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2005年12月19日 (月)

変容は、恐ろしい。BLOOD+



 子供の頃、わたしが酷く恐ろしいと感じた物語が二つある。

 一つはジョルジュ・ランジュラン原作の映画「蠅男の恐怖」であり、もうひとつは小室孝太郎のコミック「ワースト」だ。

 「蠅男の恐怖」の方は、八十年代にデビッド・クローネンバーグの手で「フライ」としてリメイクされ、さらに恐怖感がパワーアップしたが、オリジナルとリメイクでは恐怖の質が違う。

 どちらも、予測できない事故でヒトがバケモノに変わり、そのスペシャルF/Xが秀抜であることで、恐怖感が倍増されるという点では同じだ。
 その結果、出来すぎた特撮がクローズアップされ、ともにレンタルビデオ店ではホラー・ムービーに分類されることとなった。

 だが、この二作品の恐怖の本質は、そこにはない。

 オリジナル版では、温厚で紳士的な天才博士が事故で蠅と合体し、徐々に生存本能のみで生きる蠅に意識を乗っ取られて凶暴になっていく課程を、妻の目から語っていた。

 この変化が、頭部が蠅になっているという、見た目の恐ろしさ以上の恐怖感を見る者に起こさせるのだ。

 かつて愛した、優しく穏やかな夫が、徐々に凶暴になっていく。これこそが、本当の変身で、恐怖の源だ。
 もし見かけだけがバケモノになったとしても、中身が変わらなければ、そこには真の恐怖は少ない。

 一方、リメイク版では、遺伝子が蠅とハイブリッドされ、日が経つにつれて、おぞましい生き物に変わっていく過程を描いていた。
 自分の体内で何かが変わっていく。
 だが、それを止めることはできない。無力感ゆえの恐怖。この感覚には病気に通じる恐怖がある。

 例えば、癌を告知された夜に風呂に入るとする。
 じっと手を見ても、昔と変化は無い。
 いったい、どこが違うというのだ。
 だが、その体内では確実に、「死に至る病」(もちろん、最近は確実ではないが。しかし放置するばそうなるという点で、死に至る病であることにかわりはない)が、進行しているのだ。
 この、立っている地面が、急速に堅固さを失ってゼリー状になるような感覚が共感できる者には、「フライ」はとびきりの恐怖映画となるだろう。
 これはいわば、自らの止めることのできない変容に対する恐怖だ。


 そして、小室孝太郎の「ワースト」。
 手塚治虫に似た柔らかい絵柄でつづられるストーリーは、ひとことで言ってしまえば、リビング・デッドものだ。
 創刊一周年の少年ジャンプに連載されていたらしいが、不幸にしてわたしは、それを直に読んではいない。朝日ソノラマ全四巻のコミックとして一気に読んだのだった。しかし、その時のショックは今も忘れない。

 特に恐ろしかったのは、両親が雨にうたれ発熱して死んだ後(ワーストは世界規模で一斉に降った雨で発生するのだ)、ワーストとして甦るのを主人公が見守るところだ。
 うめき声を上げていた父と母が静かになり、死んだことがわかっても、子供故に側を離れずに死体の横で寝ていると、死体の皮膚が堅くなり、やがて罅が入って、中から蝙蝠ににた、おぞましい姿のワーストが現れ、彼を襲い始めるのだ。

 つまり、人の「突然の変容」というのが恐怖の源だ。

 このあたり、かつて花のように優しく愛らしく笑っていた恋人が、ある日突然、冷たい横顔を見せて別れ話を切り出す恐怖と似ているかもしれない。


 ワーストについて言えば、それ以外にもワーストに噛まれたものは、ワーストになることから、闘いの最中(さなか)に傷を負った仲間が、手榴弾を胸に敵陣に突っ込んで自殺するシーンなどもあり、これも恐ろしい。
 このあたりは最近リメイクされた「ドーン オブ ザ デッド」などに一脈通じるものがある。
 これは、先に書いた病気と同じで、自身の体を自分でコントロールできない恐怖、ということになるだろうか。


 また、前置きが長くなった。
 つまり、余人は知らず、わたしにとっての恐怖、とは、人が変質、変容してしまうこと、自分の体が自分のコントロールを離れてしまうことだといいたかったのだ。

 そして、今放映中のアニメーション「BLOOD+」も、人が変質、変容する話だ。
 ひと言でいえば、吸血鬼ものだな。

 わたしは、この番組をかなり遅れて観始めた。

 なぜなら、このシリーズの元になった映画版「BLOOD」が、まるで面白くなかったからだ。
 この映画に感銘を受けて、タランティーノが、キルビルで、セーラー服に日本刀の殺し屋を登場させたなどとは信じられない。もしかしたら、映画版は、工藤夕貴がすべて英語でしゃべっていたから、アメリカ人のタランティーノにとってわかりやすかっただけなのかもしれない。

 では、なぜ「BLOOD+」を見始めたかというと、親戚に不幸ごとがあった際、久しぶりに会った従兄弟(いとこ)に勧められたからだ。

 お互いイイ年をしてアニメじゃないよな、と笑いつつ、彼が気になる作品だと言ったのが、このBLOOD+だった。

 そこで、折良く、CSで四話遅れの放送が始まったこともあり、観始めたのだった。
 このCSが少し遅れて放送してくれる、というのがありがたい。「交響詩篇エウレカ・セブン」もそのおかげでフルトレースできている。

 彼がなぜ勧めたかといえば、それはBLOOD+が正しくBLOODが武器になるストーリーだったからだ。
 観始めて、すぐに彼が何を言いたいかがわかった。

 ヴァンパイアを退治する話だけなら「D」を読めばいい。
 文章は下手だが、アイデアとイマジネーションは豊富な菊池氏が、多くのストーリィを書いているのだから。
 だから、退治する側が、主人公が、すぐに死んではいけないという(作者の)理由で、ヴァンパイアの不死身性と強さを付与されているだけの話(映画BLOODが正にそれだった。おまけに「人狼」同様、押井好みの学生運動華やかなりし頃の饐(す)えた四畳半革命論プンプンの雰囲気の作品だ)なら、今更描く必要などない。

 しかし、BLOOD+には、隠れギミックがある。主人公の血が、敵の毒になるという、正しくBLOODというタイトルにふさわしいギミックが。

 さらに、映画に無くて「+」にある工夫は、主人公、小夜に「仕える者」ハジを配したことだろう。
 これはうまいやりかただ。

 およそ、女に生まれて傅(かしず)かれることを厭い、男に生まれて命を賭して仕える(男であろうと女であろうと、その価値がある人物に)ことを望まぬ者があろうか?
 もし、生涯をエースで四番、卓犖不軌(たくらくふき)で過ごしたい考えている者がいるとするなら、それは人生を知らないオトナコドモか狂人、あるいは人類に対する危険人物に違いない。

 だから、BLOOD+を観て、女は佐夜に、男はハジに自己投影して楽しむこともできる。
 意識するしないに関わらず、そうして番組を観る人々は存在し、結果、それが人気を呼ぶことにもなるだろう。


 「BLOOD+」は音楽も良い。

 オープニング、エンディングは、歌詞が例によって歌手の手によるもので、他の項目で何度も書いたように、ほとんど詩になってない駄作だが、劇中に流れる曲、そして予告時に流れる曲は、スタイリッシュでヒロイックで最高だ。

 ん、しかし、このドラムスの使い方、聴いたことが……そう思って、タイトルロールをみて驚いた。
 何気なくハンス・ツインマー(英語読みだとジマーになるらしいな)の名がクレジットされている!
 かつて、あの「料理の鉄人」に使われた映画「バック・ドラフト」の作曲者、いや、さらにかつては、英国バンド、バグルスの一員として「ラジオ・スターの悲劇」で、世界的大ヒット(もちろん日本でも)飛ばしながら、それに飽きたらず、ハリウッドに渡って成功したツインマーが。
 んな、コバルト爆弾で胡桃を割るようなことしなくてもいいのに。うれしいけど。

 というわけで、今のところ、イイ感じの「BLOOD+」もう少し様子を見ながら楽しませてもらおう。

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