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2005年7月26日 (火)

ビッグオー:不意に記憶が蘇る




 先日、大いに説明不足のまま、大いなる「ビッグオー」が終わった。
 まあ、詳しくは、今後制作されるかもしれないOVAか映画で示されることになるのだろうが、例の、エヴァンゲリオンほどには人気がないので、そこまでいかないかもしれない。

 しかしながら、個人的には、なかなか面白い作品だと思った。

 特に、ラストで示される、パラダイム・シティ全体が、そのまわりの砂漠を含めて巨大なスタジオの中に存在していた、という設定は意味深かつ意外性があった。

 すべてが、ただの脇役、セカンド・ヒロインだったエンジェルに代表される外部者に見せるためのショーだったのか?

 だから、ビッグオーの戦闘は、映画の撮影開始の合図「アクション」で始まったのか?

 そう考えれば、無意味に(それこそほんもののウルトラシリーズのように)、脈絡無くパラダイム・シティに、よくもまあ飽きずにやってくる、巨大ロボットメガデウスについても説明がつく。

 ショーには悪役が必要ということだ。

 つまり、主人公、ロジャー・スミスの行動は、ショータイムのための演技でしかないのか?
 それゆえ、彼の行為には何の罪もない(ビッグオー起動時に、「神の名においてこれを鋳造する、汝ら罪無し」の言葉がディスプレイに現れる)のか?
 神とは観客なのか?

 記憶を失った街「パラダイム・シティ」
 その街で暮らす人々には、ある日、突然記憶がよみがえることがある。

 そこで、ずっと前に読んだ、福田恒存の演劇理論を思い出した。

 こんな話だ。

 喉のかわいた旅人が、舞台のソデから中央へ歩いてくる。
 舞台中央には泉がしつらえられている。
 彼は、舞台中央で、泉に気づき、走り寄ると水を飲み始める。
 この場合、旅人としての演者は、すぐそばに行くまで、泉の存在に気づいていてはならない。
 だが、同時に、アクターとしての彼は、そこに泉があって、それをみて、どのようにアクトするかを記憶していなければならない。
 「知っているが、知らないでいること」
 これができるのが良い役者の条件だと福田は言う。

 ならば、いっそ、すべての記憶を失って、潜在意識に次の行動を記憶させた人々の演じる劇こそが、究極のドラマではないのか?

 それが、ビッグオーという作品のテーマなのか。

 材料不足で何もわからないが、おそらくは、そこまで考えて作ってないのだろうな。

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