド」ともども、ほとんどプレイすることもなく、引き出しの奥にしまわれていたのだった。

 それが、最近借り受けたDS Liteで起動してみると、明るくわかりやすく、オリジナルの音楽と画像(静止画)の使用と相まって、非常に楽しいゲームだと言うことがわかったのだ。

 ゲームシステム自体は、何の事はないシミュレーションなのだが、秀逸なのはその独特のコンセプトだ、


 タイトル通り、主人公は、ウルトラ警備隊あるいは科学特捜隊およびMATを率いて迫り来る宇宙人、怪獣を迎え撃つ。

 その際に、各チームがそれぞれ助け合って、実際に放送されたエピソードにうまく溶け込みながら怪獣退治をするようになっている。

 このソフトのもっとも特徴的な点は、プレイヤーは、ウルトラ超人を捜査できないということだ。

 これぞカミカゼ。

 ただ、ハヤタやゴウやダン隊員を危険な闘いに追いやって、早く怪獣にやられるようにする、というテクニックは存在する。

 そうすると、お約束通り、彼らは死なずにウルトラ化してくれるのだ。

 だが、そこらへんが、このゲームのバランスの良い点なのだが、ウルトラ超人を早く登場させ過ぎると、怪獣を倒さずに時間切れで勝手に飛び去ってしまうのだ。

 何とか人類の兵器でダメージを与えさせ、最後にウルトラ超人に変身させて怪獣を倒す。これがこのゲームの醍醐味だ。

 シナリオによっては、ウルトラ超人が登場しない会もある(つまりゴウもダンもハヤタも登場しない)。

 人類の存亡のかかった闘いには許されないのかも知れないが、ともかく、彼ら(プレイヤー)は闘い、最善の手をつくし、そして天命(超人降誕)を待つだけだ。

 それにしても、一度の攻撃で、怪獣のHPの数パーセントしかダメージを与えられない人類(警備隊)に対して、ウルトラ超人の攻撃は50パーセント近くのダメージを与えるのはさすがだ。

 だからといって警備隊(プレイヤー)が無力感にさいなまれるかというと、そうではない。

 たしかにウルトラ超人は不確定要素だが、人類にできることを最大限に行ってさえいれば、必ず勝利は我が手にある、そんな諦観ともいえる戦闘理念にのっとって、楽しく闘えるのだ。

 これこそが、無力かつ微力ながら、常に怪獣が登場する度に、嬉々として(のように見える)出撃するモンスターアタックチームの気持ちなのだ。

 それをゲームをすることで教えてくれる「モンスターアタック」はすばらしいゲームだ。
 評価サイトを見ても、かなり高評価を得ている。

 GBAあるいはDSをお持ちの方はぜひプレイすることをおすすめする。



初回限定を手に入れれば、あの素晴らしいダイキャスト製の流星バッヂも手に入るのだから。



P.S. 余談ながら、一度回してしまえば、さらに警備隊の武器を強化し続けることができるので、ウルトラ超人登場の前に怪獣を倒すこともできるようになるらしい。
 これぞ人類の本懐。

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2007年12月 6日 (木)

こいつが欲しかった、が……

 大坂に出ても、あまりキタには行かないのだが、仕事で行く用事があったので、ついでに山用品を見に、IBS石井、好日山荘、ロッジを梯子してみた。

 特に石井は、高校の頃、山岳部の先輩に連れられて行ったのが最初だから、通い始めて二十年以上になる。

 ここ数年足を向けていなかったので、さぞかし山道具も進歩しているだろうと思ったのだが、GPSや雪崩ビーコンといった電子機器以外は、ラインナップはそれほど変わっていなかった。


 だが、その中にあって、おっと声を上げたのが、今回紹介するスイッチだ。

 これは、いわゆるミニマグライトのプッシュスイッチ付後部キャップで、これをオリジナルと取り替えるだけで、本来不可能だった、強、中、弱、点滅(速)、点滅(遅)がプッシュスイッチで切り替えられる上に、スイッチ自体に仕込まれたLEDがゆるやかに明滅し、暗闇のテントの中で、ライトの所在を教えてくれるという製品だ。

 連続点灯しても45分で自動消灯する。


 ご存じない方のために、説明しておくと、ノーマルのミニマグライトは、ライト発光部の周りを回転させると点灯し、さらに回転させると、光の照射角度が変わる仕組みになっている。

 スイッチと焦点切り替えが一体化した、それはそれで素晴らしい仕組みなのだが、とっさに片手でスイッチを入れられない、点灯しっぱなしだと、LEDでないので、すぐに電池を消耗してしまうという欠点があった。

 それを、電池蓋を替えることだけで、改善してしまうのがこのキャップなのだ。その機能を考えれば、実売価格1780円は高くない。


 先にも述べたが、この製品の良い点は、ライト部はオリジナル同様なので、ヘッドの回転で光の角度を変えられるということだ。
 マグライトの特徴のひとつは、ヘッドの回転によって、広く浅く灯りをとばしたり、狭く遠くへ光を放射したりできることだからだ。

 もっとも、この機能は、全方位へ発光するフラッシュバルブだからこそ実現できることで、今はやりの低消費電力で切れないLEDは、前方のみ発光するため、照射範囲をかえることはできない。

 発光色も、バルブは黄色っぽくて暖かい。そのかわり、電力を消費する。

 それを補う商品も同じく1700円前後で売られている。

 フラッシュバルブを4連LEDに交換するパーツがそれだ。

 だが、これを使うと、ミニマグの特徴である焦点距離が変えられず、先のスイッチを使っても、光量の強弱も変えられなくなる。

 欲をいえば、フラッシュ部がLEDで、後部プッシュスイッチによって、強弱が切り替えられ、ヘッドを回すことで焦点が変われば良いのだが、これはLEDの性質上不可能なのだ。残念。

 それに、ミニマグをLED化するだけなら、すでにさまざまな人が色々な方法で行っている。
[http://www.mars.dti.ne.jp/~ogura/e_hobby/7mag.html]

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さこにゃん

 仕事の関係で、先日、島左近の歌を作詞した。

 島左近といえば、隆慶一郎氏の「影武者徳川家康」ぐらいでしか知らなかったため、作詞にあたって、資料を調べようとネット検索してみても、それほど資料は出てこなかった。

 いかに小説等の資料が少ないかということは、Yahoo、Googleともに、ヒット数が少ない上に、リスト上位から4,5番目に、「北斗の拳」の原哲夫作「SAKON」が出てくることからわかる。

 歴史読本の別冊はともかくとして、コミックが検索上位にくるというのは相当なことだ。

 たしか「SAKON」は、原氏の「影武者徳川家康」の続編だったはずだと思い、近くのコミック喫茶に行き、全巻読み通したが、当たり前だが、小説「影武者徳川家康」以上の知識は得られなかった。

 最終的に、良く知られた左近の経歴、つまり、奈良県平群出身で、もと郡山市の筒井順慶の武将であり、順慶の息子定次とソリが会わずに世に出、後に石田三成に三顧の礼で迎えられて関ヶ原で討ち死にした(しかし、本人が見たらきっと怒るような適当な略歴だな)という話をベースに作詞した。

 その際に、三成が禄の半分で左近を召し抱えたという逸話や「治部省(三成)に過ぎたるものふたつあり、島の左近と佐和山の城」という歌を参考にしたのだった。


 それから数日後、ある人物から、「今、ひこにゃんより有名な、さこにゃんを知ってますか?」と尋ねられた。

 詳しく聞いてみると、あの人気者、彦根城のひこにゃん(国宝・彦根城築城400年祭キャラクター:http://www.hikone-400th.jp/hikonyan/)とよく似た、島左近の「さこにゃん」なるキャラクターが作られ、ゆるキャラ着ぐるみまで、こしらえられているというのだ(正式名称:しまさこにゃん:http://uzumasa-tv.jp/medias/show/26)。

 と、そこまで聞いて思い出した。

 確か、映画村のおみやげで、そんなキーホルダーがあったような気がする。

 調べてみると「しまさこにゃん」は、ひこね「街の駅」寺子屋 力石のマスコットキャラであるらしく、作者は山本ひまり、着ぐるみは、映画村のイベントなどで使われることもあるとのことだった。

 だから映画村の売店で関連商品が売られていたのだ。

 なぜ彦根あたりのマスコットになったかというと、先に書いた歌の中の「佐和山の城」があるのが彦根近辺だかららしい。

 先の、彦根城築城400年祭に便乗?して、生誕地でなく、流れ着いて暮らした土地が、先にゆるキャラを作ったということなのだろう。

 残念なのは、好みの問題もあるだろうが、さこにゃんが、ひこにゃんほど魅力的でない点だ。

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残酷な美しさ

 先日、京都国立博物館でやっている狩野永徳展に出かけた。

 昔から、京都という土地には特に思い入れもなく、どちらかと言えば好きではない場所なのだが、久しぶりに出かけるのだから、ついでにどこかに寄ってみようと思い立ち、おもいっきり京都らしい場所ということで?太秦の映画村に寄ってみた。

 以前に行ったのは、二十年ちかく前だから、さぞかし変わっているだろうと思っていたのだが、思いの外変化は少なく、以前と同じように楽しめた。

 最近流行のアミューズメントパークとは違い、奇をてらわない展示方法に好感が持てる。

 もっとも、映画村は、遊園地にではなく、「村」という名前が現すように(明治村、リトルワールド同様)文化施設に分類されるべき場所だから、奇をてらった展示などしようが無いのかもしれない。

 その風貌、言葉から、南米から来ていると思われる団体が、日本橋の前で、実際に役者である同心と並んで刀を振りかざし記念撮影をしていた。

 よく忍者モノで使われる屋根裏セットを低い位置から見ることもできるし、ふざけて大江戸裁きのお白州に跪(ひざまず)くこともできる。

 芝居小屋では、蝦蟇の油売りの口上を聞くことができた。




 充分に楽しんだあと、太秦を三時過ぎに出発し、博物館に向かった。
 混雑する京都市内を抜けるのに、思いの外時間を取られ、京都博物館に着いたのは四時過ぎになる。

 博物館横のパーキングエリアに車を停めて、表門から中に入った。

 閉館六時で、入館は五時半までなので余裕だと思ったらとんでもない。
 建物の前に、かなり長い列ができていて、館員が三十分待ちと繰り返し叫んでいた。



 で、その内容だが、結論からいえば、先日行ったサントリーミュージアムの「ロートレック展」の方が客の質も含めて数段良かった。

 狩野派の主要作品は、派手好きだった秀吉が治世した時代を反映しているとはいえ、ただケバケバしさが目につく金箔張りの作品が多いのだ。

 しかし、さすがに洛中洛外図は、金色の霧に見え隠れする都の景色が素晴らしく重厚で、派手さを越えて、幻想感すら感じさせる迫力があった。

 それだけに人混みは尋常でなく、作品の前を(主に老人たちの)頭が右から左へゆっくりと機械仕掛けのように動くため、離れてじっくりと眺めようとしても下の方を観ることはできなかった。

 洛中洛外図周辺には、館員がいて「立ち止まらずに歩け」と催促するために、まだ人が流れていくのだが、それ以外の場所では、いたるところに人溜まりができている。

 作品をゆっくり眺めることな、到底できない状態だ。

 人溜まりの理由のひとつに、ガイドマシンを使う人が多いため、やたらと足を停めて作品を覗きこむ老人が多いということがある。

 あるいは、それは、近年、電車や駅で老人のヘッドフォン使用が多くなったことが関係しているかもしれない。
 以前は、唾棄すべきものとされてきた「ナガラ」が、便利だし楽だということで、彼ら戦後焼け跡世代の老人達に認知されてしまったのだ。
 人前で音楽を聴く、テレビを観ながら食べる、歩きながら電話をすることを彼らは認めてしまった。

 だから、じっくりと感覚を研ぎ澄ませ、ただ鑑賞すべき美術品を、テレビの美術番組よろしく解説を聞きナガラ回りたがるのだ。

 ガイドをレンタルしていない人も、一様に、作品ではなくその横につけられた解説に熱心に見入っている。

 彼らの多くは、説明を読んだ後、作品をさっと一瞥し通り過ぎている。

 後日、友人と会った時に高名な作品に関する蘊蓄を披露するために、あるいは、ただ歴史に名高い作品を、確かに目にしたと自分自身に証明したいだけなのだ。

 彼らの多くは、テレビの娯楽番組からではなく、確かに本物を目にしたという満足感が欲しいのだ。

 映像ではなく、本物を観れば何か得るものがあるという神話を信じている。

 だから、著名な作品が公開されれば、こぞって美術館に足を運ぶのだ。


 かつて、岡倉覚三が、その著作の中で、「休日には、人々が寄席ではなく美術館に足を運ぶような世界に冠たる美術国にしたい」と願った夢は、現実のものとなった。

 素晴らしいことだ。

 だが、現実に日本は美術王国にはなってはない。

 美術館は、国家の美術に対する興味と関心を示す指標とはなっても、その国の美術程度は反映しない。

 かつて、パリがアートの中心であった頃、パリジャンのほとんどは美術館に行けないほど貧しかった。

 芸術の多くは、美術館からではなく、カフェやバルでかたち作られたのだ。


 これは、山本周五郎が、その著「赤ひげ」の中で、遊女屋の悪徳遣り手婆に対し、「この女が悪いのではない、無知がいけないのだ」と主人公に嘆かせ、「人々に充分な教育さえ施せば、世の中の悲劇が少なくなるのだ」と断言させたことに似ている。

 だが、それは錯覚だ。

 現在、国民に対する教育は普及したが、それによって、人々が素晴らしくなったかというと、これはもう語る必要もないだろう。

 犯罪は相変わらず発生している、どころか肉親の絆も失われ、親兄弟による殺人は日常茶飯になった。

 確かに、その後の教育よろしく、文盲率数パーセントとなった日本は、一時、世界有数の安全な国になった。

 しかし、それは教育程度の高さによって明治期より犯罪が減ったのではなかった。
 
 単に、ムラ制度の残る五人組的告げ口体質が、警察組織の整備と相まって犯罪を抑止、検挙率を上げていたにすぎない。

 わたし自身を含め、人々の多くは、教育によって、美徳ではなく小賢しい理屈を身につけたに過ぎないのだ。

 審美眼も同様。

 人々は、テレビで有名な、あの作品を実際に目にした、という事実を手に入れたいと考えているに過ぎない。

 そして、それを助長しているのが音声ガイドだ。

 最近の美術展では必需品となっているが、「音声ガイド」というやつは、諸外国は知らず、日本においては、作品を多角的に評価するための道具ではなく、美術館を三流娯楽美術番組にするためのアイテムだ。

 わたしは、必ずしも音声ガイドを否定しているわけではない。
 かつて、英国のストーンヘンジで同様の日本語版ガイドを聞いたことがあるが、ああいった遺跡の説明としてはかなり有用ではないかと思う。
 おそらく、遺跡というものは、その性質上、年代やその成立過程が重要な要素であるからなのだろう。

 だが、美術品はちがう。ガイドは本来の鑑賞には邪魔だ。
 もし、それが必要ならば、あなたは実物など観ずにビデオを観るべき人なのだ。

 断言すれば、わたしも含め、あなたがたのほとんどは実物を観る必要などない。


 よく、愚か者が、ブランドものを指さして「良いものはやっぱりイイのよ」などという。

 確かに、「良いものは良い」、だが、問題なのは、オマエにそれを持つ値打ちがあるのか、ということなのだ。

 本当に、そのものの値打ちを知り、自分の身の丈を考えれば、それをそっとしておく知恵も必要だ。

 そのバッグは素晴らしい、でも、それは持つべき人が持てば良いのだ、と。

 世の中には、道具によって人が高められるという錯覚をもつ者がいるが、それはとんでもない盲信だ。

 (値段の)高い道具によって、人は堕落させられることはあっても、高められることなどあり得ない。

 真珠で飾り立てても、ブタは人にならない。


 美術品にも同様のことがいえる。 

 確かに本物は良い。素晴らしい。

 だが、解説を聞きながら、あるいは読みながらでしか観ることができないのなら、そういった人は、わたしも含め、美術館に行くべきではないのだ。

 美術品は、見せ物でも珍獣でもないのだから。
 
 美術館は、もっと観るべき人のために、混雑しない良い環境にしておくべきだ。


 HDハイ・デンシティ(ハイビジョン)放送とテレビが普及しつつある今日、我々は、胸に静かに手をあてて、もし解説付きで美術品を鑑賞したいと思うなら、実際に美術館にいくのではなく、ブルーレイディスクを手に入れて、家庭で鑑賞することを選ぶべきだ。

 どうか、美術館もいくつか越えねばならぬハードルはあると思うが、いたずらに入場者数を誇るのではなく、何とか開催した美術展のディスクを早めに発売し、実際に美術館に足を運ぶ人の数を減らして欲しい。

 テレビ屋(テレビマン?)の誇りとして、その黎明期から関わっている人の多くが語っているように、彼らの本当の仕事は、世界中の人々に24時間自分の番組を視聴させることではなく、つまらない番組が始まった時には、迷わずテレビのスイッチを切ることの出来る視聴者を育てることなのだから(たとえキレイゴトに聞こえるとしても、それは真実だ)。

 とにかく、テレビにせよ美術館にせよ、徒(いたずら)に自分たちが惹きつけた人々の数(視聴率や入場者数)を誇るのではなく、人々を良く啓蒙し、観るか観ないか、行くべきかそうするべきではないのかを自分で判断できる人々を育ててほしい。



 暗澹たる気分で永徳展示館を出ると、斜め前に常設展館があった。

 気分なおしに入ってみると、そこは人も少なく縄文式土器などがひっそりと展示されていた。

 ぶらぶらと銅鐸を眺めていると、学芸員が、二階に良い刀身が展示されていますよ、と教えてくれた。


 言われたとおりに行ってみると、そこには、この展示会一番の収穫が並んでいた。


 わが家にも数振りの刀剣があり、何度か手入れを手伝わされたことがある。

 その時の感想は、刀剣といへども、大きなナイフに過ぎない、という印象だった。


 とくに期待もせずにショーケースを覗きこんだのだが、その瞬間、過去の感想が大間違いだと思い知らされた。

 刀身を目にした瞬間、いきなり頭を殴られたようなショックを感じた。

 鳥肌がたった。

 重文、国宝クラスの刀剣とはそれほどのものだった。

 小紋が蒼白く冴えわたり、にじんだ匂いが、それだけで肌に食い込んでくるかのような錯覚を与える刀身の数々。

 その蒼白き光は、夜空に輝くフォーマルハウトの色に似て、冷たく熱い。

 ああ、この刀身が我が身に喰い込んだらどんな感触がするだろう、などと、危ない感想すら感じるほど蠱惑的だ。

 しばらくして、ふと見回すと、この展示室を訪れている、わずかばかりの中高年の男性たちも、一様に喰いいるように刀身を見つめている。

 もちろん、彼らの耳には無粋なガイドフォンは当たっていない(そもそも用意されていない)。
 刃の横に書かれた説明も読んでいない。
 読む必要などないのだ。そこに蒼く光る刀身がある。それだけで充分なのだ。

 このことは、いわゆる美術とはまた違った意味合いを持つのかも知れないが(たとえ、刀剣が美術品に分類されているとしても、だ)、ある意味、彼らのファナティックな目の光こそが、美を愛でる、審美の神髄なのではないかと、納得してしまった。



 おかしかったのは、男たちの連れの女性の大部分が、刀身にはまったく興味なさげに、夫の袖を引っ張ってなるべく早く刀剣展示室を立ち去るように促していたことだ。

 あるいは、それは、彼女たちが、連れ合いの目の中に、何か日頃よく知っている夫とは違う、男としての鋭角的な光を見て不安になった結果なのかも知れない。

 果たして、刀が持つ残酷な美しさの理解には、性差があるのだろうか。

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