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2005年7月26日 (火)

むかしのをんな

江戸は、その最盛期、世界随一の300万都市であった。
 人口においても、当時、世界で隆盛を極めていた、ロンドン、パリ、プラハを上回る大都市ぶりだ。
 同時に、この世界規模の都市は、世界に類を見ないリサイクル・シティでもあった。
 町には、紙くず屋や古着屋、肥え汲み屋(注:製作者の意向を重視して当時の表現のまま記載しております)が町を徘徊し、使えるものは何度も再利用しつくしたあげく、ゴミというものをほとんど出さない町であったらしい。

 他のすべての所領と異なり、年貢を免除されているこの巨大都市では、多くの、二次、三次産業に就く輩を生み出したのみならず、浮世絵師や太鼓持ち、廻り髪結いなどのボヘミアン的な遊興の徒まで生み出している。

 無論、この時代は天国ではない。
 人々は、身分制度に拘束され、女性は家と戦国時代から続く力の支配、男の価値観によって家に縛られていた。
 夜ともなれば、365日、24時間戒厳令ともいうべき町々に設置された木戸が締められ、町々の往来もままならない(これで治安も維持されていたのだが)。
 にも関わらず、わたしがこの時代を好きなのは、この町には、それでも人の生と死が隣り合わせで存在していたからだ。
 時代が下るにつれて、武士が腰にさす、二本差はただの飾りと化したものの、それでも何かことが起これば、責任は、切腹をもってなされていたからだ。

 十両盗めば(実際には、その程度ではお目こぼしがあったらしいが)、首が飛ぶといわれ、刑場ではよく公開処刑(引き回しの上、獄門磔ってヤツですな)が行われる。

 人はモータルな(死すべき運命の)生き物である。生まれたからには必ず死ぬ。
 だが、現在の日本では、驚くほど完璧に死が隠蔽されている。

 死を見つめずして生を考えることは難しいのではないか?
 死を無視しようとすることこそが、野蛮なのではないだろうか?
 その点を軸に考えれば、当時より現在のほうがよほど「野蛮」である。

 同時代で考えて、野蛮という点で比較すれば、当時の大都会、パリやロンドンのほうがより野蛮だろう。
 彼らは、風呂を嫌い(湿気がないから気持悪くは無いようだが)、チーズや獣肉を食べることで発生する不快な体臭を隠すためにさらに不快な香水(匂いは引き算であるのに……)を体にまぶしつつ、文明化と称して地面を石畳で覆い、できあがった階級制度の中で、自分の優位性を自身で確認するために、子分たる飼い犬を引き連れて街を闊歩し、糞の処理など毛頭考えず、放置された糞を踏まないために踵の高いハイヒールと発明し、あまつさえ、階上で生み出した排泄物を安易に窓から投げ捨てる輩が跡を絶たないために、昼間でも傘をさして歩く風習を生み出したのだから。
 今でも、セーヌ川湖畔は犬の糞だらけだ。

本題
 さて、長々と書いたのは他ではない。
 最近、時代劇専門チャンネルの「江戸を斬る」を連日楽しみに見ているということを書きたかったのだ。
 じつはこの作品、放送当時は、まだ子供であったため、ただの金さんシリーズに過ぎない、と思って興味が持てなかった。
(だいたい、月曜八時のナショナル・シリーズってのはあまり好きでは無かったし……日曜九時の東芝日曜劇場も嫌いだったが)
 そもそも遠山金四郎ってのがいけない。
 遊び人の金さんが、知らぬ間に悪人の中に入り込んだりして、最後は悪人を一網打尽。止めは、お白州で「この桜吹雪が〜」って、顔みりゃわかるだろ、などという江戸のバカファンタジー(バカさ加減では、ミトコーモンと同じだな)に過ぎないと思っていたのだ。

 んがぁ〜。
「この江戸を斬る」は違うんですな。
 まずシーズンの初めは、水野忠邦の支配下、妖怪「鳥居耀蔵(とりいようぞう)」が跋扈する江戸の町で起こる事件を、旗本500石のイレズミ者遠山が、今は江戸の魚屋の女主となった乳母の娘、おゆきと共に悪者退治をするハナシとして展開。

 折々に、魚屋の娘のはずのおゆき(若すぎず老けすぎず、このころが、ベストの松坂慶子ではなかろうか?)が、女だてらに(注:製作者の意向を重視して、当時の表現のまま記載しております)剣術が得意で、いざとなれば紫の頭巾を被って顔を隠し紫頭巾として大活躍する。

 じつは、このおゆき、天下の水戸様の隠し子(だったはずだが)というのも、気持ちが良いお約束。

 その二人を助けるのが、もとネズミ小僧次郎吉。
 そういえば同じ時代の人物であった。

 つまり、いわゆる縦糸として、うまく当時の歴史的背景を使い、横糸に、江戸の事件を絡めての脚本なのです。
 金さんとはいうものの、あの馬鹿げた、唾棄すべき「顔見りゃわかるだろ〜」はない。

 第二シーズンの終わりで、鳥居の陰謀に落ちた金四郎が失脚させられ、おゆきもとらえられるが、結局は、鳥居も自分が水野忠邦を裏切ったように部下に裏切られ、急転直下事態は逆転する。
 悪事の証拠を握った水戸様(ヨボヨボになる前のモリシゲ)がウエサマ(えーと山口崇だったな)に進言し、鳥居はイナカに蟄居させられることになって、金四郎は町奉行に任じられる。

 この時点で、魚屋の全員にも、刺青の浪人者、金さんが、実は旗本で今度は町奉行になることを知らされるのだ。
 つまり、例の「遊び人金さん」の白々しい悪しき図式は、この作品ではあり得ない。

 第三部では、金四郎のライバルとして、火盗改の頭領、在りし日の成田三樹夫(まだ例の気持ち悪い公家顔になっていない、男らしい成田氏)がイイ味を出す上に、田舎から金四郎の祖母がやってきて(お共に、役者だった頃の?大山のぶよを引き連れている。これがまたイイ!)金四郎に嫁をとらすために画策する。

 本当の素性を知らない婆殿は、おゆきを、良い娘だと思いながらも結婚は許さない。
 このあたり、笑いと事件で緩急をつけた良い脚本です。

 番組の最後に、いつも二人で江戸の町を冷やかしてあるく姿もほほえましい。
 うーむ。この感じ、どこかで見たことがあるなぁ……。
 そうそう、平岩弓枝の「御宿かわせみ」に似た感じだ。
 好きあったふたりが、世のしがらみで一緒になれないというあの感じ。
 
 つまりこの作品は、捕り物帳ではなくて、金四郎とゆきの恋物語なのですな。

 と、よく見れば、原作、脚本とも女性だ(同じ人がされている)。
 うーむ、昨今の、原作のない時代劇(あってもミヤベミユキじゃあだめだが)が、カスばかりなのに比べて、やはりテレビ時代劇黄金期後半の作品。ちがいますなぁ。

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