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2006年3月

2006年3月31日 (金)

ただ黙って消え去るのみ さらばパソコン通信

 この3月31日をもって(つまり今日だ)、Nifty Serveがパソコン通信を終了することになった。

 http://support.nifty.com/support/tty/index.htm

 1987年4月から始まったということは、わたしなどは、ほぼその黎明期から会員となって、フォーラムのお世話になっていたのだったなぁ。

 初めて珈琲の生豆の焙煎方法を学んだのもニフティの電子会議だった。

 そういう意味では、明らかに大きな一時代が終わろうとしている。

 なのに、わたし自身、友人から知らされるまで知らなかったのだ。

 いま、パソコン通信の雄は(メスかもしれないが)、大きな拍手もなく、静かに去って行こうとしている。

 いまだにワープロ通信をやっている人々を置き去りにして……。

 だが、それはいいだろう。その人たちも、インターネットに切り替える良い潮時だ。

 今は、しずかに消え去ろうとしているかつての巨人を、ただ見送ろうではないか。

 さようならパソコン通信。

 はい「アプローズ!」(*)


(*)
 ご存じのように、米国の視聴者参加番組では、拍手のタイミングを合わせるために、スタジオ内にApplauseと書かれたライトが用意されているのだ。もちろん、日本でもそれは採用されている。

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S.I.G.! 不死身の男スカーレット



 アニマックスで、最近、フルCGの「新キャプテンスカーレット」が始まった。
 http://www.sonypictures.jp/tv/shows/captainscarlet/tvindex.html

放送データ
<スタッフ>
  監督:デヴィッド・レーン
  脚本:フィル・フォード
  アートデザイン:ドミニク・ラヴェリー
  共同製作:ゲーリー・ドノホー
  編集:アンディ・ウォルター
  製作:ハイパーマリオネーション
  シリーズ創作&製作:ゲーリー・アンダーソン
  音楽:クリスピン・メーレル
  デザイン:マーク・ハリス

<キャスト>
  スカーレット:落合弘治
  ブルー:咲野俊介
  デスティニー:落合るみ


オリジナル・データ、
  英制作年:1967
  日本放映:1968/1/2〜8/27
  放映局 :TBS
  物語  :火星の異星人ミステロンが地球人に復讐を開始した。偶然不死身の体となった
       スカーレットは戦いを挑む。

 サンダーバードの成功で大金を掴んだアンダーソン夫妻が、よりリアルな人形劇を作ろうとして、八頭身のカラクリ人形を制作、満を持して公開したのが「スーパーマリオネーション版」キャプテンスカーレットだった。(そして見事に失敗するあたりは、他の様々な分野でも繰り返されるパターンではある)



 火星調査に出向いたスペクトロンのメンバー、キャプテン・ブラックが、異星人のカメラを武器と勘違いして、先に攻撃した結果、宇宙人ミステロンが、地球人殲滅計画を発動することになる。

 この、「悪いのは人類」という設定は、神林長平の「戦闘妖精雪風」や「おわりなき戦い」、ウルトラセブンの「ノンマルトの使者」などでもおなじみだが、全体としてストーリーに陰影をつけすぎてしまうきらいがある。

 で、そのストーリーの続き――

 人類殲滅の手始めに、キャプテンブラックを洗脳し、悪のエージェントとして地球に送り込んだミステロンは、次いでスペクトロンのエース、スカーレットをも洗脳した。

 が、大統領暗殺に失敗したスカーレットは、高層ビルから転落して死んでしまう。

 のだが、ミステロンに「死なない体」に改造されていた彼は、即時蘇生し、洗脳も解けて、特殊能力を持ったエースとしてミステロンと戦い始めるのだ……というのが、オリジナルなんだが、どうも、このあたりが子供心に納得できなかった。

 なぜスカーレットが死なないのか、わからなかったのだ。
 はっきりとサイボーグだから、とでも言ってくれれば分かりやすいのだが、どうもそうではないらしいし(銃で撃たれると病院に入院したりする。で、来週完全復活!)、なぜ不死身なのかよくわからなかったのだ。

 今回のオールCG版(ハイパー・ーマリオネーションと呼ぶらしい)のスカーレットは、ミステロンに素粒子レベルから人体構成を変えられながら遺伝子は同じ、という設定になっていて、「だから」不死身だということなのだ。

 ナットク!……するわきゃないだろう!ますます分からない。

 しかし、オリジナルでは、この「不死身」というシチュエーションを逆手にとって、だんだんとスタッフも遊ぶようになり、毎回スカーレットの違った「死に様」を我々に見せてくれるようになっていた。

 ある時は蛇に噛まれ、砂に埋もれ、岩に押しつぶされ……

 ハリウッド映画に「八百万の死にざま」があるが、まさにそんな感じだ。

 あるサイトでは、そのことを指して、こうした多彩な死にざまを毎回見せる、という流れは、時を下って、サウスパークのケニーへと結実した、と揶揄している。

 前振りはともかく、現在まで観たところ、ストーリーこそ旧態依然ではあるが、マシンのデザインとコンセプトは、やはり素晴らしいのひと言に尽きる作品だった。

 無線会話する時に、バイザーから一瞬で口の前まで降りてくるトーキング・マイクや、女性だけで構成されるエンジェル部隊(女性の方が加速度に対する耐性が高いためにこれは夢物語ではないとどこかで読んだ覚えがある)のスタイリッシュな制服や戦闘機、そして、24時間空中に浮かび続けるスペクトラムの空中要塞であるクラウドベースなど、未来はこうだぜ、といった強い信念を感じさせるギミック等は、余計な手を加えず、オリジナルの雰囲気を色濃く残したものとなっている。

 もちろん、細かい改良は加えてある。

 以前は、現存空母のように本数が少なかったベース上の滑走路が、関西新空港の滑走路増設のように、斜めに複数本敷かれていたり、甲板上の誘導を行うのが、地下で画面を見ながら体を動かす人間の動きを完全模倣するロボットであったりするのだ。


 しかし、アンダーソン・ファンなら周知のことだろうけど、つくづくアンダーソン(特に妻のシルヴィアかなぁ)は、「宇宙で窓ガラスが割れ、真空になって人が死ぬ」ってシチュエーションが好きだなあ。

 子供の頃、インパクトが強かったのは、「謎の円盤UFO」のムーンベースが、エイリアンの射撃で窓が割られて、友人が眼の前で窒息するシーンだった。

 この「新スカーレット」もその例外でなく、キャプテン・スカーレットとキャプテン・ブラックの二人が、異常電波を発する火星に調査に赴く途中、微笑隕石が宇宙船を貫き、危うくスカーレットが死にそうになる。
 それをブラックが命を張って助けるのだ。
 三十有余年を経て、アンダーソンズ・ワールドで、初めて真空状態から主人公を救ったのが、後の宿敵だったというのも皮肉な設定で良い感じだ。

 CGに関して言えば、造形は素晴らしいが、動きがどうも、フニャフニャしていて気持ちが悪い。

 が、もともとが操り人形「スーパー・マリオネーション」なのだから、現在の発展途上フルCGで描くのは、かえって雰囲気が出て良いかもしれない。

 場面転換の、ドラムに合わせて画面がフラッシュするのもオリジナルに忠実で好感が持てる。

 機会があれば、ぜひ観て欲しい。

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2006年3月30日 (木)

それは、いつ生まれたのか誰も知らない…… 妖怪人間ベム


 暗い、音のない世界で、1つの細胞が分かれて、3つの生き物が生まれた。彼らはもちろん人間ではない。また、動物でもない。だが、その醜い身体の中には、“正義の心”が隠されているのだ。その生き物とは……それは、妖怪人間である。

 あの、妖怪人間ベムが30年の時を経て帰ってきた!

 かつて、オリジナル「妖怪人間ベム」のDVDを購入した友人が、その最終盤に収録されていた、新妖怪人間ベムのパイロットフィルムを唾棄すべきものとして一蹴していた(結局、それは企画自体ポシャッたらしい)が、今回はどうだろうか?

 詳しくは公式サイト

  http://www.bem-tv.com/index.html

を見てもらうとして、とりあえずは4月1日の放映が楽しみだ。

 公式サイトのオープニングフラッシュを観てもなかなかに雰囲気があるし、エンディングテーマを吉田美奈子が歌うなど、おちゃらけ路線とは一線を画した通好みの構成となっている……が、一つ心配なのは、設定がオリジナル同様の無国籍都市であるにもかかわらず、「ベロの初めての友だち」になる女の子が、日向雲英(きら)という、いかにもイマ風の、しかもあきらかに日本人であることだ。

 オリジナルと同じ路線なら、友だちは「アーサー」であり「アリス」であるべきだと思うのだが……。

 まあ、あまり期待せずに観ることにしよう。

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声に出して読みたい日本語 〜おわりに〜

 この「声に出して〜」シリーズ(齋藤 孝著)は、ちょっと引っかかってはいたのだが、それほど気にとめてはいなかった。

 また、似而非(えせ)学者の憂国論の亜流だと考えていたのだ。(失礼ながら、あのバカ本「脳内革命」だとか「脳のトレーニング」とかとね)

 だが、この本を手にとって、「おわりに」http://kabulaya.sytes.net/koenidasite.htmを読むと、そんな考えは吹っ飛んでしまった。

 ここには、素晴らしい見識がある。そして、この文章自体が良き日本語としての美しさと力強さをもった名文だ(ちょっと熱すぎるけど)。

 ぜひ、ご一読願いたい。

 子供の頃、勉強など大嫌いで、休みのたびに、自転車で旅行する計画ばかり立てていたわたしですら、知らぬ間に、小学校の頃は「雨ニモマケズ」や「ぼろぼろな駝鳥」を、中学で朔太郎の「氷島」から「漂泊者」、「敦盛の最期」などを暗唱していたものだった。

 今の子供たちが、どれほど名文を暗誦できるだろう?


 折しも、日本でも小学校高学年から英語を教えることになった(*)。
 それも週に1、2時間程度という短時間だ。

 結論から言うと、これは間違っている。

 まず、国語と数学、社会の授業を充実させてから英語を考えるべきだ。
 と、まあ、それはここでは言わないとしても、学習時間に問題がある。

 英語が「便利」なコトバであることは、わたしも否定しない。
 わたし自身、そう思って、人並みに英語は勉強したクチだ。
 だが、学ぶなら全力でやらねば意味がない。

 週に一時間程度なら(後には増やす予定だとしても)、やる必要はない。

 害があるだけだ。


 「国を知りたければ、その国の言葉を学習せよ」

 英語学習の際に必ずいわれる言葉だ。確かに真実であろう。

 だが、これを引用する時の最大のマチガイは、国とは、まずアメリカでもブリテンでもなく、「母国」であるべきだ、ということだ。

 母国語とは日本語だ。


 英語を話せなければ不便だ、と人はいう。

 だが本当だろうか?

 はっきりいって、わたしは、道具としての英語と割り切るなら、あまり熱心に学習する必要などないと思っている。

 「毎日新聞、余録」に、インターネットにおいても英語の必要性は確かにあるので学習は必要だ、とあったが、それこそテクノロジを知らぬ文系バカの言動だと言わねばならない。

 そう遠くない近い将来、インターネット上の英語ぐらい、難なく日本語に変換するブラウザが登場するだろうから。

 もちろん、こちらが書くときも英語に自動変換してくれるに違いない。

 ポータブルの翻訳機も実現されるだろう。

 そうなった時に、他の分野の勉強を疎かにし、キカイ的に英語を理解、話す研鑽を積んだホンヤクキカイなど何の役にもたたない。

 エイゴが読めて話せるだけのバカは、お呼びではないのだ。

 自国の文化に根ざした視点から、世界を捉える見識と、語学以外の広範な知識を持っていることが、真の国際人としての条件なのだから。

 少々拙いエイゴを書き(ネイティブからすれば)話したって、ショガイコクのおエライ方々は耳を傾けないし、彼らに影響も与えられない。

 例え、話す言葉が、彼の国の言葉でなくても内容が大切なのだ。

 明治以降、長期にわたってガイコクゴ式インフェリオリティ・コンプレクスに悩まされるあまり、日本人は、学習の本質を見誤ってしまった。

 特に、太平洋戦争後に、ア軍に占領されたのがいけなかった。

「シノタマワク」(これも大陸からきた言葉だけど)より、「ぎみあがむ」の方が切実に必要とされてしまったのだから。

 だが、もうそんなトラウマから抜け出しても良い頃だろう。

 極言すれば、精神性という点で、外国にあるものは、一部の例外を除いて見るべきものが少ない。

 単に、マガイ物のレディ・ファーストと(実際、アメリカでは妻がサイフを握らない例が多い)、ココニハナイ景観に憧れて外国礼賛をするのはもうやめようではないか。

 外国とその生活、雰囲気に憧れるあまり、日本を脱出し、母国に帰るに帰れず、その地に留まらんがためだけに、外国人の男性と結婚する女性のなんと多いことか。 (男だってそうしたいんだろうけど、日本男児は外国女性に人気がないからねぇ)

 外国に行きたければ行けばいい。

 だが、忘れてはいけない。あなたはどこにいても日本人なのだ。

 通常、外国で暮らすことが長ければ長いほどそういった母国意識は強くなるものだ。

 その意味で、いろいろ物議をかもしたが、今回のWBCにおける鈴木一朗の発言は、しごく当然なものだった。(向こう30年云々は、オゴり過ぎだと思うが)

 もちろん、日本人でも、日本とその風土風習が嫌いな者もいるだろう。親子でも、どうしてもソリがあわない家庭があるように。

 そういった例外的な人は、どんどん外国に行ってくれればいい。

 だが、世の中のなんとなく、といった風潮で闇雲に外国礼賛に走り、とにかく英語を学習しないと、と考えるのは早計すぎる。

 母国を知り、ナショナリズムでなく愛国心を持つこと、これが大切だ。

 だが、どうやってそういった気持ちを国民に持たせるか?

 そのための一方法としては、逆接的だが、英語をある程度学んだ後、どんどん外国に出て行けば良いのではないかとも思う。
 三泊四日や、一週間程度の短い旅行ではなく、最低半月、できれば半年くらい外国に住むべきなのだ。

 外から見て初めて、自国の輪郭は分かるものだから。

 ただ、母国に対する基礎的な教養すらない若者が外国に行くと、母国と他国を比較することすらできずに、外国に埋没してしまう恐れがある。

 無知故の愛国心喪失が生じるのだ。

 国内でも同様のことは起こりえる。

 自国に興味を持たず、偽悪家ぶって、金儲け至上主義を吹聴する若者。
 マスコミもそれをおもしろおかしく煽り立てる。
 亡国の歩みだ。

 愛国心を持たぬ、拝金主義の国民は恐ろしい。
 たとえ自国を焦土と化しても、自分の利益だけを追求するだろうから。


 国と自然と文化を愛する心を育てさせる。

 そのために、時間という情け容赦ない批評家の手をくぐり抜けてきた名文を音読することは、すばらしい助けになることだろう。 





(*)もちろん、わたしも、とにかく外国語(特に英語)を学ばねば、という考え方が、学者を中心に根強い求心力を持っている事は知っている。

 戦後から(驚くべき事に)現在に至るまで、海外論文(主要な論文は英語に訳される)を如何に早く日本語に訳すかで、学会における地位が決まってしまうということが行われてきた。

 わたしの知る限りでも、複数の大学教授が、エイゴができるというだけで、凡庸な能力ながら学会で力を持っているという例がある(もちろん、見識ある学者からは鼻もかけられていないが)。

 そういった、大学教授から影響を受けがちな官僚たちが(彼らは一様に学会が好きだ。彼ら自身、権威と権力が好きだから役人になるのだから)、日本人には英語が必須だ、と考えるのは無理もない。残念だが。

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2006年3月25日 (土)

わたしが死んだら墓には…… 座右の銘


 人類には二通りある。

愛する者と結ばれなかった者」と「愛するものと結ばれて後悔している者」だ。

 というのは冗談だが、確かに人類には二通りのタイプが存在する。

 それは、座右の銘を「持つ者」と「持たぬ者」だ。
 
 ざゆうのめい=>広辞苑によると「常に身近に備えて戒めとする格言。ざうめい」とある。
 つまり、つねに引き合いに出す格言、あるいは金科玉条といってもよいだろう。

 長らくわたしも、「持たぬ」タイプに属していた。
 しかし、なんらかの「ざうめい」は持ちたいと思っていた。
 座右の銘を持つ、というのは、何となくスノビズムをくすぐられるではないか。

 だけど、「一意専心」だの「敬天愛人」だの「漱石流枕(そうせきりゅうちん)」だのという格言は、どことなくエエカッコの匂いが漂う上に、なんだかピンとこなかった。

 かといって「怒髪天」とか(バンド名じゃねえよ)、「四面楚歌」なんてのもなんだかね(もちろん中国の故事だけが格言じゃないけど)。

 ここで、ちょいと、著名な先人たちの格言を紐解くと……あるわあるわ、さすが一家言持っている方々、ちょっと書き上げてみると、


人間の一生について、また彼の運命全体について
それを決定するものは、ただ瞬間のみ
●ゲーテ

 さすがギョホエテ、気取っとりますな、ファウスト博士!


「風とゆききし雲からエネルギーを取れ!」
●宮沢賢治

 よくわからんが、イーハトーヴォのあめゆじゅとてちてけんじゃは、イッテますね。


「常に無欲にして万物の妙をみる」
●老子

 よっぽど自分をエライと思っているって感じですね。まあ、偉いんだろうけど。


「おもしろきこともなき世をおもしろく」
●高杉晋作

 これはちょっとエエかもね。「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい〜」だけのことはある。


 しかし、これらを見ても、心の琴線に触れるものは今までなかった。

 そう、今までは。

 しかし、先日、ついに見つけたんですよ。わが座右の銘を。

 いやぁ、嬉しかったなあ。こういうぴったりなのを見つけた時は。

 作者が、ジョージ・ウッドンというよくわからない人物(何かで有名なひとなのだろうけど)というのは関係ない。

 こんなに感銘を受けた言葉は、マークトウェインが、黒人差別主義者を揶揄して言った「わたしには嫌いなものがふたつある、人種差別主義者とニグロだ」(原訳ママ:雰囲気を伝えるために当時の訳をそのまま載せています)
ぐらいだ。



閑話休題
 わたしの座右の銘、それはこれだ!

「明日死ぬと思って生きろ、永遠に生きると思って学べ」

 多くの説明を要しないだろう。素晴らしい言葉だ。
 前句と後句が対句的に配置され、同時に後句が前句の警句となっている。

 わたしが死んだら、この文字を墓に刻んでくれ!


 「猫と女性を愛した無名の男、ここに行き倒れる」でもいいけど。

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2006年3月23日 (木)

この男は実在する! いや、実在した! マス・オーヤマ リアルフィギュア


 連載開始時に、「事実を描くことは困難である」という文豪ヘミングウェイの言葉を引用し、「だがあえて、この困難に挑戦せねばならない」ことを述べてから、上記の「この男は実在する」という言葉につなげる出だし!

 劇画「空手バカ一代」は、その冒頭からいきなり人の心を惹きつける。

 さすがは梶原一騎(メギド化、いや恐怖新聞化する前の、つのだじろう氏の画も良いなぁ)!

 人間的にはいくつか問題点は指摘されているものの、梶原一騎という存在は、確かに戦後日本漫画史を語る上で避けては通れない巨大な山のひとつだ。

 その作品「空手バカ一代」(タイトルもイカス!)の主人公が、極真会館館長(晩年は総裁と呼ばれていたらしいが)大山倍達だ。

 その「フィギュアが実在する!」のを友人から教えられ、あらためて調べたところ、ありました。 

 現在は入手困難らしいが、なかなかによく出来ている。

 ビール瓶サングラスも付属しているから、ビール瓶割りの瞬間も再現できるし(画像参照)、海外視察に出かける時の、寛(くつろ)いだ暴力*関係組長ライクな雰囲気の館長も再現できる(そらやっぱりビジネスマンには見えないでしょう迫力からいっても)。

 惜しむらくは、曲がった十円玉が付属していないことだ。

 しかし、十円指折り曲げをすると体中に発疹が出ることから(「空手バカ一代」より)、忠実なコイン曲げを再現するためには、その発疹テクスチャ(というか、タトゥシールというか)を付属する必要も生じるために今回は見送られたのだろう(のはずだ)。

 しかしやはり、指で挟んで十円硬貨を曲げる、その荒業を再現できないのは残念!

 あと、標高三百数十メートルの清澄山に山籠もりした時の、若き日の片眉バージョンも欲しいな。

<こらむ>
 タバコもやらず、肉体的にあれほど頑健だったマス・オーヤマ氏が、平均余命に及ばず、肺ガンでなくなったのは、建設途中の支部道場を視察した際に、当時、野放しだったアスベスト粉を吸い込んだからに違いないと密かに思っています。

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さらば!!宇宙戦艦ヤマト の作曲者 宮川 泰死す


 宮川 泰が亡くなった。享年七十五歳。

 仕事ぶりはともかく、テレビであるいは舞台で彼がみせる横顔は、真面目さを表にださない、陽気でおふざけばかりのエピュキリアン的人物像だった。

 何年か前に、仕事がらみで彼のコンサート(彼はメインではなく、コメントをしたり、ふざけてピアノを弾いたりという、どちらかというと狂言回し的な役だった)に行ったことがある。
 その時、機会はあったのに、楽屋に行って挨拶をしなかった。
 共演者が好きではなかったからだが、なぜ、あのとき会っておかなかったかと、今、後悔している。

 別に、一度だけ会ったところで、何かが変わる訳ではないのだが。

 わたしは、彼の曲は、歌謡曲もアニメの曲も好きだった。

 「交響曲 宇宙戦艦ヤマト」のレコードも持っている。

 これは、おそらく、後に続くガンダムや銀河鉄道などのアニメ交響曲の魁(さきがけ)とも言えるものだろう。

 昔からこれが好きでよく聞いていたのだが、音楽の仕事を始めた時、スタッフにこれを聞かせたところ(半分自慢でね)、

「なにこれ!編成が少なすぎる。十五人ぐらいで演奏してるんじゃないの。だいたい、小学校の演奏会じゃあるまいし、木琴を使うなんて……」

 まっぷたつにされてしまった。

 なるほど、あらためて聞いてみると、確かにストリングスの厚みが少ない。
 木琴は学芸会的で、後のワルシャワ交響楽団演奏による「ジャイアント・ロボ」とはえらい違いだ。

 だが、仕方がなかったのだ。

 たかだか「アニメーション」の曲を、交響楽にして演奏するなどという行為は、当時は考えられなかった。

 企画自体は、多分に目立ちたがり屋だった某N崎プロデューサーの発案だとは思うが、企画を受けて、シンフォニースタイルの編曲を打診された宮川氏が、二つ返事で引き受けたことが、当時のライナーノーツに記されている。

 彼が快く引き受け、かつ良い作品(予算の関係による員数不足はさておき)を作ったからこそ、その後のハメルンの笛吹に続くネズミのごとき後発交響楽が多数生まれたのだ。

 その意味で、アニメファンは彼に感謝せねばならない。

 なにより彼が素晴らしかったのは、「宇宙戦艦ヤマト」というアニメの作曲者であることを、ずっと誇りにしていたことだ。

 そして、機会があるたびに、テレビで舞台で冗談交じりにピアノであのメロディーを弾いてみせた。

 果たして、千住明は、自分が「(平成版)鉄人28号」のサントラ作曲者であることを誇るだろうか?

 ともかく、これで、日本に二人いる歌謡曲+アニメ関係の偉大な作曲家のひとりがいなくなってしまった。

 残っているのは、ドラゴンクエストの作曲者、すぎやまコイチ氏だけだなぁ。

(画像はPS2用ソフトのもので、このトピックには関係はないが、画が気に入っているので挙げました)

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2006年3月 9日 (木)

ニュースが見たい!WEB上の大阪マルビル電光インフォメーション PHPサーバー導入


 先日来の懸案事項だったPHP(Hypertext Preprocessor)のサーバー導入に踏み切った。

 特にWEB上で、データーベース処理をするつもりはないが、以前から、埋込型のスクリプト言語っていうのが結構好きだったので、試しに使ってみることにしたのだ。

 PHP自体は、WINDOWSのASPとあまり変わらないが、APACHE内で処理されるために、かなり高速動作するのが魅力だ。

 まあ、大量のデータ処理をしない限りは、速度を気にすることもないのかも知れないが、うちの遅いサーバーマシンでは、そんなことも考慮にいれなければならない。

 だが、今回書きたいのは、そんな話ではなく、PHP導入の結果、わがサイトに、RSSを利用したニュース・ティッカーをつけられたことだ。

 これはつまり、DOCOMOのiチャネルと同じような感じで、指定したニュース・サイト(ASAHIニュースや日刊スポーツなど)のRSS(たしか以前このブログで書いた:http://blogs.yahoo.co.jp/kabulaya/25080507.html )を利用して、ヘッドライン(見出し記事)が更新されたらそれを取り込んで、丸ビルの電光版のように左から右へ走らせるというものだ。

 論より証拠、まず見てください。結構便利だと思うけどなぁ。
 http://kabulaya.sytes.net/index.html
 (別なところで書きましたが、このサーバーは壊れてしまいまいた。今はリンク切れです)


 このブログにもRSSがあるので、同様のシステムを作られたら、わたしのブログが更新されるや否や、ティッカー表示される、なんてことになるのだが、そんな殊勝な人はいないだろうな……。

●このブログのヘッドにも書いてあるとおり、上記、自家サーバーサイトに、このブログのミラーブログを置いてあるので、YAHOOブログが遅くてダチカンと思う方は、そちらで本ブログをご覧になって下さい。
 少なくともこちらより何倍も早いはずですから。

 P.S.
 タイトルの「大阪マルビル」が、近畿在住以外の方にはわかりにくいかもしれないので、説明しておくと、大阪マルビルは、東京の丸の内ビルヂングとはまったく別物で、大阪駅前に建てられ、形が丸いビルだからマルビル(大阪城の丸とは無関係だったはず)なんじゃ、と命名されたビルです。(写真参照)

 屋上にビルを取り巻くように丸く電光掲示板がとりつけられ、ニュース・ヘッドラインや広告、抽選(だったかな?)により、一般人希望者のメッセージを流したりしていました(「ミサコ愛してる、タケシ」とかね)。

 残念なことに赤字経営のため、2003年秋に電光板は撤去されたのですが、今も、大阪近辺でマルビルといえば、この電光掲示板を思い浮かべる人も多いはずです。

 ちなみに、電光版は縮小されて、近年復活したと言われています(回らないらしいが)。

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2006年3月 8日 (水)

男はみんな、悲しきヒットマン 悲惨な「飛散防止シール」


 わたしは今、猛然と憤(いきどお)っている。

 怒っている。
 
 悲しんでいる。

 まずは写真を見ていただきたい。

 これが何かおわかりだろうか?

 商品名は、おそらく「飛散防止シール」というのだろう。その惹句(じゃっく)は、「トイレをキレイに使用するためのシール」

 これを便器の奥深い部分に貼り付けておけば「男性(子供を含む)のおしっこの床への飛び散りを解消、ママのトイレ掃除の負担も減らします」ということらしい。

 男たちは、小用の際に反射的にこのマークを狙って放尿するのだ、と。

 ああ、なんと人間心理を衝いたアイデア商品(原文ママ)なのだろうか?

 だが、同時に世の男性をこれほど愚弄する商品は無いのではないか?

 ブツ自体はただのシールだ。(おそらくは防水の)

 ただ、尿がかかると、つまり命中すれば的の色が変わるような小細工は、なされているらしい。

 しかし、実際に、当たると色が変わるのがおもしろくて、オトコたちはこのマークを狙うのだろうか?

 それでは、電柱やタイヤにマーキングをしてまわる犬と同じではないか?

 この商品は、人間を犬扱いしているのではないのか?

 それで思い出した。

 以前に、どこかで、座り小用をたす男性が増えている、という記事を読んで、愕然としたことがある。

 その人たちは、会社でトイレに行っても、必ず「大」のほうに入るのだ。そして座って小用をたす。

 別に、本人がそうしたいからではない。

 家庭で行う習慣が習い性となって、会社でも、ついそうしてしまうらしい。

 理由は、妻が家庭のトイレ掃除を簡単にするためだというのだから恐れ入る。

 うーん。これも、ゆがんだジェンダー意識の発露なのだろうか?

 男と女は、同じ人間だが、肉体の構造及び脳構造において生き物として、かなり違う部分を持っているのだ。

 太古の昔から、男とは立って小用をたす生き物なのだ。

 それを、無理に女性と同じにするのは間違っているのではなかろうか?

 いや世に遍(あまね)く広がるフェア至上主義の信念から、そう考えるのなら、間違っているなりに納得はいく。

 だが、恐ろしいことに、この場合は、そうすれば掃除が楽になるから、という、自分の仕事を楽にしたいというだけの理由で、妻が夫や子供の本能をねじ曲げようとしているのだ。

 トイレの掃除を楽にするために、夫に座って小用をたすように強制する妻。

 男の本能を押さえ込んだりすると、他に弊害がでるかも知れないのに。

 それなら、いっそ夫にトイレ掃除をするように話しあえば良いのだ。


 以前、わたしはどこかで、男は小用をたす時、何かを狙わずにはいられない生き物だ、と書いたことがある。

 だから、砂漠をドライブしているうちに自然に呼ばれ、小用をたす時には、必ずといってよいほど男たちはレンタカーのタイヤを狙う(マイカーの時はしないよ、セコイね)のだ、と。

 そういった、情けないイキモノなのだ、男は。

 人類で最初の職業だと言われている「売春」行為は、男のリビドーが根本原因だ。

 今も、夫婦の間で浮気を巡っての諍いは絶えないだろう。

 男の大半は、自身のリビドーに振り回されている。

 本能に翻弄されているのだ。

 でき得れば、いや願わくば、世の女性方には、そういった馬鹿な男の振る舞いを、暖かい温情で見守って欲しいものだ。

 時に叱り、時に優しくいなしてね。

 うまく男の本能をなだめて、導いて……。

 だから、わたしは、かねがね女性の生き方の方が、男よりずっと高尚で難しいと思っているのだが……。

 このシールはいけない。

 仕事を楽にするために、あからさまに本能を利用するのはダメだ。

 おそらく、このの効果は確かにあるだろう。

 たとえ、どれほど上品な紳士であろうとも、この的をみたら狙わざるを得ない、いや、きっと狙うだろう。ぐっと腰を落として、息を整え。

 無表情に、淡々と放出し……そして色が変わると、口元にかすかな笑みを浮かべ……やめてくれぇい。

 もう一度言う、この商品は、男の悲しい習性を利用した恐るべき商品なのだ。

 しかし、もうこの商品は世に出てしまった。

 今後は、SAや公共施設のトイレで、こういったを頻繁に見ることになるかも知れない。

 しかし、断言する。わたしは狙わないと。(達成感をくすぐられ、おもしろそうだけど)

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2006年3月 5日 (日)

チョー飛び出るヤツ! 不思議の国のアリス(飛び出す絵本)


 この本の作者ロバート・サブダ氏(http://robertsabuda.com/)の恐竜版は目にしたことがあったが、別にどうとは思わなかった。

 しかし、このアリスには驚きました。

 よく飛び出るねえ。

http://sawasho.com/blog/archives/2005/05/post_146.html

 ちょっとアリスが盆踊りを踊っているように見えるのが気になるが(手つきだけでなく目つきも)。

 子供の頃に、親戚の家で読んだ(自分の家はビンボーで買ってもらえなかったからね)かぐや姫なんかとは雲泥の差だ。

 こういった平面を組み合わせるだけで、ポップする仕掛けって、なんかいいねえ。

 ただ紙が、うまい組み合わせで押し出されているだけ、いわば目の錯覚に近い、騙されているだけなのに。

 しかし、騙されることに快感がある。

 その感じを表現すれば……

 美しい恋人に浮気の気配を感じながらも、会えば今までと変わらず優しく愛してくれるため、別れる時、彼女の後ろ姿に向かって、声にならない声で男がこう叫ぶような感じかな。

「頼むから、このまま俺をずっと騙し続けてくれ!」

え、全然違うって?

そうカモ。



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2006年3月 4日 (土)

この世に、残したい 久世光彦急逝


 脚本家の久世光彦(くぜてるひこ)が死んだ。享年70歳。

 日本人男性としては、それほど早い死とはいえないが、できればもう少し長生きして欲しかった。

 そして、あと少し、新しい彼の「小説」が読みたかった。

 テレビドラマでなく、小説を。

 わたしにとって、久世光彦は「寺内勘太郎一家」等、一連のホームドラマの脚本家ではなく鮮やかな色の対比を文章で示してくれる希有な作家なのだ。

 それが如実に示されたのが、「一九三四年冬―乱歩」だった。

 山本周五郎賞受賞(直木賞候補)のこの作品を、最初に読んだ時に、目の前にぱっと原色の赤色が広がったのを今もはっきりと覚えている。

 テレビドラマに関しては、それほど感銘をうけたものは無かったのだが、4日付の毎日新聞朝刊余録を読んで、考えが変わった。


 その「余録」が、彼の作るホームドラマはすべて間取りが同じだったと、本人が告白していたことを伝えている。

「茶の間があって右側は台所で、正面には中庭に面した廊下がある。左に行くと玄関と2階への階段があり、反対方向は浴室、洗面所と決まっている」

 これは、昭和10年代の東京・山の手サラリーマンの典型的な間取りであったらしい。

 久世は、こういった家を舞台にして、脚本家、向田邦子と組み、さまざまなホームドラマを演出していった。

 家の話をもう少し詳しく書くと、

「中庭には痩せた金木犀(キンモクセイ)の木が三本ばかり、裏手に回ると塀沿いに低い八手(ヤツデ)の木が植わっていて……その辺りからツンと鼻をつくドクダミの匂いがしはじめて、少し行くと白い石灰を撒いたご不浄の汲取口がある」

「余録」はさらに続ける。

 その家で使われた言葉は「我慢」ではなく「辛抱」「恥ずかしい」ではなく「きまりが悪い」「いらいらする」ではなく「じれったい」だった。

 飛行機事故で向田邦子が逝った後も、久世が昭和を舞台にしたドラマを作り続けたのは、彼女が愛したそのような言葉を生き返らせたかったからでもあった、と。

 それで思い出した。

 かつて、わたしは池波正太郎のことを、「無くなりつつある美(うま)し風習、江戸文化をカプセル化しようと必死に小説をつづった男」と書いた。

 同じ事を、久世光彦はドラマの演出で行っていたのだ。

 現代は、そういった日本の、無形の美しいものが減りつつある。

 日本人の多くが、グローバル化の美名のもと、諸外国のやることは全て正しいと錯覚し、個人主義という名の独善主義を横行させ、自尊心を失った者が拝金主義に走ったからだ。

 結果、「気持ちよく生きる」ことより、目先の利益にダボハゼのごとく飛びつき、ぶざまに地面に転がることを何度も繰り返す。

 そういった人々に、「我慢」と「辛抱」の違いがわかるだろうか?

 わたしの知る限り、英語にこの適訳はない。つまり、英語文化圏に、こういった微妙にニュアンス違う考えはないのだ。

 久世氏が死んで、またひとり、古き良きものを、少しでも現代に残そうとする使徒がいなくなった。

 あとはもう少し、違う意味で、藤原正彦氏にがんばってもらうしかない。



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古(いにしえ)へのイニシエーション 毎日ラジオウォーク






 去る2月11日、誘われて、奈良県飛鳥村で行われた毎日放送主催の「ラジオ・ウォーク」に初参加してきた。

 嫌々参加したのだが、思ったより楽しめたので、ここに記録しておこう。


 だが、これを読まれている方の中で、いったいどのくらいの人が、「毎日放送ラジオウォーク」をご存じなのか分からないので、簡単に説明しておくと……

『携帯ラジオを聞きながら、奈良県の名所旧跡を歩いて回る』イベント。

 へ、それだけ?

 それだけなんです。

 そんな、ラジオを聞きながら寺なんぞ回って、何が面白い?

 わたしも、そう思ってました。

 でも、これが結構面白いんだなぁ。

 25年前に飛鳥ウォークとして始まったこの企画、奈良県内で毎年少しずつ場所を変えながら二十五回目を迎え、温故知新、再び飛鳥に戻ってきた。

 えーと正式名称は……

「再発見!飛鳥・古代浪漫の道 ラジオウォーク」

 内容は、とにかく午前十時から午後四時半までのあいだに、決められたスタート地点から決められたゴール地点まで、決まったコースを辿って歩くというものだ。

 そして、開催時間のちょうど真ん中の時間、いわゆるコア・タイム(午後一時〜)に、毎日放送のアナウンサー、万葉学者たちが景色の解説し、博識を披露しつつコースを歩いていくのだ。

 その人たちの側を一緒に歩き、リアルタイムで説明を聞く人もいれば、先に道を通った人は、振り返ってそうだったのかと思い、出発したばかりの人は、メモメモと記憶する。

 もちろん、アナウンサーたちと歩くと道は混む。

 それが嫌な人は、その時間を避けて、早く出発し遅く出かければ良いのだ。

 特筆すべきなのは、放送がよくあるミニFMではなく、近畿一円をカバーする「毎日放送」が通常の番組として広域放送することだ。

 だから、ウォークに参加しない人々も、特別番組としてアナウンサーや学者の説明で、奈良県の名所の知識を増やし、旅行気分になれる。

 面白かったと思う人は、次回のウオークに参加する……らしい。

 らしい、と書いたのは、わたし自身、あまり「古代の浪漫」というものに強い興味を持てないからだ。

 昔から、京都や奈良では、ちょっと土地を掘り返すと「世紀の大発見がありました」ということになって、半年ばかり工事が中断してしまうことがあった。

 すわ、どんなものが出た!と記事を読むと、なんだか黒い小さな塊の写真が写っていて、当時の様子を記した素晴らしい木簡(あれ、字はあってるかな)である、と解説されているのだが、わたしにはどうみても消し炭かゴミにしか見えないのだ。

 もし地面の下から、古代文明の科学遺跡や宇宙人の残したマシンが掘り出されるなら、わたしは迷わず考古学に進んだことことだろう。

 そういった黒い木片から、往時をしのび、古代に夢は馳せることのできるイマジネーションを、素晴らしいとは思うが、残念なことに、わたしにその能力はない。

 誘われて伏見の寺田屋に上がったことがあるが、「これが襲撃時に、おりょうが駆け上って坂本龍馬に危機を伝えたハシゴです」と説明されても、ああそうかと思うだけだ。

 ただのハシゴにしか見えない。
 
 おそらく、そういったモノに手を触れ、過去に思いをシンクロさせる、いわゆる疑似サイコメトリー能力がぽっかりと欠けているのだろうな。

 あるいは、現存する日本最古の東西五重の塔を擁する当麻寺(このあいだ浅見光彦が「箸墓幻想」で、春も深まる当麻寺に滞在しているのを新聞小説で読んで驚いたものです)が、子供の頃からの遊び場所だったり、大和三山や二上山へ小学校の遠足で何度も行かされたり、今も、法隆寺夢殿前の石畳を単車で行き来する生活だから、古いものは古いモノとしか見えないのかもしれない。

 だから、飛鳥寺跡、飛鳥板葺宮跡(いたぶきのみやあと)や、蘇我入鹿の首塚などを見ても特に感銘は持つことができないのだ。

 では、今回の飛鳥ウォーク、何が良かったのか。
 
 そのためには、経緯を説明すれば分かってもらえるかも知れない。

 2月11日、午前11時に集合場所の最寄りの駅(近鉄桜井駅)に着いた。

 その時点で、かなりな混雑ぶりだった。

 さて、出かける前に手洗いでも、と、思ってトイレの中に入っていくと、中には婦人の列が……。
 男女を間違えたか、と思って外に出るとやはり男子用だ。

 どうやら、女性用があまりに込んでいるために、男性用を使おうと並んでいるらしい……まあ、ここで、今更、中年以降の女性を罵倒することはやめよう。

 つまり、品格も、節操もなにもない人が多いということです。
 こういった人々は、法に触れなければ人を騙し中傷し差別し排斥し、車が来なければ信号無視をして道を渡るのだろうな。

 特にこの日は、歴代ウォーク最大級の盛況で、3万人近くが飛鳥に集まってきていたため、トイレ問題は、なかなかに深刻で、要所に作られた仮設トイレには、愛知万博もかくや、というような行列ができていたのだった。

 集合場所の桜井南小学校横空き地では特設ステージが作られ、歌手による歌が披露されており、協賛企業(ドコモやコカコーラ、ロート製薬など)のテントの下では、様々なものが配られていた(らしい、わたしが辿り着いた午前11時過ぎには何も残っていなかった)。

 しばらくそこで時間をつぶした後、出発点と書かれた場所から一列になって出発する。

(じつは、そこに至るまでに、ロープで仕切られた長い通路で順番待ちしなければならなかったのだが)

 いざ出発すると、細い田舎道を、ぞろぞろと老若男女(とはいえ老人が80パーセントぐらい)が道を歩いていく。

 ミニラジオから延びるイヤホンを耳にさして歩く人、小型ラジオを耳にあてて歩く人、ヤングも真っ青なドでかいラジカセを手に持って大音声を辺りに響かせながら歩く老人もいる。

 この田舎道行が気持ちよかったのだ。
 気候が良かったのが幸いした。
 少し風は冷たかったものの、雲は少なく、陽光が燦々と降り注いで風景自体が光り輝いている感じだ。(普段、昼夜逆転のドラキュラ生活をしているから尚更なのかも。完全に陽の光で副交感神経のスイッチが入りました)

 本来人混みは嫌いなのだが、なにせ土地が広く、人が一カ所に溜まらないからあまり気にならない。
 一緒に道を流れていく人々は、やはり老夫婦の二人組が多く、これはおとなしい。
 ついで女性のグループ、これは鳥が囀るように姦しい。

 でも、見ていて楽しかったのは、一人で参加しているお父さんたち(年の頃50代後半〜60代後半)だ。

 彼らの多くは、ぶらぶらと急がず歩き、道路脇の畦道(あぜみち)にどっかと腰を下ろすと、おもむろに、コンビニエンスストアの袋から缶ビール!を二、三缶取り出すとグビリと呑みはじめる。

 北風に吹かれながらも、うららかな陽光をたっぷり浴びながら、弁当を取り出して箸をつかう。

 なんだか暢気で楽しそうで、見ているだけで気分が良くなる姿だった。

 こうした、おじさんの一人歩き、という形態が案外多く、たいていの人が、のんびりと自己流に楽しんでいるように思えた。

 その姿を見ていると、奥さんはいないのか、家族はどうした?などと想像が広がっていく……。

 わたしなんぞは、寺を見るより、そういった人の行動を見る方が、よほど得るところがあり面白いのだ。

 その後、山田寺跡(これが本来の飛鳥寺跡らしい)に設えられた特設ステージで、浜村淳氏のラジオ劇場や河内家菊水丸の河内音頭が催されるのをラジオで聞きつつ(混雑がいやなので、山田寺は早々に後にした)、現飛鳥寺、飛鳥板葺宮へと向かう。

 そうそう、この山田寺跡で、さきに奈良筆で知り合った不器用毎日新聞記者と再会した。
 例によってモタモタと道のスミで写真を撮っているのを見つけたのだ。

 そして三時半過ぎ、ゴールの飛鳥小学校へ到着し、全行程、公称9キロ、手持ちのGPSによると、桜井駅からの距離も併せて14キロの飛鳥ウォークは終わったのだった。

 さすが25年の歴史を有するイベントだけあって運営の手際がこなれている。
 道の要所には、毎日放送のスタッフが立ち、ともすれば道の真ん中を歩こうとする老人たちを丁寧に誘導する。

 終点の明日香小学校からは、臨時バスが多数出ていて、ほとんど待たずに、最寄りの駅である近鉄橿原駅に到着することができた。

 以上をまとめると、人は多いが混雑し過ぎず、久しぶりに鄙びた田舎道を、様々な人間模様を見つつ歩くことができて楽しかった、ということになるかな。

 2006年5月21日には、飛鳥文化の源流である、韓国慶州でラジオウォークをするのだという。
  http://mbs1179.com/keishu/

 さすがに、これには参加しないけど。

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2006年3月 2日 (木)

う〜う〜でびーる、やさしい悪魔 (マクスウェルの悪魔・ラプラスの悪魔)


 SF作家のラリィ・ニーヴンは、魔法とは、その空間に充満した、目に見えないエネルギーを利用できる能力であるとし、一連の魔法世界ものを小説にした。

 その物質は使えば使うほど消耗し、やがてFOSSIL FUELのように使い切ってしまうことになる。

 結果、魔法エネルギーを使って不老不死を保っていた魔法使いたちも寿命が尽き、徐々に歴史から消えていく。

 いくつかある「魔法使い(ウォーロックあるいはその派生物語)もの」の中でも、ある魔法使いが、世界中で魔法が使えなくなっていくことに疑問と恐怖を感じ、ある実験を行った結果、魔法エネルギーが有限であるという恐ろしい結論にたどり着くエピソードが特に秀逸だ。

 個人的には、これを遙かに低次元で表現したのが、「鋼の錬金術師」のようなジャパニーズ魔法ものだと思っているのだが、おそらくアイデアの副次利用主体の漫画家たちを『無情の月』の作者と比較するのが間違ってるのだろう。

 その「魔法もの」のひとつに、こんなエピソードがある。

 夏の暑い盛りに、ある魔法使いが他の魔法使いを訪ねたところ、彼の住む洞窟がひんやりとして過ごし易いことに気づき、いったいどうやっているのだ、と尋ねる。

 なんだか、泣いた赤鬼みたいな展開だが、まあ、そんなシチュエーションなのだな。

 訊かれた魔法使いは、洞窟の入り口に座り込んでいる、青白い顔をした貧相な小男を指さし、
「あの男に低級な魔法を教え、それを実行させているだけなのだ」と答える。

「彼が?それは便利だな。だが、彼はいったい何者なのだ?」

「名前を『マクスウェルの悪魔』というんだ」

 まあ、これが話のオチなんだが、『マクスウェル〜』がわからないとこの話は何も分からなくなる。


 科学界には、昔から何匹?かの有名な悪魔が生息している。

 そいつらのことは、いったん覚えたつもりでいても、いかなる魔法がかかっているのか、しばらくするとごちゃまぜになって忘れてしまうので、この際、備忘をかねてまとめることにした。

 その昔、(古典)科学の学者たちは、(そのころ)物質の最小単位であった原子や、その集合体の分子が持つエネルギー(つまり熱振動や運動エネルギー)を、ためつすがめつ理解するための思考実験のひとつとして、原子分子のひとつひとつに手を加えることのできる悪魔を考え出した。

 その悪魔の名前を、創造者の名前をとって、マクスウェルの悪魔、ラプラスの悪魔と呼ぶのだ。

●まずは一番有名どころのマクスウェルの(知的な)悪魔

 これは、ジェームズ・クラーク・マクスウェルが考え出した存在で、ラプラスより厳しい条件が必要だ。

1.まず均一な温度の気体で満たされた容器を用意する。
  (温度は均一でも個々の分子の速度は均一ではない)

2.この容器を小さな穴の空いた仕切りで2つの部分 A、B に分離し、個々の分子を見ることのできる「存在」がいて、この穴を開け閉めできるとする。
  存在は、素早い分子のみを A から B へ、遅い分子のみを B から A へ通り抜けさせるように、スバヤクこの穴を開閉する。

3.この過程を繰り返すことにより、この「存在」は仕事をすることなしに、 A の温度を下げ、 B の温度を上げることができる。

 だが、これは熱力学第二法則と矛盾する。
 何のエネルギーも必要とせずに、容器内に温度差を生じさせることができるのだから。
 つまりエントロピー(乱雑さ)を減少させることができるのだな。
 これを認めれば永久機関が可能になってしまう。

 先の魔法使いが男にさせていたのは、運動速度の速い分子を追い返し、遅い分子を洞窟にいれるという作業だったというわけだ。

 この悪魔を葬り去るのに、近代物理学はかなり苦労をした。

 要は、悪魔が分子を区別するときに何らかの「仕事」をしていることを言えば良い……のだが、これがなかなかできなかった。

 1951年に、レオン・ブリュアンとデニス・ガボールが、悪魔が分子を観測する過程で(光を使うとした)、エネルギーを使うことを示し悪魔を葬り去った……かに思えたが、1973年、チャールズ・べネッが、熱力学的に可逆な観測が可能であり、こうした観測においてはブリュアンらが指摘したようなエントロピーの増大(つまりエネルギー消費)が必要ないことを示すと、悪魔は再び甦ったのだった。
 
 このように、マクスウェルの悪魔は、かなりダイハードなヤツではあったが、ついに1982年、マッチポンプ野郎のベネット自身によって葬り去られることになったのだった。

●その経緯
 1961年、IBMの研究者であったロルフ・ランダゥアーによって、コンピュータにおける記憶の消去が、ブリュアンの主張した観測によるエントロピーの増大と同程度のエントロピー増大を必要とすることが示された(ランダゥアーの原理)。

 ベネットは、ランダゥアーの原理を使って、エントロピーの増大は、観測を行なったときではなく、むしろ行なった観測結果を「忘れる」ときに起こる、としたのだった。

 悪魔が分子の速度を観測できるとしても、観測した速度の情報を記憶する必要がある。
 悪魔が繰り返し働くためには、窓の開閉が終了した地点で、次の分子のためにその情報の記憶を消去しなければならない。

 情報の消去は、前の分子の速度が、速い場合も遅い場合も、同じ状態へ戻す必要があり、熱力学的に非可逆な過程である。

 このため悪魔の振る舞いを完全に完了させるためには、エントロピーの増大が必然のものとなる、というのがベネットの考えだった。

 こうして、「忘却とは忘れ去ることなり」の名文句とともに、マクスウェルの悪魔はあの世に(ってどこだ?)旅だったのだ……が、いまだにこの問題は、科学者を惹きつけてやまないらしく、次々と新しい論文が書かれ続けているらしい。


●次に有名なラプラスの悪魔(Laplace's demon)

 個人的に、こいつはかなり眉唾な存在(って当たり前か)に思える。

 この悪魔は、主に物理学の分野で「未来の決定性」を論じる時に仮想される超越的存在で、世界に存在する「全ての原子の位置と運動量を知る」ことができるヤツらしい。

 思考実験とはいえ、こんな悪魔を簡単に想像できるところが、ヒト科のイマジネーションの凄さだな。

 まあ、場当たり的に分子シャッターを開け閉めするマクスウェルより、より知的度が高そうな悪魔ではある。

 そうすると、古典物理学によって、これらの原子の時間発展(存在位置)を計算することができるから、この悪魔は、この先世界がどのようになるかを完全に知ることができる、らしい。

 つまり、あらゆる未来を見通す「神の目を持つモノ」が、ラプラスの悪魔なのだな。
 (悪魔で神とは……しかも、尚悪いことに、こいつの依る道具は、ヒトの作り出した古典物理学なのだ)

 これは、ピエール=シモン・ラプラスが提唱した。(ただの思考実験なのに自分の名前を冠して!)

 未来が、現在の状態によって既に決まっているという「決定論」の思想を端的に象徴するものとしてね。

 もちろん、その後に登場した量子力学で、原子の運動、存在は、確率的に規定されることが示され、ラプラスの悪魔でさえも未来を完全に計算することはできないということになってこの悪魔もどこかに行ってしまったのだが。

 そうそう、違う方面からもこの悪魔は否定されている。

 個人的には、こっちの方が好みだが、情報処理の速度を考えて、たとえラプラスの悪魔が全原子の状態を把握していたとしても、その1秒後の状態を予測するのに1秒以上かかったのでは未来を知った事にはならないというのだ。

 そりゃそうだな。

 もっとも、多少なりともコンピュータに携わるものとしては、じゃ単純にラプラスの悪魔の処理速度をもっとあげればいいじゃないの、とも考えるのだが。



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2006年3月 1日 (水)

「有頂天パーティ」失墜 民主党メール真贋問題



 永田議員(http://www.nagata-h.net/)、ついに虚偽メールだと認めてしまいましたね。
 今更、弱った犬を叩くような真似はしたくないが、あれはいかにも浅慮だったなぁ。

 だいたい、あの電子メール(しかも紙コピー)は、出てきた時からおかしい雰囲気(今の若者はフインキという)が、プンプンにおっていた。

 ネットに関する知識を多少なりとも持っている人なら、電子メールを法的な(あるいはそれに類似する)証拠にするためには、副次的な条件がかなり必要だということぐらい分かりそうなものなのだがなぁ。

 ナガタってシト、本当に東京大学工学部物理工学科卒(民主党サイトより)なの?
 歳だって36だから先端のコーガクに疎いってこともないだろうに。
 だいたい、なんだって、物理工学から大蔵省へ就職するの?

 まあ、東京大学ってところは、学問的な優秀さを目指すより、より良い?(コーキュー?)官僚を育成するところだから、それも宜(ムベ)なるかな、だけど。

 発言した彼も悪いが、認めた党首も党首だなぁ。

 それというのも、民主党が、世のオバサマ方に人気のらいおん首相に対抗するために、若さとミテクレ(わたしには彼の容貌は不気味だが)だけで、浅慮かつ目立ちたがりのワカゾー党首を擁した応報なのだろう。

 残念!

 もしかしたら、今回のメール騒動の遠因は、彼が例の、家電メーカー社長が作った「なんとか塾」出身だということかもしれない。

 今回の騒動で誰かが言っていたなぁ。

 その会社の創立者が作り出した最大の不良品は、最近問題となった「FF式ファンヒーター(*)」ではなくて(あれは欠陥商品だとわたしは思わない、敢えて非難されるとすれば、売った後の長期メンテナンスを怠った点と、そういった命に関わる機械に、期限型マシン自動故障装置:いわゆるソニータイマーをつけなかったことだろうな)、ナントカ塾から生み出された塾生議員だと。

(*)FF式ストーブ  Forced Draft Balanced Flue Stove, FF Stove
 ガス、石油、灯油などを燃料として使用する強制給排気式の暖房器具。燃焼に必要な空気を屋外から取り入れ、排気ガスを再びファンで外に出すので、酸欠などの室内空気汚染の心配もなく熱効率が良い。

 車の故障で、あるいはFFの故障で人が数人死ぬかもしれない。
 だが、一人の影響力ある失敗議員を野に放てば、国家百年の害を為すことがあるのだ。(現、口だけエエカッコ首相も、塾生じゃないけどそれに属するな)

 そういった視点から捉えれば、塾出身の議員で問題がある人物を何人か思いつく。

 近年、最大の変節漢(女性だけど)かつ言動不一致議員の高市早苗とかね。
   http://rep.sanae.gr.jp/

 彼女は、先の選挙で、いわゆる刺客(シカク、だよ読み方は)議員として当選したね。
 前々回落とされた、嫌われている選挙区を外し立候補して。

 彼女は、本当に問題の多い議員だからなぁ。

 創価学会の全面バックアップを受けて当選した新進党時代に、すぐさま自民党に鞍替えをし、以来、現在にいたるまで、学会員のバックアップを受けられなくなっているのは周知の事実だし、老人議員に取り入るため(としか思えない)夫婦別姓反対者の彼女が、結婚後、高市早苗のままであるのもおかしい。(名前は看板だから変えない、本姓が変わったから問題ない、というのは詭弁くさい)

 創設者の、経済を知らねば国を動かせぬ、というコンセプトは正しいと思うが、「マネー」に限定した利益のみで国家を考えると福祉国家は成り立たなくなる。
 (サイトhttp://www.mskj.or.jp/で確認するだけでも、「自国を知れ」など、カリキュラムのコンセプト自体は、結構いいんだがなぁ。関連企業で働いたり、自衛隊体験入隊は、いかがかと思うが……。でも出てきた製品が悪かったらやっぱり駄目だ。どこかに欠点があるのだ。あるいは、そういった教育方針のために素直な塾生ほど影響を受けて、ナショナリズムがかった言葉を吐くようになるのかもしれないが)

 その点で、塾生 => MBA、あるいはその逆経歴の議員は、どうも金、あるいはそれに類するものに縛られ過ぎているような気がするのだ。

 塾で電器製品を売りに行かされる、いわゆる「下々の現場の経験」も大切だが、国を考えるなら「(天に)選ればれしもの」という誇りを身につけさせ、それゆえに滅私奉公(ちょっと違うか)すべきなのだと教えるのがスジではないか?

 いわゆる「Nobles Oblige」の精神をたたき込むことが。

 卒塾生からは、そういう気概があまり感じられない。
 身を守る術にのみ長けているように見える。

 しかも姑息(こそく)な保身に。

 今回の「有頂天騒動」でも、前原某は、目先の保身ばかり見て、引責辞任をしようともせず引き際を見誤っている。

「闘い、そして逃げ出すは、またの日、闘うがため」

 この言葉が持つ重みを、彼らのような致命的な敗北を知らない「エリート」は、感じもしないのだろう。

 そういった意味から、個人的には、松下政経塾(あ、書いてしまった)の、二つ名は「松下生計塾」ではないかと思えてならない。

 彼らの多くが、自身の暮らしの生計(たつき)をたてることのみに長けているように思えるからだ。

 しかし、このメール騒動は惜しかったなぁ。

 最近、失敗が続いた某政権政党首相の息の根を止めるのは、頼りないが、民主党しかないと思っていただけに、本当に残念だ。

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真夜中に、変わる 「シンデレラボーイ」




 普段、滅多に観に行くこともないのだが、思いついてYAHOO動画を観に行ったところ、モンキーパンチ原作の「シンデレラボーイ」を見つけた。

 これは、何年か前に作られているのを知っていて、一度観たいと思っていたのだ。

 さっそく、全13話、一気観しました。

 というか、オープニングを観た途端にイカレてしまったので、あっという間に観終わってしまったのだ(本編の内容はオープニングほどには良くないのだが)。

 まず歌がレトロな感じで良い。
 カットがスタイリッシュ。
 例えが悪いが、官能部分の少ないキューティーハニーみたいかな。
 そう「シンデレラボーイ」は、全体が古き良きアニメの匂いでいっぱいなのだ。
 これは、原作、監修者モンキーパンチのセンスなのだろうか?


 作品の内容自体は他愛ないものだ。

 男女ペアの探偵が、ある事故がきっかけで肉体統一され、一つの肉体を交互に使うようになる。
 ひとりが使える時間は24時間。
 つまり、一日おき、午前0時に肉体が男から女、女から男へと変化する。
 真夜中に消えてしまうからシンデレラというわけだ。

 だが、それがいったい何だというのだ?
 そんな設定は珍しくもない。
 今まででも、そのようなシチュエイションの話はたくさんあった。
 しかし、それらの話のほとんどは、コメディ色の強いものだった。
 シンデレラボーイにもコメディ部分はあるが、よりスタイリッシュなストーリーになっているのだ。(もちろん基調はコメディだよ)

 特筆すべきなのは、肉体を共有して生きていかねばならなくなるという、極限状況に陥ったにもかかわらず、ふたりともあまり、それを重大に捉えていないことだ。

 主人公ランマはまったく動じず、女性キャラ、レイラも「悩んでも仕方ない」とサバサバしたものだ。

 昨今の神経症的キャラクタばやりの中にあって、ものに動じない主人公達はなんとも心地よいものだ。

 社会差別や組織内の抗争、内部分裂と闘いながら正義を為す主人公もいいだろうが、そんなのばかりだと、なんだかシンドクなってくる。

 たまには、こんなふうに、スカっとシンプルなストーリィもいいものだ。

 女性キャラクタには、モンキーパンチらしさが少ないが、上の画をみて分かるように、主人公ランマは初期のルパン三世そのものの顔をしている。髪の毛はルパンより長髪だが、顔つきから体のスタイルにいたるまで、ほんとうにルパンそのものだ。いや、ルパンよりルパンらしい(ってどういうことだ?)。

 初めのうちこそルパンの亜流のような違和感を感じるが、それも二、三話までで、だんだん慣れてくる。

 オープニングで一瞬映る、ランマと彼に寄り添うコケティッシュでキュートなミニスカート姿のレイラのツーショットも決まっている。

 こういったイカス(って古いねマッタク)ショットを、てらいもなく出してくるのがいい。(おそらくはモンキーパンチのセンスだろうな)


 ストーリィに、これといった特徴はないと先に書いたが、ひとつだけ、ちょっとひっかかる点があった。

 回を追うごとに、レイラが呟くように言い始める言葉がある。

「もう二度とランマに会えない……」
「危険だけど、もう一度ランマに会えるんだったら……」

 そう、二人にとって、肉体を一日おきに使おうと世界は何も変わらない。
 もともとタフな精神構造をもつふたりなのだ。
 その状況で元気に生きていくことができる。

 だが、たとえ世界が何一つ変わらなくても、ひとつだけ以前と違うことは、今後一切、お互いが生きて出会うことがないということなのだ。

 テーマとしてはっきりとは示されないものの、シンデレラボーイは、恋人たちが、ひとつの肉体のなかでまっぷたつに裂かれる物語だ。

 死んではいない。
 病気でもない。
 お互い元気で生きている。
 世界は何も変わらない。
 だが、それでも二度と生きては会えない恋人同士、それがランマとレイラだ。
 現代版、織姫彦星

 このあたり、もうすこし深く斬り込んでくれたらもっと面白い話になったかもしれない。

 自分の頬に手をあて、「ここにいるの?ランマ」

 このセンス、いいなぁ。

 ああ、そうそう、迂闊なことに、五回目くらいまで、シンデレラボーイの世界が近未来であることに気づかなかった。

 街並みが、今の世界とほとんど変わらないから。

 何で気づいたかというと、街を走る車がすべてエアカーだからだ。

 時間があれば、第一回を。
 なければオープニングのみをぜひ観て欲しい。
  http://streaming.yahoo.co.jp/program?k=cdbs00002

 通常は第一話のみ無料。
 YAHOOプレミア会員であれば、全話観ることができる。

ちなみに、公式サイトはこちら
  http://cinderellaboy.at-x.com/


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