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2006年12月 4日 (月)

人は、裏切る、のか? 〜髪結い伊三次〜


 この秋、スカパーの「時代劇専門チャンネル」で、かねてより気になっていた「髪結い伊三次」の一挙放映があった。

 なかなか書けずにいたのだが、この機会に、テレビドラマ版「髪結い伊三次」について書いておこうと思う。

 中村橋之助、涼風真世、村上弘明と、キャストはまずまずだし、何より宇江座真理の代表作の初めての実写作品ということで、少しだけ期待して観たのだった。
(このところ、原作付きの作品の実写化でろくなものがなかったのでね。コトーとか)

 本当のところ、わたしはこの作品についてほとんど何も知らなかった。(十数年も地上波を観ずに過ごしていると、こういう弊害が起こる)

 ただ、原作のハードカバー版「幻の声」の帯に、テレビ放映の写真が載っていたのと(古本だから放映はとうに終わっていたのだが)、文庫版の髪結い伊三次シリーズ第二弾「紫紺の燕」のあとがきに橋之助自身が撮影余話を書いていたので、番組の存在は知っていた。

 制作年度は1999年。
 九話作られただけで、今に至るも続編はなし、ということから、あまり人気が出ず話題にもならなかったのだろうと考え、今回の放映があるまで、気にはなっていたが、ぜひ観てみたいとは思っていなかったのだ。

 で、その出来具合といえば……


 そのまえに、まず「髪結い伊三次」についてひとこと。
 別項でも述べたが、原作者の宇江座真理は、廻り髪結いの伊三次を主人公にした「幻の声」でオール読み物新人賞を受賞、デビューを果たし、現在もなおこのシリーズを書き続けている。

 つまりこの作品は、作家、宇江座真理と共に歩んでいる作品で、作者のリアルタイムな足跡でもあるのだ。

 宇江座真理は、世間的には人情話の作家ということになっている。
 だが、作品を読むにつれて、本当にそういった評価で良いのか、と疑問を持ってしまう。
 確かに、ほろりとさせる良い話も書くが、その反面、シリーズ物の重要な人物にさえ、人を裏切り、安心できない面を見せさせてしまう厳しさも持っている作家だ。
 おそらく、そのデビューが比較的遅く、それまでかなり(金銭的な苦労を)していた(本人談)ため、人生を塩っ辛く捉えたがるのだろう。

 ご本人も、確かに人情話は好きなのだろうが、そういった表層のヴェールをはぎ取っていくと、その根底にあるのは、やはり人は裏切るという諦観なのだ、そういう気がする。

 わたしなどのように、甘っちょろい人情ものが好きなヤカラには、今までさんざん信頼し、世話になっていながら、とつぜん掌を返したように主人公を見捨てたりする人間関係を示されると、ザラついた違和感を感じて心底好きにはなれないところもある。

 本人が後書きで「宇江座は人情は書けるが物語は書けないという批評がある」などと言っているのをみると「逆じゃねぇの?」などとつっこみを入れたくなるほどだ。

 それゆえ、テレビドラマになった時に、そういった冷たさが、わたしと同じ甘っちょろい人情ものを好きな一般人に受けなくて、全九話、続編なしになったのではないかと考えていたのだが……


 結論からいうと、このTVドラマは非常に良かった。

 随所に、テレビ特有の詰めの甘さは散見されるものの、原作で「それはないじゃないの」という、顔は笑っているが目が笑っていない体の、宇江座真理式展開が、上手に払拭されている、というか、素直な人情ものに置換されているのだ。それがたいへん心地よい。

 思い返して文庫本の、橋之助の解説を読み直すと、なかなかに原作の深いところまで読み込んで登場人物を理解していることがうかがい知れるし(もともと宇江座氏は、彼の兄の勘九郎「現、勘三郎」の廻り髪結い姿を見て本作を思い立ったらしい)、橋之助自身もこの役には思い入れがあって、大のお気に入りだったと述懐している。

 そういった心情理解に加えて、歌舞伎役者であるがゆえに、着物の着こなし、足の運びは言うことなく、ふとした仕草に見える指先の動きにも細心の心配りがあって、所作すべてが美しくすばらしいのだ。

 もとアクション俳優(スカイライダー!)の村上弘明の殺陣(たて)も、二枚目だけが取り柄の榎木某や、コイツこんなに運動神経なかったの?と驚く仲代某などのようなへっぴり腰ではなく迫力がある。

 わたしにとっては、るろうに剣心の声優というイメージしかなかった涼風にしても、さすがにヅカ出身だけあって、啖呵と気っ風が江戸の華といわれた活きの良い辰巳芸者をみごとに好演していた。

 さすがに言葉遣いは現代風、武家の妻も眉を落としてはいなかったが、それ以外は、かなり江戸時代の風俗にこだわった作りであるのも良かった。

 メインテーマが葉加瀬太郎のヴァイオリンによる「Brazil」(あの未来世紀ブラジルでも使われていた)だというのは、当初、違和感があったが途中から気にならなくなった。

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 ここで、余談ながら、作者についてひと言。
 宇江座真理氏の経歴については、北海道の大学出身で現在住ということしか知らないのではっきりとしたことは言えないのだが、どうも彼女は「江戸の人情」について、多少の勘違いをしているような気がしてならない。

 彼女の作品を読んでいると、仕事の都合上、北海道(過疎地域)に移り住んでいる友人が言っていた言葉を思い出す。

「こっちは、近所づきあいが濃密で、それが個人の詮索に近いものになってしまっている。引っ越しの手伝いは、みんな気さくに来てくれるけれど、荷物を運びながら中身をのぞき込んで品定めをしているような感じがする」

 もちろん、若い女性のひとり暮らしということで、多分に彼女の被害妄想もあるとは思うのだが、そこに多少の真実が混じっているとするなら、こうも考えられるのではないだろうか。

 北方(特に地方都市)は自然が厳しい、明治以前から続く開拓の歴史を通して、人々は助け合い団結しなければやっていけなかった。

 ゆえに大都会とは違い人間関係が濃密になる。
 家同士の行き来が多くなり、干渉することも多くなろう。

 だが、東京、大阪など、古くから(東京は、ほんの350年ほどだが)の大都市では、生活の機能が都市に委託されている。
 つまり、家風呂でなく銭湯、台所には包丁がなく外食が多く、家でなく外で酒を飲む。女が欲しくなれば妻ではなく遊郭に向かうのだ。

 これは、江戸の男女別人口比が、極端な男多女少であったためだ(もともと江戸に住むことが許された町人は、ただ江戸城を維持するための職人として集められた、という経緯がある)。

 ゆえに、江戸の男の多くは生涯独身だった。

 そういった男たちが長屋に住み、日々やっさもっさと押し合いながら暮らしていたのが、都会の、いや現実の江戸の姿なのだ。

 何がいいたいかというと、現代同様、こういった家庭の機能が都市に委託された環境では、人間環境は希薄になっていくはずだ、ということだ。

 自分自身の稼ぎがあれば生活していける。

 他人とは関わらなくても大丈夫。

 だが、実のところ人はそれだけでは生きてはいけない。

 (北国と違い)自然が優しいが故に、また生物的、物理的に生きていけるが故に、かえって他者との関わりを積極的に求めようしてしまう。

 いわゆる、お節介心が芽生えてしまうのだ。

 団結しなければ生きていけない北の国とは、この点が違うのではないかとわたしは思う。

「関わりあわねば生きていけない過酷な環境のお節介」と「しなくても良いが、ついしてしまうお節介」この違いが、北の国と江戸との違いではないかと思うのだ。

 それこそが、江戸、大坂の人情噺の根幹ではないかと。

 利害関係で培われたお節介なら、自分に不利益になればすぐに切り捨ててしまえる。

 だが、そんな厳しい心持ちでは、「どうしようもない人」を、捨てきれずに構ってしまう人情に決して辿り付ないのではないだろうか。

 この点を、宇江座氏は少し勘違いしているのではないか。

 北国的なお節介(というのは心苦しいが)を人情と思って物語を組み立てていると、一見、深い親交があるように見えながら、不利益を感じるとあっさりと斬ってしまえる、そんな薄情な人情噺になってしまうのではないか?

 失礼を承知で言わせてもらえれば、私には、なんだか彼女が、江戸にあこがれて江戸を模倣、制作しようとするものの、根底のところでそれを果たせていないように思えるのだ。

 そうした点が、もうすぐDVD発売がなされる、この夏人気だった「結婚できない男」や
「じゃりン子チエ」との大きな違いなのだと思う。

 まあ、これは別項に譲ろう。

 だが、そういった欠点を、脚本のちからで修復されたのが、テレビドラマ「髪結い伊三次」だ。
 観て損はありませんぜ。

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