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2006年2月

2006年2月26日 (日)

オーマイロボッ! ディアゴスティーニ再び



 前にも書いたことのあるディアゴスティーニから、今度はなんと「週間マイロボット」が登場した。

 合い言葉は「知能ロボットを君の手で!」

 毎週パーツを手に入れ、完成すると、言葉を話し荷物を運び、各種センサーで様々な反応をする、パソコンでプログラム可能なミニロボットが完成するのだ。

 http://de-club.net/myr/

 動画はこちら(3GP形式:QUICKTIMEが必要)
 http://kabulaya.sytes.net/douga/myrobot.3gp

 例によって、創刊号は安い。590円。

 そして二号から一冊1390円。

 ウェブサイトにも載っているが、創刊から25号まで連続購読すれば(いくらになるか計算してみて)、USBブルートゥースアダプタをもらえるのだ。

 うーん、頭部の外殻とLEDだけの創刊号だけど……買うべきか?

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2006年2月25日 (土)

レッドデータアニマル!カモン! 奈良筆








 わたしは自他共に認める悪筆なので、友人たちはおそらく誰一人信じはしないだろうが、意外に習字好きなのだ。

 実際、幼少の頃より、寺社仏閣体育館など様々な場所で書き初めを行ってきた。

 しかし、書類やノート書きは、昔からひどく苦手だった。

 字が妙な形になって思い通りに書けない。

 毛筆で書くのと、ボールペンなどで書くのとでは、まるで違った字になってしまう。

 わたしの場合、空中に筆を浮かせて書く毛筆と違い、ペン字の筆圧は異常に高くなる。
 おかげで、受験勉強していたころは特大のペンダコが出来ていた。(ダイガクニハイッテカラハソレガキレイニキエテシマッタケド……)

 縦書きと横書きでもまるで勝手が違う。

 これはわたしだけの問題では無いようで、長らく習字をならっている者でボールペン字を書くのが苦手という話はよく耳にする。

 考えてみるに、線に太さがなく、トメ、ハライもはっきりと出せないペン字は(まして横書きなら尚更)毛筆で字を練習してきた者には辛い。

 字の太さでなく形だけで文字の美しさを出さねばならないからだ。

 だから、というわけではないが、わたしは、高校の頃からオリベッティ製のタイプライター(機械式)で英文タイプを練習し、ワープロが普及するにつれてそれに切り替え、書く文章のほとんどをタイプ打ちしてきた。

 と、まあ、ここまでは前置きで、ここからが本題。

 先日、奈良県奈良市の「なら工芸館」で、奈良筆(ならふで)の製作体験ができるというので出かけてきた。

 奈良市は、他の古い街と同様、かつての洛陽を手本とした都だけあって碁盤の目のように道路が走っている。

 JR奈良駅を降りると、まっすぐ春日大社の方、つまり東に向かって、緩やかな坂道が何本も延びている。
 それらのうちの駅正面から南へ五本目の道を、東へまっすぐ歩いていくと、坂を登り切ったあたりで左側に「なら工藝館」があった。

 所要時間約20分。

 なら工藝館は、最近建てられたばかりらしく、コンクリートの打ちっぱなしに大きな壁一面のガラスが嵌っている、明るく清潔な建物だ。

 建物内部には、一階に地方作家の奈良扇や鹿の木彫を展示する常設展示室や、それらの販売所、そしてレンタル可能な個人展示コーナー「ギャラリー阿字万字(あぜまめ)」がある。

 建物に入ったところにある掲示板を見ると、今回は、阿字万字を「奈良毛筆共同組合」が借りて体験学習させてくれるらしい。

 二階は織物の研修室になっているらしく、気になってちょっと上ってみると、これも大きなガラスを通して、数人の女性が昔ながらの機織物(鶴の恩返しでつうが使っていたようなものです)に精を出していた。

 受付の男性に「ならふで体験」だと告げると、先に立って案内してくれた。

 細い通路を通って、阿字万字に入る。

 二十畳ほどの壁一面が、ガラス張りになった明るい部屋だ。

 部屋は、ふたつのコーナーに別れていた。

 入ってすぐのところに、一段高くなった畳の台が置かれ、その上に座机が二つ乗せられている。

 その向こうには、会議用の机がいくつか置かれ、上には竹製の筆立てに数多くの筆が立てられている。

 手前の座机で奈良筆の製作体験をし、奥の机で筆作家の手によって製作された奈良筆を試し書きしてから、布海苔(ふのり)で固める作業をするらしい。

 気に入った筆は、中太字用千円、細筆五百円で購入することができる。
 試し書きして気に入った筆を、自分で布海苔で固めて持って帰ることができるのだ。

 価格も、一般に店先に並んだ時の三分の一程度とリーズナブルになっている。

 ところで「ならふで」とはいったいどういうものか?

 だいたい、奈良で、こういった特色ある筆を作っていることさえ、わたしは知らなかった。

 墨については、数多くの本物の蝋燭(ローソク)に被せものをし、それをこそいで煤をとる高級なものがあるのは知っていたのだが。

 聞くところによると、奈良筆は、イタチ、狸、リス、テン、犬、羊など、剛柔様々な材質、長さを組み合わせ、よく混ぜ込んで一つの筆先にした筆なのだという。

 こういった製法をとる筆は、奈良筆以外にはひとつあるだけで、他は、中国産のものを含め、混ぜ込まずに少ない種類の毛を合わせて作るものらしい。

 筆をつくるための「天然」材料は、近年、ワシントン条約のおかげで材料が手に入りにくくなってしまったとのことだったが、なんとか今も、奈良筆は生き延びている。

 案内されて入っていくと、阿字万字は閑散としていたが、ひとりだけ先客がいた。

 時刻は平日の午前11時だから無理もないが、その客は畳に正座し、筆先を作りながら熱心にノートを録っていた。

 取り囲んで眺める職人の一人から、彼が毎日新聞の記者だと紹介される。

 この人物とは縁があったようで、数日後に飛鳥でも再会することになるのだが、それは他の項に譲るとして、彼は、おそらくわたしが今までにみ中でも一、二を争う不器用な男だった。

 筆先を指で挟んで整える、それがなかなかできない。
 道具を使って混毛を押し伸ばしていく、その行為ができないのだ。

 見つめる職人たちが、見かねて何度となく手を出し、そのたびに毛の塊は筆先に変身するのだが、彼が触れると再び毛の塊にもどってしまう。まるでマイダス王だ。


 長い時間が過ぎ、わたしの番になった。

 実際に筆を作ってみると、これが(あたりまえだが)なかなかに難しい。
 記者の手際の悪さを笑えない。
 刃びき(刃先をつぶして切れなくした)の小刀を用いて、5〜6種類の長さも違う動物の毛をぬらし、もみ、ほぐし、そして櫛を入れて、まんべんなく混ざるようにしていく。 難しいが面白い作業だった。

 筆先作りが終わると、今度は布海苔つけを行った。

 本当は、自分で作った筆先を持って帰りたかったのだが、数日乾燥させた上に後処理までしなければならないと言われ、諦めたのだ。

 先ほど書いた、会議机の上で竹の筆立てに立てられている大小様々な筆を手に取り、水に浸して字を書いてみる。
 紙は、特殊な水筆専用のもので、水で黒く字が浮かび上がり乾くと消えるものだ。

 実はこれはわたしも持っている。服が汚れないし、墨をする必要もない。筆の手入れも楽なので重宝する逸品だ。

 筆には、今日、阿字万字に着ている職人達の名前を書いたテープが貼られていた。
 
 つまり、誰が作った筆なのか明記して、責任販売?しているのだ。

 結局、わたしは中筆「福原」氏、細筆「田川」氏のものを選んで布海苔をつけ、持ち帰ったのだった。

 布海苔は文字通り海苔から作られる糊で、筆を運搬、保存する際に筆先が乱れないようにするためにつけるのだということだ。

 細筆は一日で、中太筆は三日ほどで乾燥するので、その後、水で筆降ろしすれば良いらしい。

 五日ほど経って、水筆用紙で初書きしてみた。
 太筆の方は、なかなか感覚が戻らず、返しやトメが決まらなくて、うまく書けないが、細筆は思い通りの文字が書ける。思った通り、素晴らしい書き味だった。 

●追加
 あ、それから気がついたことをひとつ。
 長らくならまちの方へは行かなかったが、今回ぶらぶらと歩いてみると、町並みが京都の北山のように、いや、そこまではいかないな、円山野外音楽堂から清水にかけた、あのあたりに近い雰囲気になっていて驚いた(写真参照)。
 聞くところによると、東京から、ならまちの旧家を買って移り住む老夫婦などが多いらしい。

●さらに追加
 もちいどの商店街を出たところで、知る人ぞ知る「テレビチャンピオン餅つき王」二連覇中の「中谷堂」の店舗をみつけた。(写真参照)
 すぐさまアンコロ餅を買って食したのは言うまでもない。
 これがまた美味かった。
 残念ながら、店先で、例の「驚天動地音速ヅキ」をこの目でみることはできなかったが。

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2006年2月22日 (水)

PKD逃亡!!


 わたしを含め、ファンにとってみれば、PKDといえば、この世でたった一人の人物を指す。

 フィリップ・キンドレッド・ディック。

 麻薬中毒者にして作家。

 読むにつれ、足下から現実世界のリアリティが崩壊していく感覚を感じさせてくれる希有の作家……だそうだが、確かにそういったところもあるし、それはディック作品の大きな特徴ではあるだろうが、わたしにとっては、それよりも、最低のクソ未来を創造し、今の世界がやがてそれにつながっているのだと、リアリティあふれる文章で怖がらせてくれる奴(作家)なのだ。(*)

(*)ディックの名を知らない人も、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」=>「映画ブレードランナー原作」や、他の映画「スクリーマー」「にせもの」などはご存じだろう。


 もっとも、その文体は、もと純文学を志した男だけあって、なかなかに難解だ。

 というか、あまり平均的アメリカ人が使わない単語を使うのだな。

 だから、他のSF作家、ブラッドベリやハインライン、あるいは映画のノベライズ品のペイパーバックを読むつもりでディックを読もうとするとかなり苦労する。

 原書で読むなら、まずディック以外から始めたほうがいいだろう。


 で、今回のトピック。

 そのディックのレプリカントが逃亡したのだという。

 これはショックだった。

 なんということだ。ディックのレプリカントが作られていたなんて。

 すぐに賞金稼ぎ(ブレード・ランナー)を呼集してディックを探すのだ。

 って、これは別にジョークでもなんでもない。

 生前のディックを型どったレプリカント……立体肖像画ともいうべきものが、輸送途中、何者かによって盗まれたのだという。

 しかし、ショックなのは、その出来具合だ。

 生前のディックを知るものにとって、気味が悪いほど似ている。

 これなら皆ほしがるなあ。

 あるいは、熱狂的なファンによる犯行なのか、あるいはファンへの売り込みを当て込んだ者の犯行なのか?

 まずは、以下のサイトで写真を見て欲しい。

  http://japanese.engadget.com/2006/02/15/pkd/

 ディックファンなら、気味が悪いほど似ている方が買い手がつくぜ。

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2006年2月21日 (火)

赤コン飛行機……いいかも トミー「エアロソアラ」


 友人がメールで、このブツを教えてくれた。

トミー「エアロソアラ」

  http://www.tomy.co.jp/aero_soarer/

 世の男性のほとんどがそうであったように、わたしも子供の頃からラジコン飛行機に憧れていた。

 もちろん、ラジコンカーも欲しかったのだが、やはり大空高く飛び回る飛行機に自らを重ねて(いたのかどうか知らないが)、自由な空を往く飛行機が欲しかったのだ。

 当時は、ラジコンの廉価版でUコンというのもあったが(もうみんな知らないだろうなぁ)、あれは、主翼の端からのばしたワイヤーにハンドルをつけて、くるくる回すだけの飛行機だったので、なんか自由って感じがせず、それほど欲しいとは思わなかった。

 近くの空き地で(昔は空き地がたくさんあったのだ)、どこかの金持ちのニーサンが、ラジコン機を飛ばし始めると、飽きずに見入ったものだった。

 自分で買うなんてとんでもない。ラジオコントロールのマシンは、一生かかっても手に入らない(ような気がするほど)高価なものだったのだ。

 だが時は移ろい幾星霜、国の富貴とテクノロジの進歩によって、近年では、わずか数K円で、否0.8K円ほどでミニラジコンカーが手に入り、5K円ほどで赤外線を使った疑似戦闘ができるラジコン戦車をゲットできるようになった。

 そして今、「室内で」飛ばすことの出来るラジコン飛行機が

 こういった室内遊びモノは、今までも、ヘリウムガスを使った飛行船や円盤型ヘリコプターが売り出されてはいた。

 だが、如何せん値が張った。高かった。

 しかし、今度のものは、なんと2.625k円ってしつこいな、つまり2625円。


 ちなみにこのkを使った価格表記方法って、みんな知っているのかな?

 その昔(って、今もあるのか)、コンピュータや電子楽器黎明期の頃、あるいはバイクやカー雑誌の末尾に、読者パーツ交換コーナーというのがあり、(まあ、今のオークションに似ているかな)、「買いたし」「売りたし」そして「もらいたし」という強心臓の人のコーナーがあった。
 雑誌としては広告収入があるわけではないから、そこでは厳しい字数制限がなされていた。
 利用者たちは、限られた字数を最大限に生かすため(売りものの値段は、ほとんど1000円から2,3万円程度だった)と、そして数字の桁を間違えないために、k(キロ)を使って値段を表記していたのだった。


 昔話はそこまでとして、このトミーの「エアロソアラ」。
 赤外線を使ったコントロールなので、厳密にはラジコンとは呼べないが、なんせ、風を気にせず、屋内でヒコーキをとばせるんだから最高じゃないの。

 しかし、このエアロソアラ。
 カラーのネーミングがすごいね。「ミリタリーグリーン」はともかく「カブキッドホワイト」「タトアージュレッド」「バーゴッドブラック」はすげぇ!!

 翼に書かれたマークからのネーミングだろうが、もう少し考えがあっても良いのでは?

 いずれは「ユカタブルー」とか「ハナビゴールド」、「ベッピンイエロー」「ハナミズグリーン」「ショージホワイト」「ベンジョブラウン」「ゲロハキミックス」なんてできそうな気がする。


 で、エアロソアラについてもっと詳しい情報をみようと、トミーのウェブサイトにいったら、トップページに

「くまのプーさん わたあめポット発火の危険性につき回収」の文字が……。


しかも、
「しかしながら商品回収作業の過程で2003年に製造された商品の一部にも、商品仕様と異なる部品が使用されていることが判明いたしました。弊社といたしましては、お客様の安全を期するため、当該商品について全品回収をさせていただくことといたしました。」
とは悲しすぎる。

 大丈夫かトミーピンボールやってる場合じゃないぞ!ってエルトン・ジョンか。


 まさか、エアロソアラが空中発火して部屋中に火をまき散らす、なんてことはないよねぇ。

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2006年2月19日 (日)

押してください 奥さん! 「プッシュトーク」

 先日手に入れた(ってそればっかりだが)携帯電話、902シリーズに新しく備わった機能として「プッシュトーク」がある。

 これは、電話機のサイドに、専用ボタンがあって、それがトランシーバーのPTT(PUSH TO TALK)の役割を果たし、五人までをグループとして登録した後に、ワンプッシュで全員を呼び出せて、いったんつながると、それぞれが「交互に」話すことが出来るというものだ。
 あたかもトランシーバーで行うチャットのように。

 それだけなら電話と何が違う、電話より少し不便なだけだろう、と思うだろうが、特筆すべきなのはその料金体系だ

 プッシュトークは、会話するためにPTTスイッチを押した者に、30秒以内5円の課金がなされるのだ。
 誰が呼び出したかは関係ない。
 極端な話、自分が呼び出して、最後まで会話を聞いているだけなら、一切の課金は無いのだ。

 ただし、1000円で、ひと月プッシュし放題になる「カケホーダイ」サービスに申し込まないと、ワンプッシュするたびに、三十秒の間、無意味に長く話し続けることになる(自分のセコさに嫌気がさすなあ)。


 実際使ってみると、なかなかに面白いプッシュトークではあるが、ちょっと気になることもある。

 音声通話帯でなく、データ通信帯を使って音声情報をやりとりするためか、通常より長いネゴシエイションが必要で、発信してから相手を呼び出すまで、かなり待たされる。

 まあ、それは良いのだが、その時に流れる音楽(というかビープ音)が、気持ち悪いのだ。

 まず、「ピピピ、パポ!」とがなり立てると、あとは「ピポパポ、ピポパポ〜」とネゴシエイションが完了するまで延々と鳴り続ける。

 この曲、なんとかならないものか。耳につくし不愉快だ。

 今後、ある程度普及すれば、この曲を三流若手芸人がギャグに使うのは間違いないところだ。

 あと、話し始める時と、話し終わった時、つまりPTTスイッチを押した時と離した時になる「ピロリロ」音。

 あれも何とかして欲しいね。

 往年のCBファンには何ともなつかしい、ガチャコン・マイクが腰抜けになったような感じだ、それよりもっと品がない。

 それさえ各自が、好みに変更できるようになれば、プッシュトークは、新たなコミュニケーション手段として広く社会に普及する、かもしれない。

 ダベリング手段としてね。

 なに、相互会話なんてどうでもいいんですよ。
 どうせ電話だって、どっちかが一方的に話すのを、大介(*)のように、「うんうん」と頷くだけなんだから。


(*)宮川大介・花子、上方お笑い芸人、以下説明省略。

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背筋を伸ばせ! 藤原正彦著「国家の品格」




 子供の頃、祖母からよく言われた言葉で、今も耳に残っているのは
「薬と思って食べなさい」
 だった。

 おかげさまで、食に関して、好き嫌いはほとんどない。

 全ての食物には、毒素と栄養価があり、雑食性の生き物である人間は何でも食べるべきなのだ、と、この言葉は教えているのだと思う。

 昨今、昔から言われている食べ物の組み合わせが、栄養学的にみても、すばらしいものだと再認識されることが多い。

 食の組み合わせなどは、定量分析も定性分析も行えなかった昔の人々が、経験とおそらくは直感で得た知識だが、かなり真理に近いということだ。

 論理ではなく直感。

 本書、「国家の品格」で著者、藤原正彦氏は、西洋「論理至上主義」をばっさりと袈裟懸けに斬り捨てている。

 氏が論拠としている、佐賀鍋島藩由来の武士道「葉隠れ」に関しては、わたしは藤原氏とは少し違う考えを持っているが、それ以外は「我が意を得たり」の意見ばかりだ。

 まるで自分が、寝ている間に無意識に書いたのではないか思うほどだ。

 遅ればせながら紹介すれば、「国家の品格」は、国家論、国民論に分類される新潮新書で税別680円。それほど高いものではない。
 買いやすい。その上薄い。読みやすい。
 講演記録に加筆訂正したものだから当然なのだが。

 こういった内容の書物、1996年に書かれた林秀彦氏の「ジャパン、ザ・ビューティフル」(写真参照)など、同様の日本人賛歌論、チアアップ論は時をおいて間欠的に吹き出してくる。

 昨今の、お国事情に我慢出来なくなった人が一定期間ごとに立ち上がるからだ。

 さて、「国家の品格」。
 論旨自体は「ジャパン、ザ・ビューティフル」とほとんど変わらない。

 違うのは、林氏がテレビのプロデューサーに過ぎないのに対して、藤原氏は、父を、官僚としてあの富士観測所を建て、作家として「八甲田山〜」を書いた新田次郎であり、戦後最大の大感動文学と言われた「流れる星は生きている」の作者である、藤原ていを母に持ち、自身は東京大学理学部数学科修士課程を卒業後、コロラド大学で教鞭を執っていた人物であるという点だ。氏自身、作家でもある。

 わたしも、およそ四半世紀前に、氏がアメリカ留学の体験を記した「若き数学者のアメリカ」を読み熱狂したクチだ。

 「若き〜」は、今でも、青年が海外に出て受けるカルチャーギャップを記した作品としては、高橋三千綱氏の「シスコで語ろう」と双璧をなす作品だと思っている。(本書でも、その時の経験は随所に語られている)

 先年、NHKで放映された「天才の栄光と挫折」では、専門の数学における天才たちの生涯に迫る番組の企画、ホストとしてなかなかの弁舌ぶりも披露していた。

 ともかく藤原氏は、作家として私が好きな人物なのだ。

 それが、ここのところ、月に一度程度、氏が(講演会を除いて)世間に顔を見せる場であるNHK「視点論点」(*)で、過激な日本人論をブチ始めたのを見て、どうしたのだろうと思っているうちに、この「国家の品格」がベストセラーになったという噂を聞いたのだった。

(*)NHK深夜枠番組で、放送時間十分の一方的意見放送番組

 つまり言いたいことは、藤原氏が、こういった対外国(コクサイ社会って言葉は使わないよ嫌いだから)問題に対して、きっちりと発言できる背景を持った人物だということだ。

 理系文系併せ持つ父と、大ベストセラー作家の母を持ち、自身は数学者で作家、その上海外経験も深い。
 その生まれ育ちから貴種といっていい。

 「国家の品格」の論旨自体は、「ジャパン、ザ・ビューティフル」と、そして私の意見とほとんど変わらない。

 だが、著者の、社会に対する影響が違うのだ。

 ひとたび、彼が「風が吹けば桶屋がもうかる」話を、数字を使って否定すれば、もう誰も口出しできなくなる。
 思想とは不思議なものだ。

 発せられる人物の権威によって世間に対する影響力がかわる。

 世間は、中身を(ほとんど)見ずに、後ろ盾を見て物事を判断することが多いからだ。
 ホテルマンが靴をみて人を判断するように。(って本当か?)

 だが、今回は、言い出しっぺが藤原氏であるというからだけでなく、内容が今の日本にこそふさわしいものであるので、権威結構、大いに利用して、オーソリティに弱い日本国民を扇動してもらいたい。

 また、時期も良い。

 かつてドイツが第一次大戦前後、ヨーロッパ世界に経済的な劣等感を持ったあげく(それとて無意味に長引いた戦争の影響なのだが)、過度の劣等感の裏返しとして、超人政権をもとめ、出てきたのがナチス党、ヒトラー政権だった。

 現在の日本も同様、闇雲なアメリカ追従政策に溺れ、経済力だけは、まあなんとかあるが、それも大国中国によって風前の灯火だ。(個人的には中国の快進撃はそろそろ失墜すると思っている。その理由は、貧富の格差が激しすぎること、国がひとつの政府で納めるには大きすぎるからだ)

 そう言った危機感、閉塞感に対する反動が、結果として独裁首相を生み出したが、こういう時期は、「国家の品格」のような尖った(が、しごくまっとうな)意見が必要とされる。


 話はかわるが、今の日本は、品格のない、とりわけ老人が多すぎる。

 彼らを見ると、年を取ったから品格が教養が備わるというものでもなさそうだ。

 わたしの知っている限り、老人たちは皆節度を忘れた醜さに溺れている。

 とりわけ、末っ子で生まれ育ったような人物は、年老いても、やはりそのままの性格だ。人に甘え、少しでも自分が損をしそうになると、過剰反応して過激に反撃する。
 保身が第一。
 家族は守るが、他人はほったらかし、七十近くなってもそういう人物を見ると暗澹たる気持ちになる。
 私を含め、そういった人物に、本当に生きる価値はあるのか?

 ああ、それで思い出した。

 「家族主義」という言葉がある。
 この考えは正しいが、正しく理解している者は少ないように思える。

 家族主義を、単に家族を守ることだけに専念することだと考えると大間違いだ。

 いったい人を守るってなんだ?

 基本的に、他者は人を守れない。おそらくこれは真理だろう。

 学校に送り出した子供に突っ込んでくる車を、親は停めることができない。

 少なくとも人は我が身を自分で守らねばならないのだ。

 それを我々は、往々にして勘違いする。

 自分の手は、他人を守るほど長くない、だからせめて家族だけでも守るのだ、と。

 この考えの恐ろしいことは、一見、正しく見えることだ。

 だが、少し考えるだけで、それが欺瞞であることは、すぐにわかるはずだ。

 人は、一人では生きていけない。もはや生きていけなくなった。
 社会という羊水の中で浮かんで生きることしか我々はできなくなってしまった。

 だがその羊水は、母の体内ほどには安全ではない(母の体内もそれほど安全ではないが)。

 そこで人は考える、せめて家族だけでも自分がバリアを作って守ろうと。

 しかし、それは本来はできないことだ。四六時中家族についていることはできない。

 家族自身の心の問題もある。

 はっきりって、わたしは「家族主義」という言葉が嫌いだ。

 そこに、自分が行うべきことの外枠を決めて、その中だけで義務を果たせばいいや、という安易な逃避を感じるからだ。

 これは言い尽くされた感があるが、本当に家族を守りたかったら、一番良い方法は、まっすぐな自分の背中を見せることだ。

 それが、辛く困難な道ではあるが、いちばんまっとうな道だ。

 「情けはひとのためならず」

 これは、わたしの好きな言葉のひとつだが、この言葉こそが、偏狭な家族主義から人を解き放ってくれると思う。
 ここには仏教の真理がある。

 愛するものを守るためには、まず、世に与えることが必要だろう。
 世の中に与えることで、結局は、世の中が家族に返してくれる。

 これは宗教的な意味でいっているのではない。神秘学でもない。
 もっと実際的なものだ。

 家族主義に凝り固まった者を、世間は助けてはくれない。
 そういった、偏狭な人間を世間は嫌うからだ。

 自分自身だけで対処できることなど多寡がしれている。
 いつかは外部の助けが必要になる。
 その時に世間が、有形無形の援助を返してくれるのだ。
 本当に家族を守りたければ、世の中にまず与えることが必要なのだ。

 そして、子供たち自身。
 汲々として家族を守ることに突っ走る親に、子供は感謝するかもしれないが、同時にまた軽蔑もすることだろう。
 子供は、本質的に潔癖なものだから。

 繰り返すが、家族主義に走るものは本当に家族を守れない。

 家族主義を標榜する者の多くは、薄々、そのことに気づきながら安易な道をとっているだけだ。


 閑話休題

 二ヶ月ほど前の「視点・論点」で藤原氏が述べた言葉がある。

 これは、「国家の品格」に明確には述べられていないが、感銘を受けたので、以下に記しておこう。

「日本はアメリカに追従して、自分の地位と財産を守ろうとしている。あるいはそうすることによって、日本は生き延び、安泰かもしれない。でも、ここで大事なのは、国は『ただ生き延びる』だけではだめだということです。国はただ存在するだけではだめで、問題は『その国に存在する意義があるかどうか』ということです」

 けだし、名言と言えよう。

 人もまた然り。

 わたしなどのように、取るに足らない命でも、生に固執し必死で安楽を求め生き延びようと毎日あがいている。

 だが、人は、ただ生き延びるためだけに生きていては駄目なのだ。

 問題は「その人間に生きている意義があるか」という点にある。

 こういうことを言えば、オタメゴカシの人々は、「人にはすべて個性があり、人の命はすべて地球より重いから存在するだけで意義がある」と言うかも知れない(付け加えて言えば、氏は命の平等をきっぱりと否定している、人の命は地球より軽い、とも)が、いったいあなたとわたしと彼と彼女にどんな違いがあるというのだ?

「人の違いは確かにある、だが、それは卵の殻の表面にあるブツブツ程度の違いに過ぎない。所詮、われわれはみんなタマゴ型なのだ」

 最後に、本文中、特に気に入った言葉を引用しておこう。

「人間にとって最も重要なことの多くは論理では説明できない。(中略)人を殺してはいけないのは、『駄目だから駄目』ということに尽きます。『以上、終わり』です。論理ではありません」

 もうひとつ

「本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけません。たいていの場合説明など不要です。頭ごなしに押しつけてもよい(中略)はじめに何かの基準を与えないと子供としては動きがとれないのです」
 
 これも見識だ。

 自由を与えられすぎて、途方に暮れる子供(大人も)よく見かけるが、彼らは本当に哀れだ。



 私のおすすめ:
イーブックオフ

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チョーいい奴……ステルス


 これは空飛ぶナイトライダーだ。
 っていっても、わたしは「ナイトライダー」をほとんど観たことがない。数回、斜め観したことがあるが、面白いと思えなかった。

 なんだか子供だましの思考型スーパーカーの話だったような気がする。

 この映画、世界最高の独立思考型ステルス戦闘機が落雷で狂ってしまい、ってブライキングボスかよお前は、かなり悪いことをし始めても、どうも悪い奴のようには思えない。おそらく、ステルスがナイトライダーの声(日本語吹き替えのほう)をしているからだろう。

 この人工知能、案の定、途中からトップガン仲間の熱い友情に?目覚め、最後は自己犠牲を発揮して華々しく散ってしまう……って、あらすじ全部言ってしまったな。

 まあ、時間つぶしにはいい映画化も。



 私のおすすめ:
『TSUTAYA DISCAS』/ネットでいつでもDVDレンタル!

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レモニー・スニケットの世にも残酷な物語


 これに関しては何もいうことなし。駄作。

 画像すら載せる必要を感じない(載せてしまったが)。

 ドリーム・ワークスらしい箸にも棒にもかからない不出来さ。

 音楽も、キャッチミーやターミナルと同様の、単調でツマラナイ曲だ(同じ作曲者なんだろうな。別に興味もないけど)。

 ハゲ爺役のジム・キャリーは、ひたすらしつこく、端役っぽいメリル・ストリープは何のために出てきたんだかわからず、ストーリーは破綻気味で、内容は浅薄。

 原作があるのだろうが、おそらくその良さを万分の一も映像化できてないんじゃないかな。

 主人公(のひとり)の女の子が綺麗というより、ぷっくりぽちゃぽちゃほっぺで愛らしいのだけが救いだ。

 しかし、観た人ならわかるだろうけど、オープニングとエンディングで使われる画では、姉弟が全員黒髪で陰気に描かれ実写とはまるで違うのは何故なんだろうな?

 というか、原作で使われた画をそのまま使っているのだとしたら、明らかにミスキャストだ。

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2006年2月17日 (金)

アフロ・シンデレラ(アフロサムライ)

 ほぼ無名に等しい日本人漫画家の原作をもとに、「あの」サミュエル・L・ジャクソンが吹き替えをするアニメ「アフロサムライ」が話題を呼んでいる。

 いきなりのシンデレラ・ストーリーってのが日本人にマッチするのだろうが、アフロサムライってネーミングのセンスがねえ……。

 絵柄、内容は以下でチェックできる。

 http://www.afrosamurai.com/

 咥え煙草で人を斬る。アフロ頭のサムライ一匹ってかんじか?

 雰囲気は子連れ狼っていうか、西遊記っていうか、小島剛夕というか……。



 私のおすすめ:
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死体を撮るな


 毎日新聞に、最近、葬儀で故人の顔を携帯電話のカメラで撮る人が多い、と嘆く記事があった。

 わたしも、十数年前に祖母が死んだ時に、葬儀の様子をずっとビデオで撮っていたから偉そうにはいえないが、家族が故人を撮影する気持ちはわかる。

 もういなくなってしまう人、なくなってしまう体をせめて映像にでも残しておきたいと思うのは、異常な気持ちではないはずだ。

 当時、坊主が私に向かって「死者を悼め」と高飛車に言い放ったので、強烈な暴力衝動を抑えるのに苦労したものだった。

 たとえ坊主であろうと法王であろうと、一番愛した者が愛する者の最後のすべてを残しておきたいと考えることに異を唱えることなどできない。

 訳知り顔で説教をした、脂ぎった坊主の顔は今も忘れていないが、ああいう似而非ボウズは、跡継ぎ息子が結婚して寺を増築するために、寄付を募るなどして馬脚を現し、世の宗教離れと相まって朝の露のごとく消えていくのだ。

 まあ、それはさておき、ただの列席者が死体を撮影するのがわからない。
 いったいどういう気持ちなのだろうか。

 特に三十〜四十代が平然と撮影していくそうな。
 おそらくは、あの腕を伸ばしたケータイカメラ用バカポーズ(*)をして撮影しているのだろう。

(*)東海林さだお氏は、エッセイの中で、サッカー選手が空に上がったボールを追いかけ、その下に群がって上目使いに白目をむく、その浅ましい目つきが嫌いだという名言を残しているが、わたしは、道で芸(ノー)人を見かけると、すぐに腕をまっすく伸ばし、鼻の下もついでに伸ばしながら、両目を真ん中に寄せて、ケータイカメラを突き出すオバサンたちが嫌いだ。
 浅ましさ丸出しな感じがしてね。
 おそらく、彼女たちには、外から自分がどう見えているか、という想像力が欠けているのだろう。
 電車の中で化粧をするタイプだな。


 ともかく、撮るなら安易に携帯電話の付録で撮らずに、きちんとしたカメラで撮れ。
 それが死者に対するせめてもの礼儀だ。

 それ以前に、家族以外は絶対にそんなことをするべきではない、という常識を働かせるべきなのだが、今の三、四十代にそれを言っても無駄だろうなあ。

 記事中で面白く感じたのは、十代の若者たちは、そういった光景に出くわして、「え、そんなことをしてもいいの?」と健全な反応をとることだ。

 彼らには、学校で、あるいは親を演じる年長者からのシツケで、それはいけない行為なのだ、という常識がまだ残っているのだ。

 だが、学校を離れ、親に反抗し、独立して数十年を経た三、四十代には、そういった禁忌感がほとんど残ってはいない。

 彼らは(わたしも含めてだが)、かつて自由を求め、やがて自由になり過ぎて、寄る辺を失い暴走し続けるストレイ・シープなのだ。

 そういった、いわゆる心の危機に気づいたものが、禁忌と制約を求めて戒律の厳しい宗教に走ったりもする。


 しかし、新聞記者たちが、自分でモノを考えようとせずに、すぐに作家だのセンモンカだのといった権威に頼るのはどうにかならないものか。

 無論、そういった権威の後ろ盾を求める読者自体に問題があるのだが。
 
 この記事についても、例によって「メディア社会論に詳しい」評論家なるものに意見を聞いているが、これが、かなりのピンボケ発言をかましていて面白い。

「対象を撮影し、他者と共に確認しなければ”リアリティ”が感じられなくなっている。葬儀も焼香だけでは満足できなくて、故人との確かなつながりを持ちたいとの思いから撮影するのだろう」

 そんな殊勝な気持ちなのかなあ。

 どちらかというと、葬式はビッグ・イベントだから、記録しておけば、あとで何かで必要になった時に「使える」カモ(例えば、葬儀に来られなかった人に見せたり)程度の、かつてインターネットが無かった頃の、情報貧乏だった時代の恐怖感から、何でも記録しておこうとしているだけなんじゃないかな。




 ちなみに、写真は、旧東ドイツ、アイゼナハにあるワグナー博物館所蔵の彼のデスマスクだ。トスカニーニのデスマスクも結構有名。
 海の向こうでは、デスマスクはごく当たり前に作られる。
 さらに、レーニンや金日成は遺体がガラスのケースに入れて飾られ、ザビエルのミイラはインドでみることができる。

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2006年2月16日 (木)

あれに似ている……




 長らく使っていたヘルメットがボロボロになってしまったので、ヘルメットを購入した。

 オフロードに乗っているために、ジェット型にするか、安全性をとってフルフェイスにするか迷ったが、結局、第三のタイプに落ち着いた。

 写真でもわかるように、フルフェイス型ではあるが、ロックを外すとフェイス部分がポップアップして、ジェット型のように装着できるタイプだ。

 メガネやサングラスをかけたまま装着できるし、ツーリングの休憩時にちょっと珈琲を飲んだりするのも、ヘルメットを被ったまま行える。

 何より、フェイスアップした感じが、往年のウルトラ警備隊のヘルメットに似ているのがいい。

 個人的に、バイク用品は派手な方が好みなので、白一色というカラーリングには不満が残るが、それはこれからペインティングを施し、シールを貼っていけば良いだろう。

 現時点での改造は、イヤー部分に携帯電話用のフォンをつけて、ヘルメットを脱がずに電話できるようにしたことだ。

 これも必要に応じて機能を追加していくことになるだろう。

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君がいなくなると、困る(2007年問題)

 2007年問題とは、CSKホールディングスの有賀貞一取締役が提起した問題で、「2007年に団塊世代(1947〜49年生まれ)のIT技術者の大量退職が始まり、ITシステムのメンテナンスに支障をきたす」という内容だった。

 ITに限らず、2007年から団塊世代の大量退職がはじまるために、どの業界にも同様の問題が発生すると言われている。

 彼らが、現行の法定定年下限年齢である60歳を迎えるためだが、実際にある程度の労働力が無くなることは間違いなさそうだ。

 まず、無くなった労働力を確保するのが深刻な問題になるだろう。

 次に問題となるのが、というより、それこそが2006年問題の核心だというのだが、団塊世代が持っている技術、技能が、彼らの退職とともに会社から消え去り(マジ?)彼らだけが持っていたメンテナンス技術に頼ったシステムが不調を来す、というものだ。

 もちろん、例のアメリカ傀儡経済担当大臣の薫陶よろしく、何とかのひとつ覚えの某首相が行った、もうひとつの「官から民へ」ともいうべき、「社員から契約社員へ(正社員を減らせ)」を加速させる派遣業法案の規制緩和が、広く浅い知識のゼネラリストばかり増やし、ひとつの仕事に習熟した職人社員を減らしてしまったことも原因のひとつではあろうが……

 本当のところ、現在、六十歳近くの彼らがITシステムの中核を為しているのだろうか、というのがわたしの疑問だ。

 わたしがコンピュータ技術者として就職した頃、団塊の世代達は、IT技術に習熟していたのか?

 もちろん、IT自体まだ存在していなかったのだが、コンピュータ技術に習熟していたのか?

 どうもそうは思えないのだが。

 おそらく、日本史上初の受験戦争を勝ち抜き、大学を優秀なる成績で卒業された学士さまたちは、必要に迫られてITの知識を吸収し、その道のトップとなられたに違いない。
 んで、その後に続いた者たちは、グータラと時を過ごして、自分たちより年上の人々が勉強されるのを後目に、大した技術もつけずに現在に至っている……

のか?本当に?

 個人業主のわたしとしては何ともわからないのだが、本当に、現在、団塊の世代たちがITの旗手として最前線で働いているのだろうか?

 わたしは決して長年社会で核を担ってきた団塊世代の人々を軽んじる者ではない。
 が、なんだかちょっとおかしいような気がするのだ。

 本当のところを知っている人がいるなら、ぜひ教えて欲しい。

 うーん、2007年問題……深い。

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ドッペルゲンガー




 数日前、知り合いの中学生から、スパイダーマンのストラップフィギュアを見せられた。
 なんでも、缶コーヒー「WONDA」についてきたものだという。
 なかなか精巧にできていたため、自分でも欲しくなって、詳しく聞いてみたところ、自動販売機で売っているとのことだった。

 WONDAはショート缶のために、上にプラスティックのキャップをつけて、その中にフィギュアをいれて自販機にいれることができる。(もちろん、アイスのみ。ホットだとフィギュアが傷む:写真参照)

 販売開始一周年記念のイベントらしい。

 以来、ASAHIの自動販売機を見つけてはチェックしてみたが、ASAHIの自販機自体あまり見かけない上に、見つけてもフィギュアはついていないものばかりだった。

 5日ほどたって半分以上諦めていたところ、携帯電話のEdy(いわゆるおサイフケータイ)にお釣りチャージ(*)しよう近くのam/pmに寄ったところ、ビバレッジコーナーにあるじゃないですか。

(*)ちなみに、おサイフケータイedyに入金しようとすると、e-bankからだと1000円単位、郵貯からだと5000円単位、am/pm以外のコンビニエンス・ストアでも1000円単位でしか入金できないが、am/pmだけは、1円から入金することができる上、買い物をしたお釣りを入金してもらうこともできるのだ。シャレでしか使わないEdyならばその程度の金額で充分なので、わたしはいつもこのやりかたでEdyに入金するようにしている。

 しかも、この缶にはAタイプのフィギュアが入っています、などと明記されているから、重複購入することもない。(タイプは全部で6種類ある)

 もちろん、さっそく購入しました。

 微糖とはいえ、砂糖入りの珈琲は好きではないが、フィギュアのためなら我慢できる。

 と、まあ、ここまでなら、よくある話。

 今回の、本題はここからです。

 本日、時間が出来たので、懲りもせずにUSJに出かけたのですが、園内をうろつき、土産物店をひやかしているうちに、見つけたのです。スパイダーマンフィギュアストラップを。

 価格はなんと315円。

 どうみてもまったくあの食玩(といっていいのだろうな)のものと同じ。

 そこで、以前、友人が手に入れた食玩「大英博物館コレクション」フィギュアのことを思い出した。
 あれは素晴らしく精巧にできていた。
 わたしも一つだけもっているが、本当に素晴らしかった。

 製造元の海洋堂製の説明には、「まったく同じものが大英博物館のスーベニアショップで売られていて、それが一ヶ1000円以上する」とあった。
 「食玩文化」のある日本ならではの低価格、と、誇らしげにそこに書かれていたが、実際、「おまけ」でない限り、それぐらいの値段はするだろう、と思われる出来だった。

 今回、USJのスーベニア・ショップで見つけたものは、ダイキャスト製のシルバータグが「ユニバーサル」となっているか「WANDA」となっているかの違いだけで、フィギュア自体は同一だった。

 これも大英博物館コレクションと同様、食玩として世に出たものと、製品として売られたものとの違いと考えれば、同じものに違う値段が付けられたのもまあ頷ける……かな。

 あるいは、まったく別な経緯で出来たフィギュアがたまたま似ていただけなのか。
 この世に自分に似た人間が三人はいると言われるように。


 というわけで、興味がおありの方は、今からでもam/pmに走ってみてください。運が良ければ、事実上タダで300円のフィギュアを手に入れることができるかもしれません。

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2006年2月12日 (日)

ビミョーにミョー、否絶対に奇妙

 この間、仕事で有線の営業マンに会って話をしていた時のこと、彼が何度か「ワブ」というので聞き返したところ、「WAV」ファイルのことを言っていたのだった。

  うーむ。これは出自から考えるとウェイブと呼ぶと思っていた、というか、二十年ほど前からずっと私はそう呼んでいたのだが、確かに字面から読めば「ワブ」になる。

 しかし納得がいかないなぁ。
 じゃあ、MIDIファイルは「ミディ」ではなくて拡張子midから考えて「ミッド」と呼ぶのだろうか。

 以前、友人から、プログラム言語のキャラクタ変数を「char」という表記から「チャー」と発音するプログラマが増えていると聞いて土砂崩れ的大ショックを受けたことがあった。

「チャー」といえば「竹中」でしょう、って、もともとあれは中国の伝説の生き物の名前だったはず。

 やれやれ、かつてのアジアの幻想の動物は、今やCやJAVAのコンピュータ言語内に生息しているのだ。

  まさかJAVAやlha、zip、なんかも変な読み方してないよね。 ポインタ型を奇想天外な読み方してるとか。


 もはや、出自による発音なんて考えるだけ無駄なんだな。ジヅラだけみて、英語をヒャクショーヨミ(意味は辞典にて、軽蔑表現の一種)するヤカラが増えているのだから。



 あと、テレビで覚えたのか、自分の両親のことを「お父さん」「お母さん」っていうのもキモチ悪いな。
 中学国文法では、「父」「母」と呼ぶように教えているはずなのに。

 それと、目下のもの、あるいは非生物に対して「〜してあげる」もいただけないな。

 オタメゴカシな優しさが見え隠れして、背筋が寒くなる。

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2006年2月 9日 (木)

ギドラ着モーション完成!


 せんにD902iを購入した際、着メロならぬ着ボイス(動画=iモーションを使った着ボイスは、着モーションと呼ぶらしい)を作ろうとして、フリーソフトの制約から1秒の長さしかできず、正しいキン*ギドラの声を代言できませんでした。

 しかし、このたび、他の方法で着モーションを完成することができたので記録しておきます。
(以下、D902i用の設定となりますが、他の機種でも使用可能だと思います)

1.まず、音声ファイルを手に入れます。
  WAV形式のものでよいでしょう。

2.動画編集ソフトで、写真や3DCG画像と音声から  AVIファイルを作ります。

  デジタルビデオや、他の動画ファイルがある場合は  それを短く切って使うことになります。

 次に、AVI動画を3PG形式に変換するために以下のサイトから

 http://www.nurs.or.jp/~calcium/3gpp/

「携帯動画変換君」をダウンロード、インストールします。
 この際、QuickTimeがインストールされていないといけないので注意してください。

 setup.exeを使って、

「3GPPファイル、音声AAC形式一般設定」

のファイルをセットアップし、変換君本体プログラム

「3GP_Converter.exe」

を起動させます。

 変換形式を「QCIF標準画質15fpsステレオ」に設定します。

 この際、画像サイズをQCIFにしないと、携帯電話が着モーションと認識してくれないので間違わないようにしてください。
 わたしはこれで随分無駄なパケット代を払いました。

 次に、できた3GPファイルを着モーションにできるよう、データ・ヘッダの書き換えをします。

 そのために、フリー・ソフト「着もと」を使います。

 以下のサイトで、「着もと」をダウンロードしてください。

 http://www.chitora.jp/tyaku.html

 iモーションファイル(.3GPファイル)のあるフォルダに移動して、[編集(E)]-[着もと化(R)]を実行します。
 ファイルは変換され、上書きされます。


 出来たファイルを、ウェブサイトにアップロードします。 

 Docomoの携帯電話は、パケット通信費で稼ぐためか、着モーションは、必ずネット経由でダウンロードしたものでなくてはならないからです。


 901以降をお使いであれば、わたしの作ったギドラ着モーションをお試しください。
(アドレスは、上のバーコードにて)

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2006年2月 1日 (水)

見つけたぞ! 「ヘウレーカ」


 これは、あの「寄生獣」の作者、岩明 均の作品です。

 ヘウレカ、エウレカ、ヨーレイカ、ユリイカと様々に違ったいい方はされますが、要は、二千年前に、ある男が風呂に入った際にあふれる湯を見て、王から突きつけられた難問の答えを見つけて叫んだというギリシア語であります。

 素っ裸で風呂を飛び出して、「*****(**は上のどれかです)」と叫んだという逸話を残すこの男こそ、本作の真の主人公(実際は、狂言回しの若者が主人公ですが)アルキメデスです。

 二千年以上前の歴史ともなれば、人名とその生きた場所、同時代の人物との微妙な時間のズレに思い至ることができなくなるものです。

 具体的にいえば、日本史では、遠山の金さんとネズミ小僧が同じ時代に生きていたり、シューベルトとモーツァルト、ベートーベンが同時代(ちょっとずれてますが)だったり、画家のマネが、同じく画家のモネを、自分のマネをしていると避難したり(あれ、逆だったかな)といったことですね。

 彼らが同じ時代に生きて、親交を深め、あるいは鍔迫り合いをしていたなんて、なかなか想像できません。

 地球の、いやそこまで範囲を広げなくても、人類の歴史と比べても、ワン・ジェネレーション30年など、不死人の昼寝程度の長さに過ぎませんが、死すべき運命の我々にとっては、30年どころか15年時代がずれるだけで、人々はすれ違うことすらできなくなってしまうのですから。

 さて、「ヘウレーカ」
 本作では、あの英雄ハンニバルが、アルキメデスと同時代の人間であることが語られ、おや、そうだったのか、とあらためて驚かされます。(もっとも、ハンニバル30歳そこそこに対して、アルキメデス70過ぎの老人ではありますが)

 物語の制作手法、いや、そんな堅い表現はやめよう、いわゆる、とっかかりから考えると、作者、岩本氏がこの話を書こうとしたきっかけが手に取るように分かってきます。

 何を核としてヘウレカという話を作っていくか、(核とは、Z会の国語科でいうところの「イイタイコト」と同義です)が、明確に分かるのですね。

 いったいに、ストーリーテラーの多くは、自分の琴線にひっかかった事象(科学知識であったり、歴史の事実であったり、ちょっとした知人の言動であったりする)を軸にして、ストーリーを考え、あとは狂言回しとしての主人公を、適当に配して動かして(直木賞の某選考委員がこれを知ったら激怒するだろうな。今回直木賞受賞の東野圭吾作品を、例によって『人が描けていない』というワンパターンの理由で排除しようとしたくらいですから)長い話を作っていくものです。

 無論、例外はあります。(特にアクタガワ候補などのジュンブンガク系などはね。彼ら彼女らは感覚で話をつくる)

 さて、「ヘウレ−カ」で岩本氏がひっかかったモノは何か?

 そのヒントは、ラストに記された参考文献にあります。(律儀にも岩本氏は、漫画をかく上での参考文献をきっちりと書き連ねているのです。このあたり「銃夢」の木城氏は見習って欲しいものですね)

 書名が、色々と記載されていますが、その中に「図解 古代・古代の超技術」というのが見えるのです。

 「ヘウレーカ」の中で、我々の虚を衝くのは、科学者(数学者でしたか?)であったアルキメデスが、その科学的知識を用いて、自分の国、シチリア島シラクサを守るために、現代もかくやというような、巨大マシンを作っていた、という点です。

 それも並のマシンではありません。

 蒸気機関を用いた起重機(クレーン)でであったり、回転板用いた岩石射出機であったり、人をまっぷたつにする回転刃であったりする、恐るべきマシンなのです。

 そういったマシン兵器に対する知識のない二千年前の人々の目には、正しく恐ろしげなバケモノに映ったに違いない巨大兵器の数々……。

 これらを、王に頼まれて、もう何年も前にアルキメデスは作っていたのですが、彼自身はこれらの殺人機械を忌み嫌って、その存在すら忘れかけています。

 というか、齢(よわい)七十を越えて、かの天才もボケはじめているのです。

 やがて、紆余曲折があり、結局、街は敵に占領されてしまいます。

 主人公の嘆願もあって、アルキメデスは処罰を免れますが、すぐ後に、街の兵士と些細なことから口論をして殺されてしまいます。

 いやあ、てっきりアルキメデスは毒杯をあおったと思っていたので、これもオドロキでした。(それはソクラテスだって)

 大人気なく兵士に喧嘩を売ったあげくに殺されるなんて、かつて天才と呼ばれた老人としては理想的な死に方ではないですか(個人的にはそう思います)。


「ヘウレーカ」
 単行本一冊にまとまったコンパクトな話です。
 見かけたら立ち読みでも良いですから読んでみてください。



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光るあるところに闇がある GARO



 牙の狼とかいて牙狼(GARO)と読む。
 
 仮面ライダーとは違う。
 ウルトラマンとは違う。

 あの「ゼイラム」の雨宮慶太が送る、光と闇の闘いを描く(超)特撮番組がGAROだ。

 監督が、低予算の日本の特撮シーンにあって、一人気を吐いている雨宮慶太であるから、並の映像であるはずがない。

 なにせ、これは語り尽くされた感があるが、ゼイラムでは低予算かつ少人数の制作を逆手に取って、主人公に、闘いのために結界を作らせ、人以外のものを空間転移させて合理的に無人の戦闘シーンを作り上げた監督だ。

 先年には、ちょっとだけ金持ちになって、「鉄甲機ミカヅキ」で、言霊(コトダマ)によって動く巨大ロボットを生みだすことにも成功した。

 そのあたりから、少しクドいほど過度なCG利用で(もちろん、そうしないと理想と低予算の溝は埋まらないからだが)、自分の世界観を思いっきり描くという手法をとりはじめた。

 それらは完全に成功しているとは言い難いが、その心意気は素晴らしい。


 本作、GAROも、そのものズバリCG特撮先行型の作品だ。

 内容自体も、監督の「モノホンのヒロイズムとはこういうことさ」という声が聞こえてきそうな作風で、オープニングの、象形化された文字がイラストになるアニメーション(ったって観てもらわないとわからないだろうな)も魅力的だし、エンディングで、魔に魅入られた画家志望のヒロインが、機巧(カラクリ)仕掛けの円盤に座って絵を描いているSFXに至るまで、すばらしい画の連続だ。

 ま、この監督の唯一の欠点として、ストーリーがイマイチ練られていない、ということはあるのだが、そんなものはこの際どうでも良い。

 彼の映像美を見るだけで充分なのだ。

 実際、中世軍人風デザインの純白のロングコートの下に、漆黒のラバースーツを着込んだ「カッコイイ」主人公の動くサマを観るだけでこの番組の存在意義はある。

 以下の公式サイトを見られたし。
 
 http://www.tv-tokyo.co.jp/garo/

 アクションもかなり良いし、ヴァンパイアハンターDのように、指の髑髏の指輪が、主人公と丁々発止のやりとりをするのも楽しい。

 少々、CGが特有のふわふわした印象を与えたってかまわないのだ。

 まだ観たことがないなら、ぜひご覧になることをお勧めする。



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