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2006年9月

2006年9月10日 (日)

じめついた南洋 「Dr.コトー診療所」



 10月の続編放送に先立って、フジテレビ721で、Dr.コトーの一挙放映があり、それを観る機会を得た。

 原作コミックは読んでいたものの、ドラマの方は観たことがなかったので、かなり期待してみたのだが……。


 以下、かなりショックを受けたので語調が荒くなる。

 テレビ版が好きな人は、お読みにならないほうが良いでしょう。


 原作を知っていて、テレビのほうは、なんだかな、と思った方のみお読みください。















 ううむ。原作がもったいない。


 コミック原作を実写にすると酷いものになることが多いが、実際、これほどまでとは思わなかった。

 思いつくままに、気になった点を列挙すると、


(壱)
 原作にない無駄な登場人物が多すぎる。
 ex.看護婦の父、バァの女、病院の事務員など

 不断の連載ものを、一時間番組用に切り取ると内容が薄くなる、だから、そのための時間稼ぎにサイドストーリーが必要なのはわかる。

 だが、そのための登場人物が、バァの姉ちゃんである必要はないだろう。そんなことをするから、後に述べる、物語のテーマである「本来あり得ない、孤島における天才による最先端医療」から「お涙ちょうだい都会人による人情田舎暮らし奮闘記」化してしまうのだ。

 バァの女は、もともと医療に関係していた、あるいは医療がらみの問題で島に流れ着いた女、あるいは、せめて医者に騙されて恨んでいる女といった設定にしなければ……



(弐)
 主要キャラクターの看護婦が屈折しすぎている。
 それも、苦労したあげくの屈折という感じではなくて、まるで両親に恵まれ、苦労知らず、わがままいっぱいに育った自己主張ばっかりのバカ娘みたいな……あれ、なんだ、テレビ版では両親がそろってたんだな。

 原作のように、父が愛人と家出し、看護婦だった母を亡くした苦労人という設定ではないのだ。

 ダメだこりゃ。

 役者もマズイかなぁ。
 柴咲某(ナニガシ)とかでは、原作の清楚で凛とした感じが出ない。ギスギスしているし、まるで水商売の女だな、あれでは。




(参)登場人物のすべてが、本来、男らしさを売る海の男、しかも南洋の漁師らしくなく、陰湿かつ内向的すぎる。

 特に時任三郎が悪い。

 原作では一度信じた五島医師のことを最後まで信じている。

 テレビのように、十分に馴れ合っていながら、唐突に「まだ信じてはいない」などといいだしたりはしない。
 まるで気まぐれな女性のような性格に感じるなぁ。
 ま、少なくとも荒くれ漁師ではないな。

 無論、田舎の人々が閉鎖的で陰湿なところがあるのは、わたしも田舎育ちなのでわかっているし、原作でも島民は多分に閉鎖的ではあるが、原作以上の陰湿さが気にかかるのだ。

 たとえて言うと……まるで、岡ひろみに対する音羽のような、ってわからんかな。
 つまり、女子ばっかりの運動部での、目立つ新人イビリみたいな感じがする。

 ことほどさように、シリーズ全体的に男らしさを感じられない。
 というか、女々しさばかり鼻についてしまう。
 全島総女性化というか、なんというか……

 もちろん、それは脚本がすべて女性ということも関係しているだろうし、ターゲットを原作の青年誌読者ではなく、女性にしていることもあるだろう、だが、あまりに骨のない内容、演出にするのはいかがなものか(というのも、原作が男性によるもので、しかも結構ヒロイックな演出が多いからだ)。


(四)そして、離島における医者の意義について、制作者は勘違いしているように思える。
 これは先の閉鎖的で排他的、ということにも関連するが、無医島にやってきてくれた医者で、しかも内科医でなく、手術さえしてくれる外科医であれば、島民は多少のキズには目を瞑るのではないかということだ。

 戦後、無医村の村に多くのモグリ(無免許)の医者が潜んでいたが、人々はそれを知りながらも糾弾したりはしなかった。

 モノのない土地では、それが何であれ、存在すること自体が重要なのだ。

 盲腸で、風邪で倒れて肺炎であっさり死んでいくくらいなら、モグリ医者でもいたほうがはるかに良い。

 まして、ホンモノの(しかも働き者の)外科医の経歴を云々して、すぐに私設裁判まがいのつるし上げなどするわけがない。

 まったくの荒唐無稽だ。

 実際、原作では、そんなことをしていない。

 それは、充分に医者が存在する都会に住む者の感覚だ。

 マンションの自治会が、廊下やエントランスの清掃を委託している業者の経歴を云々うするような感覚、とでもいうのだろうか。

 それとも、脚本家たちは、単にそういったつるし上げが好きなのだろうか?

 「つるし上げられている吉岡クンが素敵」とかね?

 冗談じゃないな。



(伍)
 登場人物が安易に「裏切られた」という言葉を使いすぎる。しかも海の男たちが、だ。
 わたしの知る限り、フツーの男は、決定的な裏切りにあわない限り「裏切られた」などとは言わないものだ。

 そういった言葉を多用するのは女性に多いような気がする(が、こういった言動は非難を受けることも多いからひかえるようにせねば)。



(六)
 最後にテレビ版の最大の欠点は、先にも述べた、原作におけるテーマであり、原作コミックの要約にもはっきりと記載されている、

「孤島に降り立った天才外科医」

 の姿を、まったくといってよいほど描いていない点だ。

 Dr.コトーは天孫降臨に倣った話だとさえいってよい。
 本来、このような土地には居るはずのない神が地上に降り立つ話だと言い換えてもいいのだ。

 少なくとも原作ではそういった内容だった。

 なにせ、かつて、神に愛された少年芸術家を描いたマシュー等「芸術三部作」を生み出した作者なのだから。

 だが、

 テレビ番組を観る限りでは、

 ただの凡庸な医師が、閉鎖的なドイナカ孤島民たちの中で、孤軍奮闘して人間関係を築いていき、その合間に、本来のストーリーには何の関係もないバアの姉ちゃんと子供のカクシツ(好きだねぇ)などを描いている作品、


 にすぎない。



 観ているうちに、そのべっとりとしめったような濡れ落ち葉脚本、演出に鳥肌がたってきてしまった。

 子供と動物、それに老人を使えば、泣けるハナシにできるのはハリウッド映画でも常識だ(パーフェクト・ワールドやハリーとトントとかね)。

 だが、それだけでは物語として新しく制作する意味がない。

 制作者は、そんな安易なお涙頂戴にのっかると思うほど、視聴者をバカにしているのだろうか。

 まあ、のっかるヒトが多いのだろうけど。


 おそらく、テレビ版を好む人たちと私とは「感動を覚えるベクトル」が違っているのだろう。

 わたしが感動する点はふたつ、
 激しい恐怖、圧迫にあっても両足を踏ん張って目をそらさず、それらと向きあう姿と、健気な態度だ。

 ベクトルが、この向きであれば、力の大きさがいかに小さくとも大感動してしまう。

 たとえれば、別項でも述べたが、ハックルベリィ・フィンが、脱走した奴隷を「神の意志に従った」「正しいこと」として役人に突き出す手紙を書こうとし、「ああ、これでオレは天国に行ける」と晴れ晴れとした気持ちになりながらも、やがて心の奥深い気持ちに突き動かされて手紙を引き裂き、「よし、それでは僕は地獄に行こう」と自らに断言する、そんな態度だ。

 テレビ版、Dr.コトーに、そんなヒロイックな決意、態度はあるのか?

 子供を使った健気さの表現は、安易すぎて感動できない。(その点は「三丁目の夕日」も同様だ)




 しかし、10月から始まる続編は、いったいどうするのだろう。

 原作にある、自らのトラウマから、患者の手足を片っ端から切断する医師の登場を、番組はどう扱うのだろうか?

 まあ、きっとそのエピソードは回避するのだろうな。

 甘ちゃん脚本、演出は、「息子ともうひとの患者のどちらを先に治療するかでピィピィわめく親」程度の緊張感しか扱えないだろうから。




 原作を読みたい方はこちらで
  http://www.ongakukoubou.com/k_blog/k_fvrt.html

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2006年9月 8日 (金)

各論賛成、総論反対 〜有頂天ホテル〜


 有頂天ホテルを観た。

 実のところ、わたしは三谷幸喜の作品をほとんど観たことがない。

 「古畑任三郎」を何回か観ただけだ。それも斜め観で。
 だから、彼のギャグのセンスというのがどの程度なのか分かっていなかった。
 ただ、人気があるのは知っていたので、興味があって本作を観たのだった。


 また、劇場で観た予告では、

「最悪の大晦日は、最高の奇跡の始まりだった」

とあったので、数々起こるであろうイベントが最後にどのように収束し、奇跡となるのかも観たかったのだ。

 それを実現するためには様々な伏線を張り巡らせて、最後に一息にそれを引き絞る、計算と力業がともに必要だし、わたしはそんな話が大好きだから。


 さて、観終わった感想だが……

以下ネタバレ含、未見者注意(って、随分まえの作品だから皆観てるだろうけど)。



















 「有頂天ホテル」は、G・ガルボ、J・バリモア出演の往年の名画「グランドホテル」にインスパイアされた作品で、いわゆる「グランドホテル方式」(*)に話はすすんでいく。

(*)豪華なスターを多数使った人間模様を描く群像劇。一日や数時間など、短い期間に限定した設定が多い。

 撮影手法において、三谷氏は、かなりの長回しを採用している。

 これほどワンシーンを長く撮り続けた邦画監督は、最近では伊丹十三以来ではないだろうか。
(そういえば、アメリカ配給もされた「タンポポ」には、若き日の役所広司が出ていたなぁ。渡辺謙も)



 大晦日の夜、東京での生活に見切りをつけて故郷に帰るベルボーイ香取慎吾が最後の業務を行う中、副支配人の役所広司のもとに、垂れ幕の文字間違いや、灰皿で料理を取り分けている客の問題など、さまざまな難題が押し寄せてくる。

 それらすべてを手際よく片付けているように見える役所ではあるが、彼は所々抜けている男でもあった。

 そこへ、汚職疑惑でホテルにこもっている佐藤浩市や、元愛人?である従業員松たかこ、明日が新春公演のこけら落としで劇場から近いという理由で宿泊に来た芸人西田敏行などが絡んで話は進んでいく。

 大まかな流れとしては、役所広司の先妻が、とある賞の受賞パーティに出る夫に従ってホテルにくることで始まる役所のドタバタがひとつ、あとは香取が長らくラッキーアイテムとして使っていたマスコット人形を小道具として、それが人から人へと渡っていくうちに、人々にさまざまな幸運(ともいえないが)をもたらしていくという展開がある。


 ●結論からいうと、結構楽しめました。笑える箇所もたくさんあったし。


 だが、各エピソードの作りは緻密とは言い難く、かなり杜撰(ずさん)でいきあたりばったり、おまけに最後まで話の手当をしていないから、それぞれが破綻してしまっている。

 まるで安っぽいテレビのドラマみたいだ。

 なにより、観終わって、

「ああ良かった、現実にはこんなことあり得ないけど、すっきり終わって、気持ちよく家に帰れるからいいよな」

という気分になれないのがいけない。

 あまり問題点をあげつらうのはやめるが、どうしても気になった点を二つ三つ。

 まず、佐藤浩市演じる政治家、武藤田(って、こんな名前使って大丈夫なのか)は設定からしていけない。
 汚職政治家として登場させてしまったら、大晦日を境に奇跡が起こっても救われることなどあり得ないのだ。

 ここは、彼の問題を「ムシの居所が悪かった時に道行く老人を突き飛ばし、それがたまたま全国中継されてしまった」程度のイメージダウンにとどめておくべきだった。

 これなら、人命救助などの(それが偶然でも)行為を再びテレビ中継されたら、一度にイメージは元に戻るだろう。まあ、このあたりの平仄(ひょうそく)のあわせ方が、脚本の腕の見せ所なのだ。

 それをこの映画のように、「汚職政治家がホテルにこもり、いろいろあって、すべてを暴露すると記者会見を用意させたあげくに土壇場で逃げ出した」としてしまえば、もう小汚い、しかも今後の問題山積の政治家にすぎなくなってしまう。

 まったくもってハッピーではない。観ている我々もハッピーにはならない。

 確かに政治家は汚い。しくじっても責任をとらず、物事をうやむやにして、次の選挙による禊ぎ(ミソギ)を待って、政界に返り咲くことなど日常茶飯事だ。

 でもそれを視聴者、ああこの場合は映画の観客だな、のコンセンサスとして、かつての愛人、松たかこの口から「みっともなくてもいいから、なんとか政治家として生き延びて、世の中をよくするぐらいになってみて」といった台詞を言わせるのはいかがなものか。

 それだけで決意が変わってしまうのは佐藤浩市のキャラクターらしいが。

 だが、彼の口からは「政治家としてやりたいこと」など一言も語られていないのだ。それどころか「オレの一番の犯罪は政治家になったこと」などといっている。

 松の言葉は完全に上滑りしてしまっている。

 あまっちょろい男を、さらに甘やかせるだけの女。これは男に甘えるだけの女より遙かに悪女だ。

 それほどまでに別れた男を憎んでいるのか、と背筋が寒くなる。

 ここは、佐藤が本当に汚職に関係していたとしても「あの人は、女に弱いしエエカッコしいだけど、そんな悪いことをする度胸なんてないから、汚職なんかやってない」
と、別れて今は好きでも何でもないけど、かつて愛した男についての知識に対する自信を示し、「堂々と正しいことを証明しなさい」といったたぐいの言葉を言わせるべきだった。

 もうひとつ、松の言動には問題がある。

 それは、話の流れである社長の愛人になりすました彼女が、会ったことのない、しかしながらベッドメイクの際に、部屋の散らかりようにいつも激怒していた女の擁護を突然始めることだ。

 親子ほども年の離れた津川雅彦演じる社長との関係を。

 これはなんだかクサい、というか脈絡がなってない。

 それまでは「客室係に軽蔑されるような女になってはいけない」と正論を吐いていたのに。

 こういった点は、この映画にいくつか見られる。

 おそらく、ホテルに泊まることも多く、ホテルについての取材もし、知識も豊富であろう三谷が、現場の言葉を吸い上げて使っている部分は生き生きと魅力的なのだろう。

 松の先の発言などが典型的な例だ。

 そして、三谷が自分のセンスで書いた台詞はステレオタイプでダメなのだ。



 あと、西田敏行がいけないなぁ。

 「三男三女婿一匹」などのオバカTVドラマ、あるいは「サンキュー先生」に出ているころは、濃いけれど許せるところのある役者だった。

 しかし、大河ドラマの主格を張り、ツリバカという定番映画を持つようになるころから、多くの人気役者が辿る道を歩まされているように見えて仕方がない。

 つまり、オエラくなってしまったのですな。

 泉ピン子や大竹しのぶ、桃井かおりと同様の変遷だ。

 本人もエラクなっているつもりなのかもしれないが、それよりいけないのは、周りがそう扱うことだ。

 本作でも、いかにもあるような、精神不安でかつチャレンジする若者を馬鹿にするような言動を発する大物演歌歌手を、まったくもって不愉快かつハマッタ芸で演じている。

 私が嫌いなのは、おエラクなった者が、幸運八割という事実を忘れ(たとえ本人がどれほど苦労努力をしたとしてもだ)カサにかかった物言いをすること、あるいは、早めに引導を渡してやった方が本人のため、ビッグネームから「才能ねぇよ」って言われたら諦めもつくだろう、それが売れっ子芸人の優しさなのだ、などと、わかったようなことをいってオトナぶる負け犬たちだ。

 おそらく、三谷のまわりにはこういった事例がたくさんあるのだろう。

 また、わたしの経験からいっても実際そうだ。

 芸能界を生き延びるのは並大抵ではない。

 だが、だったら、どうして西田は、香取の要請で舞台衣装にまで着替えて記者会見の場に現れたのだろう。

 40年も芸能生活をやっていれば、ガクは無くとも、芸人としてメリットのある舞台かそうでないかをかぎ分ける能力は身に付いているはずだ。また、そうでなければ一流の芸人ではない。

 少なくとも、政治部の記者が集まる記者会見の場所へ、会見をキャンセルした政治家を逃がすためだけに、知り合ったばかりの素人の頼みで現れるはずがない、

 しかも、あげくに政治部の記者に完全に無視されるとは。

 それが三谷が大物演歌歌手の傲慢さに与えた鉄槌なのだろうが……ちょっと違うなぁ。

 まったく……

 三谷が作った西田演じる演歌歌手のキャラクタは、芸人を小馬鹿にしているとしか思えない。

 ここは、香取と即席のユニットを組んで、部屋で共に歌った曲を披露し、政治部記者に混じっていたワイドショー記者から、やんやの喝采を浴びる、ぐらいでいいのではないかぁ。

 それこそが「ミラクル」ではないか。

 実のところ、この物語で、奇跡なんてどもこにも起こっていないのだ。



 「有頂天ホテル」
 各論では、いろいろ笑っておもしろい映画なのに、総論としては、あまり良い映画とは思えないできだった。


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2006年9月 6日 (水)

僕と彼女のメランコリィ (海の向こう約束の場所)

 海の向こう約束の場所を観た。

 この項は作品を観てないとわからないでしょう。
 以下ネタバレです。
















 作業の多くを一人でこなすという、この映画の作者、新海 誠は、メジャー・デビュー「ほしのこえ」以来、遠く引き裂かれる若い恋人たちの憂鬱を、手を変え品を変え描き続けている。

 この映画も、正に、若さに特有のメランコリー、否、孤独感を、まるでラスヴェガス近くの廃ガスタンド跡といった風情の、妙に乾燥した廃駅を背景に展開している。

 ひと気のない朽ち果てた建物、それはいかにもノスタルジィを感じる風景ではあるのだが、はたしてそういったチューボー時代の思い出に、高校に毛が生えたくらいの歳の若者が、チョイフケオヤジが学生時代に感じるような郷愁を抱くものだろうか、という疑問は残る。

 むろん、意識の深層部が眠り続ける恋人とつながっているための孤独、それゆえの郷愁という説明はできるだろうが、ちょっと独りよがりの感じが強い。

 次元転移実験の副作用で眠り続け、その夢の中で「世界の中心でたったひとりで体育座りする」女の子という設定もストレート過ぎてツライものがある。

 平行宇宙を「現宇宙の見る夢」と位置づけるのは、ママある手法ではあるが、それならもう一歩踏み込んで、自分たちの宇宙こそが平行宇宙の見ている夢なのだ、という「胡蝶の夢」的不安感を作品に持ち込んでも良かったのではないだろうか。

 誰もいない世界にひとりいる少女の見る夢こそが、我々の世界なのだと。

 彼女が夢見ることをやめたら世界は消えるのではないか、と。

 主人公の少年が、いみじくも「僕には、佐由理が輝く世界の中心にいるように見えた」と言っているではないか。

 この言葉にもっとウエイトを置いて、少女を軸に、我らの島宇宙を裏返すような力業も見てみたかったというのが、わたしの正直な感想だ。

 この話は、もともと我々の世界ではない、平行宇宙を描いた、別のタイムラインの世界の話なのだから。

 北海道がロシアによって占領されている世界。

 主人公にとって「約束の場所」とは、ユニオンと称する露助連合によって四十数度線を境に外国になってしまった北海道、蝦夷に立つ巨大アンテナ(なのか、よくわからん)で、それはただのランドマークに過ぎない。

 そこにいけば、何かがあるというわけではない。ただ行ってみたい。

 単純に、星にあこがれる星ネズミのようなものだ。

 だが、それは「スター・レッド」で、少女レッド・星が火星にあこがれるのとは一線を画している。

 セイにとって火星は故郷だ。だから郷愁を感じる。
 それこそ、深層心理に植え込まれた見知らぬ記憶、本来あり得ぬ郷愁によって、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。

 だが、「海の〜」の主人公にとって、塔はそれほどのあこがれの場所ではない。

 少年らしい、巨大で未知なるものへのあこがれにすぎないのだ。だけどいつも気にはかかっている。

 だから、少女が唐突に姿を消した後、東北から東京の学校に移ると、エヴァンゲリオン体質の陰気で無気力な生活に埋没してしまうのだ。ここらへんの平仄はあっているのだが……

 「スター・レッド」の話をしていて気がついたのだが、彼のメランコリックな表現文法(妙な言い方だが)は、少女漫画のそれに近いのではないだろうか。

 改めて考えると思考方法、感性もそれに近いように思える。
 おそらく、作者、新海誠は少女漫画野郎だったに違いない。
 しかも昭和四十年代〜五十年代の萩尾望都、竹宮恵子あたりのファンだ。

 ブラッドベリやヴォグト、ニーヴン、カート・ヴォネガット・ジュニアなどの、活字によるSFファンではなく、女流漫画作家によるSFコミックによってできあがったSFファン、という評価が妥当なところかもしれない。

 しかし、それでいいのか?

 かつて漫画をかくために漫画だけを読むな、とはよく言われたものだが、アニメの場合はどうなのだろう。


 それはさておき、本作は、キーワードである「約束の地(プロミストランド)」を、望んで得られぬ理想の地だと考えるのは少年期を過ぎた我々の考えであって、(愛する少女と)正にその約束の地に居ながらそれとは気づかず、いずれは出て行かねばならぬその場所で、あるはずのない場所を必死に探すことこそ若者の特権なのだという真実を、はっきりと示し得た作品ではあった。


 といった、ちょいカンネン的な話はこっちにおいて、もう少しざっくばらんな感想を付け加えよう。

 全体に、この作品の値打ちを下げているのは、少年たちに対する大人のキャラクタとして登場する鉄工所のオヤジの存在だと思う。

 なにやら裏の組織とツルんでロシアに仇為そうとしているのは分かるのだが、何せオヤジの線が細い。

 新海は、おそらく押井の作品に影響されて、そういった大人キャラを作ったのだろうが、ガワだけ作って魂が入っていないというか、なんだかスカスカな感じがして仕方がないのだ。

 (このあたりからも彼がコミックやアニメによって作られた作家であることも見て取れる) 

 精神的なゴクブト(極太)感がないというか……

 そういったところに、作者のガキっぽさが出てしまったのだな。

 考えてみればわかるでしょう。地下で暗躍するレジスタンスの闘士が、子供を使った作戦など実行するはずが無いことは。

 それが、たとえ間違っていようとも、子供には任せず、自分たちの力で異次元転移塔を倒そうとするはずだ。

 子供に頼るような軟弱な心持ちで地下を生き延び、巨大な国家に仇為すことなどできるはずがない、と思っていなければレジスタンスなど三日ももたない。

 もし子供を使うなら、捨て駒として使うべきなのだ。

 個人的に、好きではないが、そのあたり押井やその弟子たちはよく分かっている。

 さすが遅れてきた全学連闘士。

 新海誠は、こういったオヤジを出す前に、せめて「テロリストのパラソル」を何度か読み返すべきだった。

 それはさておき、この作者に対して、SF要素を排した作品を作った方が良い、とする意見があると聞いたが、それは間違いだではないかと思う。

 理由は先に述べたが、新海誠は「ほしのこえ」の頃、いやそれ以前からの、生粋のSF野郎なのだ。

 まずマンガ好きでアニメ好きなSF野郎で、加えてメランコリックでセンチメンタルなノスタルジィが好きなだけだ。

 その順番は、決して逆ではない。

 まずSFありき。それが彼のストーリィメイキングの基礎となり、発想の原動力になっている。

 ゆえに、SFを抜きにしてメランコリックかつセンチメンタルなハナシのみを描こうとしたら、バラスト抜きのヨットを海に浮かべるのと同様、直ちに転覆して二度と浮かぶことは無いだろう。

 近々、そういった作品に本格的にチャレンジするとのことなので、どうなるのか楽しみに待つことにしよう。

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死ぬより、恐ろしいこと X−MEN FINAL Decision


 X−MEN FINAL Decisionを見た。(注意:以下、ネタバレ含)






























 今回の第三作は、なんというか……駄作です。二作目もダメだったけど。 

 X−MENとは、本来、スタートレックのピカード艦長演じる車椅子の「エグゼビア教授」のもとに集った正義の超能力者たちが、エグゼビアのかつての盟友マグニート率いる悪の超人たちと闘うストーリー、だったはず。

 エグゼビアズメンという意味でX−MENと呼ばれていたはずだ。(ミュータントは、X遺伝子をもつとかいうハナシもあったが)


 えてして軽くなりがちな、こうしたB級半映画のオモシとしても、彼の硬柔併せ持つ演技は必要だったはずだし、前二作では確かにそれが機能していた。


 なのに、ああそれなのに、映画開始早々エグゼビア教授は、第二作で仲間を護るために捨て身の防御をして死んだ(と思われていたが、今回、悪の二重人格を発動させて蘇ったという訳のわからん設定の)赤毛のジーンによって、あっさりと殺されてしまうのだ。

 おまけに、時折カートゥーン・ネットワークで観たことのあるアニメ版X−MENでは明らかに主役を張っている、ということは、おそらくコミック版でもそうであるはずの、レーザー・アイを持つサイクロップス(名前もふるってるし)も、開始十分ほどで何の活躍もなく犬死にするのだ。

 恋人ジーンに殺されて。

 映画が始まってから死ぬまでに、サイクロップスがした行為はジーンを思って泣くことだけだったというのも情けない。


 これだけ殺せば、あとはアニメでは脇役の、体が丈夫というのだけが取り柄という地味な能力で粗野な「ウルヴァリン」と、第一作出演後にアカデミー女優となったおかげで、二作以降では、原作以上に活躍をしはじめた、ハル・ベリー演じる「スト−ム」とアイスマン、物質通過能力をもつキティなど、小物の登場人物が残るだけだ。

 これで魅力のある映画が出来るわけがない。


 まあ、それでも、ただひとつだけ見るべき点がこの映画にはある。

 以前、わたしは「変容は恐ろしい」と題して、普通の人間がヴァンパイアになることの恐怖について書いたことがある。

 だが、その反対の恐怖もありえるのだということを、この映画は教えてくれた。

 今回、映画で重要な役目を果たす小道具は、超能力を(おそらくは永遠に)奪い去る薬(キュアと称する)の発明だ。

 この薬液を打ち込まれると、一瞬で超能力を失い普通の人になってしまう。

 猿は樹から落ちても猿だが、政治家は選挙から落ちたらヒト以下だ、などと言われることもあるが、超能力者から能力をとってしまえば、彼のすべてが否定されたに等しいことになってしまうだろう。

 その自信その世界観からその不安にいたるまで、すべてが変わってしまう。


 かつてクロサワが「静かなる決闘」で描いた、世界のミフネ演じる軍医が負傷兵の手術をしている時に誤って指を傷つけ、その結果梅毒に感染した、その瞬間のような恐怖がそこにはあるのだ。

 キュアは超能力者を選びはしない。

 もし、X−MENたちが、彼らが護ろうとするヒトの軍隊からフレンドリィ・ファイヤー(誤射)を受けたら、一瞬で能力を失い、人類のために闘うこともできなくなるのだ。
 これは、激しく弾の飛び交う戦場で、突然、ノーヘル、ノー防弾チョッキの丸腰になってしまうようなものだ。

 なにより、キュアは、超能力者として自立するために闘っていたマグニートの部下たちには最悪の薬だ。

 一瞬でその戦闘能力と共に戦闘意義すら失ってしまうのだから。

 かつてこれほど恐ろしい薬はあっただろうか。

 小室孝太郎の描いた「ワースト」、あるいは最近リメイクされた「Dawn of the Dead」(ゾンビモノ)ですら、ゾンビィに咬まれたら手榴弾を抱いて敵の群れに突入し、華々しくヒトのまま死ねたのだ。

 だが、この薬をうたれた悪の超能力者は、普通の人になるだけだ。
 化け物になるわけではない。
 だから、爆弾を抱いて敵に突っ込むことすらできないのだ。

 かつて、マグニートのため、命をかけて献身的に尽くしていた変幻自在の変身美女ミスティークすら、超能力を失った途端、ヒトに寝返ってべらべらと情報を話始める。



 金門橋を持ち上げる、ド派手な(とも思えなかったが)戦闘シーンより、こういった、ちょっとでもかすったら死ぬより怖い事態が起こるという緊迫感の方が、よっぽど映画を盛り上げたはずなのに、それがあまり効果的には使われていなかったのが残念だ。


 突如、超能力がなくなったX−MENなんて、パンツを脱いだサル以下の情けなさなのだから、そうなるかもしれない戦闘シーンというのは何とも不安で魅力的だったのだが……

 監督が替わったのが原因とも思えない。二作目もツマラナかったから。

 まあ、出演俳優も段々有名かつ偉くなってきたし出演料もかさむ、それやこれやで、今回でシリーズは絶対打ち止め、と宣言するために、エグゼビアを殺しサイクロップスを殺しジーンを殺し、ミスティークと最後にはマグニートも、ただのヒトにしてしまったのだろう。

 その結果、良いところはあるが傑作とはとてもいえない作品になってしまった。

 よくもまあ、原作者が許したものだ。

 余談ながら、闘いには一切参加せず、すべてが終わってからノコノコと薬によって「フツーの女の子」になって帰ってきた、かつての名子役アンナ・パキン演じるローグ(第一作はまさしく彼女を中心にストーリーが進んでいた)にもガマンがならない。

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2006年9月 5日 (火)

遍歴しないバルタザール


 「バルタザール」といえば、聖書に出てくる東方の三博士(マギと称される)の一人なのだろうが、私にとっては「アルルの女」に出てくる召使いの名前のイメージがある。

 アルルの女に入れあげる主人公を擁護する召使いの名だ。

 この、曲は有名だが、ストーリーのあまり知られていない歌劇は、後世の名作の例に漏れず初演は不評だった。

 作曲者のビゼーは、あの「カルメン」も「アルルの女」も酷評を受け、不遇のうちにこの世を去った。不幸なことだ。

 アルルの女といえば、気になることがあった。

 洋の東西を問わず、古来より、「白痴がいる家、村には不幸が訪れない」という言い伝えを持つ地域が多い。
 同時に、どうしたわけか、その者が徐々に正気を取り戻すにしたがって、周りに不幸が訪れ始めるというジンクスも同時に伝わっている。

 召使いバルタザールが登場する「アルルの女」も同様で、それがストーリーの骨子でもある。

 なぜ、白痴が魔を退けると考えられたのか?「無垢なるもの」であるがゆえに、その精神的な白さが闇をはらうと思ったのかもしれない。

 それは、そう思うことで、実際に村の役には立たない者を大切にしようとする原初福祉精神の現れだったのだろうが、同様のことが西洋で言われていたというのは、なんだか不思議だが、おそらく日本と同じ理由なのだろう。

 しかしそれならば、なぜ正気に戻ると「悪いこと」が起こると考えられたのだろうか?

 単に、守り部がいなくなった結果、普通程度に「悪いこと」が起こるようになりました、ではいけなかったのか。

 思うに、「無垢なる者」は、ただ魔を避けるのではなく、その多くは村や家に富をもたらしたのではなかろうか?

 無垢なる者の力による富貴かどうかはともかくとして、少なくともそう思える例がいくつかあったのではないか?

 それなら不幸が起こり始めるというのもわかる。

 人々は「無垢なる者」を擁する富貴者は容認したものの、「無垢」でなくなった家族を持つ金持ちは、うらやみ、やっかむ対象にするだろうから。

 そして、人から恨まれる者には、なぜか不幸が起こりやすいものだから。


 余談ながら、小松左京の、この世で一番怖い怪談「牛の首」のように、主人公をたぶらかし、ストーリーを動かす原動力となっている「アルルの女」は最後まで物語には登場せず、その存在が語られるだけだ。

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