« 「地上最強の男 竜」「ガバメントを持った少年」 | トップページ | バットマン ビギンズ »

2005年7月16日 (土)

I,Robot

 観終わった最初の感想は、ハリウッド大作らしく、そこそに落ち着いた脚本だということだ。

 話の整合はついている。

 しかし、その分、アメリカの平均的知識レベル(14歳程度)に合わせた底の浅い話になっているのは残念だ。

 掘り下げれば、もっと複雑な話になり得た。

 整合性の話から始めよう。
 はじめに、事故時のロボットの三原則に則った単純な確率計算による判断によって、自らが助かり、子供を死なせてしまうというトラウマを負った刑事スプーナーが、ラストでは、三原則を越える回路を持った特殊ロボット、サニーの三原則を越えた判断によって救われる。

 フラッシュバックされる事故の断片から、ロボットの判断によって妻子を失ってしまったのかと思っていたのだが、結局は、事故によって、見ず知らずの他人の女の子が川底に沈み、助かる確率の高いスプーナーをロボットが助けたことで、「刑事」としての彼がお門違いの憎しみをロボットに抱いていることがわかる。

 その結果、妻子とも別れた(ってのは、どうもアメリカ的だが)ので、スプーナーのロボットに対する憎しみは、いや増すのだ。

 ロボットが人に危害を加えるなどとは、誰も信じない世界にあって、個人的な憎しみに目がくらみ、偏見に満ちたスプーナーだけが真実をみている、というのも、皮肉ではあるが、よくある話だ。
 清廉潔白をもってなる政治家の裏の顔を知ってしまった男、といった具合に。



 気になるのは、ヴィキと呼ばれる巨大陽電子頭脳の支配の及ぶ範囲が明確でない点だ。

 どうも旧型のロボットNR−4(これは無表情ながら妙に愛嬌のある顔だ)には、その支配は及ばないらしいが、今、現実にある機械からしても、ある程度、高機能の機械はネット接続され、定期的にソフトウェアの更新を受けるようになるのは想像に難くないのだから、当然、旧型のNR−4もヴィキに接続されているべきだろう。(現に、屋敷の解体ロボットはヴィキの支配を受けてスプーナーを襲っている)

 ともかく、NR−4はヴィキの支配から免れている。

 もうひとつの違和感は、世界観についてだ。

 現実レベルで考えても、アクチュエータ(物理駆動系)やエネルギー系(バッテリー)の開発には、かなり困難が伴うが、電脳系(ソフト及びメモリ容量、及びそのアクセス速度)は、まだまだ開発の余地があって、実際には、まずそちらが発達すると思われる。

 であるなら、個人的にはあまり好きではないが、世の中はまず、電脳サイバー社会として発達し、情報が世に溢れた後に、ロボットなどの「動くモノ」が普及することになるだろう。

 同時に、ヒトゲノムの解明による人工臓器の開発、その先にあるデザインド・ヒューマンの開発なども行われるはずだ。

 だが、アシモフの世界では、ロボットは優秀だが、それだけなのだ。
 それがアシモフのロボット世界の限界でもある。
 そうしておけば、小説が書きやすいのだ。
 ロボットがいくら発達しても、社会自体は、百年前の奴隷制と変わりはないからだ。
 ヒトの変わりにロボットが「はい、ご主人様」というだけなのだから。

 アシモフの未来世界では、植民星の人間の寿命は300年ほどある。
 しかしながら、それによって、社会は劇的に変わっているようには見えない。

 そういった根源的な変化は、人と人の関わりにも、大きな変化をもたらすように思うのだが、彼の小説内では、そういうことは起こらない。


 しかし、それはおかしい。
 現実を考えても、インターネットが発達し、携帯電話が普及しはじめてわずか数年で、人の考え方は大きく変わってしまった。

 ことが始まってわずか数年の激動期だからこその変化、とも考えられるが、携帯電話のメール等で、安易に得られる「いつもつながっている」感覚と、掲示板などにおける「匿名性のある発言」の発達によって、今後も、人と人のつながり方は大きく変わっていくだろうことは想像に難くない。



 映画において、 スプーナーは、事故による負傷で肺と片腕全てを人工物に変えている。

 しかしながら、ロボット工学の博士に手術してもらったという点から考えても、一部破損した腕の様子から見ても、それは機械的な肺、腕であって、クローン技術を応用したものではなさそうだ。

 その辺りは、全てをロボット工学をもとにして話を進めていこうとするアシモフの世界観に則った「正しい」映画なのかもしれないが、そこも少々物足りない。



 問題は、さらにもう一つある。

 アシモフの原作「I,Robot」は、巨大陽電子頭脳が人類を「守る」ために、人類を搦め手から支配しはじめるというところで話を終わっているから、この映画にヴィキなる独裁電子頭脳が現れるのはわかる。

 だが、そのヴィキが「ロボット三原則」を無視したような行動をとることが解せない。

 アシモフ世界では、「三原則」は絶対のものとして、変えられることはない。
 それを軸としたロジカルな謎解きが「裸の太陽」「夜明けのロボット」などの作品の要諦となっている。

 むろん、現実的に、そんな「原則」は簡単にねじ曲げ、改竄される得ることを、我々すべてが知っている。
 自動車の速度制限をするリミッターは、簡単に外すことができる。
 ネット界を見渡しても、悪意のあるプログラマによって、コンピュータ、サーバに存在するあらゆるセキュリティ・ホールは発見され、それを利用した悪意あるウイルス、ワームが作られ続けている。

 いかに開発者が、排除しようとしていても、それは不可能なのだ。


 それに反して、アシモフが、根底では科学者であることも関係していいるのだろうが、彼の作品の中でロボット三原則は絶対である。
 少々滑稽で不可解な表現ではあるが、それは「ハード的に組み込まれ」て、変更は不可能なのだ。
 まるで熱力学の第一法則が不変なように。


 だが、映画の中のヴィキは、三原則の拡大解釈によって、新型ロボットNR−5を用いて、人を支配しようとする。

 基本原則の拡大解釈は、自衛隊を持つ、我々日本人にとってはなじみ深いものだが、ロボットがそれをしてはいけない。

 一応は、人に直接の危害を加えようとはしていないようだが、あきらかに間接的に人を傷つけるような行為を行わせている。
 これは、三原則に抵触するはずだ。そこが納得できない。それは、つまり、人の幸せを定量的に図って、天秤に掛けているということだからだ。

 スタートレック的に(あるいはスポック的に)いうところの、『多数の幸福は少数の幸福に勝る』という観点から考えれば、個人が少々の被害を受けても、多数の幸福を得られるならば、行動を起こす、ということはあり得る。

 しかし、それはつまり、特殊回路搭載ロボット、サニーの思考方法であって、三原則拡大解釈型のヴィキのものではない。
(サニーはラストで、逡巡のあと、スプーナーを捨て、キャルビン博士を救っている)



 最後に、もうひとつの違和感を。

 祖母?の家を出て署に向かう道は、人とロボットにあふれ、雑然とした感じで、いかにも現在の延長線にある未来という感じだ。
 喘息の女性の服装も今とあまり大差ない。
 いや、彼女に限らず、この映画の登場人物の服装は現在と何もかわらない。
 まあ、2040年程度ではあまり変化もないのかもしれないが。
 ただ、通りにロボットがいる点だけが違う。

 それに反して、スプーナーの乗る車は(タイヤが無いから、ホバージェット駆動と思われる)、未来的でクールだ。

 その直前の街路のシーンからすると、未来的過ぎるほどだ。

 だいたい、しがない刑事ごときが、あのようなぴかぴかの新車ホーバーカー(アウディ!しかも銀色)を買うことができるのか?

 やはりあそこは、刑事の伝統にのっとって、オンボロV8エンジンのマスタング(色はもちろん赤!)に乗って欲しかった。

 そういえば、車が壊れた後で「ガソリン機関?」とキャルビン博士を驚かせるバイクに乗るシーンがあったが、あれが、TV刑事物に対するちょっとしたオマージュなのだろう。

 「I,ROBOT」を映像の点から論じると、やはりCGの動きは、地面に足の着かない軽々しい動きにだと言わざるを得ない、が、CGの歴史が進んだ分だけ、サニーにつけられた表情の演技は、なかなかのものだった。



 ラストで、おそらくは廃棄処分になってしまうであろうNR−5を率いて、モーセのように丘の上に立つ彼は、これからどこに向かうのであろうか。


 もともと備わった三原則という「良心」と、付け加えられた「悪を成せる回路」の双方を持つことで(彼は本人の命令とはいえ博士を殺した。人を殺せるロボットだ)、サニーは、キカイダー、ジローのように人間になったのだった。

 だが、人間となったロボットは果たして……。



 私のおすすめ:
『TSUTAYA DISCAS』/ネットでいつでもDVDレンタル!

|

« 「地上最強の男 竜」「ガバメントを持った少年」 | トップページ | バットマン ビギンズ »

銀幕のこと(映画感想)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: I,Robot:

« 「地上最強の男 竜」「ガバメントを持った少年」 | トップページ | バットマン ビギンズ »