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2006年3月30日 (木)

声に出して読みたい日本語 〜おわりに〜

 この「声に出して〜」シリーズ(齋藤 孝著)は、ちょっと引っかかってはいたのだが、それほど気にとめてはいなかった。

 また、似而非(えせ)学者の憂国論の亜流だと考えていたのだ。(失礼ながら、あのバカ本「脳内革命」だとか「脳のトレーニング」とかとね)

 だが、この本を手にとって、「おわりに」http://kabulaya.sytes.net/koenidasite.htmを読むと、そんな考えは吹っ飛んでしまった。

 ここには、素晴らしい見識がある。そして、この文章自体が良き日本語としての美しさと力強さをもった名文だ(ちょっと熱すぎるけど)。

 ぜひ、ご一読願いたい。

 子供の頃、勉強など大嫌いで、休みのたびに、自転車で旅行する計画ばかり立てていたわたしですら、知らぬ間に、小学校の頃は「雨ニモマケズ」や「ぼろぼろな駝鳥」を、中学で朔太郎の「氷島」から「漂泊者」、「敦盛の最期」などを暗唱していたものだった。

 今の子供たちが、どれほど名文を暗誦できるだろう?


 折しも、日本でも小学校高学年から英語を教えることになった(*)。
 それも週に1、2時間程度という短時間だ。

 結論から言うと、これは間違っている。

 まず、国語と数学、社会の授業を充実させてから英語を考えるべきだ。
 と、まあ、それはここでは言わないとしても、学習時間に問題がある。

 英語が「便利」なコトバであることは、わたしも否定しない。
 わたし自身、そう思って、人並みに英語は勉強したクチだ。
 だが、学ぶなら全力でやらねば意味がない。

 週に一時間程度なら(後には増やす予定だとしても)、やる必要はない。

 害があるだけだ。


 「国を知りたければ、その国の言葉を学習せよ」

 英語学習の際に必ずいわれる言葉だ。確かに真実であろう。

 だが、これを引用する時の最大のマチガイは、国とは、まずアメリカでもブリテンでもなく、「母国」であるべきだ、ということだ。

 母国語とは日本語だ。


 英語を話せなければ不便だ、と人はいう。

 だが本当だろうか?

 はっきりいって、わたしは、道具としての英語と割り切るなら、あまり熱心に学習する必要などないと思っている。

 「毎日新聞、余録」に、インターネットにおいても英語の必要性は確かにあるので学習は必要だ、とあったが、それこそテクノロジを知らぬ文系バカの言動だと言わねばならない。

 そう遠くない近い将来、インターネット上の英語ぐらい、難なく日本語に変換するブラウザが登場するだろうから。

 もちろん、こちらが書くときも英語に自動変換してくれるに違いない。

 ポータブルの翻訳機も実現されるだろう。

 そうなった時に、他の分野の勉強を疎かにし、キカイ的に英語を理解、話す研鑽を積んだホンヤクキカイなど何の役にもたたない。

 エイゴが読めて話せるだけのバカは、お呼びではないのだ。

 自国の文化に根ざした視点から、世界を捉える見識と、語学以外の広範な知識を持っていることが、真の国際人としての条件なのだから。

 少々拙いエイゴを書き(ネイティブからすれば)話したって、ショガイコクのおエライ方々は耳を傾けないし、彼らに影響も与えられない。

 例え、話す言葉が、彼の国の言葉でなくても内容が大切なのだ。

 明治以降、長期にわたってガイコクゴ式インフェリオリティ・コンプレクスに悩まされるあまり、日本人は、学習の本質を見誤ってしまった。

 特に、太平洋戦争後に、ア軍に占領されたのがいけなかった。

「シノタマワク」(これも大陸からきた言葉だけど)より、「ぎみあがむ」の方が切実に必要とされてしまったのだから。

 だが、もうそんなトラウマから抜け出しても良い頃だろう。

 極言すれば、精神性という点で、外国にあるものは、一部の例外を除いて見るべきものが少ない。

 単に、マガイ物のレディ・ファーストと(実際、アメリカでは妻がサイフを握らない例が多い)、ココニハナイ景観に憧れて外国礼賛をするのはもうやめようではないか。

 外国とその生活、雰囲気に憧れるあまり、日本を脱出し、母国に帰るに帰れず、その地に留まらんがためだけに、外国人の男性と結婚する女性のなんと多いことか。 (男だってそうしたいんだろうけど、日本男児は外国女性に人気がないからねぇ)

 外国に行きたければ行けばいい。

 だが、忘れてはいけない。あなたはどこにいても日本人なのだ。

 通常、外国で暮らすことが長ければ長いほどそういった母国意識は強くなるものだ。

 その意味で、いろいろ物議をかもしたが、今回のWBCにおける鈴木一朗の発言は、しごく当然なものだった。(向こう30年云々は、オゴり過ぎだと思うが)

 もちろん、日本人でも、日本とその風土風習が嫌いな者もいるだろう。親子でも、どうしてもソリがあわない家庭があるように。

 そういった例外的な人は、どんどん外国に行ってくれればいい。

 だが、世の中のなんとなく、といった風潮で闇雲に外国礼賛に走り、とにかく英語を学習しないと、と考えるのは早計すぎる。

 母国を知り、ナショナリズムでなく愛国心を持つこと、これが大切だ。

 だが、どうやってそういった気持ちを国民に持たせるか?

 そのための一方法としては、逆接的だが、英語をある程度学んだ後、どんどん外国に出て行けば良いのではないかとも思う。
 三泊四日や、一週間程度の短い旅行ではなく、最低半月、できれば半年くらい外国に住むべきなのだ。

 外から見て初めて、自国の輪郭は分かるものだから。

 ただ、母国に対する基礎的な教養すらない若者が外国に行くと、母国と他国を比較することすらできずに、外国に埋没してしまう恐れがある。

 無知故の愛国心喪失が生じるのだ。

 国内でも同様のことは起こりえる。

 自国に興味を持たず、偽悪家ぶって、金儲け至上主義を吹聴する若者。
 マスコミもそれをおもしろおかしく煽り立てる。
 亡国の歩みだ。

 愛国心を持たぬ、拝金主義の国民は恐ろしい。
 たとえ自国を焦土と化しても、自分の利益だけを追求するだろうから。


 国と自然と文化を愛する心を育てさせる。

 そのために、時間という情け容赦ない批評家の手をくぐり抜けてきた名文を音読することは、すばらしい助けになることだろう。 





(*)もちろん、わたしも、とにかく外国語(特に英語)を学ばねば、という考え方が、学者を中心に根強い求心力を持っている事は知っている。

 戦後から(驚くべき事に)現在に至るまで、海外論文(主要な論文は英語に訳される)を如何に早く日本語に訳すかで、学会における地位が決まってしまうということが行われてきた。

 わたしの知る限りでも、複数の大学教授が、エイゴができるというだけで、凡庸な能力ながら学会で力を持っているという例がある(もちろん、見識ある学者からは鼻もかけられていないが)。

 そういった、大学教授から影響を受けがちな官僚たちが(彼らは一様に学会が好きだ。彼ら自身、権威と権力が好きだから役人になるのだから)、日本人には英語が必須だ、と考えるのは無理もない。残念だが。

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