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2005年11月

2005年11月13日 (日)

高級イヤフォーン 灰遠渡灰危険(ハイエンド・ハイリスク)

 Photoshopなどで、デジタイズされた画像、写真の修整をする際に一番大切なことは、言い古されているとは思うが、出来る限り解像度の高いクリアな画像を使うことだ。

 最高級の画像処理ソフトを購入する金があるなら、その金をフィルム・スキャナや、デジタル・カメラに投入すべきなのだ。

 ソースが悪ければ、いかに素晴らしいソフトを使っても追いつかない。

 まず、処理の最初にハイエンド・マシンを使うことは、理にかなっている。

 同様のことが音楽にも言える。

 仕事柄、音質には気を遣わねばならないことも多いのだが、防音されない場所で低品質のマイクを使って録った歌は、あとでいかにイコライジングしようとも、並以上の音質にはならない。

 あたかも、顔の造作が悪いのを、無理に化粧でごまかそうとしても、無惨な結果になるように。


 昨今、巷間には、携帯型音楽プレイヤーがあふれ、老いも若きも、猫も杓子も耳にはイヤホンを差し込み、あるいはヘッドフォンを頭に乗せて街を闊歩している(いいねえ、こういう手垢のついた表現、逆説的な快感すらある)が、公私を問わず、プレイヤーのレビュウを見ると、「マシンはそこそこでも、フォーンが悪いから、付属のヤツは使わない方が良い」と書かれている。

 だが、本当に、圧縮データを、チャチいプレイヤーで聴くのに、良いフォーンが必要なのだろうか?

 先の、写真の例ではないが、もともとが無理に非可逆圧縮した音源データでしょう?

 それを「携帯」型マシンで再生させてるんだから、良い音になるわけがないような気がするのだ。

 しかし、理屈だけ言っていてはいけない。

 実際はどうなのか試してみよう。 スーパーサイズミー!じゃなくてレッツ・トライ!

 そこで、自分のソリッド・プレイヤーで試してみた。

 もともと電車内で落語を聴くために買った機械だったから、音質は気にせず、付属のと、前からあった安物インナーフォンでずっと聴いていたのだが、今回、いつも仕事で使っているヘッドフォンに変えてみたところ……。

 びっくり!

 今までのと全然違う。そこそこ音が良くなっている。

 なんだ、良いヤツ使ったらやっぱり音は良くなるじゃないの。

 そういえば、扁平な顔の歌舞伎役者も、化粧をすれば目がパッチリして舞台受けすることもある。(って、あれは真っ白ドーランだけど)

 そうすると、携帯MP3プレイヤーに、良いフォーンを別に買いそろえることは必要なのかもしれない。

 だがちょっと待て?

 フォーンをよくすれば、音は良くなる。
 だが、さらに良いのを使ったら、もっと音は良くなるのだろうか? 際限なく。
 そんなことは無いんじゃないかな。

 ラーメンなんかでも、同じことが言える。
 まずいラーメンは、確かに存在する。
 うまいラーメンもある。
 だが、もっと美味なラーメンと、さらに美味い極上ラーメンの区別など、一般人には分からないだろう。
 あとは好みの問題だ。

 
 MD、あるいはMP3、果てはWMAデータを、ポータブルプレイヤーで聴くのに、ある程度以上値の張るイヤフォンは必要ないのではないか。

 「超」高級なイヤホンなどは必要ないのではないか。

 友人から教えてもらった、これくらい

 http://www.soundhouse.co.jp/shop/ProductDetail.asp?Item=1162^ER6I^^

が、適当なんじゃないだろうか。

 何せ、音楽の世界は、カメラと同じで、バケモノのような価格のブツがいくらでも存在するから、一万数千円なら、MP3再生にはちょうどいいくらいかもしれない。



 で、結論。

 今まで、頭にデカヘッドフォンを乗せて歩いている若者を、単なるバカモノとして片付けていたが、一方的にそう思うのは良くないと気づいた。

 彼らは、MP3の限度いっぱいに、彼らの好みのズンドコ節を、良い音で聴きたいだけなのだ(陸サーファーみたいにファッションだけで頭に乗っけているという可能性もあるが)。

 もっとも、老若男女、洋の東西を問わず、耳にイヤフォンを差し込んだまま、あるいは携帯電話で話しながら道を歩く輩を認める訳にはいかない。

 彼らには、「戸外を歩く」ということが、どんな厄災に見舞われるかわからない危険な場所を歩いているのだ、という認識が欠けているのだ。

 危険な場所を歩く際の、最大の対処法は、五感をフルに使って危険を察知する事だ。

 そのためには、ヘッドフォンなどもってのほかだ。

 統計を見たことはないが、ウオークマン登場以来、そういった事故って増えているんじゃないかなぁ。

 いずれにせよ、リスク・マネジメント(経済的な意味ではない)を怠るようになった生物が長生きした試しはない。

 2006年夏、リメイクされることで話題の「日本沈没」で、タドコロ博士(前回の小林敬樹のセリフ。今回は豊川悦司!大丈夫なのか?彼に『どーなるか、サッパリわからんッ』節ができるのか?)が、「日本が無くなっても、日本人は世界中どこにでも散らばり、流浪の民となっても、やはり日本人として生き残っていくだろう」と、力強く語っていたが、これほど外部に無防備な人種となってしまっては、もはやそれも望めまい。

 さらに、道を歩く際に、良いフォーンを使いすぎると、音に淫して注意がおろそかになり、危険がますという可能性もある。

 ハイエンドなものを使うとハイリスクになってしまうのだ。

 だから、良いフォーンを使うなら(使わなくても)、歩く時の耳はフリーにしておくべきだ。

 歩くときはただ歩け!

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2005年11月 9日 (水)

ストップ ザ げっぷらっぷ


 もしもし、そこのシャクトリ虫みたいな踊りしているオニーサン?

 まあ、ちょっと、わたしの話を聞きなさい。


 シンガー・ソングライターは、まず何より詩人でなければならない。

 良い曲が書けるなら、作曲だけをやればいい。

 声が良いなら歌だけ歌えばいい。

 だが、日本語が話せるからといって、安易に作詞には手を染めるな。

 日常会話をすることと、詩を作ることはまるで違うのだ。

 アイドル系の女の子が「自分の素直な気持ち」を「歌詞にし」たところで、陳腐な単語の羅列に過ぎない。ゴミだ。いや、メディアを通じて流れるだけに公害に近い。

 もとより、言語は共通の認識があってのみ、その意味を持つ。

 自分一人で勝手に作り出した言葉、単語、文法で人に話しかけても、気味悪がられるだけだし何も伝わらない。

 SF小説なら、時計仕掛けのオレンジのように、「ガリバー痛」だの「ライティ・ライト(これはちょっと出自が違うか)」といった表現を、手前勝手に作り出すことができるが、通常の生活で、そんなことはできるはずもない。

 こち亀の両津巡査長(この階級は警察組織で実際に存在しないらしいが)のよく言う、ララミー牧場が流行った頃(四十年ほど前)、主演役者が日本に来日した時に、いつもと違う、奇妙な言葉を話したので皆が驚いたという笑い話がある。

 陽気で闊達なジェフが、羽田空港にやってきて、口を開いたと思ったら、「ないすつみーちゅ」などと言い出したのだから、オカミさんたちは、さぞやびっくりしてしまったのだろう。

 当時、吹き替えという言葉は知っていても、広く理解されてはいなかったのだ。

 映画は字幕のみだった。
 ガイジンは外国語を話す、だけど、ジェフは日本語を話す。
 きっとジェフは、外人だけど日本語が上手いヒトなんだ、と思っていたのだ。
(そういえば、この『ガイジン』って、いまや禁止用語らしい。なんでも『外国人』の方々が、気分を害されるそうだ)

 考えてみれば、皆が驚いたのも分かるような気がする。

 息子のヨシオが、朝起きてきて、突然「ヴオンジョールノ みあまーどれ」などと言い出すようなものなのだ。

 我々が、若者言葉に戸惑い、嫌悪感を覚えるのも同じ理由だろう。

 ヒトは、理解できないものを恐れる。

 職人同士が使う符丁言葉も、部外者から見れば変な表現が多い。

 今では、そういった言葉を素人が使うことで、通人ぶる、という奇妙な現象も起きているようだが。

 エスペラント語の(あれは完全オリジナルではなく、ベースになった言語はあったはずだが)悲しさも、そこにあるのだ。
 何にせよ、話す人の絶対数が少なすぎる言語は悲しい。

 話がそれてしまった。

 つまり、我々が言葉を発する時には、必ず、言い古され、使い古された言葉、言い回し、文法を使わねばならないということだ。

 だから陳腐になってしまう。

 そこに詩人が登場する余地がある。

 言い古されてはいるが、詩人の仕事は、「陳腐になった表現に、新たな使い方を見つける」ことだ。

 浜辺に落ちている、古びてくすんだ銅貨を砂でこすって、ピカピカした地金を表させる。

 その行為こそが詩人の仕事だ。

 彼の手にかかると、誰もが知っている言葉が、にわかに新しい輝きをもった表現にかわり、彼の伝えたいことが、思いがけない方向から心に染み込んでくる。

 そうでなければ詩人ではない。

 そして、歌手、なかんずくシンガー・ソングライター、わたしはその嚆矢は、吟遊詩人ではないかと考えているのだが、彼らは、もともと伝えたい言葉があって、それを竪琴の調べにのせて、人々に語り、歌って聞かせた。

 彼らのすべては詩人だった。


 聖徳太子とほぼ同年代のマホメット(ムハンマド)が、山から下りてきて、神に覚えさせられた言葉を街角で話し始めた時、なぜ、人々が彼の言葉を信じたのか。

 それは、彼の言葉が、あまりに美しかったからだ。ヒトの御業(みわざ)ではないほどに。

 当時の中東では、美しい言葉こそが宝石であった。

 コーランは、彼のその言葉を紙に記した書物だ。

 聖地メッカには、コーランが収められていて、年間200万人の人々が訪れる。

 某宗教とは違い、水をワインに変えるような奇跡ではなく、言葉で人を惹きつけた宗教であるために、巨大宗教が穏やかに減衰する現在ですら、各地でムスリムは増え続けているのかもしれない。(そういえば、韓国のLGがメッカの方角がわかる携帯電話を作っていた)

 それが言葉の力だ。

 つまり、わたしの望みは、言葉を適切な曲にのせて伝える、それが歌であって欲しい、ということだ。

 だから、電気グルーブがかつて公言したように、
「俺たちは曲を伝えたい。だから何を言っているか分からないように歌う。本当は、詩の意味もわからないほうがいい(笑)」
などといった考えは、音楽の新たな方向性としては認めたいが、心情的には断じて認めるわけにはいかない。

 さて、ラップ。

 これが本題だった。
 どうも前置きが長くなっていけない。

 このジャンルは、本来、伝えたいメッセージを、メロディよりもリズムを主体にして、踊りを加味して歌う、そういったものだと理解している。

 (本来は)主に、ブラック・ピープルの表現道具として。

 イメージ的には、街角のドラム缶で焚き火をしながら、その缶を叩いて、歌を歌う、そういったものだろう。

 そこには、彼ら特有のリズムとうねりがあり、切れの良いブロークン・イングリッシュと相まって独特でクールな歌となる。

 わたしも、これは嫌いではない。

 だが、日本人の、ラップではない「らっぷ」はいけない。

 カッコだけ黒人の真似をして、踊りはまるで、江戸時代の船頭みたいな、艪(ろ)漕ぎ(一本の棒をこねくって前に進むアレね)ダンス。

 そして、そのリズムといえば……悲しいかな、遺伝子レベルから体に染みついている音頭のリズムのちょっとしたアレンジに過ぎないのだ。

 さらに悪いことには、というより、最大の欠点は、彼らのほとんどは詩人ではない、ということだ。

 ラップは、言葉に節をつけて歌い、踊る。

 他ジャンルの歌より、音符に言葉が寄り添いがちで、必然的に言葉(単語数)が多くなる。

 逆にいうと、リズムを埋めるために、無意味な言葉を、どんどんつながなければならなくなるのだ。

 結果、聴いていて、「おいおい、そんな泥のついたような陳腐表現やめとけや」とか「中学生の読書感想文かよ、おのれの歌は」「小学生による青年の主張じゃないの」といった詩ばかりになってしまう。

 文字数が多くなり、なおかつ詩のハートを持ち続けることは、プロでさえ至難の業なのだ。

 たぶん君たちには無理だと思うよ。

「ブラック・ピープル、カッコええと思う。おらはダンゴッパナで、身長伸びたけど足は短いまま。だけんどそのくーるなスタイルは真似したい」って若者は、耳と唇に穴あけてそこにワッカはめて、ズボンずらしてこけそうに歩くだけにしとけ。

 ラップは作るな。

 君に、詩は無理だ。

「思ったこと、考えていることをありのまま書け」は、頭の悪い小学校教師が、戦後始まったエセ民主主義に影響されて、脳が沸騰したすえ考え出したフリースタイル礼賛の弊害に過ぎない。

「思った通り、感じた通りに詩を書くな!」

 つまり、わたしは、こう言いたい。

「ゲップの出そうなラップをやるぐらいなら、三河万歳か、相撲甚句でもやってろ!」

 わたしの耳に公害を流し込むな、と。

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2005年11月 8日 (火)

帰去来 神の目で地球を見る Google Earth

 先日、オランダの知人が日本に来て三日間泊まっていった。
 その彼が教えてくれたのが、このGoogleEarthだ。
 これは、衛星写真と、マイクロソフト・アトラスを組み合わせたようなソフトで、地球各地の衛星写真を、その重要度によってディテイルの差はあるにせよ、くっきりと見ることができるソフトなのだ。
 ズームアップは無段階。
 細かいデータは、その都度ネットよりダウンロードして表示するために、表示性能の割にソフト本体はは小さく20メガバイト程度だ。
 長野の山奥などは解像度の荒い写真だが、東京都内、大阪市内、京都御所付近などははっきりと家々の屋根や車まで識別できるほどだ。

 これは、鳥の目、いや神の目といってもよいソフトだ。

 今はベータ版だから無料で試用できる。さっそくあなたも神の目を持とう。

 ダウンロードは下から

        http://earth.google.com/


 彼はアムステルダムを表示させ、くっきりと写った家々を指し示しながら、この店で散髪をしてきたのだ、と自慢げだが、わたしの目には、ただのスポーツ刈りにしか見えなかった。そこは長身碧眼のオランダ人だけあって、そこそこには似合っているのだが。

 彼が寝たあと、再びソフトを起動させ、何気なく今までに訪れたことのある場所を観ていると、映像が刺激となって、忘れていると思っていた記憶が次々と甦ってきた。


 しかし、中にはまったくの空白地帯もある。

 たとえば、英国では、はじめ、自分でバスを乗り継いで、西南端のランズエンドやマラザイアンを移動したため、その辺りの地形はよく分かるのだが、旅の後半には、当時、英国在住だった知人の車で、コッツウォルズやストーン・ヘンジ、ドーバー城に連れて行ってもらったので、ひとつひとつの場所の記憶は鮮明なのだが、それが英国のどこにあるのかがほとんど分からなかったのだ。

 が、今回、ネット検索とこのソフトのおかげで、自分がどこへ行ったのかを再確認することができた。

 USAなども、ハリウッド高校横の安ホテルや、ロックフェラー・センター前の廉価ホテルさえくっきりと表示されていて、当時のことが懐かしく思い出される。

 一週間近く滞在したそのホテル、たしかクロスロード・ホテルといったと思うが、三日目の夜中に火災報知器が鳴り、ロビーに行ってみると、寝間着姿の客と、酸素ボンベを逆に背負ったような大男の消防隊員たちが押し問答をしていた。

 結局、火災報知器は誤報だったようで、しばらくして、消防隊員たちは帰って行ったが、今思うと、おそらく彼らの多くは、9.17のテロで命を落としているのだろう。



 このソフトには、自分でブックマークをつけることもでき、ツアーボタンを押すと、ブックマーク・リストの順に、各地を移動してくれる。

 この移動の仕方がふるっている。

 一瞬で成層圏に飛び上がり、ぐうっと地球を回転すると、おもむろに下降し、ぴたりと(当たり前だが)次の地形を表示する。
 縮尺(というか表示高度)も記憶されているのか、毎度、同じ大きさでビルなども表示される。
 国内外を問わず使える機能なので、ぜひ一度試してみることをおすすめしたい。


 ところで、いろいろと観た中で、一番、インパクトが強かったのはインドだった。

 生まれて初めての海外、しかも、長期ひとり旅で、無計画だったこともあって、今もその記憶は生々しいからだろう。


 いや、それだけでは正確とは言えない。

 「帰去来」は、読み下しで「帰りなん、いざ」と読む。

 陶淵明の作で、官を辞して帰郷し、自然を友とする田園生活に生きようとする決意を述べたものだが、転じて、流れ出た土地を辞し、古里に帰るときに用いる言葉となっている。

 だが、デリーのラージ・ガート(ガンディ火葬の地)の衛星写真を見た時、痛烈に感じたのは、この言葉だった。

 日本生まれで日本育ちのわたしが、こんな気持ちになるのは奇妙なことだ。

 なぜ、こんな気持ちをインドに、ラージ・ガートに、ヴァラナシに対して抱いてしまうのはなぜだろう。

 近年、インドが、アジアに冠たる工業国家になりつつあるのは知っている。
 わたしが訪れた十数年前とは、多くのことが変わっているだろう。
 テレビは多くの家庭に普及したに違いない。停電の回数は減っただろう。
 だが、狂犬病被害の件数など、変わらないこともまた多くあるに違いない。

 GoogleEarthのおかげで、また行きたくなってしまった。

 国内旅行も、その他の国々にも楽しくいろいろな思い出がある。

 だが、彼の国は特別なのだ。

 他の場所は風景を観にでかける。
 だが、アジア旅行の基本は、人間を観にでかけることだ。
 そして、インド・ネパールには最高の人間が揃っている。

「帰去来」

 そう呟いて、わたしは今日もGoogleEarthの映像に見入るのだった。
 あれほどの不安感と孤独感にさいなまれながら、ひとり荒れた道を歩いてたどり着いたラージ・ガートや、オンボロ・バスを乗り継いでやっと到着したサルナートが呆れるほどあっさりと画面に表示されることに、少しばかり釈然としない気持ちを抱きながら。

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2005年11月 7日 (月)

Hungry? サムライ・チャンプルー


 チャンプルーとは琉球語で「混ぜこぜにした」というような意味があり、野菜や豆腐に限らず、様々な材料を一緒にして炒める。「ゴーヤーチャンプルー」「ソーミンチャンプルー」などのように主な材料の名を冠して呼ばれることが多い。
(中略)
 なお、このチャンプルーなる単語はインドネシア語・マレー語にもあり、日本語のちゃんぽんと同様「混ぜる」「混ぜたもの(料理)」という意味を持つ。さらに朝鮮語にも同様の意味で「チャンポン」がある。これらはいずれも同語源と考えられるが、由来としては諸説ある。まず福建語の挨拶「吃飯」もしくは「吃飯了」(直訳するなら「飯は食ったか?」)から来ているとの説、同じく福建語の「混ぜる」を意味する語から来ているとする説(北京語にはch?nの読みで「混ぜる」という字――手偏に参――?がある)、あるいはポルトガル語もしくはオランダ語の「混ぜる」を意味する「チャンポン」という動詞からという説、が存在する。
(ウィキペディア(Wikipedia)より)

 「サムライ・チャンプルー」は、「カウボーイビバップ」を手掛けた渡辺信一郎監督の最新作。
 時代劇とHIPHOP、ウチナーとヤマト、サムライと現代人といった様々なファクターをサンプリングし、テーゲー(いいかげん)にチャンプルー(ごちゃまぜ)した全く新しいサムライ・アクション&ロードムービー。
(フジテレビ番組紹介より)

 ってのが、このサムライ・チャンプルーのアウトラインなのだが、最初はわたし、この話は苦手でした。

 YAHOOの動画配信で、第一話のみ無料で観ることができたので(現在も観ることができるはず。オークション参加のためにプレミアム会員になっている人なら誰でも閲覧可)、チラと観てみたのだが、これがまるで合わなかった。

 まず主人公(のうちの一人)がいけない。
 琉球出身のムゲンは、スパイク似のヘアスタイルで、「ざけんな」「うぜぇんだよ」など、時代考証(ワザと)無視の、現代若者用語のオンパレード。
 さらに耳にはピアス。刀は唐刀。

 悪者もいけない。
 頭を金髪(パツキンですぜ、あんた!)に染めた代官のコセガレが、
「代官の息子である俺にタテついたらいけないのは世間の常識だろうが」
と、これも御法度の現代言葉を吐きまくる。

 唯一、時代劇としてまともなのは、もう一人の主人公、居合いの名手、さすらいのローンウルフ「ジン」だが、こいつがまた、カンペキ今風のグラサンメガネをかけているのだから手に負えない。

 ま、今いった、ムゲンとジン、それにロード・ムービーにおけるお約束、旅の目的を与える紅一点「フウ」の三人が「ひまわりの匂いのするお侍」を探して日本を旅する、これがチャンプルーの骨子なのだ。

 ぐっと範囲を広げて「ハリーとトント」、「ストレイト・ストーリー」、「モーターサイクル・ダイアリーズ」から「水戸黄門」にいたるまで、だいたいにおいてロードムービーは面白いものだ。

 だからというわけではないが、このチャンプルーも、我慢して観ているうちに、だんだんと面白くなってくる。

 何せ、スタイルは今風でも、内容自体は、コテコテの時代劇なのだ。

 まるで「素浪人 花山大吉」や「座頭市」(もちろんカツシンのヤツね)を観るかのような筋回しで、観ていて違和感がない。

 第五話の、ゴッホに影響を与えた浮世絵師、菱川師宣を少女拐かしの一味にしたストーリーもなかなか良かった。

 隙あらばお互い斬り殺そうとしているムゲンとジンの緊張感ある関係も魅力だ。

 アクション・シーンもなかなか良いし。


 さて、話は変わりますが、カウボーイ・ビバップの特徴として何をあげるかと言われたら、あなたは何と答えますか?

「スタイリッシュな映像?」「宇宙に流れるJAZZがイン?」「なれ合わない主人公たちがクール?」

 あるいは、蓮っ葉で、世間に対して斜に構えた振りをしていても、実は純なハートを持つ主人公たちが、精一杯醜い世界と闘う姿にグッとくる?

 そりゃいずれも正しいでしょう。
 その通り。

 しかし、わたしは、ビバップの最大の特徴は「主人公たちの腹が減る」ことだと思っているのです。

 あたかも、未来に甦った藤沢周平の主人公であるかのように。
 彼(彼女)たちは、いつも野良犬のように腹を減らしています。

 腹が減る、つまり、彼らはリアルに生きているということです。

 腹が減るから、「食う」ために、何らかの仕事をしなければならない。それが意に沿わない仕事でも。

 そして彼らは事件に巻き込まれる。

 同じ監督だけあって、チャンプルーの三人も腹が減ります。
 というより、いつも空腹に苛まれ、そのために巻き込まれなくて良い事件に関わり、彼ら一流の戦闘能力でそれらの罠を噛みきって、また自由の旅を続けていくのです。

「サムライ・チャンプルー」
 最後にまとめると、ありあまった青春のエネルギーを、闘うことでしか表現できない若者たちの姿を、時代劇のスタイルを借りて表現している佳作、ということになるでしょうか。

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運動不足解消だぜ!ジャッキー・カムオン!



 コンピュータ・ゲームにふけると、運動不足になる。

 座って指だけ動かす行為だからだ。

 だから非難される。

 曰く、ゲームは肥満児を作る。目を悪くさせる。

 その意見に反発して、あるいはその通りだからこそ何とかせねば、と考えて、多くのゲームメーカーが、体を動かすゲームを作ってきた。

 そして、2005年。

 かのジャッキー・チェンが狂言回しとして、NONO、指導教官として、Xavixが日本国に降臨したのだった。

 テレビなどでも宣伝しているはずだから、多分、ごらんになった方も多いだろう。

 つまり、弁当箱程度のマシンをテレビにつなぎ、あとは何らかの道具(ボウリングのボール、マット、テニスラケット、バット、ボクシング・グローブ)を使って運動するというマシンだ。

 だが、これは今までのように、「体を動かす」ゲームではない。

 「ゲームもできる」エクササイズ・マシンなのだ。

 まず「ゲームありき」ではなく、エクササイズがあって、そこにゲームがくっついているマシンだ。

 そのコピーがふるっている。

『ジャッキーがこの国の運動不足をなくします』

 無くしてくれぃ!じゃっきー。

 なんでも、このマシンがエポックメイク的であるのは、そのセンシング・ユニット、つまり、手にしたバットだのグローブだのゴルフクラブだのといった小道具の位置を把握する部分が高精度である点だという。

 ジャッキーのエクササイズは、ヒョタウタン型のマットの上で、テレビに映し出されるジャッキーに従って運動する、というのが基本プレイらしい。

 それで思い出したが、ゴキブリ駆除の「コンバット」CMなどでも使われていたように、USAのエクササイズ番組って、だいたいマッチョな口ひげ男が、丸い台の上に乗って、

「きーぽんむーびん」「わんつーすりっ」「わんもあっ」「のーぺいんのーげいん」

などと口からツバ飛ばしているのが多いけど、まさかジャッキーもあの調子でやってるんじゃないだろうなぁ。

 口ひげマッチョから命令されるのも嫌だけど、ジャッキーから命令されるのもなんだかなぁ。


 まあ、マシン本体を買ってしまえば(一万円程度)、あとはカードと道具を差し替えれば、様々なスポーツ(9000円〜2万円程度)を楽しむことができるというのだから、本当に運動不足が解消可能なら安い買い物だ。

 問題は、これがどの程度楽しめるかということだ。

 何せ、第一目標が運動すること、で、ゲームは二の次という開発コンセプトなのだから、すぐ飽きてしまわないかどうか……。

 だれか、下のおすすめから店に行って、このマシンを買って感想を書き込んでくれないかな。



 私のおすすめ:
運動不足―機械に頼るのも一計

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2005年11月 6日 (日)

ナショナル・トレジャー


 この映画に関しては何も言うことはない。

 ただ、まだ観ていない人にひと言だけ。

 まーったく、おもんないし、時間の無駄だから観る必要なし。

 ナショナル(国民の)というより、ドメスティック(米国内の)宝を探して、ただの民間人であるニコラス・ケイジがドタバタと右往左往し、考えられないほど杜撰(ずさん)な警備の合間をついて、「合衆国独立宣言書!!」を奪うと、それにレモン汁をかけ、息ふーふーで、なんと地図が浮かび上がるぅ〜。

 再びドタバタ走り回って、今度はマンハッタンは、ウオール街近くにあるトリニティ教会に突入。
 この教会は、わたしも訪ねたことがあるが、あんなふうに簡単に内部に入れたかなあ。
 さらに驚くべきことに、教会納棺所の下には、地下数十メートルにわたる秘密の洞窟があり、そこに信じられないほどの宝が隠されていたのだ。

 ラスト、悪人は捕まり、ケイジは罪のすべてを免除され、財宝の、ごく一部を分けてもらい、その金で大邸宅を手に入れたついでに、ドタバタの途中で知り合ったハクいスケとめでたくステディな仲に。

 いけない、つい興奮して汚い言葉を。

 とにかく最後に言っておこう。

 「この映画は観てはいけない」

p.s.
 あ、今気がついたけど、上の画像ってPSP用UMDビデオじゃないの。

 やっぱりなあ!

 しっかし、ソニーも、よくもまぁこれだけ面白くない映画ばっかしUMDビデオとして売り出すなあ。
 ひょっとして、ソニーの映画って全部あのレベルなのかな。
 レンタルもできない、画質も悪く値も高い、駄作ぞろいのUMDビデオをワザワザを買って、電車の中でPSPで映画をみる人っているのだろうか?

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隠し剣 鬼の爪


 これは「男はつらいよ」の山田洋次監督の最新作である。
 同じ監督、スタッフによる前作「たそがれ清兵衛」の方は、もうひとつ良くなかったが、この作品は良かった。

 観始めて、あれ、と思う。
 これは「鬼の爪」ではない。
 これでは、まるで……まるで「雪明かり」だ、と思ったら、案の定、クレジットには「隠し剣 鬼の爪」「雪明かり」とあった。

 どうやら前作同様、藤沢周平の二作品を融合させて作っているようだ。

 観ているうちに、何度か登場人物の言動に胸を衝かれる場面がある。

 そう、この映画には、今の西洋化された日本にはなくなった漢字熟語二文字「健気(けなげ)」が息づいているのだ。

 「健気さ」
 それは、自分の能力、適性の多寡を知らず、ただ、どうすれば得か、何を主張すれば我が儘を権利と拡大解釈して人々(大人たち)が折れるかを、早い時期から習得する現代の子供たちには、すでに無くなってしまった態度だ。

 まず主人公の片桐宗蔵を演じる永瀬正敏が良い。
 朴訥(ぼくとつ)として実直。そして強情。

 永瀬と山田監督の接点は何だろう、と考えたら、そうだった、彼は、山田監督の「息子」に出ていたのだった。

 他にも寅さんの甥っ子吉岡秀隆や、さくらの倍賞千恵子など、多くのいわゆる山田組が出演している。

 わたしが「たそがれ〜」を気に入らない理由のひとつとして、最初と最後に、ストーリーとしては蛇足としか思えない、岸恵子が登場することがある。いかにも『大女優』然とした、その思い入れたっぷりの大根演技、ナレーションには辟易する。

 今回、年代、キャリアとも、岸と遜色ない倍賞智恵子は、主人公の母役として、一瞬登場した後、ただちに退場して二度と出てはこない。

 結果として、映画は、お互いの愛情をうまく表現できない、不器用な若いふたりを主人公として、一瞬も視線をぶらさないことになる。 

 まっすぐで分かりやすい映画なのだ。
 
 ついで、ヒロインの松たか子がいい。

 「たそがれ〜」では、ヒロインの宮沢りえが評価され、貴乃花事件以来の芸能界復権を成し遂げるジャンピング・ボードとなったのだが、個人的には、やせぎすな彼女は、あの役をやるべきではなかったと思っていた。
 原作通りの「病弱な妻」役ならあれで良いだろうが、あの脚本では、ちょっと違う、と。

 それに対して、松たか子演じる「きえ」の優しげな声で語られる山形弁は、持って生まれた彼女の下ぶくれの顔と相まって、よく気のつく女中(ああ、時代劇ではこの言葉が使えるのだなぁ)役にぴったりとはまりこんで心地よい。

 物語の最後に、家、身分、家禄、すべてを捨てた宗蔵から、一緒に蝦夷に行かないかと誘われた彼女が、「それはご命令ですか」と尋ねるシーンがある。

 ここが演じる点で一番難しいシーンだろう。

 このシーンに至るまでの二人の気持ちの機微については、様々な伏線が張られているから、単に、もと主人が、無理矢理に若い娘を荒れた土地へ連れて行こうとしているのだ、などと勘違いする観客はいないはず。

 とはいえ、ここでの演技を間違えてしまうと、映画の後味がまるで違ったものになってしまう。

 主人としてのみ宗蔵を捉えてきたきえは、「ご主人様」から恋の対象へと宗蔵への気持ちを切り替えなければならない(もちろん、本心では彼女は自分の気持ちに気づいている)のだ。

 おまけに、家を家族を捨てて蝦夷地に行くのだから、なまなかなことでは決断できるものではない。

 だから、彼女は、宗蔵に後押しをしてもらうために言うのだ。

「それはご命令ですか」と。

 そうじゃない、これは俺の希望だ、お前も同じ気持ちではないか、と心で思いつつ言葉にならない宗蔵は、きえの裏の気持ちも読み取って、「ああ、命令だ」と言い放つ。

 それを受けて、きえは言う。

「命令なら仕方ないです」

 そしてはにかむ。

 なぜなら、これが彼女の愛の許諾の言葉なのだから。

 なんとも無骨で純な会話ではないか。

 これが「男はつらいよ」なら、狂言回しである寅二郎がいて、「じれってぇなあ、もう」と走り回ることになるのだが、この映画では、不器用な二人は不器用なりに、自分たちだけで未来を模索しなければならないのだ。

 このシーン、完璧とは言えないまでも、二人の役者は、かなり上手くこなしているように思えた。

 結果、しみじみとした余韻を残す美しい映画として「鬼の爪」は完結する。

 次回は是非、このスタッフで、藤沢周平作品の、同じ「隠し剣シリーズ」である「女人剣さざなみ」か、シリーズ外ではあるが、これもわたし好みである「泣くなけい」あるいは「鰯雲」を映像化してほしいものだ。

 特に、「女人剣〜」は、頼りないダメ亭主の窮地を、いつも亭主から、その容貌ゆえに「不細工な妻」と公言されている天才女剣士が、その剣の技を使って救う物語であるから、女性上位の昨今風潮に合って作品かしやすいのではなかろうか。

 最後になるが、今回、音楽は担当したのは、世界のトミタ、富田勲氏であるが、哀切感ただよう素晴らしい楽曲が、物語を盛り上げるのにひと役もふた役も買っている。
 前回、「たそがれ清兵衛」では、井上揚水の歌が使われていたが、こういった時代劇では、歌よりも交響曲の方が合うように思われる。

p.s.
 宗蔵が師匠から教わる剣は、隠し剣シリーズを読まれた方なら周知の事実、「邪剣 竜尾返し」だ。
 つまりこの作品は三作品の融合ということになる。



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スーパーサイズ ミー The American Way


 この映画の存在を最初に知ったのは、ある友人からだった。
 なんでも、自らの肉体を使って、ひと月の間、マクドナルドのハンバーガーを食べ続けるとどうなるのか、という実験をやった男の話だという。
 ハンバーガーだけを食べるのか?
 それともナゲットなども食べるのか?
 本当に三食ともマクドナルドモノを食べるのか?等々、種々疑問は沸いてきたのだが、お互い詳しいことは知らず、当時は、ネット検索でも、それほど多くの情報を得られなかったために、その話題は立ち消えになってしまったのだった。

 だが、気にはなっていたために、できれば観に行きたいものだと、上映する映画館を検索してみたところ、やはり、近くの映画館ではやっておらず、まあ、大画面で観る必要も無いかな、という貧乏人的決断と相まって、結局、映画館に足を運ぶことは無かった。
 で、レンタルDVDに並ぶのを待って、さっそく借りてみた。

 と、そこまでが前振りなのだが、映画の感想の前に言っておかねばならないことがある。
 この映画の制作後、こういった自らの肉体を使った「公開実験」を、多くのWEBサイトで見かけるようになった。
 その挑戦内容は、「うまい棒」を一ヶ月食べるとどうなるか、あるいは、牛丼を食べ続ければどうなるか、といったものがほとんどだ。
 取り上げる対象物は様々で、それなりに、なかなか面白いのだが、その表現方法が良くない。
 素人の悲しさ、といえばそれまでなのだが、ただ購入した食品(うまい棒数百本とか)を写真に撮り、その後、徐々に食べる姿を撮影して、時系列に並べるだけ。
 最後に、最低限の肉体評価として、献血の検査結果を表示して終了、そういったタイプがほとんどだ。
 だが、これがやはり面白くない。
 だって、そんなものが体に悪いのは分かっていることだからだ。

 そこで本編「スーパーサイズミー」
 制作兼監督兼主演のモーガンは、その制作手法を、マイケル・ムーアにならってこの映画を撮っている。
 きっかけはこうだ。
 訴訟天国アメリカで、二人の(超肥満)少女が自分たちの肥満の原因をファースト・フード、なかんずくマクドナルド・ハンバーガーだとして、同社を相手どり裁判を起こした。
 判決は少女側の敗訴。
 判決文にはこうあった。
「もし、毎日その食品を食べ続けることによって、あきらかな害を体に及ぼすと証明できれば、上訴の可能性はあり得る」と。
 それを知って、モーガンは、自らの肉体でそれを試してみようと思ったのだった。
 しかし、アメリカ社会の弁護士による汚染はひどいものだ。
 何でも訴訟に持ち込ませて、暴利をむさぼろうとする。
 映画の中の、モーガン自身による少女側弁護士のインタビューが振るっている。

「訴訟を起こした理由がしりたい?金以外にかね?大儀が知りたい?…………」

 つまり弁護士は例によって金だけが目的だったという訳だ。
 そういえば、以前に女性がマックのプラスティック蓋を開けようとして火傷をした、その賠償として法外な金額をぶんどったという裁判があった。弁護士はきっと、その柳の下の泥鰌(ドジョウ)狙いだったのだろう。 

 『実験』開始の前に、モーガンは複数の医師を訪ねて自身の肉体の入念なチェックを行う。
 結果は、まったく問題の無い健康体。
 それから毎日三食(本当に彼は三食ともマクドナルド食品だけを食べるのだ)、さまざまなマクドナルド製品を食べ始める。
 3日で胸のむかつきなどの症状が出始め、5日目には血液成分が変化し、体重もどんどん増加し始める。
 その合間に、モーガンは、国民(成人)の半数が肥満になった米国の原因の一つが、マクドナルドに代表されるファースト・フードだという証拠を集めていく。
 その中で、ちょっと驚いたのが、マクドナルドによる、インファンシー(幼年時代)における、幸福感の刷り込みだった。
 日本でもいくつか見かけていたが、マクドナルドにはプレイランドと称する子供用の遊び場が併設されている。これは単に、親が食べる時に子供を遊ばせておく場所だと考えていたが、それだけではなかった。
 幼年時代、親と一緒に「外食」にでかけ(それが安マック食だとしても)、そこで、様々な遊びを行う。(マックカラー「赤」「黄」なども子供の好きな色だ)
 それは子供にとっては至福の時で、楽しい場所としての記憶がすり込まれる。
 それは彼らが大人になっても消えることは無く、楽しみを求めて再び彼らはマクドナルドを訪ねるのだ。
 それを研究者から聞かされたモーガンは笑いながら言う。
「じゃあ、僕はマックの前で子供を殴ることにするよ」

 レストランは高いが、安く、ノーチップで食べることが出来るのも、多くの非富裕層が食べに行く原因のひとつで、彼らはまた肥満が多い。

 マクドナルド食に含まれる多量の砂糖、脂肪分による中毒が、リピーター(週一度以上見せに来る客をマクドナルドはヘヴィユーザーと呼ぶ)を生み出すのだという。

 日を追うにつれ、モーガンの肉体は醜く変化し、頭痛が始まり、精神は不安定になっていく。
 観ているうちに、モーガンを診察する医者ではないが、「もうやめろ」と言いたくなってくる。
 映画の最後で、モーガンは、この映画の上映により(プレミアム上映だろうか?)マクドナルドが、スーパーサイズ(1.9リットルのコーラなど)を辞めるなどの対応を始めたことを告げる(マクドナルドは映画の影響を認めていないらしいが)。

 システム化された廉価外食産業(人を中毒にさせて薄利多売を企む業者すなわち『企業』)が、そう易々と路線変更するとは思えないが、少なくとも、「監督」モーガンは、自らの肉体を代価として、マイケル・ムーア同様、何らかの地位(そして体重十キロ増と脂肪肝)を、ハリウッドで勝ち得たことは間違いない。



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