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2005年10月

2005年10月25日 (火)

podcasting


 皆さんは、ポッドキャスティングをご存じだろうか?

 確か、2004年の夏頃に、Appleがipodと連動して始めたのだと思うが、要するに、携帯型のMP3プレーヤに、ラジオ番組(ネットラジオ)のデータをダウンロードして、本来リアルタイムで聴くものだったラジオ番組を、オンデマンドにMP3プレーヤで聴くシステムのことだ。

 更新があれば、自動でダウンロードするように設定しておくと、いつも新しい番組がコンピュータにプールされる。
 さらに同期設定をしておくと、ipodをコンピュータにつないだ時点で、そのデータが転送され、通勤時間の合間にニュースを聞くことができる。

 ポッドキャスティングのもうひとつの特徴として、音声によるコンテンツは比較的制作が容易なために、かつて流行ったミニFM局の現在版として、個人がネットラジオを世界に向けて音声を発信することだ。
 小電力のミニFM局は、わずか500メートル程度の受信エリアしか持てなかったが、ネットラジオなら国境すら越えて、世界に発信できるのだ。

 画像やサイト・コンテンツは、デザインを考えて制作する手間が大変だが、ネットラジオは、極端な話、マイクに向かって「よもやま話」をダラダラと続けるだけでも出来てしまうのだ。

 個人制作のネットラジオが、玉石混淆であるのは仕方がないから、とりあえずは、大手がやっているポッドキャストに手を染めてはいかがだろう。

私がおすすめするのは、
   http://www.podcastjuice.jp/rakugo/
   「にふ亭 ぽっどきゃすてぃんぐ落語」

 ここでは、週に一度程度の割合で、若手落語家による落語が配信されている。

 噂の、「タイガー&ドラゴン」(観たことはないが)で、一般の方の落語に対する意識が高まっている今、ぜひ、ここで仕入れた落語を携帯型プレイヤーに入れて、朝の電車ででも聞いてみてほしい。

 関西の方には、東京落語は、少しつらいかもしれませんが、上方落語にはない秀抜なストーリーを楽しむだけでも聴く価値はあるはずだ。

 登録は簡単。上の画像(赤いヤツね)をドラッグして、ituneのPodcastリストにドロップするだけ。

 試してみてほしい。

P.S.
 使われているテクニックは、99年にNETSFCAPE社が開発したXMLの一種で、RSS「RDF Site Summery」と呼ばれるもので、これを使えば、登録したサイトに更新があった際に通知をし、また受けることができるようになる。

p.p.s
 注意!上の画像をドラッグ&ドロップしても、落語は聞けません。ニフ亭のサイトに行って、そこにある上と同様の画像をD&Dしてください。押念。

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2005年10月22日 (土)

〜夢のモダン生活〜 ぼくの伯父さん


 なんだか疲れた気分になると、この映画を観る。そうすれば気持ちが穏やかになる。

 あの、世知辛く、せせこましく、自分勝手で無責任、風呂にもあまり入らない不衛生な連中が闊歩するおフランス映画を観ることで精神が落ち着くのだ。

 なんともお恥ずかしい話だが事実だ。

 しかし、ひとこと言わせてもらうと、「ぼくの伯父さん」は、他のフランスモノとはちょっと違うのだ。

 まず色彩がいい。

 明るく鮮やかで美しい画面を見ていると、それだけで気分がよくなる。

 音楽もいい。ノスタルジックで、それでいて、いつまでも飽がこきない。

 それは、ひとえに監督、主演のジャック・タチの力量、センスによるものだ。

 センスがいいから、公開五十年になろうという映画でありながら、「オシャレ」映画として、若い女性雑誌などでも取り上げられる。

 だが、この映画は、ただのオシャレ映画ではない。

 そういう切り口だけで観るのはもったいない。

 「ぼくの伯父さん」を観ていると、まだ「未来」とは程遠い生活をしていながら、「未来」への渇望が激しすぎて、「未来的なモノ」へと突っ走ってしまったピンボケな悲しさを感じる。

 もちろん、それはピンボケではあるが、気持ちは充分共感できる。
 

 日本でも同様のことがあった。

 1970年の大阪万博がそうだ。

 会場の外の実生活では、斜めにかしいで屋根のトタンを石の重しで抑えているような木造の建物がひしめき、駅のホームでは昔懐かしい(かな)タンツボがまだ設置されている時代であったのに、一歩会場に足を踏み入れれば、そこには背伸びした未来社会が存在していた。

「ぼくの伯父さん」も、そんな映画だ。

 会社重役を父に持つ「僕」の家は、新築の未来指向のモダン・ハウスだ。

 しかしながら、根がケチなフランス人気質がどうしても顔を出し、庭の噴水は、客が来るときだけ栓を捻って吹き上げさせるので、来客が来るたびにママは大忙し。

 もっとも、これはフランス特有の「セツヤク」精神の現れに過ぎないのかもしれないな。

 実際にフランスの安宿では、今でも、人がいないと廊下の電気を消すし、トイレの明かりは個室に入って鍵をかければ初めて点くシステムになっているから。


 かたや、「ぼく」の伯父さん(漢字でわかるようにママの兄)は、昔ながらの(しかし、それでいて、今見てもモダンでハイセンスな)古いビルの三階に住んで、定職はないが、近所の連中と和気藹々、のびのびとラヴィアン・ローズ(バラ色の人生)を楽しんでいる。

 この、「モダン・ライフ」と「オールド・ファッション・ライフ」の対比がこの映画の味だ。


 見ていて胸が締め付けられるように感じるのは、「僕」が近所の悪ガキたちと、いたずらをする場面だ。

 古い町並み、そのすぐ横には、昔、確かに日本にもあった、子供にとっての万能スペースである空き地が広がっている。

 そこに、あれはなんだろう、いまでいう「チュロス」のようなものをつくって、子供相手に商売をする屋台の男がいるのだ。

 この男がなかなか良い。

 悪ガキたちが、隙あらば万引きをしようとするのを防ぎつつ、友だち同士のセコい賭で友だちから巻き上げた金で、食べ物を買いに来る子供には、金の出所を気にせず、どんどんオヤツを売りまくる……


 「ぼくの伯父さん」に先立つこと十数年、第二次大戦では多くの国が戦禍を受けた。

 フランスも、その例外ではない。

 パリが陥落し、ドイツの傀儡であるヴィシー政権に支配されたのだ。

 そういった、戦後の荒廃から、なんとかモダン・ライフに脱皮しようとする過渡期を、はからずもこの映画は切り取り記録しているのだ。

 しかも、美しい映像とコミカルなストーリーと、さわやかな音楽で。

「僕の伯父さん」これからも、しばしばこの映画は観ることになるだろう。



 私のおすすめ:
『TSUTAYA DISCAS』/ネットでいつでもDVDレンタル!

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収斂せよ、しからずんば……「モンスター」浦沢直樹

「逃亡者」という作品をご存じだろうか?
 数年前に、日本の連続ドラマでリメイクされたヤツは、脇に置いておくとして。
 ああ、それとハリソン・フォードで、これもハリウッドでリメイクされた映画も、横に投げ捨てるとして、わたしが言っているのは、テレビ・ドラマ、本家デビッド・ジャンセンの「逃亡者」だ。

 「モンスター」の作者、浦沢直樹は、この「逃亡者」のファンだったに違いない。

 だから、この作品で、冤罪をかけられ、逃亡する外科医の話を描いたのだ。

 その他にも、おそらくは「逃亡者」にインスパイアされたであろう、小泉恭子主演の大映ドラマシリーズにも多大な影響を受けていることは、逃亡を続ける宇津井建のスタイル(コートの襟を立て、頭には時代遅れのハンチング!)が、なぜか姿を隠して逃亡している猪熊 柔の父に酷似していることからもわかる。まあ、本人はパロディのつもりで描いたのかも知れないが。

 わたしも、子供の頃、海外テレビドラマ「逃亡者」は毎日のように見た。(もちろん、再放送で)

 ストーリーが面白かったから、また明日も観たいと思ってしまうのだ。

 さすが、テレビドラマが下卑た大衆に迎合する以前、本編(映画)に対抗意識を持って高い志の下に頑張っていた時代の作品だけのことはある。

 妙に官能的なシーンもなく、ただストーリー・テリングと、演出の妙で魅了する。
 ハラハラし、主人公の人の好さに腹を立て、最後に、警察と尻目に無事に逃げる後ろ姿を見てほっとする。

 本当に面白い、しかし、見続けるうちに、欲求不満というか、不信感というか、そういったものが、少しずつ溜まり始めるのを感じてしようがなかった。(幼少時特有の錯覚ではない、しばらく前に、スカイパーフェクトTVで再放送を観た時も同じように感じた)

 長らく、いったい何が不満なのか、ははっきりと分からなかった。

 しかし、このたび、ついに分かったのだ。

 「逃亡者」は、一種のロード・ムービー(目的地が無いから実際はちょっと違うのだろうが、分類としてはそうだ)だから、流れ流れて、次々と人と出会い、別れを繰り返すストーリー展開は仕方がないのかも知れないが、それでも、人との交わりの期間が短く、その濃度が薄すぎる。
 基本的に、一話完結であるから、45分で出会い、共感し、別れなければならない。
 あまりにインスタントな人間関係なのだ。
 
 長きにわたる友人なら、友を信じ、身を挺して助けることも自然だ。
 だが、知り合ってすぐの人間関係だと、それではなんとも不自然だ。

 そこで、制作者は、主人公を二枚目にした。
 毎回出会う行きずりの女たちに、次々と献身的に彼を助けようとさせるためだ。

 小池一夫の「アイウエオ・ボーイ」ほどではないにしろ(何せ、アイウエオでは、主人公を助けて、女たちは皆死んでいくのだ)かなりご都合主義の感は否めない。

 が、これは許そう。

 すべての回に、ジャンセンが「男の魅力」を発揮する訳ではないからだ。

 わたしが、いま問題にしているのは、まさにこの点なのだ。

 『佳き』医者、「良心の人」である逃亡者は、捕縛のおそれがあるにも関わらず、人が困っているのを見れば放っておけない。

 警察が近づいて来るのを知りつつも、立ち往生した車を、ぬかるみから押し出し、病人がいれば診察する。

 その真摯な姿を見て、先ほど警察に通報した人々が、今度は警察が到着する前に、彼の逃亡を手助けする。

 その姿を見るたびに、わたしは思ったものだった。
 この人たちは、後に逃亡者の無実が晴らされるのを聞いた時、いったいどんな反応を示すのだろうか?
 駆けつけて祝うのだろうか?それとも電話?
 いずれにしろ、じっとしているはずがない。

 いろんな経緯はあるにせよ、彼らは、法を曲げて、殺人犯、捕まれば死刑は確実な男を逃がしたのだから。

 だが、実際には、一度登場した人々が、再び登場することはまずなかった。
 ドラマの構成上難しいのはわかるが、わたしには、これが何とも不満だった。

 もし、逃亡者が捕まったと聞いたなら、「あんな良い人が犯人なわけがない」と、立ち上がってもいいじゃないか。
 あるいは、その回だけじゃなく、何回かおきに引き続いて、彼を助けてやってもいいじゃないか。
 全員が、じゃなくていい、その中のたったひとりでも……。

 そういった、一過性の、一時的な人間関係が不満だった。
 これって日本人的なものの考えなのかなあ。

 毎回のエピソードが単なる通過点に過ぎないというのは、各エピソードがすばらしいだけに、なんとも惜しい。
 それでは単なるストーリーの垂れ流しだ。
 わたしとしては、各エピソードを伏線として、最後に生かして欲しかったのだ。

 そこで「モンスター」。

 さすがニッポン発のコミックだけのことはある。

 物語の終盤、主人公ドクター・テンマが、警察に捕らわれたと知るや、それまでの旅で知り合った人々、かつて大学病院で治療を受けた人々が、一堂に介し、動き始める。

 これこそが、わたしが「逃亡者」に対して望んでいたことなのだ。

 浦沢作品を語るとき、よく言われるのが、連載開始から、長きにわたりローテンションのまま、だらだらと張りに張っていたいた伏線を、ラスト付近で一気に引き絞るその醍醐味の存在だ。(「二十世紀少年」などが、その代表例らしいが、わたしは読んでいないので、これには言及しない)

 わたしが「逃亡者」に、不満だったのは、張っているかに見える伏線を引き締める『収斂』作業がなかったからだ。

 もっとも、最後の引き締めがあるにせよ、あまりに長い伏線のために、読者のことを考えていないのではないか、と疑いたくなるような作家もいる。

 これは、兼ね合いの問題だろう。

 要は、読者が、待たされた苦痛と、最後の爆発を秤にかけて、その作品を評価すれば良いことだ。

 「待たされる時間が長いほど、爆発の快感は増すのだ」などという自虐的な意見もあるだろうし。

 そのためには、作者が最後の『収斂』作業を、いかに速やかかつ鮮やかに行うか、その手腕にかかっている。

 待つ価値あり、と読者が判断した時、初めて伏線作家は存在を許されるのだから。

 「モンスター」
 今まで、面白い点が少しも無いまま、惰性で最終回近くまできてしまったが、最後はきれいにまとめてくれるだろうか?

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