« 2006年11月 | トップページ | 2007年12月 »

2006年12月

2006年12月10日 (日)

アンビヴァレンツの英雄 〜エンジェル・ハート〜

 作家、大藪春彦は、生前、その功罪が語られることが多かったが、そのうちの功のひとつで、なるほどと思ったことに、彼が現代に蛮人(バーバリアン)を復活させたことが素晴らしい、というのがあった。

 彼の描く主人公のほとんどは、蛮人といって良いほどの肉体の持ち主で、拳ひとつで相手の胃を破裂させ背骨を叩き折った。

 文字にすれば簡単だが、実際にこれを、SF(菊池氏や夢枕氏の作品等)、ジュブナイルやコミック・アニメのノベライズ以外の小説でそれをするのは難しい。

 わたしも、それを冒険小説(といって良いのだろうな……)の範疇で成し遂げた点は充分評価できると思う。


ちゅうい
 功罪のの方は「大藪の小説から、ガン(銃)とカー(車)とガール(女)を取ったら何が残るのだ?」というものだが、それに対する反論は、鏡明、森村誠一などが断言しているように、「男の人生からその三つをとったら何が残るのだ」という言葉で言い尽くせるだろう。

 子でなく父でなく兄でなく、派閥の領袖でなくサル山のボスでない、孤独な男として生きる者にとって、それ以外のものは不必要だし、そんな男こそ大藪は描きたかったのだから。



 北条司は「キャッツ・アイ」でメジャー・デビューした。実際は「俺は男だ(だったかな)」でデビューなのだが、それは読み切りなので脇に置いておく。



 主題歌が甲子園の行進曲にまでなった作品だ。たいていの人は知っているだろうが、あえていえば、美人3姉妹が実は美術品泥棒で、次女の恋人がそれを追いかける刑事、という、まあステロタイプといえば、そのまんまな作品だ。

 女性が主役のキャッツ・アイにも、男の泥棒が登場する。

ネズミと呼ばれる男だが(もちろん鼠小僧次郎吉からの連想)、これが結構バイプレイヤーとして重要な役回りをしていた。

 作者からすると、真っ正直な刑事クンより、陰影のある犯罪者の方が、いろいろ使えるキャラクタだったのだろう。

 だから、キャッツ・アイで、ずっと女の主人公を描き続けてきた北条司が、増刊号読み切りで、だらしない男じゃなくて粋な男の主人公にすえて……と考えた時に、ネズミを主人公にするのは自然なことだったのだろう。


 その時の作品がベースになって「シティーハンター(以下CH)」は生まれた。



 この作品も、曲に恵まれ(小室の「GET Wild」)、かなりの長期連載になった。

 月日は流れ、そしてCHは大団円を迎える。

 少しばかり意外だったのは、ラストが、きっちりとしたけじめのない、まだまだ続きますよ風ハッピー・エンドだったことだ。


 キャッツ・アイの最終回で、ウイルス性疾患で次女の記憶を奪い、恋人の刑事に白紙の状態から恋を始めるようし向けた作者にしてはヌルい。

 おそらくは、作者自身の心境の変化、あるいは編集側の意見、読者の希望、アニメの制作サイドの要望(思いついて続編を作ったりするからね)が混ざった結果だったのだろうが、何となく、良かったような釈然としないような気持ちになったことを思い出す。


 そもそも、正統恋愛モノの「決定的にくっつかない、アブナイ恋人同士」は、作者として魅力的な設定であると同時に、「続けるとすぐにマンネリになるため長期化が難しい」という欠点を併せ持つものだ。

 安易に、魅力的な設定に飛びつくと、長期化を望まれた時に苦しくなる。

 本家CHが連載終了したのも、結局はマンネリになってしまったからだ。

 キャッツ・アイでは刑事と次女は最初から恋人同士だったから、その点では問題なかったのだが。



 そして月日は流れ、「エンジェル・ハート」が始まった。




 始まって、いきなりパートナー槇村香は死んでいた。

 最愛の者の死、その衝撃による心の陰影、ヒロイック・ストーリーには欠かせない設定だ。

 本来、(おそらく)アン・ハッピーエンドの好きな作者が、本家CH最終回では為しえなかった悲恋モノに突入したのだ。


ちゅうい:
(エンジェル・ハートは、正統なCHの続編ではない。これは作者自身が、単行本一巻で書いているようにパラレルワールドなのだ。海坊主ことファルコンは、盲目で喫茶店キャッツアイのマスターだが恋人はいないし、語られるCHの成り立ちすら改竄されている。だが、いったいどんな読者がそれを鵜呑みにするのだろうか?実際、作者の公式サイトの掲示板は、エンジェル・ハート連載開始時に、槇村香の死に抗議する書き込みが殺到して、現在に至るも、登録者のみ書き込み可の状態が続いている)



 さて、ここからが本題。

 ここで、やっとこの項の最初の話につながるのだ。

 原作を読めば分かるように、CHはスーパーマンだ。神に近い存在。

 決して負けず、必ず弱い者を助け、登場するタイミングも方法も見誤らない。

 凄すぎる。

 そんな人物は、今までに創造されたことがないのではないか、と思ったら……

 いたんですねぇ。

 みなさんご存じのあの男が。


 「ひとーつ、人の生き血をすすり……」でおなじみの彼の男。

  そう「桃太郎侍」が。


 のぉと
 個人的に高橋英樹主演の作品としては、山本周五郎原作の「ぶらり新兵衛道場破り」の方が好きだ。それは桃太郎侍のストーリーに若干の悲劇性があるのに対して「ぶらり〜」が明るいからだ。



 つまりCHの功罪の「功」は、現代に「桃太郎侍」を復活させたことにあるのだ。

 だが、桃太郎侍と冴羽には決定的な違いがある。

 それは、冴羽が、どうしようもない女好きという点だ。

 もともとが、キャッツアイの「ネズミ」を原型にしたから仕方がないのだが、ヒーローがヒーローたり得るのは、女に関してリミッターが掛かっていてこそだ。

 CHでは香の存在と、彼女の100トンハンマーがリミッターだった。
 冴羽は、依頼人女性に迫ろうとしても、ある線以上は進めない。

 だから彼はヒーローだった。

 実際、CH時代の冴羽も、女性に人気があった。

 物事がよくわかり、人格者で(表面上はともかくその本質において、だが)腕も立つ男は女性にモテる。これは事実だ。

 それはCHでは良かった。

 なぜなら、彼には、すでに自他共に認めるスティディな仲の香がいたからだ。

 毎回変わる美人の依頼者に思いを寄せられても「あんな素敵な人が側にいるんだから、とても勝ち目がないわ」

 なんて言わせて、ハイさようなら。それで良かったからだ。


 だが、エンジェル・ハートでは、冴羽に陰を与え、CHのマンネリを打破するために香を殺さねばならなかった。

 そんなことをすれば、香に遠慮して身を引いた女たちが、彼に殺到するのは目に見えているではないか。

 狂言回しとして(わたしはグラス・ハートが本作の主人公だとは思わない)連れてこられた香の心臓を持つ娘は、冴羽の行動に対する「緩いリミッター」となるだろうが、本家香の存在と彼女の100トンハンマーには比するべくもない。

 北条 司は、前作「F.COMPO」あたりから『家族愛』をテーマに作品を書いているので、エンジェル・ハートも、大筋それでいこうと考えているのだろうが、冴羽を主人公にして家族者を書くのは無理があるのだ。

 時として作品は駻馬(かんば)になる。
 乗り手がいかに手綱を引き締めても、暴れに暴れて手に負えなくなるのだ。

 だいたい、血もつながっていない、しかも中途半端な年齢(15歳、現在18歳)の娘を連れてきて、モテモテ桃太郎侍のオモシにしようなんて虫が良すぎるのだ。

 それならば、ファルコンが娘にしたストリート・チルドレンのような、思い切り幼い娘のほうが良かった。

 が、タイトル名を冠した娘にも、女性スイーパーとして読者の人気を得たいという、どっちつかずの作者の願望が悪い方向に働いて、大人なのか子供なのかわからない、リミッターなのかアクセラレーターなのかわからない、居場所のない娘を無理矢理作品に押し込んだ形でストーリーを作らねばならなくなったのだ。

 作品の流れとして、作者も止めようがなく、昔なじみの女性たち(彼女たちも順当に歳をとり、いっちゃ悪いが、ちょっと焦っているんだな)も冴羽にアタックをかけ始める。

 こうなってしまったら、冴羽は二つしか道がない。

 誰か一人を選ぶか、思い切り無責任にみんな斬ってしまうかだ。

 だが、相手が若い娘なら「俺以外にもっとふさわしい男がいるぜ」なんて逃げを打てるのだが、なんせ相手ももう四十

 もう後がない(って私自身は全然そうは思わないのだが、まあ世間一般にね)。

 そんな女性に向かって、のらりくらりは、隠れ人格者としての冴羽ができようはずはない。

 だから、作中で「彼はすべての女性に優しいから、誰か特定の女性と親密にはなれない」みたいなニュアンスの逃げが語られてしまうのだ。

 でも(ああー反語ばっかり)、そういった年増(わたしはそう思っていないよ)のオンナに限って、モノのよく分かった良い女に作りやすいんだなぁ。

 実際、北条もそうしている。

 侠気のあるサバけたイイオンナ(たち)だからこそ、冴羽も(作者も)その一途な気持ちを無視できなくなってくる。

 エンジェル・ハートは、そのアンビヴァレンツな苦しみ(作者のね)を楽しむにはなかなか良い作品なのだ。


 ともかく、物語世界の中で「第三者のジャッジメント」たる桃太郎侍は、決して自らは色恋沙汰に巻き込まれなかった。

 冴えた脚本家たちは、そうしなければ、際限なく続くモモタロウ・ワールドを続けられないことを知っていたからだ。

 恋愛モノ・ヒーローにはスティディな女はいらない。

 そういった女が確定した時点で恋愛モノは終わりだから。

 現代を生きる桃太郎侍が、自分に想いを寄せる(イイ)女たちに、どのような結論を出すか、が「エンジェル・ハート」の正しい見方なのではないかと思っている、今日この頃の晴れのち曇りなのであった。

p.s.
 余談ながら、わたしは、アニメCHファーストシーズンのオープニングが大好きだ。

  City Hunter 〜愛よ消えないで〜
  作詞: 麻生圭子、作曲: 大内義昭、編曲: 戸塚修、歌: 小比類巻かほる


 エンジェル・ハートのように、「この街(新宿)とこの街に住む人が好きだから、ここで生きていく」と声高にわめかずとも、こういったオープニング(デフォルメされた街で若くちょっと軟弱な冴羽が走り、香が踊る)を見れば、そんな気持ちは、すっと胸に入ってくるものだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 9日 (土)

「こまった人」 結婚できない男

 ずっと「じゃりン子チエ」が好きだった。
 登場人物の誰かを好きなのではなく、その世界観が好きだった。
 ちょっとヒネているけど健気な子供、どうしようもない駄目オヤジ、彼らをとりまく人々。その会話の棘のある暖かさが好きだった。

     
 先日も、高畑勲が手がけた、上方お笑い芸人総出演・映画版「じゃりン子チエ」のオープニングを確かめようと観始めたところ、気がつくとエンドロールが流れていた。

 これほど時間のワープ感覚(っていいかたはおかしいのだが)を感じられる作品は他にはない。

 わたしも歳をとり、多少なりとも人生の垢が身について「ただ好き」ではなく、どこが好きなのかを、もう少し正確に言えるようになった。

 じゃりン子チエの魅力の本質は、「駄目でいいのだ」という寛容さにある。

 世界の底辺でうごめくものに対して「がんばれない時もあるさ」という、作者、はるき悦巳の優しさに満ちた悲しみの目が嬉しいのだ。
 
 と、ここまで書いて気づいた。

 これはつまり、井上ひさしがコミックス(一巻だったか?)の後書きに書いている、「はるき悦巳は悲しみの目で世界を見ている」ということと同義だったのだ。

 最初にその文章を目にして以来、長い時間が経つが、わかったつもりでいて、その実、真からの理解はできていなかった。

 どうやら、人の悲しみを理解できるには、人生の有限さを実感できるようになることが必要らしい。つまり歳をとる、ということだ。
 
 この作品、特に、二十巻ぐらいまでは、はるき悦巳の精神的ポテンシャルも高く、関西文化圏の中級以下の喫茶店および食堂では、必ず揃えておかねばならないほどの盛り上がりを見せていた。

 当時、多くの安食堂や喫茶店で、労務者ふうの男たちは、先をあらそってコミックスをむさぼり読んでいたものだった。

 週間ポスト、文春はおいていなくても、「大スポ」と「週間アクション(じゃりン子掲載紙)」「じゃりン子チエ」を置かない店はなかった。

 彼らの多くは、自覚が無いまま、自分の境遇を認めてもらいたくて(または自分自身に認めたくて)「じゃりン子チエ」に耽溺していたのではないか。

 まあ、そんなに深読みしなくても、おそらく「駄目な男を取り巻く優しい環境(人々)」という設定は、つねに人を惹きつけるものなのだろう。



 12月20日、夏に放映され高視聴率を得ていた「結婚できない男」のDVDが発売される。


 普段は、スカパーだけを観ているため、地上波の番組には疎いのだが、今夏、海外に住む知人が観たい番組あるといってきたのでテレビ番組を録画したことがあった。

 翌日、うまく録れたか、チェックしがてら流し観したところ、この番組がめについたのだ。

 最初に観たのは第四回だったのだが、それもよかった。

 この番組は、三人の演出の持ちまわりでやっているのだが、同じ脚本であるとは思えないほど、脚本家によって出来が違う。

 あえて、名前は出さずにおくが、1、4、7、10はおすすめだ。特に第4回は秀逸。


 この阿部 寛演じる「結婚できない男」も、困った男である。

 偏屈、狭量、自己を曲げない身勝手さで、まわりに迷惑をかけまくる。

 「じゃりン子チエ」のテツに似ているようで、ちょっと違うのは、彼が、人に認められる職業を持っている上に、見てくれが良い点(らしい)だ。

 どうも、人は、こういった人物に興味半分にお節介をしてしまうらしい。

 公式サイトはこちら http://www.ktv.co.jp/shinsuke/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

土曜の夜は「土曜日の虎」

 先頃、スカパーで「土曜日の虎」が始まった。

 で、どういう内容なのかは知らなかったが、とりあえず録画はしておいた。

 その後、観よう観ようと思いながら、忙しくてその暇が無かったのだが、今朝、目を覚ましてから、十話ばかり一気に観てしまった。


 主演は成田三樹夫。

 もう、今の若い人は知らない人が多いだろう。

 知っている人も、再放送され続けている松田優作「探偵物語」に出てくる「クドーちゃ〜ん」の刑事役か、深作欣二のヤクザ映画、あるいはテレビドラマ「影の軍団」における、ワル公家としての成田三樹夫の姿を知っている程度に違いない。


 確かに、彼ほどワル公家の似合う男はいなかった。

 眉毛を塗り込んで隠し、その上に公家眉(丸っこいやつね)を書き、公家装束を着て、ニヤリと悪巧みをする彼には、独特の凄みがあった。


 1990年に、彼の訃報を聞いた時に、これで銀河一ワル公家の似合う男を失ったとがっくりしたものだった。

 このがっくり感は、あの高品 格(たかしな かく)を失った時に、島宇宙一カツ丼を出すタイミングのうまい刑事を失ったと感じた喪失感以来のことだった。(高品格はロボット刑事のガンコ刑事役も良かったな)


 人生の後半をワル役専門として生きた成田三樹夫が、若き日に正義派主人公を演じたのが、この「土曜日の虎」だった。


 原作は、社会派の、といっても松本清張のようなコテコテドスグロ社会派ではなく、もっと洒脱でヒロイックなサラリーマン社会派モノを得意にしていた、ジャーナリスト兼作家、梶山季之(としゆき)だ。

 同じ社会派でシリアスなタイプながら、清張と梶山が違うのは、その不遇期間の長さの違いだろうか?

 比較的、若い時期に芽が出た(三十過ぎ)梶山と、歳をとってから新人賞を受賞した(40過ぎ)清張とが、腹に抱える不遇感に違いがあるのは仕方がないし、そういった感情は作風に出るものだ。

 余談ながら、わたしは松本清張という作家は良としない。
 話の内容も嫌いだし、彼の作品が、後に社会派小説のウエィブを生み出す原動力になり(時代が要求したということだろうが)、その結果、本格推理など、もっと夢のある推理小説分野を圧迫してしまった罪は許し難いからだ。

 社会派に非ずんば推理小説に非ず。この風潮が、日本の小説界与えた影響は大きい。

 これは、ソ連崩壊前、マルクス学者であらねば経済学者にあらず、と、学会を席捲していたマルクス主義たちに似ているな。

 まあ、彼らの大部分が、ソ連崩壊後ナリを潜めてしまったというのはご愛敬だが。


 また、松本清張が、作家デビュー以前の不遇だった自分を否定して、一切顧みなかったという逸話には背筋が寒くなる。

 自分の人生を否定する輩の小説なんか読みたくないのだ。

 他者に対しては、苦労人ありがち!な傲岸不遜な態度をとる一方で、ドラマ化作品には出演者として登場するという目立ちたがりでもあったらしい。

 もっとも、梶山の作品は、今や顧みられることは少ないが、清張の作品はいまだにテレビドラマ化されている。

 それだけ世の人の感性は、人生を恨んだ男のそれに近いということなのだろうか?

 いや、きっと、梶山が早世(45歳)したのに、清張は長生きした(享年83)ということがその原因なのに違いない。



 それはともかく……梶山の「土曜日の虎」

 作品の出来は、なんというか、かなり良い。

 まず、モノクロの映像が良い。死刑台のエレベーターなど、フランス製フイルム・ノワールと同等の美しさがある。

 音楽も、梶山が作詞したオープニング曲はともかく(ひどいド演歌!)、挿入曲やエンディング曲は、当時新進のジャズミュージシャンであった山下洋輔が手がけ、それがモノクロ映像と相まって斬新な効果を生んでいる。

 メインキャストの成田三樹夫が「社会正義」を連呼するミスマッチ感が嬉しい。

 誰かがブログで書いていたが、成田の髪型がレゴみたいでダサカッコイイ!?



 また、昭和三、四十年代にデビューした美形女優の大半が、若い頃は下卑た顔をしている中にあって(吉永小百合とかね)、当時から、吸い込まれるように大きくつり上がった目をしている江波杏子の美しさ。

 嬉しいことに、当時のスカートもミニが全盛だったので、美しい足もみることが出来て大満足。

 椅子に座ったりする時も、イマドキの女たちがやるように、ドスンなんて興ざめな座り方は決してせずに、さっと手でスカートを押さえて優雅に「腰掛」けるのだ。


 ゲストに出てくる藤岡重慶(西部警察やあしたのジョーの丹下段平の声だな)や芥川隆之(水戸黄門のナレーションでしか知らなかったなぁ)、ぽっちゃりとして愛らしく、もちろん美しい、キーハンター以前の野際陽子も素敵だ。

 だが、何より街の景色がなんだかいいんだなぁ。

 建物がいい。道路に車が少ないのもいい。 

 街行く人のファッションも、ミョーに短いコートに細身のネクタイなど、かなり好みだ。(個人的には、今の女性のファッションは肯定するが、男のファッションは断固として否定したい。ズボンをずらして何がカッコイイものか?もともとのツクリがみっともないものだから、わざとブラックメンのまねをして「際どい粋」を狙っているのだとしたら大間違い、背は伸びても、短足サル面の君たちがブラックピープルを気取っても、やはりサル以下でしかない)

 自分ではしないのだが、ネクタイってなんだか好きだから、登場人物の全員が細身のネクタイをしていると妙に嬉しいのだった。(今のネクタイは太すぎて、よだれかけみたいで不愉快だ。また、政治家たちが、見せかけだけの省エネでするノータイも個人的には大反対)


 ただ、ひとつ気に入らないのが、登場する男たちが、あからさまに女性を低く見た発言をすることだが、時代が持っていた疵だから仕方がないのかなぁ。
 あのスタートレックですら、ファーストシーズンでは、作中で「女のくせに」発言をしているのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 4日 (月)

人は、裏切る、のか? 〜髪結い伊三次〜


 この秋、スカパーの「時代劇専門チャンネル」で、かねてより気になっていた「髪結い伊三次」の一挙放映があった。

 なかなか書けずにいたのだが、この機会に、テレビドラマ版「髪結い伊三次」について書いておこうと思う。

 中村橋之助、涼風真世、村上弘明と、キャストはまずまずだし、何より宇江座真理の代表作の初めての実写作品ということで、少しだけ期待して観たのだった。
(このところ、原作付きの作品の実写化でろくなものがなかったのでね。コトーとか)

 本当のところ、わたしはこの作品についてほとんど何も知らなかった。(十数年も地上波を観ずに過ごしていると、こういう弊害が起こる)

 ただ、原作のハードカバー版「幻の声」の帯に、テレビ放映の写真が載っていたのと(古本だから放映はとうに終わっていたのだが)、文庫版の髪結い伊三次シリーズ第二弾「紫紺の燕」のあとがきに橋之助自身が撮影余話を書いていたので、番組の存在は知っていた。

 制作年度は1999年。
 九話作られただけで、今に至るも続編はなし、ということから、あまり人気が出ず話題にもならなかったのだろうと考え、今回の放映があるまで、気にはなっていたが、ぜひ観てみたいとは思っていなかったのだ。

 で、その出来具合といえば……


 そのまえに、まず「髪結い伊三次」についてひとこと。
 別項でも述べたが、原作者の宇江座真理は、廻り髪結いの伊三次を主人公にした「幻の声」でオール読み物新人賞を受賞、デビューを果たし、現在もなおこのシリーズを書き続けている。

 つまりこの作品は、作家、宇江座真理と共に歩んでいる作品で、作者のリアルタイムな足跡でもあるのだ。

 宇江座真理は、世間的には人情話の作家ということになっている。
 だが、作品を読むにつれて、本当にそういった評価で良いのか、と疑問を持ってしまう。
 確かに、ほろりとさせる良い話も書くが、その反面、シリーズ物の重要な人物にさえ、人を裏切り、安心できない面を見せさせてしまう厳しさも持っている作家だ。
 おそらく、そのデビューが比較的遅く、それまでかなり(金銭的な苦労を)していた(本人談)ため、人生を塩っ辛く捉えたがるのだろう。

 ご本人も、確かに人情話は好きなのだろうが、そういった表層のヴェールをはぎ取っていくと、その根底にあるのは、やはり人は裏切るという諦観なのだ、そういう気がする。

 わたしなどのように、甘っちょろい人情ものが好きなヤカラには、今までさんざん信頼し、世話になっていながら、とつぜん掌を返したように主人公を見捨てたりする人間関係を示されると、ザラついた違和感を感じて心底好きにはなれないところもある。

 本人が後書きで「宇江座は人情は書けるが物語は書けないという批評がある」などと言っているのをみると「逆じゃねぇの?」などとつっこみを入れたくなるほどだ。

 それゆえ、テレビドラマになった時に、そういった冷たさが、わたしと同じ甘っちょろい人情ものを好きな一般人に受けなくて、全九話、続編なしになったのではないかと考えていたのだが……


 結論からいうと、このTVドラマは非常に良かった。

 随所に、テレビ特有の詰めの甘さは散見されるものの、原作で「それはないじゃないの」という、顔は笑っているが目が笑っていない体の、宇江座真理式展開が、上手に払拭されている、というか、素直な人情ものに置換されているのだ。それがたいへん心地よい。

 思い返して文庫本の、橋之助の解説を読み直すと、なかなかに原作の深いところまで読み込んで登場人物を理解していることがうかがい知れるし(もともと宇江座氏は、彼の兄の勘九郎「現、勘三郎」の廻り髪結い姿を見て本作を思い立ったらしい)、橋之助自身もこの役には思い入れがあって、大のお気に入りだったと述懐している。

 そういった心情理解に加えて、歌舞伎役者であるがゆえに、着物の着こなし、足の運びは言うことなく、ふとした仕草に見える指先の動きにも細心の心配りがあって、所作すべてが美しくすばらしいのだ。

 もとアクション俳優(スカイライダー!)の村上弘明の殺陣(たて)も、二枚目だけが取り柄の榎木某や、コイツこんなに運動神経なかったの?と驚く仲代某などのようなへっぴり腰ではなく迫力がある。

 わたしにとっては、るろうに剣心の声優というイメージしかなかった涼風にしても、さすがにヅカ出身だけあって、啖呵と気っ風が江戸の華といわれた活きの良い辰巳芸者をみごとに好演していた。

 さすがに言葉遣いは現代風、武家の妻も眉を落としてはいなかったが、それ以外は、かなり江戸時代の風俗にこだわった作りであるのも良かった。

 メインテーマが葉加瀬太郎のヴァイオリンによる「Brazil」(あの未来世紀ブラジルでも使われていた)だというのは、当初、違和感があったが途中から気にならなくなった。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、余談ながら、作者についてひと言。
 宇江座真理氏の経歴については、北海道の大学出身で現在住ということしか知らないのではっきりとしたことは言えないのだが、どうも彼女は「江戸の人情」について、多少の勘違いをしているような気がしてならない。

 彼女の作品を読んでいると、仕事の都合上、北海道(過疎地域)に移り住んでいる友人が言っていた言葉を思い出す。

「こっちは、近所づきあいが濃密で、それが個人の詮索に近いものになってしまっている。引っ越しの手伝いは、みんな気さくに来てくれるけれど、荷物を運びながら中身をのぞき込んで品定めをしているような感じがする」

 もちろん、若い女性のひとり暮らしということで、多分に彼女の被害妄想もあるとは思うのだが、そこに多少の真実が混じっているとするなら、こうも考えられるのではないだろうか。

 北方(特に地方都市)は自然が厳しい、明治以前から続く開拓の歴史を通して、人々は助け合い団結しなければやっていけなかった。

 ゆえに大都会とは違い人間関係が濃密になる。
 家同士の行き来が多くなり、干渉することも多くなろう。

 だが、東京、大阪など、古くから(東京は、ほんの350年ほどだが)の大都市では、生活の機能が都市に委託されている。
 つまり、家風呂でなく銭湯、台所には包丁がなく外食が多く、家でなく外で酒を飲む。女が欲しくなれば妻ではなく遊郭に向かうのだ。

 これは、江戸の男女別人口比が、極端な男多女少であったためだ(もともと江戸に住むことが許された町人は、ただ江戸城を維持するための職人として集められた、という経緯がある)。

 ゆえに、江戸の男の多くは生涯独身だった。

 そういった男たちが長屋に住み、日々やっさもっさと押し合いながら暮らしていたのが、都会の、いや現実の江戸の姿なのだ。

 何がいいたいかというと、現代同様、こういった家庭の機能が都市に委託された環境では、人間環境は希薄になっていくはずだ、ということだ。

 自分自身の稼ぎがあれば生活していける。

 他人とは関わらなくても大丈夫。

 だが、実のところ人はそれだけでは生きてはいけない。

 (北国と違い)自然が優しいが故に、また生物的、物理的に生きていけるが故に、かえって他者との関わりを積極的に求めようしてしまう。

 いわゆる、お節介心が芽生えてしまうのだ。

 団結しなければ生きていけない北の国とは、この点が違うのではないかとわたしは思う。

「関わりあわねば生きていけない過酷な環境のお節介」と「しなくても良いが、ついしてしまうお節介」この違いが、北の国と江戸との違いではないかと思うのだ。

 それこそが、江戸、大坂の人情噺の根幹ではないかと。

 利害関係で培われたお節介なら、自分に不利益になればすぐに切り捨ててしまえる。

 だが、そんな厳しい心持ちでは、「どうしようもない人」を、捨てきれずに構ってしまう人情に決して辿り付ないのではないだろうか。

 この点を、宇江座氏は少し勘違いしているのではないか。

 北国的なお節介(というのは心苦しいが)を人情と思って物語を組み立てていると、一見、深い親交があるように見えながら、不利益を感じるとあっさりと斬ってしまえる、そんな薄情な人情噺になってしまうのではないか?

 失礼を承知で言わせてもらえれば、私には、なんだか彼女が、江戸にあこがれて江戸を模倣、制作しようとするものの、根底のところでそれを果たせていないように思えるのだ。

 そうした点が、もうすぐDVD発売がなされる、この夏人気だった「結婚できない男」や
「じゃりン子チエ」との大きな違いなのだと思う。

 まあ、これは別項に譲ろう。

 だが、そういった欠点を、脚本のちからで修復されたのが、テレビドラマ「髪結い伊三次」だ。
 観て損はありませんぜ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

血を流すヘラクレス 〜007カジノ・ロワイヤル〜


 公開日が映画の日に重なったので、「007カジノロワイヤル」を観てきた。

 平日ながら、映画の日と重なったために、かなりの人出を覚悟して、インターネット予約をして出かけた。

 映画のエントランスに入ると、予想通りにえらい混雑。

 やはりシート予約をしてきてよかったと思いながら、エレベーターで三階大劇場に上がると……まったく人影がない。
 大きな劇場に、パラパラとまでいかない人影があるだけだった。
 予約した劇場のド真ん中通路寄りに座ると、横一列にはほとんど誰も座っていない。

 じゃあ、あの人混みはいったいなんだったんだと思っている内に、場内が暗くなり、予告編が始まった。
 来年5月の「スパイダーマン3」やイーストウッドの「硫黄島」のあと、画面が16:9に広がり本編が始まる。


 その前に、「カジノ・ロワイヤル」について一言。

 この映画はリメイクである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 最初の映画は、1967年に制作された。
 しかも、エスピオナージュ(スパイモノ)のパロディとして。
 監督はあのジョン・ヒューストン監督!
 出演者も、訳が分からないほど豪華。

 デイビット・ニーヴン、ピーター・セラーズ、オーソン・ウェルズ!そして、ウディ・アレンなど。

 音楽制作は、おそらく同じパロディのオースティン・パワーズはこれを本歌取りにしたであろうバート・バカラック。(個人的には「カジノ・ロワイヤル」は映画史上の名曲のひとつだと思う)バカラック特有の都会的で洒脱なメロディが最高にイカしていた!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 という、ハリウッド映画史の中でも特異な位置を占める作品を、真っ向から大まじめにリメイクしたのが今回のカジノ・ロワイヤルなのだ。

 この映画、公開前から酷評をうけていたのがボンド役のダニエル・クレイグだ。
 スピルバーグの「ミュンヘン」で傭兵役だったクレイグは、金髪碧眼、マッチョタイプのどちらかというとハンプティダンプティ、ずんぐりむっくりな印象の男だった。

 イアン・フレミングの原作はともかく、初代ボンドのショーン・コネリーの印象が強すぎて、大部分の人は、ボンドといえば大男だがスマートで髪は黒、みたいなところがあるから反発するのも無理はないだろう。(もっとも、長くボンド俳優を続けたロジャー・ムーアはスマートな大男であったが、やはり金髪碧眼であったのだが)

 なんせ、二十代の頃から出演依頼があったものの、いくらなんでも若すぎるということで、歳をとるのを待って再度オファーされたという伝説のあるピアース・ブロスナンの後任だ。文句を言われても仕方がないのかもしれない。

 しかし、個人的には、こういったマッチョ・タイプの男が主演の映画というのは嫌いではないから、期待してオープニングを迎えたのだった。






 で、観終わってどうだったか?

 まあ、面白いのではないか、というのが正直な感想だ。

 特筆すべきなのは、本作で、監督はボンドを「血を流すヘラクレス」として描いている点だ。

 殴られて血を流し、うめき声をあげ、斬られて血を流し、叫び、毒を盛られて死にかける。

 あまつさえ、素っ裸にされて、股間を巨大なロープで殴りまくられるというおまけつき。

 こう書いてしまえば、ダブルオーというより、MI(ミッション・インポシブル)という感じもするな。
 ちっこいトムより、大きなクレイグにMI4の主役をしてもらいたい。


 とにかく、今までの、殴られてもクール、殴ってもクール、どつかれると唇を拭うが決して血は見せないボンドとは違って、今回のボンドは高価なドレスシャツが血まみれになるほど血を流し続けるのだ。

 アクションの戦闘神ボンドではなく、血を流し呻く肉体派、人間ボンドだ。

 肉体派で思い出したが、コネリーボンドの髪が薄くなるのに従って、人気が陰り始めたのをきっかけに(特に、海が舞台のサンダーボール作戦で、水から上がったコネリーの髪がバーコード状態になったのがイタかった)、主演役者が切り替えられた際に、一作だけ主役を張ったジョージ・レーゼンビィの「女王陛下の007」も、ロケットやヘリコプターなどの奇天烈なマシンを出さずに、スポーツマンボンドの溌剌とした肉体を主に描いた作品だった。

 この作品で、生涯ただ一度の結婚をしたボンドは、その直後に妻を射殺される。
 個人的には好きな作品で、LDも持っていました。

 余談ながら、十年近く前、深夜テレビ「エマニエル婦人」で登場する白髪の紳士がレーゼンビィであることを知ってショックを受けたのだった。彼は老いてエロ俳優と化していたのだ。

 その「女王陛下〜」以来の肉体派ボンドが主演のこの映画、ボンドが007になる前の話、などと思わせぶりな言葉が予告にある、がそんなことはない。

 彼は、登場した時からダブルオーだった。
 ただのスポーツ野郎が組織に目をつけられてスカウトされる「トリプルエックス」のようなことは断じてない。

 内容については、取り立てていうべきことはないが、毒を盛られた時の対応などに、悪しきドタバタ感があって、ちょっと興ざめすることが残念といえば残念な点だ。

 主なお客様であるアメリカ国民の、平均知的レベル14歳にあわせてあるのだろうが、そんなことをする必要はないのに、というのが正直な感想だった。

 ちなみに、公式サイトは、ここ http://www.sonypictures.jp/movies/casinoroyale/ 予告編もここで観ることができるはず。アクションはさすがに凄いよ。


 そうそう、映画が混んでいたのは、同時公開のキムタク主演「武士の一分」に、妙齢のご婦人方が殺到したためだということが、その後の調査で判明しました。(この「武士の一分」は藤沢周平の短編「盲目剣谺(こだま)返し」の映画化だ、これについても書きたいことはあるのだが、他項に譲ることにする)



P.S.
 恥ずかしながら、この映画を見終わって強く思い出したのは大藪晴彦の主人公、特に伊達邦彦だった。 
 ボンドの、公称、身長180センチ胸囲120センチ、体重90キロという肉体的スペックや、急所を攻撃される拷問、そしてタクシードを着こなして上流階級の巣窟へ入り込む野獣といったイメージなど、マーティン・キャンベル監督はDK(DATE KUNIHIKO)のファンなのではないかと思ってしまうほど「諜報局破壊班員」に似ているのだ。

P.P.S.
 ハゲを露呈し、ヒーローとしては致命的ダメージを被ったショーン・コネリーは、念願の007降板を手にして以降、演技派の道を歩むことになるが、後に、件(くだん)のサンダーボール作戦のリメイクに、自ら出演することになる。
 プロダクションを異にするために007の名を公に付けることはできなかったこの作品は、「もうやらないなんて言わないで」(Never Say Never Again)と名付けられ1983年に公開された。真偽のほどは定かではないが、この「NeverSay〜」は、「もうボンドはやらん」とゴネるコネリーに対して彼の妻が言った言葉とされている。
 んで、この「ネバー〜」は、わたしがダブルオー作品の中で一番好きな映画なんだなぁ。

 特にオープニングで、ミッシェル・ルグラン(男と女)の甘くヒロイックな曲をバックに、髪に白いものが混じり、顔に皺の刻まれたコネリーが戦闘服に身を固めてジャングルを失踪する姿は、鮮やかで美しくすらある。

 彼の上司であるMは、きちんと男であるし(しかもエドワード・フォックスがやっている!シブイ)、Qはちゃんとワケの分からない秘密兵器をボンドに渡して迷惑をかけている。

 中盤で、衆目の中、コネリーとヒロインのキム・ベイシンガーが踊るタンゴは、ちょっと下手っぽいけどカッコいい。

 そして、敵とのバーチャル・ゲームマシン勝負で、打ち負かした敵から
「負けた時、君はわたしほど潔いのかな」
と尋ねられ、
「さあ、負けたことがないからわからないね」
と言い返すボンドのカッコよさ。うーん。また観返そう。
 (勢いあまって、USA版と日本版のDVD二枚持っています)

P.P.P.S.
 いくらでも追伸が続くが、もう一言。

 この映画で、わたしは、水都ヴェネツィアの問題を改めて知った。

 映画のラスト、ヴェネツィア(アメリカ人は発音できないからベニスと呼ぶが)で、恋人とヴァカンスを楽しむボンドは、いきなり最後の戦いに突入する。
 彼の最終決戦場は水都ベネツィアのとある家屋になるのだが、ここで、階上からマシンガンに狙われたボンドは、一階に置かれた黄色いタンクのようなものを狙撃する。
 するとそのタンクは妙な爆発を起こし、その衝撃で階上の敵はふっとばされるのだった。

 オープニングでも、多数の兵士に取り囲まれたボンドは、ガスボンベを狙撃して爆発させ、脱出しているが、そんな火を伴う爆発ではないし、それほど威力もない。

 んが、その途端、建物自体が斜めになり、水中に沈み始めたので、ハタと膝を打ったのだった。

 こいつは、工事用のガスボンベなどではなく、「浮き」なのだと。
 水没化激しい水の都では、このように多くの建物にウキがつけられているのだ。

 ただ、問題でもあり、ショックでもあったのは、映画の中で、何の説明もなく(普通は登場人物の誰かに、説明的独り言を言わせるはずだ)、ごく当たり前に浮きを撃ち、爆発させたことだ。

 それは、説明不要なほどに、ベネツィアの水没化は深刻だということを意味する。
 地盤沈下著しい(一説によると年2センチとか)この都が、すべてフローターの上に浮かぶようになるのもそう遠い未来では無いのかもしれない。

 だが、それは困る。ベネツィアへはまだ行ったことが無いのだ。

 わたしが、愛する女性と二人でゴンドラに乗って、船頭にカンツォーネを歌わせるまではどうか沈まないで欲しい。

 おいアメリカ、こんな映画作ってる暇ないぞ! 早く例の条約に批准しろ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年11月 | トップページ | 2007年12月 »