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2005年10月22日 (土)

収斂せよ、しからずんば……「モンスター」浦沢直樹

「逃亡者」という作品をご存じだろうか?
 数年前に、日本の連続ドラマでリメイクされたヤツは、脇に置いておくとして。
 ああ、それとハリソン・フォードで、これもハリウッドでリメイクされた映画も、横に投げ捨てるとして、わたしが言っているのは、テレビ・ドラマ、本家デビッド・ジャンセンの「逃亡者」だ。

 「モンスター」の作者、浦沢直樹は、この「逃亡者」のファンだったに違いない。

 だから、この作品で、冤罪をかけられ、逃亡する外科医の話を描いたのだ。

 その他にも、おそらくは「逃亡者」にインスパイアされたであろう、小泉恭子主演の大映ドラマシリーズにも多大な影響を受けていることは、逃亡を続ける宇津井建のスタイル(コートの襟を立て、頭には時代遅れのハンチング!)が、なぜか姿を隠して逃亡している猪熊 柔の父に酷似していることからもわかる。まあ、本人はパロディのつもりで描いたのかも知れないが。

 わたしも、子供の頃、海外テレビドラマ「逃亡者」は毎日のように見た。(もちろん、再放送で)

 ストーリーが面白かったから、また明日も観たいと思ってしまうのだ。

 さすが、テレビドラマが下卑た大衆に迎合する以前、本編(映画)に対抗意識を持って高い志の下に頑張っていた時代の作品だけのことはある。

 妙に官能的なシーンもなく、ただストーリー・テリングと、演出の妙で魅了する。
 ハラハラし、主人公の人の好さに腹を立て、最後に、警察と尻目に無事に逃げる後ろ姿を見てほっとする。

 本当に面白い、しかし、見続けるうちに、欲求不満というか、不信感というか、そういったものが、少しずつ溜まり始めるのを感じてしようがなかった。(幼少時特有の錯覚ではない、しばらく前に、スカイパーフェクトTVで再放送を観た時も同じように感じた)

 長らく、いったい何が不満なのか、ははっきりと分からなかった。

 しかし、このたび、ついに分かったのだ。

 「逃亡者」は、一種のロード・ムービー(目的地が無いから実際はちょっと違うのだろうが、分類としてはそうだ)だから、流れ流れて、次々と人と出会い、別れを繰り返すストーリー展開は仕方がないのかも知れないが、それでも、人との交わりの期間が短く、その濃度が薄すぎる。
 基本的に、一話完結であるから、45分で出会い、共感し、別れなければならない。
 あまりにインスタントな人間関係なのだ。
 
 長きにわたる友人なら、友を信じ、身を挺して助けることも自然だ。
 だが、知り合ってすぐの人間関係だと、それではなんとも不自然だ。

 そこで、制作者は、主人公を二枚目にした。
 毎回出会う行きずりの女たちに、次々と献身的に彼を助けようとさせるためだ。

 小池一夫の「アイウエオ・ボーイ」ほどではないにしろ(何せ、アイウエオでは、主人公を助けて、女たちは皆死んでいくのだ)かなりご都合主義の感は否めない。

 が、これは許そう。

 すべての回に、ジャンセンが「男の魅力」を発揮する訳ではないからだ。

 わたしが、いま問題にしているのは、まさにこの点なのだ。

 『佳き』医者、「良心の人」である逃亡者は、捕縛のおそれがあるにも関わらず、人が困っているのを見れば放っておけない。

 警察が近づいて来るのを知りつつも、立ち往生した車を、ぬかるみから押し出し、病人がいれば診察する。

 その真摯な姿を見て、先ほど警察に通報した人々が、今度は警察が到着する前に、彼の逃亡を手助けする。

 その姿を見るたびに、わたしは思ったものだった。
 この人たちは、後に逃亡者の無実が晴らされるのを聞いた時、いったいどんな反応を示すのだろうか?
 駆けつけて祝うのだろうか?それとも電話?
 いずれにしろ、じっとしているはずがない。

 いろんな経緯はあるにせよ、彼らは、法を曲げて、殺人犯、捕まれば死刑は確実な男を逃がしたのだから。

 だが、実際には、一度登場した人々が、再び登場することはまずなかった。
 ドラマの構成上難しいのはわかるが、わたしには、これが何とも不満だった。

 もし、逃亡者が捕まったと聞いたなら、「あんな良い人が犯人なわけがない」と、立ち上がってもいいじゃないか。
 あるいは、その回だけじゃなく、何回かおきに引き続いて、彼を助けてやってもいいじゃないか。
 全員が、じゃなくていい、その中のたったひとりでも……。

 そういった、一過性の、一時的な人間関係が不満だった。
 これって日本人的なものの考えなのかなあ。

 毎回のエピソードが単なる通過点に過ぎないというのは、各エピソードがすばらしいだけに、なんとも惜しい。
 それでは単なるストーリーの垂れ流しだ。
 わたしとしては、各エピソードを伏線として、最後に生かして欲しかったのだ。

 そこで「モンスター」。

 さすがニッポン発のコミックだけのことはある。

 物語の終盤、主人公ドクター・テンマが、警察に捕らわれたと知るや、それまでの旅で知り合った人々、かつて大学病院で治療を受けた人々が、一堂に介し、動き始める。

 これこそが、わたしが「逃亡者」に対して望んでいたことなのだ。

 浦沢作品を語るとき、よく言われるのが、連載開始から、長きにわたりローテンションのまま、だらだらと張りに張っていたいた伏線を、ラスト付近で一気に引き絞るその醍醐味の存在だ。(「二十世紀少年」などが、その代表例らしいが、わたしは読んでいないので、これには言及しない)

 わたしが「逃亡者」に、不満だったのは、張っているかに見える伏線を引き締める『収斂』作業がなかったからだ。

 もっとも、最後の引き締めがあるにせよ、あまりに長い伏線のために、読者のことを考えていないのではないか、と疑いたくなるような作家もいる。

 これは、兼ね合いの問題だろう。

 要は、読者が、待たされた苦痛と、最後の爆発を秤にかけて、その作品を評価すれば良いことだ。

 「待たされる時間が長いほど、爆発の快感は増すのだ」などという自虐的な意見もあるだろうし。

 そのためには、作者が最後の『収斂』作業を、いかに速やかかつ鮮やかに行うか、その手腕にかかっている。

 待つ価値あり、と読者が判断した時、初めて伏線作家は存在を許されるのだから。

 「モンスター」
 今まで、面白い点が少しも無いまま、惰性で最終回近くまできてしまったが、最後はきれいにまとめてくれるだろうか?

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