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2005年7月26日 (火)

「ナチュラル」 なくしたものが、かえってくる……




 過日、R・レッドフォードの「ナチュラル」(’84)を見た。
 まったく期待をしていなかったのだが、なんとなく観ているうちに、しまいにはすっかり引き込まれてしまった。
 昔からレッドフォードという役者は好きではなかった。
 「明日に向かって撃て!」や「スティング」では、若い彼の軽挙妄動が鼻につき、「遠すぎた橋」や「愛と青春の〜」などでは、のっぺりとした色男というだけで、性格の掘り下げもなかったから、なんら魅力を感じなかったのだ。
 「グレイト・ギャツビィ」では、何を考えているのか、さっぱりわけのわからん演技だったし(原作は好きです)、比較的最近の「ハバナ」や「スニーカーズ」では、もはや彼の老醜(わたしがいい出したんじゃないですよ。世間一般の評価です!)ともいうべき老いが目について観ていられなかった。

 しかし、この、バリー・レビンソン監督(レインマンの監督)の野球映画を観て、ちょっと印象が変わりました。

 おかしいと思ってたんだなあ。監督として「普通の人々」を撮り、実業家としてサンダンス映画祭を推進する、映画のことをよく知っている男が、なぜ駄作にばかりでるのかって。

 若き日のダスティン・ホフマンが、「僕にレッドフォードの美貌があれば、演技なんかしないさ」と言ったほどのグッド・ルッキング・マン(短躯ではあるが)のおかげで、自己愛におぼれるナルシシスト野郎と化し、自分をよく見せる映画(つまり、二枚目としての自分の容姿を必要とする映画のみ)にしか出ないのかも、とすら思い始めていたんですよ……。

「ナチュラル」

 この映画をひとことで言うと「なくしたものをとりかえす」映画だ。
 この場合の「モノ」とは、具体的な品物ではない。
 失った恋人でもない。(だいたい、そんなもの十年以上経ってから取り返したって仕方がない……かな)
 そうではなくて、失った、夢と人生と誇りを取り戻すストーリィなのだ。
 無くした時間を取り戻すことはできない。
 しかし、挫折して、失った誇りを取り戻すのは、いつであっても遅すぎるということはないのだ。

 1920年代、主人公ロイは、野球の天才少年として画面に登場する。
 幼いころからキャッチボールをして、才能の片鱗を見せる彼に父親はいう。

「おまえには才能がある。それを伸ばせ」 
 うなずく彼の横にはいつも、ひとりの女の子が笑顔で座っていた。 
 彼の永遠の恋人アイリスだ。
 やがて、父が急死し、意を決した恋人と一夜をすごした彼は球団に入団すべく田舎を後にした。

 上京する列車に乗り合わせた「大砲」とあだ名されるプロ選手を三球三振にするロイ。
 自分の能力が、人生をかけるに足るものだと確信した彼を、不幸が襲う。
 勝負を観ていた女の誘いにのって訪れたホテルで、彼は銃で撃たれてしまうのだ。その女は著名なスポーツ選手ばかりをねらうサイコキラーだった。

 16年後。
 中年となったロイは、弱小球団に入団を果たす。
 無くした夢を取り戻すために、長期療養のあとの長年の放浪生活の末に彼は野球に戻ってきたのだ。
 投手から打者へと転向したロイは、弱小球団を優勝チームへと導いていく。
 だが、1930年代の医療技術は未熟で、撃たれた時の弾丸は体内にのこっており、彼の内蔵を傷つけ、やがて彼は優勝を目前にして倒れる。
 尋ねてきたアイリスと16年ぶりに再会した彼は言う。
「子供の頃から、最高の野球選手になろうと思っていた。その夢を、今、果たしたいのだ」

 あと一試合勝てば優勝となった夜、ドクターストップを無視してバッターボックスに立った彼を、激痛が襲った。

 この後、おそらく野球映画史上に輝く美しいシーンを、我々はみることになる。

 誘惑に負け、故郷の恋人を裏切って、ゆきずりの女の部屋を訪れたロイは、長い時間をかけて、そのツケを払った。
 それは誇りある敗北ではなく、人に話すことのできる英雄行為でもなかった。
 だが、男は、いや人は、負けっぱなし、失いっぱなしでは生きてはいけない。
 生きている価値がない。
 だから、なくしたものを取り戻すために、命を削って立ち上がるのだ。

 それはステレオタイプな話かもしれない。
 よくあるストーリィかもしれない。
 だが、わたしは人生のお手本として、このタイプの話は無条件で受け入れてしまう。
 恐怖を無視し、あるいは恐怖に気絶しそうになりながらも、ふるえる膝を叱りばして、しっかりと立ち上がるのが本当のハードボイルドだ。
 どうしても譲れないものを守るために。

 その意味からいっても、こんどのビバップはハードボイルドではないなぁ。

 要するに、わたしは、そういった主題が好きなのだ。


 それとはちょっと違うが、話をもうひとつ。

 わたしは、今までなぜかミョーに「ID4」が好きで困っていた。

 あんなアメリカバンザイの映画のどこがいいのか?

 むろん、ラスト近くで、ランディ・クエイド扮する酔いどれオヤジが子供の写真を見つめ、「子供たちに『愛している』と伝えてくれ」とキメの台詞をいって、敵戦艦に体当たりをかけるヒロイックな行動は嫌いじゃありません。
 が、我々日本人には「梨の日」でしかない7月4日を、ご大層に人類の独立記念日に仕立て上げるアメリカイズムには寒気がするから、普通なら決して好きになったりしない映画なのに、なぜ何度も観てしまうのだろう。

 今回、その疑問も氷解した。
 「インディペンデンスデイ」
 覚えている人もおられるでしょうが、ウィル・スミス演じる空軍士官は、宇宙空間へ出ることを夢見て、長いあいだ、NASAへの転属を願い出ている男です。
 だが、ストリッパーのガールフレンドがいる限り(ってのがよくワカランが)、その夢は、果たされることはない(らしい)。
 彼の夢は、愛のために閉ざされているのだ。

 その後、宇宙人の攻撃をうけ、人類が壊滅的な打撃を受けた時、ハエ男、ジェフ・ゴールドブラムが提案した、数十年前に墜落した小型宇宙船を使って、母艦にウイルスを送り込む計画に志願して、彼は宇宙に飛び出す。

 不安に震えながら横に座っているハエ男を完全に無視して、成層圏に飛び出た彼は、遠い目でつぶやくのだった。
「ずっとこれを夢みていた……」

 おそらく、この台詞のために、わたしはID4をくり返しみているのだろう。
 彼も、失った夢を取り戻した男なのだ。

 わたし自身は、失ったモノなど、ついぞ取り戻したことなどない。
 なくしたものはなくしたまま。
 いまや体は穴だらけだ。
 けれど、いやだからこそ、なくしたもの、消え去ったピースのかけらをつかむ話が好きなのだろう。

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