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2006年9月10日 (日)

じめついた南洋 「Dr.コトー診療所」



 10月の続編放送に先立って、フジテレビ721で、Dr.コトーの一挙放映があり、それを観る機会を得た。

 原作コミックは読んでいたものの、ドラマの方は観たことがなかったので、かなり期待してみたのだが……。


 以下、かなりショックを受けたので語調が荒くなる。

 テレビ版が好きな人は、お読みにならないほうが良いでしょう。


 原作を知っていて、テレビのほうは、なんだかな、と思った方のみお読みください。















 ううむ。原作がもったいない。


 コミック原作を実写にすると酷いものになることが多いが、実際、これほどまでとは思わなかった。

 思いつくままに、気になった点を列挙すると、


(壱)
 原作にない無駄な登場人物が多すぎる。
 ex.看護婦の父、バァの女、病院の事務員など

 不断の連載ものを、一時間番組用に切り取ると内容が薄くなる、だから、そのための時間稼ぎにサイドストーリーが必要なのはわかる。

 だが、そのための登場人物が、バァの姉ちゃんである必要はないだろう。そんなことをするから、後に述べる、物語のテーマである「本来あり得ない、孤島における天才による最先端医療」から「お涙ちょうだい都会人による人情田舎暮らし奮闘記」化してしまうのだ。

 バァの女は、もともと医療に関係していた、あるいは医療がらみの問題で島に流れ着いた女、あるいは、せめて医者に騙されて恨んでいる女といった設定にしなければ……



(弐)
 主要キャラクターの看護婦が屈折しすぎている。
 それも、苦労したあげくの屈折という感じではなくて、まるで両親に恵まれ、苦労知らず、わがままいっぱいに育った自己主張ばっかりのバカ娘みたいな……あれ、なんだ、テレビ版では両親がそろってたんだな。

 原作のように、父が愛人と家出し、看護婦だった母を亡くした苦労人という設定ではないのだ。

 ダメだこりゃ。

 役者もマズイかなぁ。
 柴咲某(ナニガシ)とかでは、原作の清楚で凛とした感じが出ない。ギスギスしているし、まるで水商売の女だな、あれでは。




(参)登場人物のすべてが、本来、男らしさを売る海の男、しかも南洋の漁師らしくなく、陰湿かつ内向的すぎる。

 特に時任三郎が悪い。

 原作では一度信じた五島医師のことを最後まで信じている。

 テレビのように、十分に馴れ合っていながら、唐突に「まだ信じてはいない」などといいだしたりはしない。
 まるで気まぐれな女性のような性格に感じるなぁ。
 ま、少なくとも荒くれ漁師ではないな。

 無論、田舎の人々が閉鎖的で陰湿なところがあるのは、わたしも田舎育ちなのでわかっているし、原作でも島民は多分に閉鎖的ではあるが、原作以上の陰湿さが気にかかるのだ。

 たとえて言うと……まるで、岡ひろみに対する音羽のような、ってわからんかな。
 つまり、女子ばっかりの運動部での、目立つ新人イビリみたいな感じがする。

 ことほどさように、シリーズ全体的に男らしさを感じられない。
 というか、女々しさばかり鼻についてしまう。
 全島総女性化というか、なんというか……

 もちろん、それは脚本がすべて女性ということも関係しているだろうし、ターゲットを原作の青年誌読者ではなく、女性にしていることもあるだろう、だが、あまりに骨のない内容、演出にするのはいかがなものか(というのも、原作が男性によるもので、しかも結構ヒロイックな演出が多いからだ)。


(四)そして、離島における医者の意義について、制作者は勘違いしているように思える。
 これは先の閉鎖的で排他的、ということにも関連するが、無医島にやってきてくれた医者で、しかも内科医でなく、手術さえしてくれる外科医であれば、島民は多少のキズには目を瞑るのではないかということだ。

 戦後、無医村の村に多くのモグリ(無免許)の医者が潜んでいたが、人々はそれを知りながらも糾弾したりはしなかった。

 モノのない土地では、それが何であれ、存在すること自体が重要なのだ。

 盲腸で、風邪で倒れて肺炎であっさり死んでいくくらいなら、モグリ医者でもいたほうがはるかに良い。

 まして、ホンモノの(しかも働き者の)外科医の経歴を云々して、すぐに私設裁判まがいのつるし上げなどするわけがない。

 まったくの荒唐無稽だ。

 実際、原作では、そんなことをしていない。

 それは、充分に医者が存在する都会に住む者の感覚だ。

 マンションの自治会が、廊下やエントランスの清掃を委託している業者の経歴を云々うするような感覚、とでもいうのだろうか。

 それとも、脚本家たちは、単にそういったつるし上げが好きなのだろうか?

 「つるし上げられている吉岡クンが素敵」とかね?

 冗談じゃないな。



(伍)
 登場人物が安易に「裏切られた」という言葉を使いすぎる。しかも海の男たちが、だ。
 わたしの知る限り、フツーの男は、決定的な裏切りにあわない限り「裏切られた」などとは言わないものだ。

 そういった言葉を多用するのは女性に多いような気がする(が、こういった言動は非難を受けることも多いからひかえるようにせねば)。



(六)
 最後にテレビ版の最大の欠点は、先にも述べた、原作におけるテーマであり、原作コミックの要約にもはっきりと記載されている、

「孤島に降り立った天才外科医」

 の姿を、まったくといってよいほど描いていない点だ。

 Dr.コトーは天孫降臨に倣った話だとさえいってよい。
 本来、このような土地には居るはずのない神が地上に降り立つ話だと言い換えてもいいのだ。

 少なくとも原作ではそういった内容だった。

 なにせ、かつて、神に愛された少年芸術家を描いたマシュー等「芸術三部作」を生み出した作者なのだから。

 だが、

 テレビ番組を観る限りでは、

 ただの凡庸な医師が、閉鎖的なドイナカ孤島民たちの中で、孤軍奮闘して人間関係を築いていき、その合間に、本来のストーリーには何の関係もないバアの姉ちゃんと子供のカクシツ(好きだねぇ)などを描いている作品、


 にすぎない。



 観ているうちに、そのべっとりとしめったような濡れ落ち葉脚本、演出に鳥肌がたってきてしまった。

 子供と動物、それに老人を使えば、泣けるハナシにできるのはハリウッド映画でも常識だ(パーフェクト・ワールドやハリーとトントとかね)。

 だが、それだけでは物語として新しく制作する意味がない。

 制作者は、そんな安易なお涙頂戴にのっかると思うほど、視聴者をバカにしているのだろうか。

 まあ、のっかるヒトが多いのだろうけど。


 おそらく、テレビ版を好む人たちと私とは「感動を覚えるベクトル」が違っているのだろう。

 わたしが感動する点はふたつ、
 激しい恐怖、圧迫にあっても両足を踏ん張って目をそらさず、それらと向きあう姿と、健気な態度だ。

 ベクトルが、この向きであれば、力の大きさがいかに小さくとも大感動してしまう。

 たとえれば、別項でも述べたが、ハックルベリィ・フィンが、脱走した奴隷を「神の意志に従った」「正しいこと」として役人に突き出す手紙を書こうとし、「ああ、これでオレは天国に行ける」と晴れ晴れとした気持ちになりながらも、やがて心の奥深い気持ちに突き動かされて手紙を引き裂き、「よし、それでは僕は地獄に行こう」と自らに断言する、そんな態度だ。

 テレビ版、Dr.コトーに、そんなヒロイックな決意、態度はあるのか?

 子供を使った健気さの表現は、安易すぎて感動できない。(その点は「三丁目の夕日」も同様だ)




 しかし、10月から始まる続編は、いったいどうするのだろう。

 原作にある、自らのトラウマから、患者の手足を片っ端から切断する医師の登場を、番組はどう扱うのだろうか?

 まあ、きっとそのエピソードは回避するのだろうな。

 甘ちゃん脚本、演出は、「息子ともうひとの患者のどちらを先に治療するかでピィピィわめく親」程度の緊張感しか扱えないだろうから。




 原作を読みたい方はこちらで
  http://www.ongakukoubou.com/k_blog/k_fvrt.html

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