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2005年8月

2005年8月22日 (月)

おまえを、信じているよ……(ロボッツ:異人たちとの夏)


 この映画、内容はともかく、スクリーンに映し出される画がつらい。
 CGで映画を作るようになって、すべてに細かく書き込めるようになったが故に、不必要な書き込みが多すぎて目が疲れるのだ。

 いらないものはピントをぼかし、トリミングしなければ、結局、何を一番見せたいのか分からなくなる。
 CG故の、ごちゃごちゃとすべてにピントのあった画面は、旧人類の我々にはついていけないのだ。

 それはともかく、先に内容は……と書いたが、ひと言だけいえば、これはステロタイプの成功者賛美ストーリーだ。アメリカ人の好きな展開だ。ハリウッドムービーの多くが、成功者の方に興味があるのだから無理はないのだが。

 それを如実に表しているシーンが、物語のラスト、成功した主人公が凱旋帰国し、両親に会うシーンで、父ロボットが「お前のことを信じてたよ」というところだ。

 これがなんとも安っぽくて、とってつけたような印象が強すぎて辟易する。

 ロボットのくせに、過剰に表情を変化させて感情表現をするため(これは物語全般にいえる演出だが)に、なおさら嘘くささが目立つ。

 なんというか、本当に信じていなかった息子が、思わぬ出世をして帰ってきた。
 さあ大変、と、その機嫌をそこねないために、精一杯愛情と信頼を過剰に表現しているデキの悪いパパ、といった感じなのだ。

 さすがアメリカ。是が非でも成功しなければならない国。成功者以外認めない国。

 しかしながら、少しでも長く人生を生きていれば、誰しも、何事につけ成功より失敗の方が多く、成功自体はほんの一時の運命のきまぐれにしか過ぎないということに気づくものだ。

 成功した者をほめるのはたやすい。信頼していたということも然り。

 だが、努力をしても失敗してしまった者にこそ、信頼が必要なのだ。

 ましてロボッツは子供用映画だ。

 この映画を観て感銘を受け、信じてしまったら(イマドキの子供は、そんなに愚直ではないと信じるが)、主人公と同一化を望むあまり、現実の自分が失敗をした時、主人公との乖離を認めることができずにショックを受けるかもしれない。

 成功しなければ両親は認めてくれない、とすり込まれたらどうするのだ。 

 確かに、憧れていた発明王から「国へ帰れ」と言われた主人公に対して、電話で、「お前には才能があるから頑張れ」と励ますシーンはある。だが、それは尾羽打ち枯らし、ボロボロになった息子を無条件で信じる親の愛ではない。友だちが掛ける程度の励ましに過ぎない。まだ可能性があるから頑張れ、と。駄目な息子を無条件で許容、信頼しているのではないのだ。

 その対極にあるのが、邦画「異人たちとの夏」で、主人公、風間杜夫の父を演じる片岡鶴太郎の台詞だろう。

 この映画は1988年の各賞(もちろん日本の)ほぼ総なめ。原作の山田太一に力があるためか、脚本の市川森一、監督の大林宣彦も気持ちよく仕事をしている感じがする秀作だ。

 映画の内容自体は別項で書くつもりだが、この物語の中で、四十男で離婚歴があり、テレビドラマの脚本家の風間杜夫が、両親の幽霊と出会って、涙ながらに、

「俺は夫としても父親としても失格だし、仕事もたいしたことはしてない……」

と心情を吐露する場面がある。

 この時、鶴太郎演じる父親は、優しげなまなざしで静かに言うのだ。

「そんなに自分を悪く言うもんじゃない。誰だって自分が可愛いんだ。お前はよくやってるよ」

 両親は三十代で、二人乗りする自転車ごとトラックに撥ねられて死んでいる。

 つまり、息子より年下なのだ。

 若い父が、白髪交じりの息子に寄せる信頼と愛情。

 本当の気持ちは言葉では伝わらないことが多い。

 口にすれば嘘になる。

 だが、お為ごかしではない、言葉にすれば上滑りしてしまいそうな励ましでも、深い愛情から発せられたものであるなら、人の心は自然に受け入れるものだ。

 この心情は、成功至上主義のアメリカン・ウェイ信奉者にはわからない、だろうなぁ。

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2005年8月16日 (火)

ゴシカ


 これは、何というのか。

 今、流行のサイコモノというのか、ホラーモノというのか。

 まったく何の予備知識もなく観させてもらいました。

 そびえ立つ女性刑務所精神病棟。苔むした建物、薄暗い廊下。その表情に異常性を感じさせる犯罪者たち。

 そういった、いかにも、という舞台設定の中、元は診察する側だった女医が、嵐の夜、雨に濡れて立っている少女を見た瞬間に意識を失い、気がつくと愛する夫を殺害した犯人として、今度は自分が診察される立場になる。

 オスカー女優、ハル・ベリーが主役を演じるが、どうも疲れているというか、老けた感じがしてならない。「ソード・フィッシュ」や「XMEN1」の頃のような、張りが感じられないのだ。

 もと同僚だった医者を、中年になってしまったロバート・ダウニー・Jrが演じている。
 この医者の役どころがイマイチはっきりしない。
 味方なのか敵なのか、要するにいてもいなくても良い役なのだ。
 麻薬中毒で長らく銀幕から遠ざかっていたダウニーだが、久しぶりに見る彼には、映画「チャーリー」の青年らしい面影はすっかりなく、老人と呼びたくなるような変容ぶりだった。薬物がこれほど人を早老させてしまうとは……。

 さらに、ペネロペ・クルスが、彼女だといってもらわないとわからないほど、やつれきった囚人役で鬼気迫る演技を見せている(だからといって、この映画が魅力的になるとは思えないが)。
 クルスは、夜な夜な入れ墨の男に独房で犯されると言い続けているが、誰もそれを信じない。。

 殺人現場には、「NOT ALONE」の文字が残され、やがて、ハル・ベリーの腕にもナイフの傷として同じ文字が浮かび上がる。

 なぜ、彼女の夫は殺されねばならなかったのか?
 このあたりから、映画は、ミステリーの気配が濃厚になってくる。

 やがて、彼女は気づいた。
 クルスを、独房で犯す刺青の男。
 皆は、それを幻覚だと思っていたが、そいつは実在するのだ。
 いったい誰なのか?

 ベリーは、「NOT ALONE」が、もうひとり殺人鬼がいる、という意味だと考える。

 このあたりから、映画はアクションモノに様変わりする。
 そして、盛り上がる暇もなく急転直下、終わってしまう。あっさりしすぎ。
 映画館で観ていたら、怒ってるだろうなぁ。

 それにしても、この映画におけるハル・ベリーのスタイルの悪さはなんなのだ。
 スーツ姿の膝小僧が、長谷川町子描くところの磯野ワカメちゃんのごとく、ぴょこんと飛び出ている上に、ガニ股、おまけに妙に足が短いぞ。

 うーむ、スターの美しさは撮りよう次第なのか?

 それとも、「チョコレート」で、アッキャデミー賞をとったからには、儚い美しさより末永い演技で勝負していこうという心意気の現れなのか。

 ホラーといっても、それほど怖いことはないので、恐がりの人も、ちょっと身構えるだけで観ることができるでしょう。
 機会があれば、ごらんになって、ベリーのスタイルを確認してみては?

 映画の内容としては、まったく観る必要がないレベルですな。

 ミステリなのかホラーなのか、どっちかはっきりして欲しい。

 中途半端はいけません。

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2005年8月12日 (金)

「待て、しかして希望せよ」(岩窟王)


 これは、2004年制作のアニメーションである。

 イントロダクションを公式サイトから引用すれば、


「幻想の未来都市パリを舞台に、復讐の物語が幕開く
15歳の春。パリの貴族アルベールは、親友フランツとともに月旅行に出かけた。
約束された将来、親が決めた婚約者・退屈な日常から抜け出した先に待っていたものは、大富豪モンテ・クリスト伯爵との出会いだった。
奥行きの見え隠れするその紳士に次第に心惹かれるアルベール。だが、その出会いは、少年の運命を揺さぶる壮絶な服襲撃の始まりだった‥‥」

ということになるが、何せ、もともとはA.デュマの「モンテ・クリスト伯」なのだから、面白くないわけがない。

 天を衝く激しさで人を憎み、人生のすべてを擲(なげう)っても、我が身に降りかかった厄災を倍加して投げ返そうと願う気持ち。

 そういった負の高揚感で、心を満たすことに魅力を感じぬ者があろうか?


 若いころから、心を捉えて離さぬ言葉がある。

「男の人生は復讐である。憎むべき者がいればその者に、いなければ人生そのものに、存在全てをかけて復讐するのだ」


 岩窟王は、地位を奪われ、自由を奪われ、青春を奪われ、恋人を奪われた男の復讐譚である。

 徒手空拳の男が、莫大な富を手に入れた後、じわりじわりと真綿で締め付けるように、自分を陥れた者に復讐していく。

 面白くないわけがない。

 ベスターの「虎よ!虎よ!」が魅力的なのと同じ理由だ。というより、ベスターは、「巌窟王」から多大なインスパイアを受けているのだ。

 原作は完成された復讐譚、アニメはその上に、設定を中世の雰囲気残る未来都市パリの話とし(パリでのロケハンをもとに3Dcgiの未来都市を制作)、エドモン・ダンテスことモンテ・クリスト伯爵を、原作以上に神秘的な存在として描写することに成功している。

 全体の雰囲気としては、菊池秀行の「バンパイア・ハンターD」の世界観に似ているかもしれない。

 画の面から見ても、デジタル処理を多用した画像は、描く対象物「画面全てにスクリーントーンを貼り付けてやる!」といった気概に満ちて斬新である(最新のディジタル技術を用いた2Dテクスチャリングらしい)。

 機会があったら観てもいいかも‥‥

 しかし、原作を読み返して気づいたのだが、エドモン・ダンテスが幽閉された期間は14年。映画「オールド・ボーイ」のオ・デスとほぼ同じ年月なのだった。

 中学生の頃、岩波の「巌窟王」を読んで、14年とは、想像すらできぬ途方もなく長い歳月だと思ったもの(当たり前だ、その頃の全人生よりも長い期間なのだから)だが、今となっては、それくらいの時間なら、短くはないが大して長くもない、いわば、現代刑法における無期懲役の実質拘束期間程度ではないか、と思ってしまうのは、わたしがトシをくったためであろう。

 余談ながら、デュマの「岩窟王」は、全てを失った男の復讐譚ながら、そのラストは、すがすがしく希望に満ちたものとなっている。

 「アイ・飢男ボーイ」などの原作者、小池一夫が、同様の復讐譚を扱いながら、すべてが堂々巡りの末、尻つぼみになってしまうのに比べて、デュマの作品は、復讐をし、願いが成就して後も、人生はやり直せるのだ、という力強さに溢れているのだ。

 作者の胸の大きさ、度量の違いと言ってしまえばそれまでだが‥‥。


「待て、しかして希望せよ!」

 物語の中核を為し、かつ物語の最後で、モンテ・クリスト伯爵が言い残して去る言葉である。

 けだし名言ではなかろうか?

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2005年8月 9日 (火)

スモールビル

「スモールビル」、その名を聞いて、いったいどれぐらいの日本人が「ああ」と思うだろうか?

 それは、おそらく世界で一番有名な男の故郷の名だ。
 父の名はジョナサン、母の名はマーサ。

 男の名はケント、クラーク・ケント。
 別名スーパーマン。

 これはつまり、クラーク・ケントことスーパーマンの、青年期における故郷の活躍を描くストーリィなのだ。

 例によって、邦題は「ヤンスグーパーマンの冒険」という凡庸なタイトルになっているが。

 全米では2001年に公開され、現在(2005年)では第四シーズンが放映されているドラマで、日本では今年、AXNで第一シーズンのみが公開された。

 これがなかなか面白い。一つひとつの脚本は、たいしたことは無いのだが、設定が魅力的なのだ。

 個人的には、特にスーパーマンのファンではない。
 日本語版、雑誌「スーパーマン」など買ったことはないし、どちらかというと、スパイダーマンはじめ、Xメン、ハルク、スポーンなどのアメコミ風、すべてに濃い画風は苦手だし、よく知らない。

 しかし、スーパーマンに関しては人並みに知識はある。

 というのも、もうかなり以前になるが、今は亡きクリストファー・リーヴの主演で「スーパーマン」がリメイクされたことがあった。
 当時、熱狂的に読んでいた雑誌が、再三その特集をしてくれたおかげで、かなりの知識を得ることが出来たのだ。

 まず、スーパーマンの本名はカル・エルといい、惑星クリプトンの住人であるということ。
 故郷のクリプトン星は、大爆発を起こし、破滅してしまうが、政治の重鎮であった両親の手によって、赤ん坊はロケットに乗せられ脱出し、地球にたどり着いたこと。

 スモールビル近くの農場に落下したロケットから、赤ん坊を拾いげたのが、ジョナサン、マーサのケント夫妻であること。

 惑星クリプトンの破片は「クリプト・ナイト」と呼ばれ、不死身、無敵のスーパーマン唯一の弱点であり、うまく使えば彼を死に追いやることもできる物質であること。

 「弾よりも速く空を飛ぶ」スーパーマンも、最初は「飛ぶ」ことができず、バッタのように、ぴょんぴょん跳ねていたこと。

 大人になったスーパーマンは、南極だったかに「孤独の砦」と称する、知力、体力用のトレーニング要塞を持つようになること。

 また、こんなエピソードもあった。
 超人スーパーマン(重箱表現?)は24時間眠る必要がなく、不眠不休で街の警備をしていたが、ある事件で怪物に能力を半分近く吸い取られてしまった。
 だが、責任感の強い彼は、それ以後も24時間勤務を続ける。
 が、疲労から二重人格となって、犯罪を犯してしまうようになるのだ。

 影も形も残さず犯罪を犯して回る犯人を、必死になって追いかけたスーパーマンが、やっとの思いで捕まえたら自分自身だった、というちょっとオカルティックなオチはスーパーマンらしくないが、このことは、強すぎるヒーローに対する批判への反省から、弱点を持つヒーローへと変遷しつつあった70年代コミック・ブックの傾向を示しているようだ。

 また不倶戴天の敵が、レックス・ルーサーという富豪の悪人であること。(件の映画では、ジーンハックマンが怪演していた)

 コミックスで、レックスは大人のスーパーマンと初めて出会うのだが、ドラマ「スモールビル」では、17歳のクラーク・ケントが若き日のレックス・ルーサーと出会い、ほのかな友情を感じるようになるという設定だ。

 ちょっと先走ってしまった。

 さて、ドラマ「スモールビル」

 このドラマは、一話ごとの内容は凡庸であるが、その設定が秀逸だ。

 高校生のクラークが、ほのかな思慕を寄せるラナは、赤ん坊クラークがロケットで落下した時に、引き連れてきた惑星クリプトンの破片(隕石)によって両親を失っている。

 隣同士で幼なじみでありながら、クラークはほとんどラナと話をしたことがない。
 それは、彼がラナから半径2メートル以内に近づくと、突然、意識を失って倒れてしまうからだ。
 この設定がうまい!
 そのわけは、両親の死後、ラナを引き取った叔母が、両親を殺した隕石(クリプトナイト)からペンダントを作って身につけさせているからだ。

 この頃、クラーク自身、まだクリプト・ナイトが自分の弱点であることを知らない。

 さらにうまい設定、天下無敵のスーパーマン唯一の弱点物質だけあって、クリプト・ナイトには、もう一つ際だった特質があるのだ。
 それは、身につけるものに、様々な特殊能力を授けるということだ。

 ゆえに、田舎町、スモールビル中に散らばったクリプト・ナイトは、そこに住む住人に様々な特殊能力を与えていく。

 そういった臨時超人たちが、若き日のスーパーマン最初の敵になるのだ。

 次々に現れる、クリプト・ナイト超人との闘い。

 なおかつ、超人を生み出すスモール・ビルには、同時にスーパーマンを死に追いやるクリプトナイトが散らばっている。

 怪人にぶっ飛ばされたケントがたまたま転がった先に、クリプト・ナイトが埋まっていたりするともうダメなのだ。

 急に力がなくなって、怪人の思うがまま。

 という、アダルト版スーパーマンでは、味わうことのできない楽しみが「スモールビル」にはあるのだ。

 好き嫌いはあるだろうけど、機会があったら、観て欲しいなぁ。



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