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2005年11月 9日 (水)

ストップ ザ げっぷらっぷ


 もしもし、そこのシャクトリ虫みたいな踊りしているオニーサン?

 まあ、ちょっと、わたしの話を聞きなさい。


 シンガー・ソングライターは、まず何より詩人でなければならない。

 良い曲が書けるなら、作曲だけをやればいい。

 声が良いなら歌だけ歌えばいい。

 だが、日本語が話せるからといって、安易に作詞には手を染めるな。

 日常会話をすることと、詩を作ることはまるで違うのだ。

 アイドル系の女の子が「自分の素直な気持ち」を「歌詞にし」たところで、陳腐な単語の羅列に過ぎない。ゴミだ。いや、メディアを通じて流れるだけに公害に近い。

 もとより、言語は共通の認識があってのみ、その意味を持つ。

 自分一人で勝手に作り出した言葉、単語、文法で人に話しかけても、気味悪がられるだけだし何も伝わらない。

 SF小説なら、時計仕掛けのオレンジのように、「ガリバー痛」だの「ライティ・ライト(これはちょっと出自が違うか)」といった表現を、手前勝手に作り出すことができるが、通常の生活で、そんなことはできるはずもない。

 こち亀の両津巡査長(この階級は警察組織で実際に存在しないらしいが)のよく言う、ララミー牧場が流行った頃(四十年ほど前)、主演役者が日本に来日した時に、いつもと違う、奇妙な言葉を話したので皆が驚いたという笑い話がある。

 陽気で闊達なジェフが、羽田空港にやってきて、口を開いたと思ったら、「ないすつみーちゅ」などと言い出したのだから、オカミさんたちは、さぞやびっくりしてしまったのだろう。

 当時、吹き替えという言葉は知っていても、広く理解されてはいなかったのだ。

 映画は字幕のみだった。
 ガイジンは外国語を話す、だけど、ジェフは日本語を話す。
 きっとジェフは、外人だけど日本語が上手いヒトなんだ、と思っていたのだ。
(そういえば、この『ガイジン』って、いまや禁止用語らしい。なんでも『外国人』の方々が、気分を害されるそうだ)

 考えてみれば、皆が驚いたのも分かるような気がする。

 息子のヨシオが、朝起きてきて、突然「ヴオンジョールノ みあまーどれ」などと言い出すようなものなのだ。

 我々が、若者言葉に戸惑い、嫌悪感を覚えるのも同じ理由だろう。

 ヒトは、理解できないものを恐れる。

 職人同士が使う符丁言葉も、部外者から見れば変な表現が多い。

 今では、そういった言葉を素人が使うことで、通人ぶる、という奇妙な現象も起きているようだが。

 エスペラント語の(あれは完全オリジナルではなく、ベースになった言語はあったはずだが)悲しさも、そこにあるのだ。
 何にせよ、話す人の絶対数が少なすぎる言語は悲しい。

 話がそれてしまった。

 つまり、我々が言葉を発する時には、必ず、言い古され、使い古された言葉、言い回し、文法を使わねばならないということだ。

 だから陳腐になってしまう。

 そこに詩人が登場する余地がある。

 言い古されてはいるが、詩人の仕事は、「陳腐になった表現に、新たな使い方を見つける」ことだ。

 浜辺に落ちている、古びてくすんだ銅貨を砂でこすって、ピカピカした地金を表させる。

 その行為こそが詩人の仕事だ。

 彼の手にかかると、誰もが知っている言葉が、にわかに新しい輝きをもった表現にかわり、彼の伝えたいことが、思いがけない方向から心に染み込んでくる。

 そうでなければ詩人ではない。

 そして、歌手、なかんずくシンガー・ソングライター、わたしはその嚆矢は、吟遊詩人ではないかと考えているのだが、彼らは、もともと伝えたい言葉があって、それを竪琴の調べにのせて、人々に語り、歌って聞かせた。

 彼らのすべては詩人だった。


 聖徳太子とほぼ同年代のマホメット(ムハンマド)が、山から下りてきて、神に覚えさせられた言葉を街角で話し始めた時、なぜ、人々が彼の言葉を信じたのか。

 それは、彼の言葉が、あまりに美しかったからだ。ヒトの御業(みわざ)ではないほどに。

 当時の中東では、美しい言葉こそが宝石であった。

 コーランは、彼のその言葉を紙に記した書物だ。

 聖地メッカには、コーランが収められていて、年間200万人の人々が訪れる。

 某宗教とは違い、水をワインに変えるような奇跡ではなく、言葉で人を惹きつけた宗教であるために、巨大宗教が穏やかに減衰する現在ですら、各地でムスリムは増え続けているのかもしれない。(そういえば、韓国のLGがメッカの方角がわかる携帯電話を作っていた)

 それが言葉の力だ。

 つまり、わたしの望みは、言葉を適切な曲にのせて伝える、それが歌であって欲しい、ということだ。

 だから、電気グルーブがかつて公言したように、
「俺たちは曲を伝えたい。だから何を言っているか分からないように歌う。本当は、詩の意味もわからないほうがいい(笑)」
などといった考えは、音楽の新たな方向性としては認めたいが、心情的には断じて認めるわけにはいかない。

 さて、ラップ。

 これが本題だった。
 どうも前置きが長くなっていけない。

 このジャンルは、本来、伝えたいメッセージを、メロディよりもリズムを主体にして、踊りを加味して歌う、そういったものだと理解している。

 (本来は)主に、ブラック・ピープルの表現道具として。

 イメージ的には、街角のドラム缶で焚き火をしながら、その缶を叩いて、歌を歌う、そういったものだろう。

 そこには、彼ら特有のリズムとうねりがあり、切れの良いブロークン・イングリッシュと相まって独特でクールな歌となる。

 わたしも、これは嫌いではない。

 だが、日本人の、ラップではない「らっぷ」はいけない。

 カッコだけ黒人の真似をして、踊りはまるで、江戸時代の船頭みたいな、艪(ろ)漕ぎ(一本の棒をこねくって前に進むアレね)ダンス。

 そして、そのリズムといえば……悲しいかな、遺伝子レベルから体に染みついている音頭のリズムのちょっとしたアレンジに過ぎないのだ。

 さらに悪いことには、というより、最大の欠点は、彼らのほとんどは詩人ではない、ということだ。

 ラップは、言葉に節をつけて歌い、踊る。

 他ジャンルの歌より、音符に言葉が寄り添いがちで、必然的に言葉(単語数)が多くなる。

 逆にいうと、リズムを埋めるために、無意味な言葉を、どんどんつながなければならなくなるのだ。

 結果、聴いていて、「おいおい、そんな泥のついたような陳腐表現やめとけや」とか「中学生の読書感想文かよ、おのれの歌は」「小学生による青年の主張じゃないの」といった詩ばかりになってしまう。

 文字数が多くなり、なおかつ詩のハートを持ち続けることは、プロでさえ至難の業なのだ。

 たぶん君たちには無理だと思うよ。

「ブラック・ピープル、カッコええと思う。おらはダンゴッパナで、身長伸びたけど足は短いまま。だけんどそのくーるなスタイルは真似したい」って若者は、耳と唇に穴あけてそこにワッカはめて、ズボンずらしてこけそうに歩くだけにしとけ。

 ラップは作るな。

 君に、詩は無理だ。

「思ったこと、考えていることをありのまま書け」は、頭の悪い小学校教師が、戦後始まったエセ民主主義に影響されて、脳が沸騰したすえ考え出したフリースタイル礼賛の弊害に過ぎない。

「思った通り、感じた通りに詩を書くな!」

 つまり、わたしは、こう言いたい。

「ゲップの出そうなラップをやるぐらいなら、三河万歳か、相撲甚句でもやってろ!」

 わたしの耳に公害を流し込むな、と。

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