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2006年1月31日 (火)

失った者が帰ってくる 「黄泉がえり」


 もうずっと前に、この映画が公開されていたのは知っていた。
 主演がSMAPの草薙剛であることも。
 草薙といえば、ホイチョイプロ謹製「メッセンジャー」で、自転車好きの主人公を好演したこともある。

 しかし、映画作品には、アイドル系の人間が主演する映画で「当たり」なのはごく少数という動かしがたい事実がある。

 その上、タイトルが、どう贔屓目に見ても「リング」や「ダブル・ビジョン」等のオカルト・タイプなので、今まで完全に無視して来たのだ。

 それが、今回、DVDで観ることになったのは、書店で「黄泉がえり」の原作を手にしたからだ。
 書棚に目を遣りながら歩いていると「黄泉がえり」という文字が目に付いた。そのまま何気なく視線を降ろして、作者名を見て驚いた。
「梶尾真治」

 カジシンと言えば、「世界はプレイン・ヨーグルト」などでおなじみのSF作家だ。
 しかも、その作風は優しくかつ面白い。オカルトものを書く作家ではない。
 思わず手に取り、著者略歴を見て、彼が1950年代の生まれなのを知った。
 昔、よく読んだ頃のカジシンは、まだ三十代前半で、カバー裏の写真も青年の面影を残していたが、今や彼も五十を越えているのだ。

 まこと、 時の流れは留まることを知らず、行き交う人もまた旅人なり、だなあ、と嘆じつつ購入し読んでみた。

 その後にDVDをレンタルした。

 ひと言で言えば、これは「第二種接近遭遇」に分類される。

 果てしなく長い時間、長い距離を、孤独に宇宙を放浪したエネルギー生命体が、広大すぎる宇宙空間の距離を見誤り、エネルギーを補給できずに、生命力を枯渇し、仮死状態で銀河に流れてくる。

 こういった巨大生命体地球漂着というシチュエーションは昔からある。
 宇宙船ビーグル号やスタートレック、ソウルイーターなどでもおなじみだ。
 梶尾真治もそれらを本歌取りとして、この作品を書いたに違いない。

 だが、そういった、いわば使い古された宇宙人(ヒト型ではないが)とのコンタクトも、カジシンの手にかかればまったく違う形に料理されてしまう。

 彼、いや「それ」は、仮死状態ながらも遠方のエネルギーを関知し、最後の力を振り絞って地球に向かってくる。

 生命体が着陸するのが、カジシンが住み、執筆活動する拠点である熊本県だというのはご愛敬だ。

 ともかく、「それ」は太陽系第三惑星、地球の日本の熊本県の地中にもぐり、エネルギーを吸収しようとしたのだ。

 映画ではほとんど触れられず、原作でも最小限の説明しかされないが、生命体は、どうも地震エネルギーを糧としているらしい。

 やがて、思いもよらなかった事象が起こり始める。

 気の遠くなるほどの時間、宇宙を放浪しながら、「それ」は「他の生命体」と接触したことがなかったのだ。

 熊本県の地下に潜伏した「それ」は、この小さな星の表面に生命体が存在することに気づかぬまま、土中に存在するエネルギーを吸収し続ける。

 「それ」自身、惑星の地表で動き回る知的生命体の影響を受けて、自身の末端物質がなにか別のモノ変化していることに気づいてはいなかった、というより、いつも通り、特別意識しないまま、ある種のセンサー、プローブとして、地表に適応させた形で「それ」は自分を地表に伸し情報を吸収しただけなのだ。

 だが、これを熊本に住む人間の視点から見ると……。

 大切な人を失い、帰って来てくれと、涙を枯らし、のたうちまわる人々の元に、生前の姿そのままに、亡くした愛人が帰って来るということになる。 

 このあたりの設定は、原作のほうが映画より数段上と言わざるを得ない。

 復活した人々は、生前と同じ肉体(死んだ時の年齢)同じ記憶を持ちながら、どこか通常の人間と違う印象を与える。

 それは、ある種の達観、解脱した目線を持つ聖人の感覚だ。

 ここがウマイ。

 生き返った人々は、生前の記憶を持ってはいるものの、その実体は数多くの宇宙の驚異、気の遠くなるような長い年月を、「永遠に生きる者」として過ごしてきた生命体なのだから、多かれ少なかれその影響を受けているのだ。
 その精神が、ほんの僅かなスパンで生き死にを繰り返す、ゴミのようなヒトとは違うのは自明だろう。

 残念ながら、映画では、そこのところが明確に描かれてはいなかったが……。

 やがて、「それ」は、エネルギーのチャージを終え、宇宙に飛び立とうとする。

 しかし!

 いいですか、ここからがカジシンの真骨頂だ。

 自分が惑星を探査させるためのプローブとして出現させた「黄泉がえり」人を通じて、自我を持って以来、初めて他の生命体と接触した「それ」は、いつしか……どういったらよいのか、人間というちっぽけな存在に「愛着」を感じ始めていたのだ。

 「それ」は、自分が旅立った後の熊本に、余った地中エネルギーによって、不可避の巨大地震が発生することを知っていた。

 だから、黄泉がえり人は、事あるごとに、人々に対し避難するように訴えるが、相手にされない。

 やがて、最後に「それ」は、再び宇宙に旅立つことを諦め、いつしか愛し始めた他の知的生命体、ヒトのために、力の限りを尽くして巨大な惑星エネルギーと闘い、光の粒となって散っていく。

 それに伴い、黄泉がえり人も光の粒となり消えていくのだった。

 うーむ、すごいぞカジシン。

 かつて、数光年を散歩気分で闊歩し、数万年を、うたたねで過ごす超生命体に、人間のために命を投げ出させた作家など一人もいはしなかった。

 ガイジン作家には絶対にできない発想だ。

 こういった、拝金主義が横行する現代日本では枯渇した「自己犠牲」が読者に感動を起こさせるのだ。

 このあたり、映画ではいまいちはっきりと描かれていない。
 そこが不満なところだ。

 が、映画版には独特の好さもある。

 少しばかりのトリック、ギミックが仕掛けられているのだ。

 これを「を!」と喜べたら映画も楽しむことができるだろう。

 まあ、軽い読み物として本を読み、観終わって嫌な気分にならない映画を探しているなら「黄泉がえり」おすすめです。



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