サイドカー
サイドカーのことを、一説に、漢字で書けば「無理」偏に「車」と書くノリモノ、という言い方がある。
それほどに、エイシンメトリな、バランスの悪い乗り物だということだ。
外国文学、物語の翻訳というのも同じくらい無理がある行為だろう。
おそらくは、「無理」偏に「文」と書くほどには。
しかしながら、サイドカーレースを、一度でもごらんになった人なら、お分かりだろうが、側車バイクは、ライダーとサイドカーに乗ったパートナーの息が絶妙に合うと、普通のバイクでは考えられないほど小さい曲線を描いてカーブを曲がることができる。
無理ゆえの可能性がそこにはあるのだ。
同じ無理無茶な行為であっても、モノガタリの翻訳は、オートレースほど、意外な美しさをみせることは少ない。
たいていは、原文よりおかしな内容になっているか、日本語ではない文章になっているものだ。
その原因は、翻訳者が「ニホンゴ」に堪能でない、ということに尽きる。
側車バイクのコーナリングでも、物理的に無理な乗り物を美しく回転させるために、パートナーは、身をイン側に、それこそ投げ出すようにぶら下げなければならない。
肩や頬と地面の隙間はわずか数センチだ。
芸術を完成させるためには、その行為者が危険を冒さねばならぬことが多いのだ。
だが、翻訳者にその覚悟はあるのか?
翻訳者に、日本語を紡ぐ力量がない場合は手を出さない方が無難だ。
エイゴを読んで内容がわかるのと、それからニホンゴを組み立てるのとは、まるで違う行為だから。
翻訳者は、そのことを頭でわかるだけでなく、皮膚で感じて恐れなければならない。
外国語は理解できるし、日本語は知っているから、トランスレーションができるだろう、と考えるのは大きな間違いだ。
ほとんどの人は、日本語を話し、聞き、読み、書いているが、日本語で物語を書いたことなどない。
読み書きの能力と物語を紡ぐ能力はまったく別なものだ。
職業柄、かなり多くの人々の歌詞を目にし、添削もしているが、初心者のほとんどは、そのことに気づいてはいない。
日本語は読むことができるし、話すこともできる、書くこともできるから、作曲よりは簡単だと考えるのだ。
だが、何年か経つうちに、彼らは、その考えが間違いだったと気づきはじめる。
その時から、作詞の上達が始まる。
何の話をするのかというと、いまさらながらに「ハリーポッター」シリーズのことについて話そうというのだった。
当然ながら、わたしも皆さんと同様、この21世紀最初のビッグヒットファンタジーに、はじめは何の興味も持てなかった。
たまたま観た映画は、セントチヒロなみに面白くなかったし、妙に自分の人生観を表に押し出す翻訳者の態度も気に入らなかったので、原作やその訳本には興味がわかなかったのだ。
だが、ずっと後になって、「賢者の石」の映画批評で少し気になることを目にしたのだった。
その中で評者は、映画は、まるで原作をブツ切りにしたかのような印象で話につながりがなく、原作ほどおもしろくなかった、と書いていた。
それこそ、わたしが映画「賢者の石」について持った感想であったし、同時に「モノノケ」や「セントチヒロ」に感じていた印象であったが、あれには実質的な原作というものが存在していなかったため、映画自体を駄作と判断するしか無かったのだが「ポッター」には原作がある。
その後数日を経ずして、図書館のカウンターで「貸し出し可能」の札と共に立てられていた「秘密の部屋」を見かけ、とっさに借りてしまった。
で、さっそく読んでみたのだが、途中、何度か眠くなって、読了に通常の数倍の時間がかかってしまった。
読み終えての第一印象は、「案外、おもしろいじゃないの」というものだった。
映画と違って、ストーリィもきちんと流れている。
「セントチヒロ」とは大違いだ。
だが、奇妙な違和感と不快さを、同時に感じもした。
それは、作中で交わされる奇天烈な日本語と、登場人物が場面によって他者への態度を急変させることに起因していた。
いったいどういうことなのか?
念のために、もういちど最初から読み返すと、はっきりとその理由がわかった。
つまり、翻訳がおかしかったのだ。
中学生でも知っている、付加疑問に対する日本語の受け答えのマチガイに始まって、急いで走る(原書ではdushを使っていた)を、「脱兎のごとく走っていった」と表現したりと、おかしな部分を数えると、誤訳(というか奇妙訳?)はかなりの数に上る。
まあ、最近は、『脱兎のごとく』を、こんなふうにも使うのかもしれないが……。
ひょっとしたら、一所懸命(そうそう、もともとが誤用の一生懸命も広辞苑で認知されたな)に走っていく様子を、「蜘蛛の子を散らすように走っていく」なんて使い方もアリかもしれない。
だが、語源から考えて、「脱兎〜」は、「何かから逃げていく」時に使うべきで、「dush」の訳として使うべきではない。
後書きに名が出ている、「シンガーソングライター」の某氏は、いったいどんなチェックをしていたのだろう?
まあ、学者じゃないんだから、と言われたら、それまでだが……
しかし、言葉に繊細でなければならないのは「シンガーソングライター」でも同じはず。
学者じゃなくても、主人公たちが、年上の登場人物に対して、今までは丁寧な言葉遣いをしていたのに、(いくらそいつが困った人物でも)突然横柄な態度で罵ったり、突き放した言い方をするものだろうか?
あまり気になったので、amazon.ukでハードカバー・ボックスセットを購入してしまった。(後で知ったのだが、なんと英書はamazon.jpのほうが安かったのだ。驚いたね)
だが、それが原作者と翻訳者の結託した販売方法なのかも?
で、実際に読んでみて、そして思った。
原作は平易な英語(米語でなく)で、書かれているんだから、無理に翻訳する必要はないんじゃないだろうか。
英語が読めるようになってから、原書で読めば良いのだ。
もちろん、これは極論であるが、日本での版権を例の彼女が握っている限り、あの珍妙訳は続けられるわけだから、その対抗策としては、原書で読むしかないのだ。
そうでないと、妙なニホンゴを読まされて頭が痛くなってしまう。
原作の文章は淡々として(そんな印象だった)、日本語訳のように感情がサージしていないから読みやすい。
翻訳者とシンガーソングライター氏は、ハマダヒロスケの童話を二千回くらい読み返してから、もう一度、自分の文章に目を通すべきだろう。
いや、ストーリーも似ていることだし、「ズッコケ三人組」シリーズでもいいね。
五百回は読み返しなさい。
だから、同時通訳(だったね、たしか)出身で、エーゴがデキる(昔から思っているのだが、これも奇妙な表現だ)と考えているイングリッシュ・バカはだめなんだよ。(このような非情な言い方を、突然、年上のハグリットに対してハリー達はするのだ。彼らが今まで年上の心優しい大男に対して示していた愛情は、この瞬間、どこへ霧散してしまったというのだろうか?もちろん、原書では、普通のいいまわしになっている)
おおよそ、モノガタリを書く上で、もっとも、いいかね、もっとも大切なことは、プロットでも文章のうまさでも知っている漢字の数の多さでもない。
登場人物たちを描写する視点がブレず、理由無なく寸瞬きざみで、その性格や嗜好を変えない、ということだ。
特に、主人公たちの性格は、海から突き出た石のように不動でなければならない。
そうでないと、読者は感情移入ができないのだ。
せっかく、一時的にせよ、ゲームから離れ、本に向かった子供たちが接するのが、こんな翻訳だと思うと背中が寒くなる。
もし、自分に子供がいれば、こんな本は絶対に読ませたくない。
だが、翻って自分はどうなのだろう?
わたしは、今まで、翻訳がどの程度難しいか、経験たことがない。
一度、試してみても良いのでは?
そう思って、P.K.ディックの中編「マイノリティ・レポート」を翻訳してみることにした。
「マイノリティ・レポート」は、映画化されたにもかかわらず、オリジナル原作は店頭にならんでいないようだし、自分でも、前に原書で読んだだけだったので、この際、ある程度、きっちりと翻訳してみようと思ったからだ。
で、やってみたところ、きちんと読むとなると、案外時間がかかるものなのだなぁ、というが正直な感想だった。
それに、ディックは、同じディックでも競馬シリーズのフランシスと違って、大藪春彦ばりに難解な単語を多用する。
平易な言い回しで表現する作家ではないのだ。
訳自体は、まあストーリーに破綻無い程度には訳すことができたように思う。
しかし、実際に訳してみて、やはり以前にあったアカデミー出版?の「超訳」シドニィ・シェルダンモノのように、外国語翻訳は、もう一度小説家の手によって、骨格を変えずに日本語らしい表現に変えた方が自然なものになるのだと思ったのだった。
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