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2006年4月

2006年4月19日 (水)

量産は傑作を生む 〜赤いハンカチ〜


 キカイは量産されると、そのロットによって、モノにばらつきが生じる。

 箸にも棒にもかからないものと、程度の良いものが出来るのだ。

 映画も、その全盛期、量産されたものは、玉石混淆(ぎょくせきこんこう)で、イシも多いが素晴らしい玉もある。

 ハリウッド映画では、「カサブランカ」などもそのひとつだ。

 そして、日本でも映画の全盛期、量産されたものの中に、素晴らしい作品がいくつかあった。

 先日、仕事で使うため、物置にしまってあったLDプレーヤーを引っ張り出したところ、以前に集めたLDディスクも出てきたので、なんとなく見返してみたところ、新たに感銘を受けた作品があったので、ここに記しておく。


 北国の春も行く日 
 俺たちだけが  しょんぼり見てた
 遠い浮き雲よ
 死ぬ気になれば ふたりとも
 霞の彼方に   行かれたものを


 ある刑事が、逃走しようとした参考人を過って射殺する。
 親友が、奪われた銃で狙われていたからだ。

 その結果、彼は、ほのかな思慕を寄せていた参考人の娘から「人殺し」と痛罵され、自らを、世間の表舞台から追放する。

 四年後、望んでするものなど誰もいない、荒涼とした北国の作業場で、自らを罰するように重労働を続ける彼を、一人の男が訪ねてくる。

 その男は、彼のかつての親友が、大成功を収めた少壮実業家になっていることを告げ、その資金が汚れたものである可能性があるといった。
 あの参考人を巧妙に殺すことで、手に入れた金ではないかと。

「もとより、あんたは疑っちゃいない。あんたはバカだ。利口なら、こんなところで世捨て人みたいな生活なんかしちゃいない。ここは地の果てだ。やって来るのにえらく苦労したよ」

 親友を侮辱するな、と憤る主人公に、男は、
「あんたが殺した男の娘も、いまや実業家夫人だ。あんただけが貧乏くじを引いたんだよ」
と言い放つ。

 手渡された新聞には、親友に寄り添う娘の幸せそうな姿が写っていた。

 下界に戻った彼が眼にしたのは、羽振りをきかすかつての親友と、すっかり上流夫人になった娘の姿だった。

 目の前に現れた彼をみた娘が、発する言葉が残酷だ。

「わたし、父のことで、もうあなたを恨んでいません。だから、あなたもお忘れになって」

 その夜、酒を飲み、自暴自棄になった主人公は、酒場で喧嘩をし、半殺しのめにあう。

 そこへ、例の男が現れ、叫ぶのだ。
「おまえ、見たな。見たんだな。今のふたりの姿を……だから、こんなに酔っぱらって」

 血反吐を吐きながら、彼はつぶやき続ける。
「ミンクのコートなんかを着て……違う……違う……清らかで……」
 男は、そう呻く彼を見下ろし、ぽつりと言うのだ。
「そうか、そうだったのか。お前は――」 

 すべてに裏切られた彼は、捨て身で真相を追い始める。

 とまあ、日活の「赤いハンカチ」は、こんな話なんだが、本当にわたしが好きなのは、親友を裏切った男の方なんだなぁ。

「俺はお前を裏切った。だが、俺はどうしても彼女が欲しかったんだ。お前は警察学校出身で出世が約束されていた。だが俺は、あのままなら頑張っても一生ヒラのままだったからな」

 そう嘯(うそぶ)く男の眼差しは妙に虚ろだ。あるいは、彼自身も、手中にしたものが友情を犠牲にするだけの価値があったか疑問に思っていたのかも知れない。

 そしてラスト。

 父が男の策略のために殺されたことを知った娘(=妻)に、手をさしのべて近づく彼に、彼女が手にした銃が火を吹く。
 火線は彼を貫き、よろめきながらも彼は歩き続け――妻から銃を取り上げると、自分に向けて引き金を引くのだった。

「いいか、俺を撃ったのは彼女じゃない俺は自殺したんだ」

 そのまま、くずおれた彼は、宙に手を突き上げ妻の名を呼び――死ぬ
 眼を見開いたまま。

 これがいい!
 およそ男に生まれたら、これはひとつの理想的な死に方だ。
 見果てぬ夢見果てぬ恋、そのふたつに手を伸ばして、その手が届かぬまま死ぬ

 こうありたいものだ、というひとつの生き様を、体現してくれるのが、わが母校の先輩であらせられるダンプガイ二谷英明なのだ。
 後の「特捜最前線」だの「片翼だけの天使」だのの、善人の彼しか知らない人は不幸だ。
 彼の真骨頂は、持てぬ身で、分不相応な夢を描いて、掴めずに終わる役にある。


 あるいは、事故で人を殴り殺した天才ボクサーが、世の中すべてから逃げるために、先にブラジルに渡った兄の頼りを待ち、待ち続け、そして待ち続けたあげく……悲劇が起こる「俺は待ってるぜ」

 若く、まだほっそりとしていた裕次郎が、経営する海沿いのレストランを閉め(この店が板張り洋風、しかも安っぽくていいんだなぁ)、家に帰ろうとしたところ、夜の海を見つめているひとりの女性をみつけて、店に連れてくる。

 いかにも自殺しそうな風情であったからだが、この女性、後の裕次郎夫人である北原三枝がイイ。
 ちょっとボーイッシュ硬質な美人でスキがない
  例えは悪いかもしれないが……昔、美術室においてあった、ギリシア神話をモチーフにした女神の彫像のような感じ。
 が、かといって、その態度は頑なでもない。男の話はきちんと聞いて理解もしているのだ。
 その硬質な美貌と簡素な服が、モノクロの画像と相まって美しい。

 実際、モノトーンで景色を、人を撮ると、どうしてこんなに美しくなるのだろう。
 
 学生の頃、写真部に所属していたわたしは、暗室で、現像液につけた印画紙にモノクロの画像が浮かび上がるのを見るのが好きだった(定着液の酢酸のニオイも)。

 それは、撮るときはカラーで確認し、構図を切り取りながら、印画紙に浮かび上がるのが硬質なモノクロ画像だったからだ。そこにはある種、世界の反転があり、センスオブワンダーがある。

 ま、それはともかく「俺は待ってるぜ」は、舞台設定もふるっていた。

 横浜の港近く、店のすぐ前を、おそらくは貨物運搬用のレールが敷かれ、ひっきりなしにコンテナが行き来している。
 店内には、船員たちがパイプをくゆらし、外国人の姿も見える。
 それがこの映画の舞台だ。

 雨に濡れた女性に服を与え、酒を飲まし、泊まっていくように薦める。
 主人公に下心はない。なぜならば、彼の心は、ここにはないからだ。
 若い見かけによらず、落ち着いた言葉遣い。ヤクザの構える銃を前にしても、ものに動じない態度。
 それらすべては、彼の心が「この場所」にないことから生じている。

 彼は繰り返し呟く。
「もうすぐ兄貴から便りが来て、俺はブラジルに行くんだ。ここは借りの住まいさ」

 体は横浜にあっても、心はすでに地球の裏側に行ってしまっている。
 
 そんな男だから、男に騙され続けてきた女も、安心して側にいるようになる。

 彼女は夜の女心と肉体が一致した男たちを見過ぎていたから。

 裕次郎のファッションもまたいい。
 晩年(太陽〜、西部〜)の彼しか知らない者にはわからないだろうが、このころの裕次郎には、ジャラジャラした装飾品がほとんどないのだ。

 洗いざらしのスウェット・ズボン(当時はパンツなんて言わないのだ)にTシャツ。あるいはその上にコットンのカーデガン。あるいは黒のスーツに細身のネクタイ。
 その全てがシンプルだ。
 身長183センチに対して足の長さが90センチ余というスタイルと相まって、すっきりとしたシルエットはまったくもってカッコイイのだ。


 最近は、キャラの立たないツマラナイ映画が多いから、昔のライブラリを見直したほうがいいかもなぁ。

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2006年4月11日 (火)

初心にかえれ! 牙狼 第12話

 みなさんは、建武の中興という言葉をご存じだろう。

「鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月に後醍醐天皇が親政(天皇がみずから行う政治)を開始した事により成立した政権のこといい、名称は、翌1334年に定められた「建武」の元号に由来する。
 近年では「建武政権」と書かれることが多い」

 まあ、ひらたくいえば、世の中を見て「これじゃぁ駄目だ」と思った大御所様(こいつぁ一般的に家康のことだが)が、満を持して歴史の表舞台に登場し、政治その他を自分の理想に戻そうとすることだ(もちろん、単に権力欲に衝き動かされていることも多い)。

 こういった、「中興」は、歴史でもよく見られる。

 特に長期政権においては、昨今の現状を憂い、開祖の気風に戻ろうと綱紀粛正や各種改革をする君主が数代おきに現れる(吉宗のマゴ、松平定信とかね)。
 その成否はともかくとして……。



 かつて、わたしがGAROを薦めた友人が先日言った。

「良かったのは第一回だけだった。今良いのはオープニングだけだな……」

 だが、12話を観れば、彼のその感想も変わるだろう。

 この回は、総合監督・脚本の雨宮慶太でなく『監督』雨宮慶太の作品なのだ。

 これを観ると、つくづく雨宮慶太は、画(え)の人なんだなぁと感じ入ってしまう。

 たった二十数分の番組で、「俺は他のヤツとは違う画を撮る!」というキモチがビンビン伝わってくる。

 そのアングルが、コマ割りが、やはり他の凡百の監督とは違うのだ。


 ぜんじろう演じる小物ホラーが、慌てて逃げる時に階段で躓(つまず)く、この時のカメラアングルが振るっている。


 あるいは、幼かった主人公が、厳しい修行に耐えて徐々に成長していく様を、体の大きさの違う数人の役者を横一列に並べ、同じ「型」を演じるシルエットで表現する。

 それは、まるでよくできた影絵のようにモノトーンが美しい画だ。


 今回、なにより感じたのは、他の監督とのGAROについての認識の差だった。

 GAROの基調が、ダークなホラー・ムービーであることは確かなのだが、第一回以降、各回の監督間に、その認識が統一されていない感があった。

 ヒロインとヒーローの、ちょっとした「恋の鞘当て」っぽいストーリーなど、GAROの世界には必要ないのだ。

 そんなものは「タッチ」に任せておけばいい。

 その点、主人公鋼牙と、父大河との思い出、そして父の死、幼き日の修行をベースに、「監督」雨宮慶太の撮るこの回は、突き抜けたヒロイズムを眼目としていながら、映像はあくまで「怖い」ものだった。

 だが、これ以上は語るまい。

 ぜひ手に入れて、この回を観て欲しい。

 原作、脚本、総監督の雨宮慶太が作ろうとしている世界はここにある。

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2006年4月 8日 (土)

Without Saying Good-Bye サムライ・チャンプルー


 サムライ・チャンプルーが終わった。

 もとより、制作されたのは随分まえの作品だから、今回、アニマックスで放映されていた分が終わったということなのだが……

 すっきりとした綺麗な終わりかたで、見終わってこんなさわやかな気分になったアニメーションは久しぶりだった。

 まさしくロードムービーの王道。

 若き日の医学生チェ・ゲバラの貧乏旅行を描いた佳作「モーターサイクル・ダイアリーズ」がそうであったように、ロード・ムービーとは、主に若者が経験する一片の夢だ。

 必ず終わりのある夢。

 夢であるが故に素晴らしく、そこから離れたくなくなる世界。

 そして、これは、多分にわたし個人の理想なのだが、終わったあとで、その終着点から元気に手を振って歩き出せる夢、それこそが最高のロードムービーだと思えてならない。

 ロード・ムービーの範疇(はんちゅう)には入らないかもしれないが、萩尾望都の「11人いる!」が「チャンプルー」と同様の感慨を抱かせる作品だった。

 萩尾望都は、「11人〜」「続・11人いる東の地平 西の永遠」の後、「スペース・ストリート」というギャグ漫画で、主人公たちの学生生活を描いていたが、この「チャンプルー」も、必ずアフターストーリーが描かれなければならないだろう。

 孤独なまま集まった三人が、旅の果てに、自分の中に欠けていたピースを見つけ、しっかりと自身に嵌め込んでゆっくりと歩き出す。

 さよならを言わずに別々の方向へ。



 実際、「カウボーイ・ビバップ」と、同じ者の手になるとは思えないほどに、「チャンプルー」の完成度は高かった。

 単にわたしがジダイモノを好きなだけかもしれないが、それだけが要因とも思えない。。

 機会があれば、全話ぶっ続けで観てほしい。

 そして自分の目で確かめて欲しい。

 玉石混淆(ぎょくせきこんこう)ではあるが、そのイシですら、凡百な作品よりは数段上であるものだから。

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