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2005年7月

2005年7月29日 (金)

ラッパ飲み

 最近のテレビコマーシャルで、女性が、ジュースだがなんだかをラッパ飲みしている姿を見かける。

 しかも、歩きながらの「ながら飲み」である。

 どうも、制作者の側に「ながら」は行儀が良くないことだ、という認識が欠けているようだ。

 アイキャッチを高めるために、老人に奇妙な踊りをさせるのも良いだろう。
 画面に登場する全員が、バカみたいな振り付けで踊り出すのも仕方ない。
 それはテレビの中の出来事だから。

 だが、普段着で歩きながら、突然飲料水をラッパ飲みするのは、あまりに日常的で、すぐに真似ができることだけに、より危険ではなかろうか。

 その姿は、みっともないだけでなく現実的に危ない。

 携帯電話を掛けながら車を運転氏、自転車に乗るのと同じく、人は思っているほど同時にたくさんのことを、安全に行えない動物なのだ。

 自己をしっかりと確立していない者は、目から耳から入った情報に翻弄され、すぐに真似たがる。


 最近まで毎日新聞の夕刊で、二十年ほど前の、CM(CFか?)に踊らされたカップルが、今はどうなっているか、という短期集中特集をやっていたが、これが興味深かった。

 たとえば、ある夫婦は、酒造メーカーの「女房酔わせてどうするの?」というCMを観て、あのような夫婦になりたいと願い、共働きで、一見ハイソサイアティな生活を手に入れたものの、結局は、生活のすれ違いが原因で夫婦仲がギクシャクしてしまった。

 共に五十をこえ、今は、もっと落ち着いた夫婦の絆を模索しているところだと、記事で、白髪交じりのふたりは苦笑していた。

 多分に恣意的な記事ではあるが、実のところ、こういう例は多いのではないだろうか?


 なぜなら、我々凡夫はテレビによって多大な影響を受けるから。

 まして、子供たちはなおさらだ。

 無駄とは思うが、テレビには身を美しくする一端を、なんとか担って欲しいものと切に思う。

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2005年7月28日 (木)

キャプテン


 キャプテン、といってもキャプテン翼じゃないよ。ただのキャプテン。

 ちばてつやの弟、ちばあきおが三十年前に書いた少年野球マンガの名作のアニメ化だ。

 アニマックスで先月から放映が始まったので、毎日、楽しみに観させてもらっている。

 長らく兄のアシスタントをしていたあきおが、満を持して少年ジャンプに連載しただけに、元気の出る、おもしろい作品となった。

 その特徴は、「誰だって、がんばれば強くなる」「練習すればするだけうまくなる」という言葉に集約されるだろう。

 野球の名門、青葉学園から墨谷二中に転校してきた谷口は、もと青葉という肩書きだけで、野球部員から一目置かれる。
 だが、彼は青葉二軍の補欠だったのだ。
 期待に応えるべく、彼は、放課後、密かに近くの神社で大工の父と共に特訓を始める。
 それを陰で見守るキャプテン。

 「キャプテン」という物語は、連綿とバトンタッチされていくキャプテンが、それぞれの個性とがんばりを発揮して、弱小チーム墨谷二中を強くしていく話なのだが、最初の名キャプテンとして嚆矢とすべきは、谷口の資質を正しく見いだして、次期キャプテンに指名した彼(名前は知らないが)なのではないだろうか。

 キャプテンになった谷口は、それまで以上に密かな練習に力を入れてがんばり続ける。

 やがて、墨谷二中は地区大会を勝ち進み、決勝でついに名門青葉と対決する……。

 「がんばれば、ことは成就する」

 それこそが、ちばあきおが、子供たちに示したかった精神なのだ。

 もと天才ボクサーの息子、スーパースターの忘れ形見、親を知らずに育ったが、実はスーパーサイヤ人、などという、努力よりも血筋がものをいう昨今のアニメとは一線を画した作品だ。

 現実には、ことスポーツに関してはかなりの部分が遺伝によると思われるが、だからといって、子供(大人も)に夢を与えるべきコミックが、事実によりかかって話をつくってはいけない。

 今日で、谷口最期の試合が終わり、彼は次期キャプテンを指名して去っていくことになる。

 一度退場したキャラクターが再度出てくることがほとんどないのも好感が持てる。

 たいていの作品は、以前のキャラクターの人気におんぶにだっこで、長々とひっぱるものだから。

 墨谷二中を卒業した谷口が、進学した墨谷高校で活躍する「プレイボール」も8月から始まるとのことで、こちらも楽しみだ。

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2005年7月26日 (火)

もしもわたしが死んだなら

 故植草甚一氏をご存じだろうか?

 井上ひさし氏によると、氏は「国宝的雑学博士」である。
 植草氏に関しては、インターネットで名前をキィワードに検索していただいたら、すぐにその人となりをしることができるであろうから、今は横においておくとして……

 その植草氏が亡くなったことで、二人の作家がある経験をする。

 ひとりは、ルポルタージュを得意として若者に人気のあるS氏だ。
 私は、自分があの「S夜T急」を書いた氏から多大な影響を受けたことは、決して否定はしないが、「象が空を」などのエッセイ集を読み続けると、どうにも彼の根本的な暗さに胸が重くなってくる。悲観的すぎる考えについていけなくなるのだ。

 そのS氏が、通りがかりに、マンションのロビーにうず高く洋書が積まれているのを見かける。翌日もまたその翌日もその本はそこに置かれたままだった。氏は一週間を過ぎる頃に、やっと管理人にその訳をたずねた。
 気の長い話だ。わたしなら二日目には管理人に尋ねているだろう。
 たとえ自分の好みに合わないとしても、ペイパーバックならどんなものでもとりあえずは手にいれたいからだ。英字新聞のような簡潔な英語描写でなく、きちんとした小説文ならいつも目にしていたい。

 尋ねられた管理人は、その本の山が、先だって亡くなった植草甚一のものだと答えた。氏がそのマンションの一室を書庫のように使っていたが、その死後、書物のほとんどは遺族によって処分された。その残りがロビーの本であるらしい。
 S氏は本を持ち帰る。それは1000冊近くあった。
 だが、売れ残るだけあって、そこにあまり値打ちのある本はない。氏の言葉を借りれば、「ペイパーバックスが出てしまえば、大バーゲン品になってしまうような(中略)文字通りの駄本……」ばかりであった。
 七十年代に経堂の街をあるくたび、S氏は派手な服を着て街を歩く植草甚一とすれ違ったらしい。だが、声をかけることはなかった。
 そして、最後に氏はこうつぶやく。
「人は死に本が残された。確かに私は植草甚一と(中略)まっとうに話すことができなかった。心は残るが、しかし後悔なしに擦れ違うすべての人に関わることが不可能な以上、ここにこれだけの本があるということだけで充分すぎることなのかもしれない」

 さて、もうひとりは、先に述べた井上ひさし氏である。
 氏は、植草氏の死後、その膨大な蔵書が散逸するのを知り、売らないことには、税務署が蔵書に税金をかけるために相続税を払わざるを得なくなることを嘆き、植草氏が長い時間をかけて作り上げた、一説によると八万冊あるといわれる彼の宇宙が崩れていくことを悲しむ。
 そのへんは、すばらしい文章なのでそのまま引用させてもらおう。
「燕が細枝や葉の切れっぱしや糸屑をひとつずつ拾い集めて巣をつくるように、書物好きも、ある日は一冊、また別の日には二冊というように本を抱えて帰宅し、すこしづつ書架へならべて行く。その瞬間にその一冊一冊が意味を持ちはじめ、書架は彼の脳みその出店の如きものになる……」
 そして、井上氏は、自分の蔵書も死後に散逸してしまうのか、と少しばかりシュンとしてしまうのだ。
 だが、東北の出身ではあるものの(ま、これは偏見ですね)、彼の力強く健全な魂は、ある航空便の手紙で甦る。
 それは、米国、インディアナ大学に留学している女性からの手紙だった。彼の大学の図書館にある「夏目漱石全集」の一冊の表紙の見返しに「井上廈(ひさし)」とあったが、それはあなたの蔵書だったのだろうか、そんな内容の手紙だった。
 確かにそれは、氏の蔵書だった。
 なんらかの手違いで、不要な本に混じって古本に売りに出されたものに違いない。
 それが、巡り巡って、いまは、当人すら行ったことのないアメリカの大学に彼の本は収まっているのだ。
 そして氏はこう考える。
「やがて、書物の行動力の逞しさに感心してしまいました。そうなのだ、書物は自分自身の持つ力で一番自分にふさわしい場所へ移動するのだ。したがって小生ごときが、植草宇宙が崩壊する、などと大げさに考えずともよい……」
 なんと、すばらしくたくましく、健全な考えなのだろう。

 だから、私は、自分が死んだあとの、自分が集めたものどもの行く末を案じてはいない。
 私もまた、彼らがりっぱな旅人になるだろうことを確信しているからだ。

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老人力

先日の休みに、知り合いの老人(御年84才、趣味は自転車。まあこの方の話はいずれ別項にて)に誘われてサイクリングに出かけてきた。

 自転車旅行は子供の頃から好きで、今も、少年時代に新聞配達(なんて勤勉少年だったのだろう!)をして購入したランドナー(という種別を知らない方も多いだろう。マウンテンバイクより細身で、ロードレーサーよりしっかり作られている。私たちが子供の頃はその全盛期だった。今も作られてはいるが価格が異常に高く、15万円以上する。正確にいうと、わたしの自転車は前後左右に荷物用のキャリアのついたキャンピングカーだ)を、たまに取り出しては磨いている。

 もっとも、何度も塗り直したフレームは、度重なる輪行(自転車を分解して袋に詰め、列車で旅行することです)のため、サビとキズだらけなうえ、二十年以上前の製品であるため、部品の規格すら変わっていて、交換不可能なものすらある、よくいえばビンテージもの、悪く言えば骨董品だ。

 当日、それをおろして(普段は二階の物置においてある)、軽く整備をしたのち、集合場所に向かった。
 あらかじめ聞いていたところでは、片道20キロ、往復40キロと自転車旅行者からすると楽な距離なうえ、コースをうまく設定して行程は平坦路のみであったため、そのときは正しく鼻歌まじりの旅立ちであった。

 午前9時、約束の市民体育館前に集合して驚いた。
 集まっているのは、老人ばかりなのだ。
 それも生半可な老人ではない。ほとんどが70台後半、男性も女性もヘタをしたら、いや間違いなく80才を超えていると思われる人が何人もいそうだ。

 私を誘ってくれた知人は、84才で、彼が最高齢だと思っていたら、なんと95才の老人まで参加していた。

 わたしも、いいかげん若者とは言えない年なのだが、この人たちに混じると、超弩級のヤングだ。
 そうそう、若いのはもう一人、これも知人に誘われてやってきた、フィリピン出身のケンという青年だけだ。彼は日本語がダメで、英語も片言、はなせるのはタガログ語だけなので、英語とボディランゲージの会話になる。

 あとで、自転車に乗りながら老人たちと話をしていると、どうも話がかみ合わない。どうやら、彼らは、わたしを大学生と間違えていたらしい。

 若ゾーに見られるのが恥ずかしい年はもうとっくに過ぎ、どちらかというと嬉しく思う年齢になってはいるが、さすがに二十年近く年を間違えられると、それほど自分の顔には年輪が刻まれていないのか、と不安になってしまう。

 ま、それはともかく……、わたしたち以外の老人たちのマシンは、すべて実用車。いわゆるママチャリばかりである。
 そして、ほとんどの自転車のカゴの中には、風呂敷に包まれた弁当らしきものが一つだけ入れられ、ハンドルが動くたびに寂しげに揺れている。
 当日は朝から快晴だったため、雨具や新聞紙すら入っていない。

 出発時刻が近づく中、老人たちの嬉しそうな顔をみながら、わたしはすこしばかり不安を感じ始めていた。

 肉体の老化は、筋力より先に脳内より始まる。
 これは、最近知ったことであるが、つまりは、蹴つまずいてこけ、取り返しのつかない怪我を負う老人が多いのは、筋力よりも、平衡感覚の衰え方の方が早いためだそうだ。
 もちろん、他の脳力と同様、平衡感覚も使い続けることによって、維持することは容易であるらしいが……。

 それにしても、80過ぎの人々に往復40キロのサイクリングは厳しすぎはしまいか?

 おまけに、裏道を選んであるとはいえ、地元の人々が渋滞をさけて、どんどん自動車を走らせそうな道である。事故は起こらないだろうか?

 ぴりり〜。
 をを、なつかしい、ホイッスルの音。直に耳にするのは何年ぶりだろう?
 突然笛をふいて皆の注意を喚起した老人(もちろんリーダーも老人なのだ)は、宣言した
「では、出発です」
 そして、彼はわたしの方を向いてこういった。
「ごくろうさま。ゆっくり走るのは疲れますよ」

 その後は、案の定というか、やはりというか、時速9キロの死の行軍が始まったのだった。ゆっくり走るのがこれほどつらいとは思ってもみなかった。
 速く走るのは案外楽だ。
 実際、中学生の頃は、前後に二十キロ以上のキャンプ道具を積んで、一日150キロ走って何日も旅行をしたこともある。
 だが、時速10キロ以下で片道20キロ、これはつらい。その間、バランスを微妙にとり続けなければならないのだ。

 しかし、その速度は老人たちには適性速度のようで、案外しっかりとしたハンドル操作と体さばきで、着々と自転車と我が身を目的に進めていく。途中、遭遇するちょっとした坂道もなんなくクリアしている。
 もちろん、だれひとりアシストサイクルなどという英語のブツを使っている人はいない。全員ママチャリだ。先導、及び故方確認する老人たちの自転車のリアキャリアには、黄色い旗がくくりつけられていて、それが風によくなびく。
 すれ違う人々が、時ならぬ高齢自転車集団に驚いたように振り向くのが、おもしろい。

 二時間を超えて、ようやく目的地の寺についた。
 自転車に鍵をかけると、老人たちはさっと食事のために散っていった。なかなかに素早い行動だ。
 わたしも、ケンと共に寺内の適当な場所を探して歩いた。
 すると向こうから先に散ったお婆さん、もとい妙齢のご婦人が、「茶店がケチにも毛氈を使わせてくれなかった」と、文句を言いながら帰ってくるのに行き当たる。
 結局、参道を横にそれた竹藪の中に適当な空き地を見つけ、みなヤブ蚊に刺されながらの食事となったのだった。

 食事後、会より支給された参拝券を使って、寺を拝観する。
 世界遺産に登録されました、という石碑を横目で見ながら、近年、再建された塔を通り過ぎ、著名な日本画家の作品が展示されている建物に向かうと、反対側からやせた老人がやってきた。
 例の参加者中、最高齢の老人だ。
 知人が、「どうしました」と声をかけると、「別料金だからやめた」と憮然とした表情になる。
 老人力がつくと、映画館は安くなり、バスは無料、美術館なども低料金で入館できると思いこんでいたので、ついそういうと「お寺で安くなったことはありませんっ」と一喝されてしまった。
 どうやら、ユーキューの時を反映して地上に屹立する寺社においては、人間が100年たらず生きてきたところで、たいしたことではないし、料金を安くする必要もないようだ。
 あるいは、メインターゲットたる老人たちの料金を安くしたら、立ちゆかなくなるのかもしれないが……
 
 やがて集合時間がやってきて、そろって寺を出発した。
 行きと同じコースで帰っていく。
 その中で、一人遅れる老人がいた。
 絶対にスポーツ用ではない派手な上着に薄紫のジャージ。
 服装は若いがおそらくは八十才を超えていると思われる痩身の女性だ。
 彼女は行きでも遅れがちだったのだが、帰りは目立って集団から離れるようになっていた。

 気になったので、ずっと彼女のあとをついて走っていたのだが、集団を管理する、旗をたてた老人たちは、あまり遅れる彼女を気にしてはいないようだ。
 彼女は、食事の時も毛氈について苦情を言っていた集団の一人で、自転車をこぎながらもひとりごちて賑やかなのだが、その反面、脚の回転のほうは寂しくなりがちだった。
 彼女は、他の老人に置いて行かれることを、一向、気にかける様子もなく、マイペースで遅れ続ける。

 十キロばかりそのまま走ったが、あまりのスローペースに疲れてしまい、旗を立てた老人の一人が最後尾に近づいたのを見て、先頭集団近くにいるケンを目指してスピードをあげた。
 すぐに、行きと同じ場所で休憩している先頭集団に追いつく。

 伴走車から支給されるお茶を飲みながら、しばらく待っていると、旗を立てた老人だけが走って来た。

 リーダー格の男性が「もうひとりおったでしょう」と尋ねると、
「先に行けと言ったから先にきた。あの人なら大丈夫でしょう」
と、あっさり言ってのける。
 老人ひとりを残して、よく心配にならないものだ、と思うのは若造のおごりなのかもしれない。
 彼らにとっては、同じ土俵にいる仲間なのだ。
 戦友といってもいい。
 いたわるよりも、その人の力を信じて自分のベストをつくそうとしているという感じが伝わってくる。
 まもなく、件の女性は「おまたせー」と大声で叫びながら追いついてきた。

 その後、女性は幾度か遅れ、休みのたびに追いつく、ということをくり返しながら、無事出発地点に到着した。
 三々五々と散っていく老人たちのママチャリを見ながら、わたしは老人たちの力に改めて感心していた。
 60過ぎなら、なんとかサイクリングをする体力を残すこともできよう。(今の不規則な生活だとそれも無理かもしれないが……)
 だが、80をまわって、サイクリングに行く力があるかと自問するとはなはだ心許ない。
 漠然と、自転車は50代までだと思っていたのだ。
 だが、今回のサイクリングで認識を新たにした。
 赤瀬川氏のいうところの「老人力」(ちょっと意味は違うかもしれないが)を目の当たりにすることができて、自分の将来に少なからず光明を見ることができたのは収穫であった。

 唯一、気になったのは、道の端を走る老人たちに、情け容赦のないクラクションを浴びせて抜き去っていく車の多さだ。
 それらは、まだ中年のドライバーが多かったが、彼らが老人になった時に、今日の老人ほどの老人力が残されているだろうか?

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モンスターズ インク

 題名だけみると「トラのパンツ」みたいだが(なんて誰も思わないか)、これは久しぶりに見たデズニの傑作です。

 近年、ライオンキング、アトランティスなど、日本のアニメの盗作ばかりする上に、幼稚園で描かれた落書きにすら著作権を要求するシャイロックのような性質が鼻につきがちだったデズニが、五人の協同脚本(含監督)で生み出した傑作が、この怪物インクです。

 邦訳すれば「怪物会社(結社)」となって、まるで「唐獅子株式会社」みたいになるから、邦題はそのままカタカナ読みにしたのでしょうが、文字を見ないで音だけ聞いたら、ほとんどの人は魔法のインクと思ってしまうだろうな。

 設定は、素晴らしく斬新、ということもないが、きれいに収まっているし、トイストーリーのように、荒唐無稽ではないから(人間がいなくなったら突然おもちゃが動き出すってことですよ)感情移入しやすい。

 とくに、主人公の巨人サリーの友人「ギョロメちゃん」のキャラクターがいい。
 彼は、CGのくせに、ボケ、ツッコミ、カワシときちんと演技をしている。
 「ジャングルの王者 ターちゃん」の猿のエテ吉のように、脇をきちんとした芸達者で固めているからこそ、ただ人(モンスター?)が良いだけの主人公サリーのガンバリと優しさが際だって伝わってきて、最後に心地よい感動を感じることができるのだ。

 子供の悲鳴をエネルギーとして活動する世界、というのは、似たような設定が以前にもあったから斬新ではないといったのだが、そのために、モンスターたちが、日夜シミュレーションを使って訓練していたり、悲鳴を上げさせるべく人間界に出かける彼らの勇姿がアルマゲドンのパクリだったりするのはお遊びとしてもなかなかイイ。
 人間世界の汚染物質がモンスターワールドに持ち込まれると現れる緊急処置班のモノモノしさも滑稽だし(これはETかアウトブレイクのパロディだな)。

 そうか!自分で書いていて、今気づいた。
 インクは、「パクリ」ではなく、過去のおもしろい映画を「パロディ」として堂々と取り入れているのだ。

 ドラエモンの「どこでもドア」にインスパイアされたであろう(ま、彼らは認めんだろうが)扉を通じて人間界に行き来するのも、のちのジェットコースター場面(観た人はわかるね?)の伏線としては申し分ない。

 なによりエンディングで流れるのが、わざわざ作ったNG集と、ギョロメちゃんが、本編内で言い逃れにつかったミュージカル劇であるのが秀逸だ。

 乗せられているとわかっていても、見終わって、さわやかな気分になれる。
 本当にこれはデズニ映画か?

 あとは、数多くのドアがレールを流れていくアトラクションがランドに登場するのを待つだけだ。
 きっとそのつもりであのシーンは作られているだろうから。
 願わくば、現在のではない、古い方のピーターパンのアトラクションのような、フワフワと空を飛ぶアトラクションとして具現化してもらいたいものだ。

 気のいいモンスターたちの暮らすモンスターワールドは、笑顔と笑いに満ちた明るい桃源郷だ。
 子供たちはペイヴメントで遊び、すれ違う人々は明るい笑顔で挨拶をかわす。
 これなぞは、よほどイナカにいかないとステイツでは見ることのできない光景だろう。

 この映画のもっともすばらしい功績は、映画をみた子供たち(大人もだ)の多くが、夜中の子供部屋で、ぼんやり光るクローゼットや、少し開いたドアを怖がることが少なくなるだろうという点だ。

 扉の後ろにいるのは、恐ろしい怪物ではなく、気のいいモンスターたちなのだ、と、モンスターズインクは確信させてくれる。
 こういう刷り込みこそが、無用の神経質な恐怖感を子供から取り除く良い方法なのだ。

 世の中に、人を脅かして人気をとる映画や番組は多いが、その逆は少ない。(キョーイクに良いと一般的に思われている、今までのデズニ映画すらが、ほとんどがそうではなかった)

 その意味で、この映画は、デズニの記念碑的作品と呼んでもよいだろう。

 もし、わたしに子供がいれば、迷わずに観せるだろうなぁ。

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屋根裏の散歩者

 月末に、友人夫婦が泊まりに来るかもしれなかったので、急遽、予備の部屋が必要になった。
 で、今まで、工作室として使っていた屋根裏部屋の一つを開けるために、年末の大掃除もかくや、と、思えるスイープ大作戦を実行した。
 この部屋には、コンピュータの予備部品と工作機械や木の切れ端などが山積されている。どれも、いつか役に立つだろうと貯めまくったものたちだ。が、これをどうにかしないことには、部屋は埋もれたままになる。
 耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、それらを捨てに捨てまくったところ、やっと四畳半のスペースが姿を現した。
 やれうれしや、まずは机でも置こう、と思ったが、小さな窓が壁際に一つあるだけで、急傾斜で切れ込んだ屋根が眼前にせまる部屋にしばらくいると、なんだかいやなキモチになってきた。

 目前にせまる屋根には、ものすごい圧迫感がある。

 ヨーロッパの安ホテルなどでは、料金が安くなると、必然的に部屋は屋根裏となる。
 あっちは、うちの屋根裏よりは少しましなようだが、やはり、多少の圧迫感は感じるだろう。
 屋根裏は、納戸として使うべきスペースであって、人が生活する場所ではないのかもしれない。
 もう少し大きな窓がついていたら、気分も違うのだろうが……。
 階段をはさんで隣の屋根裏には、ドーム型のプラスティック窓がついている。物置として使っているために、それには紫外線防止の銀マットを貼り付けてあるのだが、それをとってしまえば、あちらは、もう少し過ごしやすいだろう。

 狭い場所とだだっ広い場所のどちらが好き……いやどちらが苦手かと尋ねられたら、迷わず狭いほう、と答える。
 まあ、一人用の狭いテントも好きだから、閉所恐怖症ということもないとは思うが、子供の頃、ものは試しと、空き地の土管でねた時はさすがに嫌な夢をみた。

 それで思い出したことがある。
 砂漠をツーリング(車でも自転車でも)している時、廃墟に出くわしても、「ああ、これで一晩の宿ができた」などと喜んで飛び込んではいけないらしい。
 廃屋の中には、かならず排泄物が散乱しているからだ。
 つまり、なにもないところではキバることができなくて、人は廃墟を探してトイレにしてしまうらしい。
 砂漠に大きな石が転がっていると、その横にもブツは散乱しているから要注意とのこと。

 砂漠をさまよった経験はないから想像するほかはないが、だだっ広い空間で排泄という超のつく個人的な行為を行うのは難しいかもしれない。

 吉野の「竹林院群芳園」は立派な宿坊として有名だが、そのトイレは、値段に比例して広く、ひと二人が眠れるほど大きいらしい。
 だからどうということもないが、思い出したから記しておく。


 用意はしたものの、都合で二人は来なくなった。
 せっかく作った部屋だから、しばらくはこのままにするつもりだが、近いうちにまた納戸に戻ってしまいそうだ。

 まあ、寝るだけの場所(つまりは寝室ですな)にするなら、これもいいカモ。
 小さい窓にカーテンを吊って、明かりを消して、背を丸めて横になる。
 それは母親の子宮に似て案外心地よいものかもしれない。
 (もちろん比喩です。別に私が母親の子宮を覚えているわけではありません、押念)

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それは宇宙のカウボーイ




今回は映画「COWBOY BE−BOP 天国の扉」について書きます。
 知っている人は知っているでしょうが、このCOWBOY BE-BOP、もとはテレビ放映されたアニメーションで、ガンダム(を代表にしていいのかな)のサンライズが、ややオトナ向けに作ったハードボイルド・アニメとでもいうべき作品です。

 個性的な乗り物は出てきますが、いわゆる人型ロボットは一台も出てきません。
 オトナを意識して背伸びしたがゆえに、麻薬などを扱った部分が問題となり、当初はかなり変則的な放映をなされ(たとえば、麻薬がらみの第一回が放映自粛でいきなり二話からはじまった)ましたが、その後徐々に人気が高くなって、DVDが発売されるころにはサンライズの第三の顔と呼べる作品になっていました。

 のちの人気を考えると、最初にあった放映自粛のドタバタも、後のウケ狙いだったのかと勘ぐりたくなるほどです。

 時代設定は、21世紀半ば、人類は、ハイパーゲートと呼ばれるワープトンネルを用いて太陽系中に散らばっており、宇宙空間には、警察機構だけでは取り締まれない犯罪を処理するために生み出された、カウボーイと呼ばれる賞金稼ぎたちが闊歩しています。

 で、BE-BOP号と呼ばれるボロ船に、三々五々と、ひと癖もふた癖もある、脛に傷持つ賞金稼ぎ四人と一匹が集まり、やがて去っていく、というのがテレビシリーズの大筋でした。

 回ごとにムラがあり、まったくの玉石混交ではありましたが、玉はとびきりのギョクであったために、今回つくられた映画には、ついそれを期待してしまいました。

 原作は、テレビシリーズと同じ、サンライズにおける「アラン・スミシー」つまり合同脚本名である「矢立 肇」となっています。

 時間設定は、当然ながら、四人と一匹がBE-BOP号に集った、一番アツイ時期を選んであります。

 そうだ、その前に……、このBE-BOPシリーズを、他のアニメから突出させている要因をひとつだけ書いておこう。
 それは、主人公たちが、幾度となく空腹にさいなまれることです。
 空腹は食欲と排泄につながっている。

 思春期のころから、ずっと尊敬していた故松田道雄氏が、生きているとはどういうことなのか、と新聞の質問室で少年から尋ねられ、「たべて排泄することなんだよ」と答えるのを読んで、感銘をうけたことがあります。

 キレイゴトを並べれば『生きる』という定義は星の数ほどあるでしょう。
 ですが、形而下で、現実的に、生物的に判断するなら、まさしくそのとおり、食べて出すのが生きるということです。

 つまり、カウボーイたちは、戦火の中で命をやりとりし続けている、他のサンライズ作品(アニメ作品といってもよい)の主人公たちより、はるかに『生きて』いるキャラクタなのです。

 名前は出しませんが、女性に弱い、あるいは女性を好きなオトコを主人公にした作品は、世にいくつかありますが、性欲を前面に押し出しても、主人公は生きてはきません。
 なぜなら、性交は死と同義だからです。(こいつは半村良氏の受け売りですがね)
 なんせ、性交による絶頂のことを仏語でプティ・モール(LittleDeath)ってくらいですから。

 ま、それはともかく……
 サンライズ側が、どこまで意識していたかは知りませんが、食欲を強く前に押し出したBE-BOPシリーズは、SFアニメで最初の生きた主人公を生み出したのです。
 さすがに排泄シーンは出てきませんが、何度かトイレの描写シーンは出てきます。

 さて、前フリはこの程度にしておいて、「天国の扉」です。
(ココカラハネタバレダヨ)

 ギミックから言えば、今回のテロリストが用いる、ナノテク擬似ウイルスというのは、なかなか面白いと思います。
 劇中で、すでにナノテクウイルスがなんたら条約で禁止されているというのも、押さえが利いていてうれしい限り。

 だが、この犯人がイカン。
 線が弱すぎる。最後に見せる涙はなんだ?
 テロルは許されない行為だ。
 だが、現実にそれに走るものがいる。犠牲者もでる。
 もし、主人公をテロに対抗させるなら、それは完全に未然に防がれなければならない。
 劇中では、さすがに最大のテロは最後に防がれるのだが、それまでに百人以上の犠牲者が出ている。
 つまり、サンライズは、部分的にテロルを肯定しているのだ。
 肯定するなら、最後まで主人公を悪魔のような存在にとどめておくべきだ。
 エアフォース・ワンのゲイリー・オールドマンのようにね。
 それを、政府の実験に使われた哀れな特殊部隊の生き残りでござい、というオナミダチョーダイに落とす安易さ。
 あまつさえ、もと恋人を見て正気を取り戻すだと?
 ふざけるなってんだ。
 それで、「あいつは誰ともゲームができない男だった……」てな話は通りゃせんて。

 ウイルスが脳に達した瞬間に見える黄金の蝶ってのは最高にいいんだからもったいない。

 危うく死からよみがえった人々は、その多くが死ぬ直前に光につつまれ、至上の音楽を聴いたというが、それに似ているな。
 大脳生理学的にいえば、死に臨んで、脳の各部で最後に死ぬフィールドに、そういった悦楽を与える部分があるという仮説をきいたことがある。
 個人的な感想をいえば、それは苦痛の多い人生を与えた償いに神が最後にヒトに与えたご褒美に違いない(ウソ!)。

 そんな話を彷彿させて、なかなかいい設定だのに。

 どうも文句が多くなって困るが……それだけ期待していたんスよ、ダンナ。

 それゆえに、ビンセントが腰砕けなのが許せない。
 中途半端な恋愛モノ、あるいはお涙頂戴にするんじゃない。
 非常なテロリストなら、最後までそれで押し通すべきなのだ。
 自分の命をかけて、ウイルスをばら撒き、望みを達成した満足の笑みを唇の端にはりつけたまま散っていくのが、ああいった男の真の死に様ではないのか?
 そして、ぎりぎりで主人公たちがテロルを防ぐのだ。

 ともかく、最後の最後に、それまで不気味だったビンセントを、ただのセンチなオッサンにしてしまったサンライズの罪は重い。

 もうひとつ。
 惹句に「ハリウッドが注目する」ってあるが、聖林のウケを狙うあまり、火星の都市をあまりにNYっぽくするのはいかがなものか?
 ブラックピープルがルースファッションで街を徘徊し、モノレールはまるでNYの地下鉄だ。
 ごく一部に、香港の女人街、あるいはモロッコの市を髣髴させる場所が登場するが、窮地に陥った主人公スパイクを助けるのは、相変わらす、どうみてもネイティブアメリカンっぽい火星土着民(んなもんいるのか?)だ。

 それで思い出した。胸板をブチ抜かれて海に落ち、ろくな医療設備もない砂漠に担ぎあげられた主人公は、どうやって助かったのだろう。
 もちろん、サンライズは、テロリスト、ビンセントにあとで「急所をはずして撃ってやった」なんていわしているが、あれはどうみても体の中央部分をカンツーしてまっせ。
 どうもカリオストロ以来、貫通銃創に対する認識が甘いような気がする。
 ヒト、いや高等(もちろん徳性が、じゃないよ、単にごちゃごちゃした内臓を持っているというだけ)生物の体のなかには、すべて必要なものがギッチリと整然とつまっている。その一部が損傷をうけても命の存続はあやうくなるのだ。
 横隔膜より上なら気胸をおこし、下なら腹膜炎になる。
 「急所をはずした」とはよく使う表現だが、それは即死しないというだけのことで、死に至る銃創になる可能性は大きい。
 だから、戦闘能力を失わせる威嚇射撃は、手足を狙うように指導するのだ。
 あれが肩を打たれるたのならまだ納得できる。それですら、ヒトほど神経系が発達していれば、指先を打たれた衝撃で死ぬことも稀ではないから安易に使うべきではないのだが。

 そこで、鉄砲玉にアニキ分はこう教えるのだ。
「刃物をぐっとおしこんで、よぉく空気をからだに入れてやるのさ、それで相手は簡単に死んじまう……」

 えーと、あとは……そうそう、音楽について、だ。
 このBE-BOPシリーズはテレビシリーズを含めて、きちんとした形で、宇宙での戦闘シーンにJAZZを使った最初の作品だろう。

 その通り、宇宙での戦闘シーンには、ロックではなく、クラシックでもなく、沖縄民謡でもなく、JAZZが似合う。
 SF映画のエポックメイクな作品であるクーブリックの「2001年宇宙の旅」では、長く使われるクラシックが、素晴らしい映像と相まって観客の度肝をぬいた。
 だが時代はうつり、宇宙空間はJAZZで満たされた。
 (私見だが、カンツォーネも真空には合うと思うな)

 個人的には、今回の映画のための書き下ろしの曲より、テレビシリーズの曲の方が好きです。(なんせ、エドとアインが、ハッカー野郎を探すシーンで流れる曲は、雰囲気が『男と女』そっくし!で恥ずかしいし)

 余談ながら、この稿を書きながら、大学の同級生のおじいさんが松田道雄博士であると、氏が亡くなられてから知って大ショックを受けたことを思い出しました。
 前もって知っていたら、博士にはなんとしても一度お会いしたかった……。

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「ナチュラル」 なくしたものが、かえってくる……




 過日、R・レッドフォードの「ナチュラル」(’84)を見た。
 まったく期待をしていなかったのだが、なんとなく観ているうちに、しまいにはすっかり引き込まれてしまった。
 昔からレッドフォードという役者は好きではなかった。
 「明日に向かって撃て!」や「スティング」では、若い彼の軽挙妄動が鼻につき、「遠すぎた橋」や「愛と青春の〜」などでは、のっぺりとした色男というだけで、性格の掘り下げもなかったから、なんら魅力を感じなかったのだ。
 「グレイト・ギャツビィ」では、何を考えているのか、さっぱりわけのわからん演技だったし(原作は好きです)、比較的最近の「ハバナ」や「スニーカーズ」では、もはや彼の老醜(わたしがいい出したんじゃないですよ。世間一般の評価です!)ともいうべき老いが目について観ていられなかった。

 しかし、この、バリー・レビンソン監督(レインマンの監督)の野球映画を観て、ちょっと印象が変わりました。

 おかしいと思ってたんだなあ。監督として「普通の人々」を撮り、実業家としてサンダンス映画祭を推進する、映画のことをよく知っている男が、なぜ駄作にばかりでるのかって。

 若き日のダスティン・ホフマンが、「僕にレッドフォードの美貌があれば、演技なんかしないさ」と言ったほどのグッド・ルッキング・マン(短躯ではあるが)のおかげで、自己愛におぼれるナルシシスト野郎と化し、自分をよく見せる映画(つまり、二枚目としての自分の容姿を必要とする映画のみ)にしか出ないのかも、とすら思い始めていたんですよ……。

「ナチュラル」

 この映画をひとことで言うと「なくしたものをとりかえす」映画だ。
 この場合の「モノ」とは、具体的な品物ではない。
 失った恋人でもない。(だいたい、そんなもの十年以上経ってから取り返したって仕方がない……かな)
 そうではなくて、失った、夢と人生と誇りを取り戻すストーリィなのだ。
 無くした時間を取り戻すことはできない。
 しかし、挫折して、失った誇りを取り戻すのは、いつであっても遅すぎるということはないのだ。

 1920年代、主人公ロイは、野球の天才少年として画面に登場する。
 幼いころからキャッチボールをして、才能の片鱗を見せる彼に父親はいう。

「おまえには才能がある。それを伸ばせ」 
 うなずく彼の横にはいつも、ひとりの女の子が笑顔で座っていた。 
 彼の永遠の恋人アイリスだ。
 やがて、父が急死し、意を決した恋人と一夜をすごした彼は球団に入団すべく田舎を後にした。

 上京する列車に乗り合わせた「大砲」とあだ名されるプロ選手を三球三振にするロイ。
 自分の能力が、人生をかけるに足るものだと確信した彼を、不幸が襲う。
 勝負を観ていた女の誘いにのって訪れたホテルで、彼は銃で撃たれてしまうのだ。その女は著名なスポーツ選手ばかりをねらうサイコキラーだった。

 16年後。
 中年となったロイは、弱小球団に入団を果たす。
 無くした夢を取り戻すために、長期療養のあとの長年の放浪生活の末に彼は野球に戻ってきたのだ。
 投手から打者へと転向したロイは、弱小球団を優勝チームへと導いていく。
 だが、1930年代の医療技術は未熟で、撃たれた時の弾丸は体内にのこっており、彼の内蔵を傷つけ、やがて彼は優勝を目前にして倒れる。
 尋ねてきたアイリスと16年ぶりに再会した彼は言う。
「子供の頃から、最高の野球選手になろうと思っていた。その夢を、今、果たしたいのだ」

 あと一試合勝てば優勝となった夜、ドクターストップを無視してバッターボックスに立った彼を、激痛が襲った。

 この後、おそらく野球映画史上に輝く美しいシーンを、我々はみることになる。

 誘惑に負け、故郷の恋人を裏切って、ゆきずりの女の部屋を訪れたロイは、長い時間をかけて、そのツケを払った。
 それは誇りある敗北ではなく、人に話すことのできる英雄行為でもなかった。
 だが、男は、いや人は、負けっぱなし、失いっぱなしでは生きてはいけない。
 生きている価値がない。
 だから、なくしたものを取り戻すために、命を削って立ち上がるのだ。

 それはステレオタイプな話かもしれない。
 よくあるストーリィかもしれない。
 だが、わたしは人生のお手本として、このタイプの話は無条件で受け入れてしまう。
 恐怖を無視し、あるいは恐怖に気絶しそうになりながらも、ふるえる膝を叱りばして、しっかりと立ち上がるのが本当のハードボイルドだ。
 どうしても譲れないものを守るために。

 その意味からいっても、こんどのビバップはハードボイルドではないなぁ。

 要するに、わたしは、そういった主題が好きなのだ。


 それとはちょっと違うが、話をもうひとつ。

 わたしは、今までなぜかミョーに「ID4」が好きで困っていた。

 あんなアメリカバンザイの映画のどこがいいのか?

 むろん、ラスト近くで、ランディ・クエイド扮する酔いどれオヤジが子供の写真を見つめ、「子供たちに『愛している』と伝えてくれ」とキメの台詞をいって、敵戦艦に体当たりをかけるヒロイックな行動は嫌いじゃありません。
 が、我々日本人には「梨の日」でしかない7月4日を、ご大層に人類の独立記念日に仕立て上げるアメリカイズムには寒気がするから、普通なら決して好きになったりしない映画なのに、なぜ何度も観てしまうのだろう。

 今回、その疑問も氷解した。
 「インディペンデンスデイ」
 覚えている人もおられるでしょうが、ウィル・スミス演じる空軍士官は、宇宙空間へ出ることを夢見て、長いあいだ、NASAへの転属を願い出ている男です。
 だが、ストリッパーのガールフレンドがいる限り(ってのがよくワカランが)、その夢は、果たされることはない(らしい)。
 彼の夢は、愛のために閉ざされているのだ。

 その後、宇宙人の攻撃をうけ、人類が壊滅的な打撃を受けた時、ハエ男、ジェフ・ゴールドブラムが提案した、数十年前に墜落した小型宇宙船を使って、母艦にウイルスを送り込む計画に志願して、彼は宇宙に飛び出す。

 不安に震えながら横に座っているハエ男を完全に無視して、成層圏に飛び出た彼は、遠い目でつぶやくのだった。
「ずっとこれを夢みていた……」

 おそらく、この台詞のために、わたしはID4をくり返しみているのだろう。
 彼も、失った夢を取り戻した男なのだ。

 わたし自身は、失ったモノなど、ついぞ取り戻したことなどない。
 なくしたものはなくしたまま。
 いまや体は穴だらけだ。
 けれど、いやだからこそ、なくしたもの、消え去ったピースのかけらをつかむ話が好きなのだろう。

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「お母さん、お茶」「はーい」

今日は、いただき物の券で茶会に出かけてきた。
 最寄の駅につき、年始にドでかい茶碗を用いて飲む茶会で有名な某寺に近づくと、さっそく妙齢のご婦人方が三々五々と帰ってくるの行き違う。
 長いあいだ茶会になど行かなかったので、作法などすっかり忘れていたが、右をみて左をみて、茶碗を回し、なんとか誤魔化し飲み終えることができた(と思いたい)。
 生菓子はいまいちだったが、茶はおいしかった。

 久しぶりに見る、女性が着物姿でくるくると働く姿は、見ていて気持ちがよく(彼女たちの年齢は横において)、やはり民族衣装はイイナァと良い気分で家まで帰ってまいりました。

 帰って、珈琲を飲みながら考えた。
 喫茶類は、茶であろうが珈琲であろうが胡麻黄粉であろうがモロヘイヤであろうが何でも好きで、自宅でもよく抹茶は飲むが、どう考えても我が家よりうまかったのは、なぜだろうか?
 きっと、うちよりよい銘柄を使っているからだろう。
 茶のうまさは、いやになるほど値段に完全に正比例する。

 最近、よく話題になるのは、中国で本当に高級な、そしてポピュラーなお茶は、プーアルやウーロンなどの発酵茶ではなく、煎茶(龍神茶など)であるということだ。
 日本では、中国茶といえば発酵茶というイメージがあるが、中国では、お茶といえば煎茶をさす。

 考えてみれば、それは当然のことなのだな。
 柿など、少数の例外を除いて、果物を腐らせて(って、柿は腐敗しているんじゃない。干して濃縮してるんだな)食べることは少ない。
 だから、普通に考えて、茶も植物の一種なのだから、摘み取ったあと、発酵が進むにまかせて色を濃く渋くするより、炒ったり蒸したりして、酵素を死滅させ、緑のまま飲んだほうがおいしそうだ。
 よいものは新鮮なうちに……それは古今東西万国共通な食べ物の法則だ。
 もちろん、発酵することで生まれる風味と栄養には見逃せないものがあるだろうが。

 世界的に見て、茶の呼び名は、CHA派とTEA派に分かれる。
 アジアではチャ、チャイ、それがトルコあたりから「テ」になって、ヨーロッパでは「ティー」になり、欧州大陸の一番端のポルトガルで、ふたたび「チャ」にもどる。
 それぐらいは知っていたが、その語源がやはり、中国の方言にあったことはごく最近知った。
 中国の方言のひとつが「チャ」であり「テ」であったのだという。
 華北語音、広東音の茶の読みchaが陸路を通じて伝播したものと、海路で伝播する途中、茶の船積みをする福建地方で、アモイ系の読みのTe、Tiがそのまま伝わったものの二種類があったのだ。
 つまり、陸路を通じて徐々に伝播した近場はチャであり、船で運ばれた遠方はテであったらしい。
 陸路と海路の二系統で世界に広がったから、二種類の呼び方が世界に撒かれたのだった。
 単純に、アジアがチャで西洋がティーではなかったのだ。
 船積みする場所によって、ポルトガルのようなヨーロッパでもchaの地域が存在するのだ。

 この手の歴史は、われわれが、どうあがこうと、釈迦の掌の上の孫悟空状態だ。
 だからといって、「中国がとても非常にすばらしく偉い」というわけではないと思うのだが。

 その歴史に敬意は払いたいが、どうも中国とフランスのいわゆる「中華思想(自分たちが世界の中心)」という考えは好きになれない。
 それは、東の果て、文化の吹き溜まりニッポンで生まれ育った日本人のヒガミかもしれない。
 なにか中国的なものを広告するときに、すぐに「中国ン千年の歴史」という惹句を使う、単純なマスコミも嫌いだ。

 そうだそうだ。
 日本でも数千年という惹句が使われたことがあるぞ。
 第二次大戦中、ソ連に大敗を喫して戦局不利となる中、同盟国日本がパールハーバーを奇襲したのを聞いたヒトラーが、狂喜してこういったという。
「諸君、これでわれわれの負けはなくなった。なぜなら、過去数千年のあいだ戦争に負けたことのない国が友軍として参戦したからだ……」
 えーと、元寇って日本勝ってましたか?白村江の戦いは?
 どうもアドルフくんは間違った情報をつかんどったようですな。
 いずれにせよ、ロクなところで日本の歴史は使われてはいないようだ……。

 それはともかく、ブンカの辺境に住むことを、別段わたしは恥じてはいない。
 ブンカは吹き溜まりで熟成するものだから。

 ちなみにタイトルは、昔あった、マッキントッシュ用麻雀ゲーム「マックポン」で使われていたせりふです。

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記憶は、裏切る(メメント)

 久しぶりに訪れた小学校の校庭を、拍子抜けするほど小さく感じたことがあるだろう。
 あるいは、子供の頃、どうしても飛び越えられなかった川がほんの小さな小川だと気づいたことは?

 記憶はあてにはならない。
 記憶は変質し、忘却される。
 長いスパンなら、そういうこともあるだろう。
 だが、その期間が10分だったら?

 哲学好き、心理学好きな若者が三人集まって額を寄せていたら、そっと後ろから近づいてみるといい。
 きっと「アイデンティティ」という言葉が頻繁にささやかれているのに気づくだろう。
 それは、近代に生きる個人を読み解くのに不可欠な概念だからだ。

 「自己同一性」なんていう訳のわからない翻訳があてはめられるが、つまりは、自己の存在ということだ。
 自我と呼んでもいいだろう。
 自我、個の存在。
 我々は、それをどこで感じとっているだろう?
 鼻なら?腕なら……触れればいい。
 心臓なら、その鼓動で間接的にせよ存在を確認できる。
 だが、腎臓や肝臓や盲腸と同じく、アイデンティティはどうやって確認するのだ?
 できはしない。ただ、記憶によって自分自身の存在を強固なものに再構成して、安心させているだけなのだ。

 その記憶が10分しか保てなかったら?

映画「メメント」を観た。
 全編伏線だらけ。
 というより、伏線のみで成立しているかの印象を受ける映画である。
 伏線とは、こう張るものだ、というお手本のような作品だ。

 「記憶を信じるな。記憶は裏切る」

 「タイムマシン」の主人公、ガイ・ピアース演じるレナードは、妻をレイプされ殺された男だ。
 同時に脳に傷を負った彼は、記憶が10分しか保てなくなる。
 10分サイクルで記憶を失う彼は、妻への復讐を果たすために、知り得た情報を体にタトゥとして刻み、犯人を追いかける。

 新しいことは覚えられない。
 しかし、怪我の前の記憶、死んでいく妻のこと、妻の愛らしい笑顔と肢体は彼の記憶に新鮮だ。
 それが彼を苦しめ、そこから生じる憤怒が復讐へと駆り立てる。

 彼が体に刻む刺青が美しい、まるでネイティブアメリカンが体に施していた宗教的な図案のようだ。
 こんなとき、語法としては単純ではあるが、デザインとしては秀逸なアルファベットをうらやましくおもう。漢字仮名交じりでメモを体に刻んでもサマにはならない。

 記憶傷害をもつ彼は、十分ごとに、体と紙にのこしたメモから直前の自分の行動を推理しなおさねばならぬ。そこに罠がある。もし、他人に嘘の情報を与えられたらどうなるのだ?それをさけるために彼は自分の筆跡を執拗に覚えようとする。

 記憶の障害は難しい。
 よく言われる心身喪失、心神耗弱と同じで外部からは、本当に病気に罹っているかどうかはわからない。
 レナードの独白で語られる、彼と同様の症状を持ったサミーという男の妻の行為に胸をえぐられる。つまりそれは……、いやここで語るのはよそう。
 夫が妻を愛し、妻が夫を信用し、それでも本当に病気なのかどうかを疑って、最後には命をかけて確かめようとする……。
 だが、愛に殉じようとする姿は美しいのだろうか?
 あるいは、ただ、現実から逃避するためにとった行動なのだろうか。

 睡眠などで、大きく記憶に断裂が生じるたびに、映画は時間をさかのぼっていく。
 われわれは、レナードが体験した記憶を、時間を逆行して経験していくのだ。
 そして、映画の最後、レナードが最初に経験した記憶を知った時、それまでの伏線は見事につながり、切なく、悲しく、やるせない記憶の迷宮に我々は閉じこめられたまま、エンドクレジットとなる。
 「メメント」、それは、主人公自身が自分に残した罠であり、彼が目的のための行動ではなく、行動のための目的をいかに作り出したかを示す映画である。

 一度観ただけではわからない。二度、三度観て、理解を深め、自分自身に納得させていく映画でもある。

 単純な話の好きな人には勧められない。
 だが、複雑に絡まった七色の糸玉に混ざる緋色の糸をたどるのが好きなタイプの人なら、複雑なストーリィにちりばめられるスタイリッシュな映像とカットの虜になることだろう。

 ガイ・ピアースはオーストラリア本国ではアイドル的な存在だったらしいが、ハリウッドにきてすっかり演技を身につけたようだ。
 「マトリクス」「レッドプラネット」のキャリー・アン・モスもギスギスした感じがうすれて、美しい女性として描かれています。
 わたしは、レッドプラネットで彼女のファンになりました。
 頑固で責任感と決断力のある、リーダーとしての女性は、「ヴォイジャー」のジェインウェイ艦長をはじめとして大好きなのです。
 もっとも、最近の007に出てくる「女性」Mは、なんか勘違いしていると思いますがね。(単に男のキャラクタを女性にやらせてもキモチワルイだけ。トゥームレイダーやショム*や最近のCFに出てくる女のようにガサツなだけの男のオバサンになって失敗しますよ)

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ムーラン・ルージュ


 「ムーラン・ルージュ」を観た。

 んが、この映画についてはあまり語るべき言葉はないなぁ。

 なら、こんなところに書くこともないのだが、ちょっとだけ感じたことを書いておくと……。

 ムーラン・ルージュというと、もちろん「あの」おふらんすは華のぱりぃにあった娼館ショー酒場(って表現ありかな)です。
 しかも、前世紀末とくれば、当然のごとく、ロートレックが出てきます。

 ロートレックは好みの画家、いやイラストレーターで、その出自から娼婦に囲まれて過ごした最盛期、遺伝病と肝機能障害に苦しんだ晩年(といっても若いが)まで大好きです。

 彼と彼の画商であった学生時代から友人の心温まるエピソードなども、品性下劣なパリ野郎に本当にこんなヤツいるのか、と疑いながらも好きです。

 繰り返される近親婚による遺伝病で、150センチそこそこしか身長のなかった貴族ロートレックは、一見陽気な男でパーティ好き、その度に奇抜なアイデアとコスチュームで場を盛り上げたことで有名でした。
 だから、残された彼の写真の中に、あの有名な日本の公家の装束を着たものなんかもあるわけです。

 そのロートレックを狂言まわしにして、貧しい詩人ユアン・マクレガーと高級娼婦、歌姫ニコール・キッドマンの恋の話を、時代設定を完全に無視した曲目(All you need is loveや、Mterial Girlなど)ときらびやかな映像、コンマ数秒のカットを数百シーンかさねる撮影手法で描くミュージカル、それが「ムーラン・ルージュ」です。

 さすがに、現代イタリアにほとんど無国籍風の「ロミオ+ジュリエット」(でかぷりをのやつね)を描いた監督だけのことはある。

 ドタバタOKで、「ゴージャス」なものが好きな方ならお勧めします。
 ちょっと濃いけど、やけどしそうな熱意も濃厚に伝わってきます。

 わたしにとっては、邦画の「歌う狸御殿」(日本の馬鹿バラエティ番組と間違わないでくださいって、そっちは一度も観たことはないのだが)と似たような印象だったな。

 しかし、かつてモンロウが歌った「ダイアが一番」の歌詞を、はじめてじっくり聞いたが、結構いい歌詞だなぁ。

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TRUST ME!

「Trust me!」
 英語文化圏の、小説で、映画で、幾度となく使われる台詞である。
 日本では、こんな言い回しはあまり使わない。
 よしんば使うとしても、「信じなさいって」、というような、ちょっと冗談めかした用法が関の山だろう。

 だが、オーベー人にとって、「信じる」ということは重大である。
 宗教であれ、娘や妻の貞操であれ、犯罪の容疑であれ、彼らは「信じる」か「信じない」かのオルタネティブを常に、他者に、自分につきつけ続けている。

 信じる、信じないは、単なる判断だ。
 しかし、自分が信じるか信じないのではなく、他者から信じてもらいたいということもある。
 もし、個人が、誰かに信じてもらいたいなら、どうすればよいのか?
 証拠があれば見せればいい。
 もし今、証拠がないなら、これからの行動で信じてもらえばよいのだ。

 では、それが個人ではなくて、また、証明もできないならば、どうすればよいだろう。

 アメリカは今、それで苦しんでいるようにみえる。

 アニメ「オネアミスの翼」は、別次元の地球における人類初の成層圏飛行計画の映画だった。
 あの映画と同様に、50年代のアメリカは、当時のソ連に遅れをとった宇宙計画の起死回生を図るため「アポロ計画」をブチあげた。

 「10年で人類を月に送り込む」

 1960年に、そう「あの」ケネディ大統領が宣言した。
 以来9年を経て、アポロは月に着陸した……ことになっている。

 わたしの母は、昔から「宇宙もの」が大好きだった。
 69年のアポロの月着陸の時は、翌日、仕事があったにもかかわらず、徹夜でテレビにかじりついていたという話をよくきかされたものだ。
 私自身は幼かったため、月着陸をリアルタイムで記憶してはいないのだが。

 小松左京がそのときの様子を短編「一生に一度の月」で描いたように、SF作家たちは、「ひょっとしたら、これで俺たちの職業は、あがったりになるかもしれない。なんたって、本当に人類が月に立っちまうんだぜ、おい」と、半分は本気で思うほど興奮しつつテレビを見ていたし、本当に、当時の世界の人々は、NASAの一挙手一投足に注目していたのだ。
 そして、アームストロングがミョーナピョンピョン歩きをするのを、汚い映像で見ながらそろって狂喜した。

 人類は、地球以外の天体に足跡を記し、アメリカはソ連に勝ったのだ……。

 だが、着陸から30年を経て、アメリカの若者の中に、月着陸に対する疑問が膨れ上がってきた。
 なぜなら、かれらは、ヒコーキみたいなロケットもどきで成層圏からかえってくるシャトルは知っていても、地球以外の天体に着陸する宇宙船をリアルタイムで見たことがないからだ。
 初の月面着陸から30余年。
 現在の技術をもってすれば、月着陸など簡単なはずだ。
 なのに、なぜかアメリカは月へ宇宙船を送っていない。(不況と、すでに競争すべきソ連が存在しないというのは考慮に入れるとしても)
 今の豪華なシャトルを使えば、少なくとも月まで行って帰るくらいは容易にできそうだ。
 若者たちの疑問のひとつに、「あんな小さい宇宙船で月までいけるわけがない」というものがある。
 たしかに、受付の黒人女性と大喧嘩したため、悪い思い出しかないワシントンD.C.のスミソニアン博物館で、実物のアポロを見たときに持った第一印象は、「こんな小さなカンオケで月にいけるはずねぇな」というものだった。
 「ライトスタッフ」たる大男が乗り込むには狭すぎる船内だ。

 今や、シャトルしか知らない、宇宙体験の「ロストジェネレーション」たちは、ネットを通じて、月着陸への疑問を募らせている。

 「カプリコン・ワン」という映画をご存知だろうか?
 アメリカが、火星着陸を成し遂げたという報道が世界を駆け巡るが、じつは、着陸の映像は、アリゾナ砂漠にしつらえた撮影所で特撮を駆使して撮ったニセモノだった、という内容の映画だ。

 いま、月着陸が、若い世代から同様の疑いをもたれている。
 残された「証拠」が怪しすぎる、というのだ。

彼らは、
「空気のない月面で星条旗がはためいているのはおかしい」
「違う場所で撮られた写真の背景の形がまるっきり同じだ」
「月着陸船は、まったく炎をふきださずに月から上昇している」
といった疑問を、NASAにつきつけている。

 示された疑問のほとんどは、しごくもっともなもので、答えにはなんだか白を黒と言い含めるうさんくささがある。

 関係者のなかには、あまり目くじらをたてて説明すると、かえって疑われるから無視しろ、という意見もあるらしいが……。

 自国の国民に、彼らが成し遂げた偉業を疑問視されているアメリカやNASAはあわれだが、彼らにも原因がある。

 本当なら、たった一機でいい、月までシャトルを飛ばし、地球にいる数多くのアマチュア天文家に、月付近で光る船体を目撃してもらえばいい。

 わざわざ着陸をせずとも、それだけで、多くの若者の疑問は氷解するだろう。

 だが、アメリカにその気はないようだ。
 あるいはできないのかもしれない……どちらだろうか?

 この上は、2005年に打ち上げ予定の、日本の無人月探査衛星「セレーネ」のカメラ精度を飛躍的に向上させて、月面に放置されているといわれている月面車の写真をとってきてもらうしかない。
 頑張れニッポン……って、頑張りすぎると、どこかの国のサボタージュにあうかも……。

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カンパニー・マン


 知る人ぞ知る「CUBE」のヴィンチェンゾ・ナタリが満を持して撮った新作。

 「CUBE」を観た人ならわかるだろうが、今回もあの、陰気で暗い、低予算を逆手に取った閉鎖空間利用の映画……だと思ったら大違い。

 前よりは高額だろうが、やはり低予算には違いないという感じはするものの、これは、奇をてらわない正統派スパイ映画でした。

 珍しく当たった試写会で、公開三日前に観ました。

 無料という気のゆるみもあってか、途中ちょっと眠くなる部分もありましたが、まずまず面白かったのではないかと思います。

 洗脳を小道具に使ったミステリ調のストーリィ展開です。
 記憶を失ったことにより、なんでも無いことが謎になる。
 ベン・アフレックの「ペイ・チェック」に似た感じのエスピオナージです。
 もちろん、記憶喪失の完成度では、「メメント」には遙かに及ばないのですが……。

 ヒロインは、「アリー・マイラブ」(観たことはないが)や「チャーリーズエンジェル」(ファラ・フォーセットのころからこれは好きじゃないから観てないけど)にでている、ルーシー・リューです。
 自分では、西洋バンザイ主義ではないつもりなのですが、この映画のちょっと低予算っぽい部分と相まって、ルーシーのソバカスいっぱいの扁平なアジア人顔が画面に大写しになると、日本映画のような気になってしまうのはいかんともしがたいですな。
 なんだかこの人、片桐はいりに似ているし……。
 まあ、DVDになったらもう一度観てみます。

 しかし、チラシに「世界に先駆け、日本先行上陸!!」とあるが、これってナメられているということではないのかな?

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トレーニング・デイ

 黒人たちの英雄、デンゼル・ワシントンが思いきった汚れ役に挑戦して、アカデミー賞主演男優賞をとった作品です。
 かなり前の作品ですが、気になっていたので、観てみました。
 さて、その内容は……知っている人はご存じでしょうが、一応説明しておきましょう。、
 若く正義感を失っていない野心家の警官が、老練で、英雄視されている麻薬取締官のもとで働く機会を得ます。
 その初日、使える男がどうかをテストする目的を兼ねて、取締官は一日、若者を街に引き回し、若者に現実を見せます。
 これが、いわゆる「トレーニング・デイ」です。
 最初は、タフで強面、だがなんせデンゼル・ワシントンですから、ハートはホットな男に違いない、と(我々は、そして若者も)思っていますが、彼の言動はどんどん暴力的になり、やがては……というストーリィです。

 まあ、ひとことで言うと、悪徳警官の話です。
 緊迫した描写が続き、息の抜けない作品に仕上がっています。
 それだけに、好きか嫌いかの評価は分かれるところでしょう。
 個人的には後味の良くない映画はあまり好きではないのですが、これはまずまずの作品だと思います。

 24時間の間にすべてが起こった、と設定したいあまり、かなり無理に必然性の無い事件を連続して起こしているような印象がありますが、役者の熱演がそれを補ってあまりあります。
 その意味で、この作品が、アカデミー作品賞ではなく、主演男優賞をとったのは、正解だったのでしょう。

 それにしても、それがハリウッドシステムとはいえ、役者のイメージというのは恐ろしい。
 私は、最後まで、すべてがルーキー警官イーサン・ホークのトレーニングのために仕組まれた話なのだと思っていました。
 そう考えると、これは「逆説的でおもしろいドンデン返しの映画」ということになります。
 ナイスガイ、デンゼルなら、きっと最後にはいいヤツになるだろう、と思わせ続けて、最後までワルで終わる……何もしないことで、何かをする以上のドンデン返し効果を得る、一度しか使えないが、効果は絶大なうっちゃりです。
 結果的にはそれが功を奏して、ワシントンはアカデミーをとる訳ですから、正解だったのでしょう。
 「フィラデルフィア」でトム・ハンクスがオスカーをとるのを横目で観てから十年あまり、やっと彼にもあの訳のわからん由来(*)による名前のついた金色の像を手にしたわけです。


(*)
 像が完成した時に、それをみたお偉方の秘書が「これはオスカーおじさんだわ」と叫んだがのが、その名の始まりという、どうもできすぎな話のこと。

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アザーズ

「オープン ユア アイズ」のスペイン人監督アレハンドロ・アメナバールを、トム・クルーズがハリウッドに呼び寄せ、自分の制作で当時の妻を主演に撮らせた作品です。
 トムクルーズの前夫人、ニコール・キッドマンが、1945年頃の、タイトで清楚な服装に身を包んだ寡婦を演じています。
 少し冷血な感じはするものの、相変わらず、その美しさは際だっていて、いわゆる、恐怖に大口を開けて叫んでいても美しい、という希有な美形ぶりはこの映画でも健在です。

 もともと女性の怒った顔は、いきいきとして(もちろん人にもよりますが)好きなのですが、キッドマンはその点でも申し分ありません。
 きゅっとつり上がったブルーの瞳が、怒りで緑色がかって見える表情は、なんともいえず美しく、クルーズは、彼女の怒った顔を見たいがために、何度か夫婦げんかをしたのではないか、などと勘ぐってしまうほどです。
 もちろん、冗談ですが。

 個人的には、表情に、もっと暖かみのある女性が好みですが、どの角度から観ていても、見苦しくない女性が、画面で動くのを観るのは楽しいものです。
 最近は、そうでない女性(マガイ)がスクリーンに跋扈することが多いですから。

 ストーリー自体は、「オープンユアアイズ」を撮った監督とは思えないほど一本調子で、途中から最後のオチが見えてしまう程度のものですが、女性が美しくおののく姿を、フイルムに定着させたひとつの好例として、必見といえば必見の映画です。

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マイノリティ・レポート

 これは、あの駄作AIに続く、スピルバーグ監督の最新作SFだ。
 トム・クルーズが主演している。
 原作フィリップ・K・ディック。
 見始めて最初に感じるのは、内容以前に、映画全体のカラーに問題だ。
 往年の大映の赤っぽい映像のように、すべて灰色がかっている。
 それが、プライベートライアンやAIと同じで、どうも映画全体を単調に感じさせてしまう原因のひとつとなっている。

 ストーリィ自体は、何度か、どんでん返しが用意してあって、まずまずというところだが、いくつか苦言もある。

 第一は、映画公開前の、「犯罪が予測できるようになった未来」という表現は、実際の映画とはかなり違うように感じる点だ。
 設定は、原作と同じように(当たり前だが)、超能力者を使った予知(予見?)PRECOGNITIONを用いて、犯罪(殺人のみ)を未然に防ぐというものなのだが、映画の惹句だと、機械で何らかの予知ができるように勘違いしてしまうのだ。
 実際は、予見能力者が夢見る画像をブレインスキャンして映像化し、それを見る人間が事件を判断し、突発殺人なら赤玉、計画殺人なら茶玉をレーザーが削りだして、コロコロと転がって出てくる。
 その、なんとも子供だましな「SFさ」に思わず失笑してしまう。

 もうひとつ。
 これはCGを多用する最近の映画に共通した傾向なのだが、どうも、必要以上にアングルを替え、被写体に近づきすぎるような気がする。
 これまでできなかったアングルが、CGを使えば簡単にできるから、つい嬉しくなって使うのはわかるが、観ていて目が疲れるのだ。
 もうすこし引いて、全体を一目で見渡せる撮り方を多用したほうが、いいのでは無いだろうか。
 たとえば、車が走っていると、そのぎりぎりまで近寄って撮ったあとで、ぐっと引いて、遠景になったかと思うとまた激しく近づいてアップにする……まったく疲れるのだ。
 以前のスピルバーグはそんな撮り方はしなかったような気がする。
 撮影監督が変わったのだろうか?

 さらにもうひとつ。
 P・K・ディックは好きな作家なので、昔から、日本語でも英語でも原作は読んでいるのだが、どんな読み方をしても、あのような、暗い近未来の情景描写は無いような気がする。
 どちらかというと、彼が小説を書き始めた60年代SFの古き良き、日常的なSF描写(というニュアンスが分かってもらえるかな)が、彼の作風だと思うのだ。普通の生活の中で科学が進んでいる、といった感じ。
 たとえば、ブラウンの「73光年の妖怪」や、「夏への扉」のような、50年代アメリカ(冷戦は始まりつつあったものの、同時に黄金時代であった)の日常生活が、その雰囲気のまま未来にシフトしたような情景描写が、ディックの作品には似つかわしいのではないだろうか。

 その点からいっても、今回の「マイノリティ・レポ−ト」は、ちょっとリアルな汚さを追いかけすぎているような気がする。

 なにゆえ、ディックSFはそのような汚れたリアリズムに堕することが多いのだろうか?
 諸悪の根元は、リドリー・スコットの「 ブレードランナー」にある。
 「アンドロイドは電気羊の夢をみるか(原題)」は、若干退廃した雰囲気はもっているものの、R・スコットが描いたような(って、あの人は、異星を描いても、大阪を描いても、なんでもあの感じだが)雨に煙った、みょうに日本的な小汚い街のはなしではなかった。

 原作では、ステイタスとして生きたペットを欲しがり、そのためだけに命がけの戦いをしていく男、戦争の遺物としての放射能を恐れて、股間に鉛のプロテクターをつけている、まじめな、いやだからこそ、なおいっそう滑稽な、「おもろうてやがて悲しき……」タイプの男が主人公であるのに、映画のフォードはカッコ良すぎる。
 個人的な希望としては、フィフスエレメントにおける、B・ウイリスにやってもらいたいところだ。

 そうでなくても、せめて、暇があれば、通販のカタログを見てため息をつく中学生のように、しょっちゅう『シドニー社版鳥獣カタログ一月号付録』を取り出しては、主人公が生きたペットの値段を確認する場面をいれて欲しかった……。
 そういった、コミックさがなければ、主人公のバウンティハンターが救われないではないか?

 「アンドロイド〜」が、それなりにハマりすぎたために、その後の、映画におけるディック世界は、「ブレードランナー」的退廃世界(マッドマックスのようなオーストラリア砂漠的退廃世界とは世界観を異にする)になってしまった。

 「ブレード〜」のオマージュとして、ロボコップのP・バーホーベンは、「トータル・リコール」を撮り、リュック・ベッソンは、「ブ〜」を敬愛するあまり、描けもしないし、知識もほとんどないSFにイキナリ手を染めて、B・ウイリス主演の出来損ないのスコット的ディック世界を造りだしてしまった(フィフスエレメントのことですよ)。
 驚いたことに、結果的にそれが大成功を納めて、彼の作品では屈指の傑作になってしまったのは嬉しい誤算だったろうが……。

 スピルバーグが撮るディックSFだからこそ、暗くてもいいから、もっと自然な色合いの映像にしてほしかった。

 さらに、付け加えれば、「バニラスカイ」に続いて、今回もまた、トムは、自分の顔を見にくく替えるSFXを使っている。
 それは彼の心に、無自覚に老醜へのおそれが巣くっているからだろうか……。

 p.s.
 ディック原作ながら、ピーター・ウェラー(ロボコップ)主演の「スクリーマー」は、それとはちょっと違う映像美なので割と好きな作品だ。

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放浪者としての風呂敷

 以前、民俗学博物館の「大風呂敷展」というものにでかけたことがある。

 お約束だから、一応書いておくが、これは「うちの牛っこのメリーが日本列島みたいな子牛を産んだだよ」などという話を集めた展覧会ではない。世界中の風呂敷が集められているのだ。

 実をいうと、わたしは以前から風呂敷が好きだった。
 大きいものは大きく、小さいものは小さくパッケージングできる融通無碍なところがいい。
 たためばコンパクトになるところもいい。
 昔から、さまざまに工夫を凝らされた意匠も美しい。
 だから、わたしのいつも持ち歩くメッセンジャーバッグには大小あわせて三つの風呂敷が入っている。

 閑話休題
 実は、この風呂敷展でひとつの発見をした。
 言われてみれば、なるほど、と、思えることなので、ここで紹介しておこう。
 会場では、風呂敷を担ぐ現地の人々の写真とともに、実物がタペストリーのように壁に広げて貼り付けられ、地域別に展示されていた。
 ひとしきり、アジアの人々が、風呂敷を、頭にかけ、あるいは頭に乗せ、荷物を運ぶ写真を見たあとで、ヨーロッパという項目になった。
 解説を引用しよう。
「ヨーロッパというと、鞄文化だと思っている人が多いだろうが、実は、昔には風呂敷文化も確かにあったのだ」
「夏遊んだキリギリスが、冬になってアリの住まいを訪ねる時、彼らは、棒の先に風呂敷を結びつけたものを担いでいる」
「つまり、風呂敷は放浪のシンボルでもあった」

 そう、その通り。
 そうであった。
 ピノキオのジェミニィ・クリケットも、旅に出るときは風呂敷を持っていた。
 古来、ヨーロッパの人々は、普段の確固たる生活では、鞄を持って職場と家庭を行き来するが、放浪の旅に出る時は、棒きれの先に風呂敷をくくりつけるのだ。

 もちろん、実際にはそんなことはないのだろうが、イメージとしては、まさしくその通りだ。
 これは、まさしくわたしにとって、目からウロコ、の大発見であった。
 ヨーロッパにも風呂敷文化はあった。
 しかも、放浪(と、そしておそらくは貧乏)の象徴として。


 その後、常設展で、「カトマンドゥの市」というフイルムを観たが、懐かしさのあまり涙滂沱として止めることができなかった。
 すべてを観るにはまるで時間が足りない。
 今度は常設展のみを目的に、朝からじっくりでかけることにしよう。

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サイドカー

 サイドカーのことを、一説に、漢字で書けば「無理」偏に「車」と書くノリモノ、という言い方がある。
 それほどに、エイシンメトリな、バランスの悪い乗り物だということだ。

 外国文学、物語の翻訳というのも同じくらい無理がある行為だろう。
 おそらくは、「無理」偏に「文」と書くほどには。

 しかしながら、サイドカーレースを、一度でもごらんになった人なら、お分かりだろうが、側車バイクは、ライダーとサイドカーに乗ったパートナーの息が絶妙に合うと、普通のバイクでは考えられないほど小さい曲線を描いてカーブを曲がることができる。
 無理ゆえの可能性がそこにはあるのだ。

 同じ無理無茶な行為であっても、モノガタリの翻訳は、オートレースほど、意外な美しさをみせることは少ない。
 たいていは、原文よりおかしな内容になっているか、日本語ではない文章になっているものだ。
 その原因は、翻訳者が「ニホンゴ」に堪能でない、ということに尽きる。

 側車バイクのコーナリングでも、物理的に無理な乗り物を美しく回転させるために、パートナーは、身をイン側に、それこそ投げ出すようにぶら下げなければならない。
 肩や頬と地面の隙間はわずか数センチだ。
 芸術を完成させるためには、その行為者が危険を冒さねばならぬことが多いのだ。
 だが、翻訳者にその覚悟はあるのか?

 翻訳者に、日本語を紡ぐ力量がない場合は手を出さない方が無難だ。
 エイゴを読んで内容がわかるのと、それからニホンゴを組み立てるのとは、まるで違う行為だから。
 翻訳者は、そのことを頭でわかるだけでなく、皮膚で感じて恐れなければならない。

 外国語は理解できるし、日本語は知っているから、トランスレーションができるだろう、と考えるのは大きな間違いだ。

 ほとんどの人は、日本語を話し、聞き、読み、書いているが、日本語で物語を書いたことなどない。
 読み書きの能力と物語を紡ぐ能力はまったく別なものだ。

 職業柄、かなり多くの人々の歌詞を目にし、添削もしているが、初心者のほとんどは、そのことに気づいてはいない。
 日本語は読むことができるし、話すこともできる、書くこともできるから、作曲よりは簡単だと考えるのだ。
 だが、何年か経つうちに、彼らは、その考えが間違いだったと気づきはじめる。
 その時から、作詞の上達が始まる。

  何の話をするのかというと、いまさらながらに「ハリーポッター」シリーズのことについて話そうというのだった。
  当然ながら、わたしも皆さんと同様、この21世紀最初のビッグヒットファンタジーに、はじめは何の興味も持てなかった。
  たまたま観た映画は、セントチヒロなみに面白くなかったし、妙に自分の人生観を表に押し出す翻訳者の態度も気に入らなかったので、原作やその訳本には興味がわかなかったのだ。

 だが、ずっと後になって、「賢者の石」の映画批評で少し気になることを目にしたのだった。
 その中で評者は、映画は、まるで原作をブツ切りにしたかのような印象で話につながりがなく、原作ほどおもしろくなかった、と書いていた。

 それこそ、わたしが映画「賢者の石」について持った感想であったし、同時に「モノノケ」や「セントチヒロ」に感じていた印象であったが、あれには実質的な原作というものが存在していなかったため、映画自体を駄作と判断するしか無かったのだが「ポッター」には原作がある。

 その後数日を経ずして、図書館のカウンターで「貸し出し可能」の札と共に立てられていた「秘密の部屋」を見かけ、とっさに借りてしまった。

 で、さっそく読んでみたのだが、途中、何度か眠くなって、読了に通常の数倍の時間がかかってしまった。
 読み終えての第一印象は、「案外、おもしろいじゃないの」というものだった。
 映画と違って、ストーリィもきちんと流れている。
 「セントチヒロ」とは大違いだ。

 だが、奇妙な違和感と不快さを、同時に感じもした。

 それは、作中で交わされる奇天烈な日本語と、登場人物が場面によって他者への態度を急変させることに起因していた。
 いったいどういうことなのか?
 念のために、もういちど最初から読み返すと、はっきりとその理由がわかった。

 つまり、翻訳がおかしかったのだ。

 中学生でも知っている、付加疑問に対する日本語の受け答えのマチガイに始まって、急いで走る(原書ではdushを使っていた)を、「脱兎のごとく走っていった」と表現したりと、おかしな部分を数えると、誤訳(というか奇妙訳?)はかなりの数に上る。

 まあ、最近は、『脱兎のごとく』を、こんなふうにも使うのかもしれないが……。
 ひょっとしたら、一所懸命(そうそう、もともとが誤用の一生懸命も広辞苑で認知されたな)に走っていく様子を、「蜘蛛の子を散らすように走っていく」なんて使い方もアリかもしれない。

 だが、語源から考えて、「脱兎〜」は、「何かから逃げていく」時に使うべきで、「dush」の訳として使うべきではない。

 後書きに名が出ている、「シンガーソングライター」の某氏は、いったいどんなチェックをしていたのだろう?

 まあ、学者じゃないんだから、と言われたら、それまでだが……

 しかし、言葉に繊細でなければならないのは「シンガーソングライター」でも同じはず。

 学者じゃなくても、主人公たちが、年上の登場人物に対して、今までは丁寧な言葉遣いをしていたのに、(いくらそいつが困った人物でも)突然横柄な態度で罵ったり、突き放した言い方をするものだろうか?

 あまり気になったので、amazon.ukでハードカバー・ボックスセットを購入してしまった。(後で知ったのだが、なんと英書はamazon.jpのほうが安かったのだ。驚いたね)

 だが、それが原作者と翻訳者の結託した販売方法なのかも?

 で、実際に読んでみて、そして思った。

 原作は平易な英語(米語でなく)で、書かれているんだから、無理に翻訳する必要はないんじゃないだろうか。
 英語が読めるようになってから、原書で読めば良いのだ。
 もちろん、これは極論であるが、日本での版権を例の彼女が握っている限り、あの珍妙訳は続けられるわけだから、その対抗策としては、原書で読むしかないのだ。
 そうでないと、妙なニホンゴを読まされて頭が痛くなってしまう。

 原作の文章は淡々として(そんな印象だった)、日本語訳のように感情がサージしていないから読みやすい。

 翻訳者とシンガーソングライター氏は、ハマダヒロスケの童話を二千回くらい読み返してから、もう一度、自分の文章に目を通すべきだろう。

 いや、ストーリーも似ていることだし、「ズッコケ三人組」シリーズでもいいね。

 五百回は読み返しなさい。

 だから、同時通訳(だったね、たしか)出身で、エーゴがデキる(昔から思っているのだが、これも奇妙な表現だ)と考えているイングリッシュ・バカはだめなんだよ。(このような非情な言い方を、突然、年上のハグリットに対してハリー達はするのだ。彼らが今まで年上の心優しい大男に対して示していた愛情は、この瞬間、どこへ霧散してしまったというのだろうか?もちろん、原書では、普通のいいまわしになっている)

 おおよそ、モノガタリを書く上で、もっとも、いいかね、もっとも大切なことは、プロットでも文章のうまさでも知っている漢字の数の多さでもない。

 登場人物たちを描写する視点がブレず、理由無なく寸瞬きざみで、その性格や嗜好を変えない、ということだ。

 特に、主人公たちの性格は、海から突き出た石のように不動でなければならない。

 そうでないと、読者は感情移入ができないのだ。
 せっかく、一時的にせよ、ゲームから離れ、本に向かった子供たちが接するのが、こんな翻訳だと思うと背中が寒くなる。

 もし、自分に子供がいれば、こんな本は絶対に読ませたくない。


 だが、翻って自分はどうなのだろう?
 わたしは、今まで、翻訳がどの程度難しいか、経験たことがない。
 一度、試してみても良いのでは?
 そう思って、P.K.ディックの中編「マイノリティ・レポート」を翻訳してみることにした。
 「マイノリティ・レポート」は、映画化されたにもかかわらず、オリジナル原作は店頭にならんでいないようだし、自分でも、前に原書で読んだだけだったので、この際、ある程度、きっちりと翻訳してみようと思ったからだ。

 で、やってみたところ、きちんと読むとなると、案外時間がかかるものなのだなぁ、というが正直な感想だった。

 それに、ディックは、同じディックでも競馬シリーズのフランシスと違って、大藪春彦ばりに難解な単語を多用する。
 平易な言い回しで表現する作家ではないのだ。


 訳自体は、まあストーリーに破綻無い程度には訳すことができたように思う。

 しかし、実際に訳してみて、やはり以前にあったアカデミー出版?の「超訳」シドニィ・シェルダンモノのように、外国語翻訳は、もう一度小説家の手によって、骨格を変えずに日本語らしい表現に変えた方が自然なものになるのだと思ったのだった。

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ビッグオー:不意に記憶が蘇る




 先日、大いに説明不足のまま、大いなる「ビッグオー」が終わった。
 まあ、詳しくは、今後制作されるかもしれないOVAか映画で示されることになるのだろうが、例の、エヴァンゲリオンほどには人気がないので、そこまでいかないかもしれない。

 しかしながら、個人的には、なかなか面白い作品だと思った。

 特に、ラストで示される、パラダイム・シティ全体が、そのまわりの砂漠を含めて巨大なスタジオの中に存在していた、という設定は意味深かつ意外性があった。

 すべてが、ただの脇役、セカンド・ヒロインだったエンジェルに代表される外部者に見せるためのショーだったのか?

 だから、ビッグオーの戦闘は、映画の撮影開始の合図「アクション」で始まったのか?

 そう考えれば、無意味に(それこそほんもののウルトラシリーズのように)、脈絡無くパラダイム・シティに、よくもまあ飽きずにやってくる、巨大ロボットメガデウスについても説明がつく。

 ショーには悪役が必要ということだ。

 つまり、主人公、ロジャー・スミスの行動は、ショータイムのための演技でしかないのか?
 それゆえ、彼の行為には何の罪もない(ビッグオー起動時に、「神の名においてこれを鋳造する、汝ら罪無し」の言葉がディスプレイに現れる)のか?
 神とは観客なのか?

 記憶を失った街「パラダイム・シティ」
 その街で暮らす人々には、ある日、突然記憶がよみがえることがある。

 そこで、ずっと前に読んだ、福田恒存の演劇理論を思い出した。

 こんな話だ。

 喉のかわいた旅人が、舞台のソデから中央へ歩いてくる。
 舞台中央には泉がしつらえられている。
 彼は、舞台中央で、泉に気づき、走り寄ると水を飲み始める。
 この場合、旅人としての演者は、すぐそばに行くまで、泉の存在に気づいていてはならない。
 だが、同時に、アクターとしての彼は、そこに泉があって、それをみて、どのようにアクトするかを記憶していなければならない。
 「知っているが、知らないでいること」
 これができるのが良い役者の条件だと福田は言う。

 ならば、いっそ、すべての記憶を失って、潜在意識に次の行動を記憶させた人々の演じる劇こそが、究極のドラマではないのか?

 それが、ビッグオーという作品のテーマなのか。

 材料不足で何もわからないが、おそらくは、そこまで考えて作ってないのだろうな。

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デアデビル(その2)

 最近、スパイダーマンなどに代表される、コミックの映画化、いわゆる「マーベルもの」の一つ。
 主演は、日本をバカにするな、だらぁ、の「パール・ハーバー」あるいは、恩師であり義理のオヤジになる男(B.ウィリス)の自己犠牲の直後に、それすらも分かっていないバカ娘と、なに長々とディープキスやってやがんだコノヤロ、でおなじみの「アルマゲドン」で主役をハッたベン・アフレックだ。

 確か、彼は、生き馬の目を抜く聖林にいて、「このままでは一生日の目を見ることは無いぜブラザー」とワルダチのマット・デイモンとともに、「グッド・ウィル・ハンティング」の脚本を書いて同世代から頭ひとつ抜け出したのだったな。

 さて、デアデビル。
 原作はまるで知らないのだが、これも、バットマン、スパイダーマンに代表される、フリーク・ヒーローだ。

 この場合の「フリーク」は説明がいるかもしれない。
 昔は、ヒーローが『マスクド』であることに説明はいらなかった。
 派手なコスチュームも釈明しなくてすんだ。
 彼らはヒーローなのだ。ケープやマントはあって当たり前。
 これでよかった。
 だが、時代が下ると、彼らがいい大人なのに子供じみたコスチュームに身を包むいいわけを考えなければならなくなったのだ。
 ファンが大人になったから、というのが大きな理由だろう。
 いや、大人になった人々が、まだファンでいる、ファンであり続けたいと考えるから、その説明を、製作者側が考えねばならなくなったのだ。

 スポーンは火傷でただれ、腐りかけた顔を元妻、ワンダに隠すためにマスクを被る。
 マスクド・ライダーは、マスクの中に、能力を引き出すギミックが仕込まれているから被らねばならない。
 だが、すべてのヒーローをサイボーグにしたり、火傷させたりはできない。
 そこで、考えられたのが(というか、よく使われるのが)、ヒーロー達が、幼い頃に被ったトラウマによって正義の味方にならざるを得なくなり、自己の自我を他の動物やモノの転嫁させるために、コスチュームを着る、という解釈だ。
 バットマンはその最たるもので、敵すら普通の悪人ではない。
 一歩間違えれば、カウンセラーから医者へとバトンタッチされそうな、サイコ野郎どもばかりだ。

 画のほうは、まずまず良かった。
 芸術を気取る恋愛ものにありがちな、肌のきたない白人って撮り方はしていない。
 ヒロインは、カラードの、美しくないが好感は持てるタイプ。
 ちょっと今風の撮り方で、目が痛くなるが(って、映画の日だからって、はしごして、ジェネシスと二本立てにするからなんだが)アクション以外は観やすかった。

 アクションシーンは観づらい。
 マトリックス以降、役者にクンフーアクションをさせるのが流行なようだが、やはり役者は役者、ろくな立ち回りができないから、画面を暗くして、フラッシュライトの元、カメラを揺らしての撮影になる。

 盲目の主人公なんだから、真っ暗なシーンでごまかす事も可能だと思うが、さすがにそうはしていなかった。

 斬新だったのは、音で画像を「見る」ことが可能なデアデビルが、恋人を雨の中立たせて、水しぶきでその顔を「見る」シーンだ。

 殺し屋、ブルズ・アイのサイコばしった演技は、レオンのオールドマンに匹敵する。

 反対に、キングピンを演じていた、あのグリーンマイルの巨大な黒人、えーと名前忘れた。彼の演技はまるで駄目だった。
 ズータイがでかいだけで、アンドレ・ザ・ジャイアントの100分の一も体が動いていない。

 単純熱血話の好きな私としては、デアデビルのオヤジが、自分がカツ上げをしている姿を見た息子が、ショックで産廃廃液を目にうけて失明したことを知り、43歳でリングに返り咲こうとトレーニングを開始するところで胸が熱くなった。情けない。

 蛇足ながら、盲人眼鏡をかけたアフレックは、顎の四角いキアヌ・リーブスって感じです。

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スパイ・ゲーム

 タイトルはもう忘れてしまったが、昔観た戦争映画で、こんなのがあった。
 場所は連合軍の作戦本部。
 そのさらに地下深くの中央作戦室。
 得られた多くの情報が、陽のささぬその場所で吟味され、作戦へと練り上げられていく。
 そこへ重大な情報がもたらされる。
 敵の移動情報だ。
 だが、同時にそれは眉唾モノでもある。
 丁々発止のやりとりのあと、何日も徹夜の調査と検討が続けられ、ついに命令が発せられた。
 作戦は成功し、味方の被害は僅少で敵を壊滅させる。

 判断を巡って、特に対立しあっていた男女が地上に出ると太陽は真上にあった。
「なんだ。昼間だったのか」
「ランチでもどうだい」
 その言葉を漏れ聞いたガード兵が、二人の後ろ姿を見て相棒に吐き捨てるように言う。
「聞いたかよ。お偉いさんはたいしたもんだ。俺たちが命がけで戦ってるのに、今が昼かどうかも知らないんだとよ」

 スパイゲームはそんな映画だ。
 少なくとも、この映画の延長線上に位置する。
 友人からアウトラインは聞いていたが、実際に見ると、二時間を超える作品とは思えないほど締まった良い作品だった。

 切れる男、それ故に内外に敵が多いことが知れる、リタイヤ間際のCIAエージェントをR・レッドフォードが好演している。
 エスピオナージで優秀ということは非情ということだ。
 その非情さゆえに、レッドフォードは、教え子であるブラッドピットと数年前に袂を分かっている。
 だが、退官当日に、中国、蘇州でピットが捕まったことを彼は知る。
 任務外の行動でピットは捕まったのだ。
 CIAエージェント上、伝説の男、エースだったレッドフォードは局が彼を捨てることを確信する。
 会議に呼ばれ、ピットとの出会いから別れに至るまでの経緯を話す彼は、その合間に、ピットを助けるために行動を起こす。
 彼の敵は、外部にはいない。
 昨日、いやさっきまで同僚であり、上司だった男たちが敵なのだ。
 おまけに、彼らもレッドフォードと同様の洞察力と勘の良さをもっている。
 その目をかいくぐり、だまし、ラングレイのビルにいたまま、ピットを助けなければならない。
 タイムリミットは八時間足らず。
 秀抜な一幕劇を見るかのような、例えれば「12人の怒れる男」を彷彿される密度の濃いストーリーが銀幕上で(私はブラウン管で観たが)展開されるのを観るのは楽しい。

 唯一の欠点は、ブラッドピットが命がけで行動する動機がイマイチ明確でない点だ。
 もちろん、日本のいい加減なアニメと違い、説明はなされている。
 が、イマイチ感情移入できないのだ。

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攻殻機動隊

 テレビシリーズ「スタンドアロン・コンプレクス」や「2ndGIG」を観て感銘を受けて、海外で名高いこの作品を久しぶりに観なおしてみた。

 が、やっぱり肌に合わないというか、気に入らない。
 どこが気に入らないかというと、SFの設定がありきたりで、全体が嘘臭いという点だ。

 ハード・ボイルド(風)のストーリーも、ステレオタイプである、国家によるヒトの歯車化それによる悲哀というパターンに過ぎない。

 その点をもう少し掘り下げて書いてみると……
 まず、上でハード・ボイルド(風)と書いた。
 ハードボイルドそのものではなく、ハードボイルド風。

 一見した印象とは違って、このハナシはハード・ボイルドではない。
 カラダをキカイに変えられ、そのメンテナンスを国家に依存して生きねばならぬ、脳すらそのかなりの部分をキカイに置き換えられたサイボーグが、精神的に弱ったあげく、体すらもたぬ意識体(二十年ほど前のSFでは、同様のものは、エネルギー生命体として表現されていたはずだ)との融合へと逃避するハナシに過ぎない。
 どちらかと言えばサイコモノだな。

 余暇に、鉄(チタンかもしれんが、同じだ)の体で海へ潜り、「サイボーグがなぜ命の危険を冒してダイブする」とバドに問われ、「海中から水上へ浮かび出る時には、転生の希望を感じるからだ」なんていうのを聞くと、その病巣の深さに唖然としてしまう。

 銃撃戦のさなかにバドがつぶやくせりふも、なんだか嘘くさくてしらけてしまう。

 命の危険な状況で、軽口をたたくのは、プロではない。
 それは、コドモ向けのヒーローものアニメなどの、現実感無視のプロット作品でのみ通用するはなしだ。

 もちろん、半機械の体であるから滅多に死なないし、少々撃たれてもまた直せばよい、と考えているのかもしれないが、それなら、はっきりと示さないといけない。
 例えば、部下が腕を吹っ飛ばされるのを見て、
「オイオイ、もっと用心しろ!うちの課の予算はもうとっくにオーバーしてるんだ」
 くらい言わせないとね。

 あと、コムツカシイ言葉を覚えたての中学生がよくやるように、平易に語れることを持って回った言い回しでベラベラと垂れながすがごとくの押井節は健在だ。

 肉体を機械に変えられて生き続ける苦悩、なんてサイボーグ009や仮面ライダー、あるいは平井和正のサイボーグ・ブルースの主題で40年ほど前の流行だ。

 押井 守とその一派のさまざまな肉付けにもかかわらず、根本的に、主題が古いから興奮できないのだな。

 電子頭脳あるいは、ネットに「ダイブ」するのも、ギブソンの「ニューロマンサー」や、サイコダイバーシリーズ、あるいは寺沢武一の「ゴクウ」で珍しくもない。

 サイボーグ化した自分が生きているの死んでいるのか、なんて命題より、スタートレックの「転送」について、ドクター(ボーンズ)マッコイが、最初に転送された時、分解されたオリジナルが本当の自分で、その後惑星上で再構成された自分には魂がないのでは、と悩む方がずっとワクワクするし深淵だ。

 原作者の漫画家、士郎正宗はデビュー当時から知っているが、どうも彼は、SF好きのSFマインド知らずのように思える。

 むろん「論語読みの論語知らず」ならぬ「SF撮りのSF知らずな監督」が、とんでもない傑作を作りだしてしまうことはある。
 前にも書いたが、ブレードランナーに感動して、「俺もあんなのが撮りたい」と思いこんだリュック・ベッソンが、SFマインドレスな思考で撮りあげた、「フィフス・エレメント」はかなりの傑作だ。

 だが、それは希な例だ。
 知らない人間、理解していない者は書けない。

 その点、人間的には嫌いな部類に入るが、SFマインドという土性っ骨に関しては、かなりの信頼を置ける木城ゆきとの「銃夢」とは大違いだ。
 木城ゆきとは、本作は「カルマの克服」をテーマにしている、と後書きに書いているが、まあ内容から言っても、それは彼一流の諧謔にすぎず、彼が持てるSF知識を小気味よく披露する場として、銃夢なる作品を生み出したに違いない。

 あえてテーマといえば、脳が生身で体が機械の人間(主人公ガリィ)と、体が生身で脳がチップである天空人ザレム人のどちらがヒトたるべきか?というものかな。

 その中で、木城ゆきとは、そこにあるテクノロジはテクノロジとして、そのヒトあるいはモノによってなされる行為こそが、大切なのだと繰り返し物語を通して主張する。
 行為によって存在を示す登場人物たちは、甲殻〜のモトコのように悩みはしない。
 自らを自らのモチベーションで行動させず、国家、会社などに拘束された者に限ってよく悩む。
 転職できないサラリーマン、スピンアウトできない高校生たちには、内省的な悩みが多いものだ。

 レイバーで、かなりリアリティを追求していた押井組だが、「甲殻〜」では、随分ミスを犯している。
 二千年台の前半で、映画で語られるほどのヒトの機械化は成し遂げられない。
 いや、無論ストーリーであるのだから、どのような話にしようとも可能ではあるが、嘘くさくなるのは否めない。

 アクチュエーターやプロセッサの進化とメモリ・アクセス速度の増大、あるいは長年棚上げにされてきた「谷山・志村予想」が、英国の天才素学者ワイルズによって95年に証明されたように、あたらしい数学的なアプローチが人工知能の分野に行われ、飛躍的に演算速度が高まるなどして、ある程度のロボット化はなされるかもしれない。

 だが、今の技術進展速度から帰納的に推測し、さらに「天才」による劇的飛躍を考慮にいれても、アンドロイドを実現可能にするほどのセンサ技術の完成は今後50年では無理だ。

 まして、大脳生理学、免疫学とのからみもある脳の機械化などは不可能だと断言できる。

 ゲノムが展開されても、その内容は、ほとんど解明されていないし、DNA設計図から派生、分化する脳組織の機能解明も不可能だろう。

 科学技術の根底的な不連続進歩は、多くの企業や研究所が掲げている理想とは裏腹に、複数のグループのコ・オペレーションによってなされるのではなく、一人の天才のひらめきによって成就されるのであるから、100パーセントということは、ないだろうが、その可能性は限りなく無に近いものに違いない。
<無論、夢想家の思いつきに過ぎぬ程度の、ただひとすくいの発明発見を、実用的なレベルにまで引き上げるには組織力が不可欠だ。蛇足ながら……>
 
 それにしても、パペットマスターは、清掃局員をどのようにして洗脳したのだろう。
 彼は、その属する階級、経済状況から考えても脳を電脳化はしていないはずだ。
 ならば、如何にして暗示を与え、記憶をいじることができたのだ?
 それとも、セントチヒロなみに、今はやりの「語られなかった設定」の中で、彼ら一般人も記憶の増強、あるいは快楽のために、脳を直接刺激するマシンに依存して生活しており、その機械にクラッキングされ洗脳されたのだろうか?

 徳広正也の「狂四郎2030」のバーチャセックスマシーンのように、万人が利用する脳をいじることが可能な機械が普及した世界なのだろうか?
 そこらへんもいいかげんだなあ。
 気に入らない。
 説明不足は、製作者としては言い訳できない失態だ。
 分かっていて割愛するならいい、が、せめて、その痕跡を残すべきだ。
 たったひとことでも。
 スポンサーとのせめぎ合いで、ラッシュを観ながら適当にシーンをカットされたのでは、たまったものではない。

 そういえば、不治の性病が蔓延するあまり、肉体の直接接触による性交は廃れ、マシンによる快楽の交換がなされる、ってのは、最近では、確かスライ=スタローン主演のデモリション・マンで使われていた。

 ただ、個人的に、肥沃なデータに溢れているネット上で、何かのプログラムを核に、ある種の意識体が進化を続ける、というモチーフは魅力的だ。
 伝達速度の速いネット上では、進化も生物より速いような気もするし。

 我々より高次元な世界から我々を観察する者たちから観れば、我々の進化もあまりにめまぐるしくて、ついてこれないほどのものかも知れない。

 依って立つ土台が違えば、進化の形も速さも変わるだろう。

 ここまで書いて気づいた。
 押井一派に、SFを求めてもいけなかった。彼らは、単なるガンマニア、武器兵器オタク集団に過ぎなかったのだ。
 もちろん、加えて、組織における人間の摩擦軋轢描写に通じているということもあるが、根本的にSFファンではないのだ。

 だから、「レイバー」と「甲殻〜」のデキに差が生じたのだ。
 なるほど。

 だが、もう一つ疑問があるぞ。
 最後に首がちぎれとんだモトコのガリバー(あわわ、そいつは時計仕掛けだった)もとい、ゴースト(自我の意か?)をどうして、ただの戦闘員であるバドが、子供のマシン(ギタイというのだな)に移すことができたのだろう?
 ご都合主義に逃げてはいけない?


 ともかく観直してみて、『キャメロン絶賛』の理由は、ストーリーというよりも、その映像手法にあるのだと再確認できた。

 p.s.
 そうそう、キャメロンと言えば、彼は「銃夢」も好きみたいだ。
「ダークエンジェル」って、まんまガリィだもんな。
 特に、黒のスーツに身を包んで、塔の上から街を見下ろしながら立つ決めポーズなんて、こちらが恥ずかしくなるほど臆面なくパクっている。

p.p.s
 もちろん、木城ゆきと自身、絵のアングルなどを外国の漫画からパクっていたことは御存知の通りです。

P.P.P.S
 テレビシリーズについては別項にて。

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あれもこれもあり

実は、先日、ショックなことが連続してあった。
 それはある作品中で、「負うた子に教えられ」という慣用句を聞いたことに始まった。

 もちろん、良く使われる言葉であるから、その内容は知っていた。
 「船頭多くして……」と同様、上の句さえいえば、下の句は省略可能なほど、その認知度が高い、いわゆる紋切り型のいい回しだ。
 が、改めて「負うた子〜」の結句(というべきだろうな)を聞いたとき、実はその慣用句を正確に把握していなかったことに気づいたのだった。
 のみならず、その帰結文を知らなければ、きちんと使えるはずもないいい回しを、長らくしていたことを同時に知った。
 このように、皆が知っているという前提のもと、格言等の後半が省略されることはよくある。
 
 特に学生時代苦しめられた古典などはそうだ。
 当時は、なぜこのような、独りよがりな文章が、堂々とまかり通っていたのか不思議だった。
 だが、ある時期(確か浪人時代であったと思うが)、古典(古文)学習は、単語を覚えたり、つ、ぬ、たり、り等の、助動詞の活用形を覚えるのはさりながら、その神髄はその時代の社会背景(日本大陸を問わず)、権力の力関係すべてを丸呑みすることにある、と気づいた。
 その点が、単語を覚え語法を覚えるという点で、似ているように思えた英語学習とはかなり趣を異にすると知ってからは、ずいぶん勉強が楽になったことを覚えている。
 疑問を持ちながらの学習は、身が入らない。

 さて、「負うた子に教えられ」、続く言葉は「浅瀬を渡る」であった。

 このように、よく使ってはいるが、熟知していない言葉というのはよくある、というか、我々のほとんどはそのような半可通の知識で言葉を使っているのだろう。
 似たような例として、超弩級の弩(ド)がある。
 これは、大鑑巨砲時代の幕開けとして、英海軍が建造したドレッドノート号を、基準として(その大きさは当時の日本海軍技術力のほとんど上限の技術力であったが)、それに追いつき追い越せと技術を磨き、ド艦を上回る排水量、砲門を備えた戦艦を作り上げた時に冠せられた呼称である……が、いまや映画ですら「超ド級のスケール!」などと呼ばれるご時世だ。
 言葉の語源などどうでもいいのかもしれない。

 もちろん、文章で身を立てる人々は、こういう微細な問題にこそ神経をとがらさねばならないのだろう。
 細部にこそ神宿る、であるから。

 そのような古くからの言い回しはともかく、最近外国から入ってきた、あるいは、ネットワークやコンピュータ関係など、最近作り出されたばかりの言葉を、コンセンサス、おっとあぶない、周知のこととなっていない状態で多用するのは滑稽だ。

 まあ、明治以降、長らく、人気の出そうな外国の文献をいち早く見つけ、それを翻訳することでその道の大家と見なされることの多かったこの国では、未だに、外来語を滑稽なほど多用する愚物が多い。
 知り合いの大学教授にも、それだけでメシを食っていたのがいる。

 それ故、先日、国が音頭をとって行われた「外来語を日本語に置き換える」試みは強く評価したい。
 ピンぼけな言い回しもあるが、インフォームド・コンセントを納得診療と訳すなど、その努力は充分に伝わってくる。
 もっと先になれば、状況も変わるであろうが、今の段階では、言語の多様化は必要だとわたしは考える。
 現実的には、近い将来、英語という統一言語で世界は塗りつぶされるだろう。
 世界はせまくなり、人々はすべて言葉の通じるアミーゴとなる。

 だが、幼少時に覚える言語と、物心がついてから覚える言語では、その使われる脳の部位が異なっているというのは、大脳生理学では常識である。

 最初に覚える言語が、よりその人格の根底部分と結びついていると考えても間違ってはいないだろう。

 第一言語の文法や単語が異なれば、それがその国民の思想や思考形態に与える影響も無視できないのは想像に難くない。
 だからこそ、思想文化のバリエーションの温床としての言語の多様化は必要なのではないか。

 明治以前、山奥でひっそりと暮らす人々は、旅人を迎え入れると村娘を一晩添わせ、外部の血を採り入れるという風習を持つことが多かったという。
 心情的には納得いかない向きもあろうが、彼らは、純血が滅びの道を辿ることだと知っていたのだ。
 外部の血、遺伝子を定期的に採り入れずにいれば、滅亡しかないと。
 遺伝子レベルで考えても、バリエーションの多さは、種としてのタブネスさに通じる。
 世界を覆い尽くすネットワーク、その結果としての言語統一による画一化は、一時的に百花繚乱の文化熟成をもたらすかも知れないが、その先にあるのはパターン化され自己模倣去れ発酵し尽くした、薫り高い廃墟なのではないだろうか。

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むかしのをんな

江戸は、その最盛期、世界随一の300万都市であった。
 人口においても、当時、世界で隆盛を極めていた、ロンドン、パリ、プラハを上回る大都市ぶりだ。
 同時に、この世界規模の都市は、世界に類を見ないリサイクル・シティでもあった。
 町には、紙くず屋や古着屋、肥え汲み屋(注:製作者の意向を重視して当時の表現のまま記載しております)が町を徘徊し、使えるものは何度も再利用しつくしたあげく、ゴミというものをほとんど出さない町であったらしい。

 他のすべての所領と異なり、年貢を免除されているこの巨大都市では、多くの、二次、三次産業に就く輩を生み出したのみならず、浮世絵師や太鼓持ち、廻り髪結いなどのボヘミアン的な遊興の徒まで生み出している。

 無論、この時代は天国ではない。
 人々は、身分制度に拘束され、女性は家と戦国時代から続く力の支配、男の価値観によって家に縛られていた。
 夜ともなれば、365日、24時間戒厳令ともいうべき町々に設置された木戸が締められ、町々の往来もままならない(これで治安も維持されていたのだが)。
 にも関わらず、わたしがこの時代を好きなのは、この町には、それでも人の生と死が隣り合わせで存在していたからだ。
 時代が下るにつれて、武士が腰にさす、二本差はただの飾りと化したものの、それでも何かことが起これば、責任は、切腹をもってなされていたからだ。

 十両盗めば(実際には、その程度ではお目こぼしがあったらしいが)、首が飛ぶといわれ、刑場ではよく公開処刑(引き回しの上、獄門磔ってヤツですな)が行われる。

 人はモータルな(死すべき運命の)生き物である。生まれたからには必ず死ぬ。
 だが、現在の日本では、驚くほど完璧に死が隠蔽されている。

 死を見つめずして生を考えることは難しいのではないか?
 死を無視しようとすることこそが、野蛮なのではないだろうか?
 その点を軸に考えれば、当時より現在のほうがよほど「野蛮」である。

 同時代で考えて、野蛮という点で比較すれば、当時の大都会、パリやロンドンのほうがより野蛮だろう。
 彼らは、風呂を嫌い(湿気がないから気持悪くは無いようだが)、チーズや獣肉を食べることで発生する不快な体臭を隠すためにさらに不快な香水(匂いは引き算であるのに……)を体にまぶしつつ、文明化と称して地面を石畳で覆い、できあがった階級制度の中で、自分の優位性を自身で確認するために、子分たる飼い犬を引き連れて街を闊歩し、糞の処理など毛頭考えず、放置された糞を踏まないために踵の高いハイヒールと発明し、あまつさえ、階上で生み出した排泄物を安易に窓から投げ捨てる輩が跡を絶たないために、昼間でも傘をさして歩く風習を生み出したのだから。
 今でも、セーヌ川湖畔は犬の糞だらけだ。

本題
 さて、長々と書いたのは他ではない。
 最近、時代劇専門チャンネルの「江戸を斬る」を連日楽しみに見ているということを書きたかったのだ。
 じつはこの作品、放送当時は、まだ子供であったため、ただの金さんシリーズに過ぎない、と思って興味が持てなかった。
(だいたい、月曜八時のナショナル・シリーズってのはあまり好きでは無かったし……日曜九時の東芝日曜劇場も嫌いだったが)
 そもそも遠山金四郎ってのがいけない。
 遊び人の金さんが、知らぬ間に悪人の中に入り込んだりして、最後は悪人を一網打尽。止めは、お白州で「この桜吹雪が〜」って、顔みりゃわかるだろ、などという江戸のバカファンタジー(バカさ加減では、ミトコーモンと同じだな)に過ぎないと思っていたのだ。

 んがぁ〜。
「この江戸を斬る」は違うんですな。
 まずシーズンの初めは、水野忠邦の支配下、妖怪「鳥居耀蔵(とりいようぞう)」が跋扈する江戸の町で起こる事件を、旗本500石のイレズミ者遠山が、今は江戸の魚屋の女主となった乳母の娘、おゆきと共に悪者退治をするハナシとして展開。

 折々に、魚屋の娘のはずのおゆき(若すぎず老けすぎず、このころが、ベストの松坂慶子ではなかろうか?)が、女だてらに(注:製作者の意向を重視して、当時の表現のまま記載しております)剣術が得意で、いざとなれば紫の頭巾を被って顔を隠し紫頭巾として大活躍する。

 じつは、このおゆき、天下の水戸様の隠し子(だったはずだが)というのも、気持ちが良いお約束。

 その二人を助けるのが、もとネズミ小僧次郎吉。
 そういえば同じ時代の人物であった。

 つまり、いわゆる縦糸として、うまく当時の歴史的背景を使い、横糸に、江戸の事件を絡めての脚本なのです。
 金さんとはいうものの、あの馬鹿げた、唾棄すべき「顔見りゃわかるだろ〜」はない。

 第二シーズンの終わりで、鳥居の陰謀に落ちた金四郎が失脚させられ、おゆきもとらえられるが、結局は、鳥居も自分が水野忠邦を裏切ったように部下に裏切られ、急転直下事態は逆転する。
 悪事の証拠を握った水戸様(ヨボヨボになる前のモリシゲ)がウエサマ(えーと山口崇だったな)に進言し、鳥居はイナカに蟄居させられることになって、金四郎は町奉行に任じられる。

 この時点で、魚屋の全員にも、刺青の浪人者、金さんが、実は旗本で今度は町奉行になることを知らされるのだ。
 つまり、例の「遊び人金さん」の白々しい悪しき図式は、この作品ではあり得ない。

 第三部では、金四郎のライバルとして、火盗改の頭領、在りし日の成田三樹夫(まだ例の気持ち悪い公家顔になっていない、男らしい成田氏)がイイ味を出す上に、田舎から金四郎の祖母がやってきて(お共に、役者だった頃の?大山のぶよを引き連れている。これがまたイイ!)金四郎に嫁をとらすために画策する。

 本当の素性を知らない婆殿は、おゆきを、良い娘だと思いながらも結婚は許さない。
 このあたり、笑いと事件で緩急をつけた良い脚本です。

 番組の最後に、いつも二人で江戸の町を冷やかしてあるく姿もほほえましい。
 うーむ。この感じ、どこかで見たことがあるなぁ……。
 そうそう、平岩弓枝の「御宿かわせみ」に似た感じだ。
 好きあったふたりが、世のしがらみで一緒になれないというあの感じ。
 
 つまりこの作品は、捕り物帳ではなくて、金四郎とゆきの恋物語なのですな。

 と、よく見れば、原作、脚本とも女性だ(同じ人がされている)。
 うーむ、昨今の、原作のない時代劇(あってもミヤベミユキじゃあだめだが)が、カスばかりなのに比べて、やはりテレビ時代劇黄金期後半の作品。ちがいますなぁ。

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WATARIDORI

 米アカデミー賞ドキュメント部門をとった映画で、色々と話題作だったようですが、その割に単館上映なみの上映館数という冷遇ぶりで、地方では観ることができません。
 わざわざ梅田に出かけて(ロフトの地下です)観ました。しかも、朝一番と夜最終しか上映しないという不便さです。おまけに小さな映画館でシート数は50くらいしかありません。(もっとも、映画の日だったこともあって満席でしたが)
 予告や前評判である程度わかっていたつもりですが、慣れさせた渡り鳥のすぐそばを音のしない(小さい?)グライダーで飛びながら撮影したという映像は、かなり衝撃的でした。
 これほどまでに近くで飛行する鳥を捕らえた映像というのは他に類を見ないのではないでしょうか?
 こうして見ると、我々が普段、水上や陸上でみている彼らの姿は、本来のシルエットではないということがよくわかります。
 彼らの本来の姿は、もっと流線的で美しい形をしています。
 もうひとつ、意外だったのは、白鳥や鷲のような大型の鳥以外の雁などは、空中で必死に羽を動かし続けていることです。
 やはり、生き物が空中を飛行するということは、並大抵なことではない、と実感しました。
 そんな不自然に激しい運動をしながらも、彼らは、3000キロ〜5000キロも移動するのです。
 それを撮りきった映像は特筆に値すると思いました。
 と、ここまでは、褒め言葉ですが、実を言うと、映画自体のできはあまりよくありません。上映館大幅拡大無し、というのもむべなるかな、という感じです。
 映像は素晴らしいのですが、構成が悪いのです。ひとつの群れをずっと追いかけるのではなく、数多くの水鳥の飛行シーンを、漫然ととり続けいてる、という感じです。恥ずかしながら、最後の方で少し寝てしまいました。

 数多くの渡り鳥が紹介されますが、一番美しかった鳥は日本のタンチョウだと思いました(鳴き声は悪いですが)。

 余談ながら……ニューヨークのハドソン川を飛ぶ鳥の遠景には、在りし日のツインタワーがはっきりと映っていて、これのために、偏見の多いアカデミー賞で、外国映画である本作が入賞したのでは?と邪推してしまいました。

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デアデビル

 アクション物のほうが、映画館で観るのには良いと思ってみましたが、これは結構正解でした。
 XMENやスーパーマンやスパイダーマンと同じ、アメリカのコミックが原作らしいです(観たことがありませんが)。

 主演のベン・アフレックは、アルマゲドンやパールハーバーの主役ということで、あまり好感はもっていませんでしたが、これは、はまり役でした。

 主人公は、超人ではありません。
 すぐに怪我をする生身の人間です。
 子供の時に事故で盲目になってから、聴覚が以上に発達し、音によって世界を「見る」ことができる、盲人弁護士の話なのです。

 昼間は、採算度外視で貧乏人のために戦う弁護士、夜は、赤い皮のスーツに身をつつんで、昼間、法的に叩けなかった悪人を、こらしめに出かけるアウトロー・ヒーロー、それがデアデビルです。

 生身の人間であるだけに、彼の体は傷だらけです。明け方、ひとしごと終えて部屋に帰ると、全身に負った擦り傷と打ち身にうなり声をあげながらコスチュームを脱ぐのです。

 そう、彼もバットマン同様、フリークス・ヒーローの一人です。
 彼が、昼も夜も正義の番人として戦うのは、「正義を成したい」からではありません。
 「正義は、成されなければならない」が、自分以外に「正義を成す」者がいないから自分自身で戦っているのです。

 彼の行動は、少年時代に受けた心的外傷がもとになっています。

 彼の父は将来有望なボクサーでした。
 しかし、芽の出ぬまま酒におぼれ、当時はロッキー・バルボアのように場末の賭けリングにあがる毎日でした。
 少年の彼は、仲間に父親が街の顔役の用心棒だと囃されて、喧嘩をします。
 怪我をしてかえってきた彼を見て、理由を尋ねた父に、反対に彼は尋ねます。
「馬鹿なことを。用心棒をやっていたら、こんなに貧乏をしていないよ」
 彼は父の言葉を信じます。
 賭けボクサーであっても、正々堂々と戦う父を彼は尊敬していたからです。
 しかし、それから数日を経ずして、学校の帰り道、路地で父が顔役の代理として金を集金している姿を目撃してしまうのです。
 ショックで前も見ずに街を走るうち不幸な事故に遭遇し、有害廃液を目に浴びて彼は失明しました。
 病院で目を覚ました彼を、かつて経験したことのない感覚が襲います。
 音によってビジュアルを体感する「レーダーセンス」の開眼でした。
 事故と心的ショックが重なって、潜在的な能力が開花したのです。

 父は、息子の失明にショックを受けて、やくざ稼業から足を洗います。
 40を越した体にハード・トレーニングを課し、次々と敵を倒し始めるのです。
 父の復活を知って、少年もセンスを使ったトレーニングをはじめます。
 やがて、彼が健常者以上の身体能力を身に着けたころ、父親に最大の試合の機会がやってきます。
 必ず勝つと約束する父。
 ですが、街の顔役によって八百長を約束されてしまいます。賭けボクシングには莫大な資金が動くからです。
 リングの上で、滅多打ちにされる彼の目の端に、息子の顔が映ります。
 彼は目を閉じ、ゆっくりと開けると、猛烈なラッシュに出ます。
 強烈なワンツーが決まって、相手が倒れると、彼は息子に向かって誇らしげに拳を突き上げるのでした。

 その結果はもういうまでもないと思いますが、会場から出た彼は、銃で撃たれ、死んでしまいます。
 ゆっくりと体温を失っていく父の体を支えて、少年は、父の復讐と、このままでは決して成されぬ正義の鉄槌の代行者として生きることを決めたのです。


 映画としては、「音によって見る」という映像表現が、うまく表現できていした。
 たとえば、戦いの最中に、敵が音を立てずにじっと静止すると、手にした盲人用の杖で柱を叩いて音を発声させ、その反射で敵の位置を見つけたり、知り合った女性の顔を見るのに、雨の中、顔を上にむけさせて、水の反射でその美しさを知ったり、などなど。

 耳が敏感過ぎるので、夜寝る時は、完全密閉のカプセルの中でしか眠れないというのも、斬新な発想だと思います。

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ギャング・オブ・ニューヨーク

「ギャング・オブ・ニューヨーク」
 これは、ただただ長い映画でした。
 例によって、デカプリオのチンピラ顔だけが目だって、演技に覇気が感じられず、ヒロインのキャメロン・ディアスもただの蓮っ葉な娼婦という感じで魅力薄です。
 反対に、よくいわれていたように、敵役ブッチの存在感が強すぎました。
 ただ、映画のはじめにある、肉弾戦の迫力などはさすが、タクシードライバーのスコセッシという感じです。

 ニューヨークは舞台ではない、主役なのだ、といわれるスコセッシですから、人よりも当時のニューヨークという街そのものを描きたかったのでしょう。

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ロック・ユー




 クイーンの同名の曲に乗せて決闘シーンが行われるため、邦題はこうなったが、原題は、「騎士の物語」。
 比較的長い映画だが、するすると最後までみせる監督の手腕はさすが。
 平民の男が身分をいつわって、武道大会に出て、夢をつかむというサクセス譚。
 最後までストーリーが破綻していないのがいい。
 しかし、ちょっと主人公が強すぎるのではないかな?
 最初にちょっと練習しただけで、ずっと練習していた貴族より強いとは……。
 ちょっとそのあたりに、なんらかの説明をしておいたほうがよかったかも。
 あるいはブルー・ブラッド(高貴な血筋)より、平民の血のほうが、ワイルドで勝つのは当然とおもったのかもしれないけど。

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ファイナル・ファンタジー



「ファイナル・ファンタジー」

 まず、最初に一言。
 いいですねぇ、FF。

 この映画には、サイファイでもっとも大切な、センスオブワンダが多数ちりばめられている。

 観始めて、最初に嬉しくなるのは、空挺隊の使うゼリーガン(っていいましたか?英語で聞くだけなのでよくわからない)だ。

 空中から地面に向けて発射し、地表でゼリー化したところへ、パラシュートなしに装甲兵士(ディープ・アイでしたね)が突っ込み、くるりと前転して体の向きを変えたところで、気化、蒸発する。

 パラシュートみたいに、「さあ俺を撃ってくれ」っていうような、ふらふらした降下じゃないのがいい。

 あれは小汚いジェット噴射でノロノロと「打ち上げ」られる現実バンザイのロケット同様、サイファイでは唾棄すべきものの一つでしょう。

 野田昌宏氏が言うように、「着地はドカン、離陸はふわり」これがSiFiだと思います。

 これに匹敵するのは、なんかのマンガで読んだ、飛行機から放り出された男が、巨大なガンを降下途中に何度か地表に向けてぶっ放して減速し、林に落ちて助かるというものぐらいです。

 後に、このゼリーを使う作戦の伏線として最初に紹介しているのもさすが本場の脚本家という気がします。

 ただ、惜しむらくは、ナウシカを意識しすぎている(ガイジンの脚本ではあるが、コンセプトは日米混合だろうから)ことでしょうか?

 地表に蔓延する異生命体、ガイア理論を信奉し、すべての生き物と共存を計る主人公、地表ごとエイリアンをぶっ飛ばそうとする将軍。

 そして、侵略生命体と奇妙な共生関係にある主人公。

 筒井康隆の作り出した美しい産婦人科医は、強姦された恨みから、各種性病を制御しながら病原菌を体に飼って男を脅かしていたが、FFの主人公も、体に異生命体を飼っていて、そのためか何度も奇妙な夢をみる。
 そしてそれが行動のモチベーションになっている。

 お約束といえばお約束だろうけど……。

 しかし、この敵がいい。

 大きいのやら小さいのやら、実体があるのやらないのやら。

 種類もいくつあるのかわからないぐらいで、チュートハンパなちゃんらんぽらんですが、巨大なキャラクタが特にいい。

 ミジンコが巨大化したような感じで(幽体だからあたりまえなのだろうが)、体内が透けて輝いてみえて、なにより巨きいのがふるっている。

 怖いくらい大きい。GRも真っ青。

 今も、横のディスプレイに写っているが、いやあ美しいです。
 ナウシカのオームとは違う(あれもそれなりにデカイが)。
 ミジンコが体内から発光している感じ。そして発光して多数ゆらめく触手がいい。

 昔、夢で見たような既視感を感じる。

 こんな敵になら殺されてやってもいいかな、という気になってしまうほどだ。

 というか、同じ殺されるなら、変質者のナイフより巨大な怪物に殺されたいものだ。

 中には、ナウシカにでてくる空飛ぶトンボみたいなパクリもでてくるが、それはハリウッドのパクリ体質の発露ということで、斟酌してやらねばならないでしょう。

 その触手に触れられただけで、ブルーに光る魂を持って行かれて死んでしまうというのも、ちょっとオカルトっぽくて、戦うのに絶望的でまたよろしい。

 それに、目線が自然なのもいい。

 同様にCGのモンスターと戦う、スターシップ・トゥルーパーズでは、役者が存在しないものが見えている演技をしているから、少し不自然さがあった。

 しかし、今回は、合成はあるだろうが全部同じ世界にいるから自然さがある。

              

 さて、自然といえば、問題のCGですが……。

 作り物くさくないぜ、と主張するあまり、ヒロインにはおそらく不要な「シミそばかす」をくっきりと描きすぎるのはご愛敬だ。

 普通は、化粧して隠すはずだから。

 そんなことするから、かえって嘘くさくなってしまった。
 「史上初」だから肩に力が入りすぎたのだろうか。

 また、世界、いや日米のパンピーを対象に作られた作品ゆえか、日本製のヲタク毒から解放され、ために、ヒロインが例のあの「巨ちち」の魔毒からまぬがれ、実際の米人女性によくある、しっかりした肩幅からつづく小粒な胸回りをしているのは、個人的に好感が持てた。

 手足が長すぎるのは仕方ないのだろうな。

 また、ツクリモノであるがゆえに、ピントのシャープネスはさすがで、FFを見終わったあとで、「バックドラフト」を観たら、画像のエッジが甘くて観られたものではなかった。

 しかし、キャラクタの造詣が、思いっきり実在の人物に似せてあるのは、すごいことこかもしれないが、失笑モノでもある。

 主人公は(アキという名前からすると日系か)誰をモデルにしたかは知らない(個人的には、フロムダスクの1に出てくるあの娘、いわゆるよくあるヤンキー顔の四角い顎を三角にした感じだと思う+サンドラ・ブロックあたりか……あまり好きではないが)。
 あるいは、どこぞのモデルとかのサンプルがあるのかもしれない。

 ヒーロー役は明らかにベン・アフレック(あのアルマゲドンのクソ女の相手ね、いや、今ならあのクソ「パールハーバー」か)だし、敵役は、デンゲキ(沈黙シリーズのほうが通りがいい?)の十条セガール+若い頃のアラン・ドロンかあるいはジャック・ニコルソン。

 マシュー・ブローデリック似(ケロッグ博士、ガジラ、ガジェット警部)のバイプレーヤーも、ぬめついた動きで、お約束のとぼけた味を出してる。

 そして、出たぁ、アクションに必ず登場の、実直な黒人大男、役者でいうと、エイリアン1の(あるいはテレビホミサイドの警部、ミッドナイトランのFBI捜査官)のヤフェット・コットーあたりの役どころだ。

 ストーリーとしては、最近よくある、何かを知っていて(あるいは知っていると思って)、がんばりすぎる主人公が、まわりにいるすべての人を犠牲にして、なにやら崇高な目的のために盲目に突き進み、気がつけば、だーれもいない、って感じだが……。

 これもハリウッドでは好まれないだろうな。
 だから流行しなかった?

 だが、荒れ果てた廃墟のオールドニューヨークに対して、マンハッタン島の先っちょを輝く三角形のドームですっぽり覆ったドーム・シティの画はいい(これもエピソード1のジャージャーの都市のパクリだが)

 小物もいい。

 たとえば、ホログラムで浮かび上がるリストコントローラー。
 力場を使った、スタートレック・ボイジャータイプのホログラムらしくて、ちゃんとボタンなどを指で押すことができる。

 同様に、手首にはめたリストバンドに触れると、ふわ、という感じて二の腕に浮かび上がり、操作ができる。

 実写だとこうはいきません。ドでかい弁当箱みたいなコントローラーを腕にくくりつけて、ぴっぴっぴと不器用な手つきで嘘臭い操作を役者がしなければならない。

 そうそう、書き忘れたが、ディープ・アイズの装甲も良かった。
 人狼や赤い眼鏡の(ケルベロスはしらないが)チープな装甲もいいものだが、この最先端っぽい装甲はやっぱり本道であると思う。

 ヒロインのコスチュームデザインも秀逸。
 どことなくウルトラ警備隊の流れを汲んでいて美しい。

 敵役はじーくジオン風か。

 個人的に、色っぽいシーンが皆無なのもいい。

 結論:ストーリーはイマイチだが、細かいコンセプトは良い映画。だから音を消して、画だけ観るのが正解。

 このDVDは、部屋の隅で、景色の一部としてかけっぱなしにしておきたいタイプの作品です。

 しかし、ゲームのファンの人は、やっぱりこれをみたら怒るんだろうな。

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ローレライ(ちょい観)





東宝「ローレライ」を観る機会を得た。

 じっくり観たのではなく、斜め観だった上、原作も読んでいないので、はっきりしたことは書けないが、とりあえずのツカミとしての感想を書いておこう。

 まず、この作品は、「戦記」ではなく、「SF」作品だということをメーカクにしておきたい。

 ローレライとは、ドイツ謹製の、超能力者のビジョンを、三次元レーダー上に投影表示する装置なのだ。

 あたかもマイノリティー・レポートのプレコグのように、透視能力を持つ超能力者を多数のパイプでマシンにつなぎ、パーツの一部として使用する非人間的装置。

「ソナーが耳ならローレライは目だ」

 水中のみならず、海上にすら神の視界を持つ潜水艦は無敵だ。

 よって、元独戦艦U7、日本名:伊号507は、米海軍からウイッチ(魔女)と恐れられるようになる。
 

 ローレライ。

 それは、鉄人28号のように、時代水準超越型科学装置ともいうべき、「んなもん、この時代にあるかよ」装置なのだ。

 しかも、伊号507は、魚雷発射管以外に、蓋付砲3門をそなえ、浮上後ただちに砲撃を行うことができる。

 相変わらず顔はデカいが、艦長役の役所コージが、サブマリン707風のエエ雰囲気で艦長を演じている。

 ちょっとCGっぽいところはあるにせよ、海洋堂のフィギュアの精巧さと相まって、戦闘シーンはなかなかのものだ。

 観ていて、身体各部のテンションが上がってくる。

 しかも、海の魔女ローレライ最後の軍事行動が、8月6日のヒロシマに続く第三の核がトーキョーに投下されることを阻止する、というものだから、さらにテンションは上がろうというものだ。。

 このあたりも、小沢さとる氏の作品を彷彿させるところがあって良い。

 しかし、今度映画化される「イージス」はじめ、福井晴敏の作品は読んだことは無いのだが、new戦国自衛隊でも分かるように、結構SF好きな男だったのだな。
 噂では、単に自衛隊ヲタクな元ガードマンだと聞いていたのだが。

 ともかく、詳細は別項で書くとして、

 「ローレライ」2005年8月19日のDVD発売を待って、観てもいいべし(意味不明)。



 私のおすすめ:
『TSUTAYA DISCAS』/ネットでいつでもDVDレンタル!

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2005年7月25日 (月)

宇宙戦争(スピルバーグ版)




「宇宙戦争」
 この映画のウリは、スピルバーグが初めて撮った「非友好的宇宙人」とのことだが、実際はどうだろう。
 噂では、はじめの一時間は楽しめるが、あとは……とのことだったが。


 実際に観てみると、いや、本当にその通りでした。
 シリツボミもいいところ。
 
 だが、噂どおりに、最初の一時間は結構見所がある。
 特に、映像としてのオドロキは、かなりなものだ。
 宇宙人の攻撃兵器(トライポッドというそうな)の発する光線が人間に触れると、「ブレイド」の吸血鬼もかくや、というほどの爆発を次々に起こして蒸散していくシーンは必見だ。
 画として見れば、ヒトが弾け散ったあとに、ひらひらと服だけ舞っているのもなかなか風情がある。
 灰色がかった画面色も、前編を通じて漂う悲壮感、暗さと相まって映画の雰囲気を盛り上げている、かも(単に夜間シーンが見にくいだけ?)。
 さすがに現在の合成の限界なのか、走って逃げるクルーズに建造物の爆発シーンが重なるところでは、ちょっと違和感を感じてしまうが、それ以外は、ビルの街にすっくと立つトライポッドが、風景にうまくとけ込んで現実味があって良い感じだった。

 あえて原作通りに、背の高い三本足の兵器、トライポッドを導入したことは賛否を呼ぶかもしれない。

 いわゆる、その昔、火星人がそうであろうと考えられていた姿、細長い触手に支えられたタコ形異星人をマンマデザインに生かしたスタイルは、レトロのそしりを避けられないだろう。

 特に、真ん中に鎮座するサーチライトは、レトロ、というより安っぽくちゃちっぽくて、ツッコむのが好きな人にはツッコまれてしまうだろうが、個人的にはこのスタイルは好きです。

 どういう経緯で、長い間、都市の地下に(しかも道路の二十メートルほど下!)あれほどのブツが埋まっていたのかは疑問だが、まあ、昔から埋めてあったのなら、ちょっとデザインもレトロで、材質もメタルっぽかった方が自然かもしれない。
 ワイルド・ワイルド・ウェストの鉄蜘蛛みたいな感じもあるし。

 あえて流行のバイオ系のデザイン、いわゆる、ぬちゃぐちょたらーりエイリアン風のじめったものにしなかったのも良かったのでは?。
 ギーガー以来、なんでもナノテク利用の生物兵器にしてしまう傾向のあるハリウッドで、あえて原作に忠実なメカメカデザインにしたのは、スピルバーグのセンスか?
 まあ、後に出てくる宇宙人の姿は、ID4のパクリそのものだったけど。

 この映画の評に、一民間人のトム・クルーズが、ただ逃げ回るだけで、全体の戦闘の様子が見えず、戦争の規模が大きい割にショボイ感じがしてしまう、というのがあるが、あえてスピルバーグはそれを狙ったのではないかと思える。

 わけがわからないまま、世界の転機、驚天動地の大異変に巻き込まれた「ただの男」の奮戦記。

 これを大統領の視点、あるいは国に要請を受ける科学者の視点で見てしまうと、戦闘の経緯は分かりやすいだろうが、いかにもスレテオタイプの映画になってしまっただろう。

 ただ、頭のカタイ日本人としては、先妻が連れてくるデキの悪い兄妹に振り回されるクルーズを、どうにも等身大の人間として見ることが苦痛だった。
 ことあるごとに病的な叫びを上げる娘役のダコタ・ファニングは不快なだけだし。

 それでも、前半はなんとか映画についていくことができた。

 だが、後半、特にバカ息子が自分勝手にクルーズから離れていった後、父娘二人が救急車の運転手(救命士か?)をやっていたという男(ティム・ロビンス)の招きで、農家の納屋らしきところに避難したあたりから、様子がおかしくなる。

 だいたい、ティム・ロビンスって、なんのために出てくるの?
 本筋には何にも関係ないし、邪魔なだけ。
 本人もエージェントも、シナリオを読まずに受けたんじゃないの、という感がする。
 ティムの退場も唐突だし。

 映画のオチは、まさかとは思っていたけど原作通り。

 それはないでしょう。

 宇宙人はビョウゲンキンで死んだ?談志が死んだじゃあるまいし。
 その菌って、真菌(ミズムシ菌)じゃないだろうね。

 せめて、「ヒトの血を栄養にしている彼らは、今、人類に蔓延しつつある新しい病気に気づかず、接種したために絶滅した!!」ぐらいにして、「げに恐ろしきは新種のレトロウイルスやなあ」という話にするかと思っていたのだが……。

 もちろん、その種の病気の患者の気持ちを考えれば、そういった展開は無理なのかもしれないが、それでも、他に持って行きようがあったのではないだろうか。

 エンドクレジット近くで、勝手にどこかに行ってしまったバカ息子が、ちゃっかり母親のスカートの中に逃げ込んでいたのも納得がいかない。

 なんかキミョーな映画だったなあ、というのが結論だ。

 ターミナルも後半おかしかったし、スピルバーグも、いよいよ終わったかな。

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2005年7月17日 (日)

マスター・アンド・コマンダー


 ひと言で言うと、これは、格調高い「海の男の映画」だ。

 日本の劇場版予告では、「艦長以外大人全員死亡で、少年水平だけが闘う」という大嘘が吹かれていたそうだが、実際は、そんな安易なチアアップボーイズモノとは一線を画した男臭い海の戦闘の話だ。
(それが原因か、日本語サイトは早々に姿を消しているらしい。まさか、関西が世界に誇るありがとう浜村淳氏のように、映画の内容を何も知らずに、チラシ一枚で話を作り出したわけでもあるまいに)

 
 真実は、アメリカで建造されたフランス海軍新型戦艦相手に、旧タイプの帆船で、敢然と闘いを挑む英国海軍ジャック・オーブリー艦長と、その親友にして船医マチュリンの友情をメインに描いた海洋冒険モノだ。

 雰囲気的には、スタートレックの時代物と考えれば良いかと……うそです。

 閑話休題御、映画が始まると、まず、その砲撃戦の激しさに息をのむ。
 その激しさは、例えれば……「プライベート・ライアン」のオープニングのようなものか。

 サラウンドで聞けば、臨場感があって、さらに良い。

 実は、何でもないようで、これは特筆に値するのではないだろうか?

 何せ、内燃機関を搭載した大艦巨砲時代は、まだずっと未来の1800年代初頭のこと。

 帆船でおこなう海戦は、ゆっくりと近づいた戦艦同士が、すれ違いざま船腹に並んだ大砲を打ち合って、あ、当たった穴開いた(炸裂弾は、未だ未熟で、船に穴が開くだけのことが多かった)という状況で、今まで撮られた映画も、そういう考えで作られていた。

 だから、帆船同士の闘いは、いかに風を読み、船を操って、敵船の背後につくかが勝敗をきめる、言ってみれば、ストラテジックではあるものの、スローテンポで退屈なものになりがちだった。

 だが「マスター〜」は違う。その戦闘シーンは、激しい、美しい、かっこええ。

 奇襲を受けて甚大な被害を受けたオーブリー艦長は、それ以後、寄港もせずに海洋上で修理を行い、巨大な敵を追い始める。このあたり、「宇宙戦艦ヤマト」に似ていて嬉しくなる。

 傷癒えて、敵船を追いかけるうち、ガラパゴス諸島にたどり着く。

 軍医であるものの、博物学者でもあるマチュリンは、なんとか噂の島に上陸して、女王陛下への献上品として、奇獣を捕獲、採取したいと願うが、任務優先を貫くジャックは、それを許さない。

 戦闘の合間に、豪華な船長室で、しばしば、ジャックとマチュリンがチェロとヴァイオリンの競演を行う。
 その音色は深く美しく、激しい戦闘の合間ということもあって静かに心にしみてくる。

 物語後半、マチュリンが誤って仲間に脇腹を銃で撃たれる。
 だが、外科手術ができるほど優秀な医者は彼しかいない。
 親友の生死に際して、ジャックはある決断をしたのだった。

 その後、いまだかつて海戦で負けを知らない男、「ラッキー・ジャック」とあだ名されるジャック・オーブリーは、絶対的戦力差のある新型軍艦相手に、奇策を弄した闘いを挑んでいく。

 女性がまったくと言って良いほど出ていないために、ストーリーの骨子は、必然的に男同士の友情、信頼がメインとなっている。だから観ていてすこぶる気持ちが良い。

 クルーから絶大な信頼を得ているひとりの男、万能と思われているが、実はただの人間に過ぎないジャック・オーブリーが、その重圧をはねのけ、自身の虚栄心すら乗り越えて指揮をとりつづける姿に、感動を覚えずにはおられない。


 いやしくも部下というもの(子供を含めて)を持つ男なら、観るべし!

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2005年7月16日 (土)

ガドガード




 ガドの形状は一辺二インチほどの立方体である。
 ガドは宇宙より飛来する。
 ガドは人の思考によって発動し、実体を持つ。
 その際、引き金となる思考から多大な影響を受け、性質、形状が決定される。

 だが、ガドは、人の矛盾するふたつの想いを理解しない。
 善、悪、弱、強、人間はひと言で簡単に説明できるほど単純ではない。
 一見、気が弱い好人物の男が、夜の街で少女を買う。
 人を殺すことなど何とも思わないギャングが、孤児院に寄付をする。
 それゆえ、時としてガドは、性質の全くことなる鉄鋼人を二体生み出すことがある。

 少年期から青年期に移行する、ほんの一瞬の時期にガドは現れた。
 少年や少女が、自分の進む道に不安を覚え、頼るものを欲した時にガドに出会うと、ガドは巨大なロボット、鉄鋼人になる。
 彼らの「ガード」が欲しいという願いに、ガドという未知の物質が応えるのだ。

 では、強い保護者、ガーディアンを欲さずに、自身が強くなりたいと願ったら?
 ガドは念者の体に融合し、亜鉄鋼という化け物に変えてしまう。

 主人公、真田ハジキは、夢を見ない少年である。
 父を宇宙旅行への挑戦という無謀な冒険の結果の 事故で亡くし、一日中働く母の背を見ながら育った彼の願いは、以前、家族で住んだ家を買い戻すことである。
 夢を捨て、母と妹のために働く少年の心は冷めている。
 日々、運送会社のアルバイトに勤しみ、お気に入りのスタジアム・ジャンパーに包まれた背を丸めてスクーターを押す彼の後ろ姿は、甘い夢を拒絶する険しさにあふれている。

 父の死と、その結果による貧困という重い現実が、彼から少年らしい夢を奪い去ったのだ。

 その時、彼はガドガードを手に入れた。
 身長十メートルの自分のためだけに動く鋼鉄の巨人。
 彼は、その鉄鋼人に、宇宙を目指した父が乗り込み、そのまま爆死したロケットの名、「ライトニング」と命名する。

 だが、実を言うと、同時期、彼は、もうひとつ大切なものを手に入れていた。
 それは家族以外の愛する対象だった。

 篠塚アラシ。
 彼女は格闘家である父から、男の子であれかし、と付けられた名を嫌って家を出、ハジキの住むナイトタウンに移ってきた。
 経済的にも精神的にも独り立ちできない自分を恥じた彼女は、現実に働き、精神的にも自立しているかのように見えるハジキと出会い、彼を尊敬し、気にかけるようになる。

 しばらくして、ハジキを目標とする彼女は、看板会社で働き始めた。
 偶然、鉄鋼人も手に入れる。
 彼女がハジキに寄せる好意は、確かに恋なのだが、この段階で、彼女はそれに気づいていない。

 ハジキは、当然のように彼女を拒絶する。
 自分に好意を寄せる女性を、単に性の対象として見るには彼は潔癖すぎ、そういった気持ちを受け止めるほど精神に余裕がないからだ。

 だが、物語後半、ある事件から家族と街を捨てたハジキを、彼女が追いかけはじめた頃から二人の気持ちは寄り添い始める。

 病むにやまれぬ事情から国境破りをした二人だったが、雨に濡れたアラシが発熱してしまい、その後一週間、少年はユニット辺境の果樹園で働きながら少女を看病したのだ。
 この時、ハジキが彼女に感じていたのは、愛する妹と同様、保護者としての愛情であったろう。
 だが、少女は、はっきりと少年に対する愛情を自覚する。

 少年が、少女への好意を自覚したのは、父の噂を追って滞在した港町で知り合ったガラス職人の少女が、目の前で光となって消えてしまった時だった。
 少女は三ヶ月前に交通事故で死んでいた。
 彼女が、死ぬ直前に残した想いにガドが反応し、亜鉄鋼として蘇っていたのだ。
 消え去る瞬間、少女は、大切なものは離してはいけない、とハジキに語りかける。

 丘の上から街を見下ろし、少女について話をするうち、少年は、ふと言葉を失う。
 少女のまっすぐな視線に息をのんだのだ。

 やがて、いつもポケットに両手を入れたまま話をしていた彼は、ポケットから手を出し、まっすぐに少女を見て、一緒に来て欲しい、とはっきり口にする。

 少年は、自分を守ってくれる巨人、ガドガードと、守るべき少女のふたつを同時に手に入れたのだ。



 ガドを手にいれたもう一人の少年、カタナ。
 初登場した時、彼はすでに暗黒街で、違法鉄重機(レイバーみたいなものか)を使ういっぱしのワルであった。
 その後、彼はハジキと出会い、彼のライトニングと戦って敗北する。
 俺もあのようなロボットが欲しい、そう願う彼の前にガドが現れ、発現したロボットに零と名付ける。
 その後、何度もハジキとカタナは、戦うことになる。
 零を使って暗黒街を牛耳ろうとするカタナ。
 他のことには無感動なハジキだが、カタナだけは気にかかり、関わろうとする。
 二人の少年は、互いを無視しようとしながら、お互いが気になって仕方がないのだ。
 それは二人が魂の深い部分で酷似しているからなのだが。

 零が現れた頃と時期を同じくして、「サユリ」という幼い少女がカタナの前に現れる。
 「力」以外の、世の中のものすべてを拒絶し憎むカタナだが、この少女だけは、なぜか自然に受け入れてしまうのだ。

 ハジキとカタナ、この二人の少年を両輪としてガドガードというストーリィは進んでいく。

 と、まあ、「ガドガード」とはこういった内容なのだが、とにかく最初は、よくある「若者たちの青春群像」的な作りが気に入らなかった。

 苦情を言い、権利は主張するが義務は無視する、という若者らしさも鼻についた。

 だが、謎の物質ガドに惹かれ、毎週番組を観続けたのだ。


 ほとんどのガドは、亜鉄鋼という中途半端な有機体と金属の化け物を生み出す。
 先に述べたように、ガドという物質は、人の意識がキーとなって発動し、得体の知れないエネルギーで動く、謎の物体なのだ。

 その間に、それぞれの登場人物たち(主に男女)が、お似合いのカップル同士となるというのは、お約束だ。

 やがて、ハジキは、ガドが死者の残留思念でも発動することを知る(先に述べたガラスの少女事件)。

 そして、ついに、主人公、真田ハジキの父ユウジロウが登場して、物語はエンディングに向けて収束し始める。

 ユウジロウは、ハジキが幼い時に、宇宙に向けて飛び立った飛行機の事故で死んだはずだった。
 だが、ユニット(ガド世界における街の単位)の外れの潰れかけたロケット基地で、地面を掘り続けるミイラ男は、確かにユウジロウだ。

 彼を見つけ、父ではないかという疑いを抱きながら真実を知ることを恐れるハジキは、事実を確かめないまま二人でロケット倉庫の地下を掘り始める。

 この時のハジキの表情は、タウンで運び屋のアルバイトをしていた頃のハジキとはまるで違う。

 そして、ある事故でユウジロウは怪我を負い、彼が鉄鋼人であることが路程する。

 その後、紆余曲折があり、カタナがサユリを取り戻すために電磁カタパルトに姿を見せる。

 と、その時、ユウジロウと一体化したライトニングが語り始める(通常、ガドガードは話さない、目で何かを語りかけるだけだ)。

「ガドは人の夢や願いで発現する。だが人の願いは一つではない。そういった矛盾をガドは理解しない」

 つまり、ハジキがガドに触れた瞬間、彼の願いは守護者、友人としてのライトニングと父という二つの存在を生み出していたのだ。

 サユリもまた、カタナがガドに触れた時に、彼の鉄鋼人であるゼロと共に生まれた鉄鋼人だった。

 サユリは地上に残り、かわりにハジキがライトニング=ユウジロウと共に宇宙に向かう。

 燃料は片道だけ、帰ることなど考えない片道切符だ。
 少女アラシに向かって、ハジキが言う。
「必ず帰ってくるからタウンで待っていてくれ」と。

 老朽化したカタパルトが崩れようとした時、ハジキの宇宙行きに反対していた少女が自身の鉄鋼人疾風を犠牲にして支える。

 そして、ハジキは無事宇宙へと旅だった。

 崩れ落ちたカタパルトからアラシを救ったのは、ゼロだった。

 彼は、手元に残されたサユリの手を引くと、壊れかけたゼロを残し林の中に姿を消す。

 長い間、自分の存在する場所を作ろうとしていた若者は、ついに確かな自分の居場所を見つけたのだ。
 それは物理的なスペースではなく、精神的な空間だったのだ。

 飛び立つロケットを、涙にかすむ目で見送ったアラシは、街に帰ることを決意する。
 今度はハヤテで飛ぶのではなく、自分の足で歩いて帰るのだ、と。

 そして、少年は地上に帰ってくる。

 ガドの最後の力を借りて。

 再び、少年の街での生活が始まる。

 だが、もう彼はもとの彼ではない。

 しばらくして、ハジキは、ひとりでカタナを探す旅に出る。

 ガドガードは、いづなつなよしのマンガチックな絵や、鉄鋼人がゲーム・キャラクタ的であることから幼稚な作品だと錯覚しがちだが、実のところ、見かけ倒しのSF作品より遙かに濃度の濃い作品だ。


追記:
 個人的に、最終回のラストで流れるジャズセッションは、かつてアニメの中で行われた演奏の中では白眉ではないかと思っている。

 曲にのって、カタナのために焚火で料理をするサユリが、不意に光の粒になって消えていく課程が描かれる。
 仕事を終え、焚き火の場所に帰ってきたカタナは、ひと目でそれを知り、呆然とし、やがてどっかと腰を下ろして、サユリの最後の料理をむさぼり喰う。

 このあたりの描写がまたいい。

 「ガドガード」

 機会があったら、絵柄を嫌わずに観てください。 お勧めします。 

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バットマン ビギンズ




 観終わって最初の感想は……よくわからん。

 バットマンについては、今まで多くの映画も撮られ、アニメになり、あまつさえ未来版バットマン「バットマン ビヨンド」すら作られている中で、いまさらバットマンの誕生秘話を作る意味があるのだろうか、という疑問もある。

 ドラマっていうのは、初回と最終回はだいたい話がビビッドに動くから面白いものだけど。

 だったらもう少し面白く作らないとねえ。

 妙に精神世界を意識したつくりなのも気にかかる。
 なぜ、ブルース・ウェインがチベット(なのか?)に出かけて修行するのか?
 現地の警察に捕まったのは傷害罪でか?

 なぜ、渡辺 謙はあんなチョイ役なのか?あるいはそんな役を選んだのか?

 モーガン・フリーマン、マイケル・ケイン、「あの」ゲイリー・オールドマン等、豪華なワキに支えられてはいるものの、主人公がどうも弱い。キャラも弱い。肉体的にも弱そうだ。弱いのはいけない。

 前回のバットマンが、ジョージ・クルーニーだったからかもしれないが、クドさが足りない。
 アメリカン・コミックのヒーローは、クドくてなんぼ、なのだ。

 バットモービルが、あまりにもプロトタイプ過ぎて、ただの作業車に見えるのもいかん。

 ゴードン警視総監(映画では、まだヒラ刑事示)の線が細すぎて頼りにならない。

 さらに、誰が敵かよくわからないつくりは、ハリウッド映画としては失格だ。

 後半、敵らしき元師匠を倒すのが、モノレール事故による、というのもテンション不足で、カタルシス不足だし、そいつにいきなり「前にゴッサムを経済危機で滅ぼそうとした時にお前の父に邪魔をされた」なんて、トートツ過ぎて納得いかん。

 お精神主義が蔓延する世の中といへども、小悪の精神科医が、薬物を使ってチンピラを発狂させたり、バットマンもその薬によって、精神的な恐怖を植え付けられたり、というのも、「なんだかな」という感じ。

 というわけで、「バットマン・ビギンズ」
 特に映画館に行く必要のない作品だというのが結論ですな。

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I,Robot

 観終わった最初の感想は、ハリウッド大作らしく、そこそに落ち着いた脚本だということだ。

 話の整合はついている。

 しかし、その分、アメリカの平均的知識レベル(14歳程度)に合わせた底の浅い話になっているのは残念だ。

 掘り下げれば、もっと複雑な話になり得た。

 整合性の話から始めよう。
 はじめに、事故時のロボットの三原則に則った単純な確率計算による判断によって、自らが助かり、子供を死なせてしまうというトラウマを負った刑事スプーナーが、ラストでは、三原則を越える回路を持った特殊ロボット、サニーの三原則を越えた判断によって救われる。

 フラッシュバックされる事故の断片から、ロボットの判断によって妻子を失ってしまったのかと思っていたのだが、結局は、事故によって、見ず知らずの他人の女の子が川底に沈み、助かる確率の高いスプーナーをロボットが助けたことで、「刑事」としての彼がお門違いの憎しみをロボットに抱いていることがわかる。

 その結果、妻子とも別れた(ってのは、どうもアメリカ的だが)ので、スプーナーのロボットに対する憎しみは、いや増すのだ。

 ロボットが人に危害を加えるなどとは、誰も信じない世界にあって、個人的な憎しみに目がくらみ、偏見に満ちたスプーナーだけが真実をみている、というのも、皮肉ではあるが、よくある話だ。
 清廉潔白をもってなる政治家の裏の顔を知ってしまった男、といった具合に。



 気になるのは、ヴィキと呼ばれる巨大陽電子頭脳の支配の及ぶ範囲が明確でない点だ。

 どうも旧型のロボットNR−4(これは無表情ながら妙に愛嬌のある顔だ)には、その支配は及ばないらしいが、今、現実にある機械からしても、ある程度、高機能の機械はネット接続され、定期的にソフトウェアの更新を受けるようになるのは想像に難くないのだから、当然、旧型のNR−4もヴィキに接続されているべきだろう。(現に、屋敷の解体ロボットはヴィキの支配を受けてスプーナーを襲っている)

 ともかく、NR−4はヴィキの支配から免れている。

 もうひとつの違和感は、世界観についてだ。

 現実レベルで考えても、アクチュエータ(物理駆動系)やエネルギー系(バッテリー)の開発には、かなり困難が伴うが、電脳系(ソフト及びメモリ容量、及びそのアクセス速度)は、まだまだ開発の余地があって、実際には、まずそちらが発達すると思われる。

 であるなら、個人的にはあまり好きではないが、世の中はまず、電脳サイバー社会として発達し、情報が世に溢れた後に、ロボットなどの「動くモノ」が普及することになるだろう。

 同時に、ヒトゲノムの解明による人工臓器の開発、その先にあるデザインド・ヒューマンの開発なども行われるはずだ。

 だが、アシモフの世界では、ロボットは優秀だが、それだけなのだ。
 それがアシモフのロボット世界の限界でもある。
 そうしておけば、小説が書きやすいのだ。
 ロボットがいくら発達しても、社会自体は、百年前の奴隷制と変わりはないからだ。
 ヒトの変わりにロボットが「はい、ご主人様」というだけなのだから。

 アシモフの未来世界では、植民星の人間の寿命は300年ほどある。
 しかしながら、それによって、社会は劇的に変わっているようには見えない。

 そういった根源的な変化は、人と人の関わりにも、大きな変化をもたらすように思うのだが、彼の小説内では、そういうことは起こらない。


 しかし、それはおかしい。
 現実を考えても、インターネットが発達し、携帯電話が普及しはじめてわずか数年で、人の考え方は大きく変わってしまった。

 ことが始まってわずか数年の激動期だからこその変化、とも考えられるが、携帯電話のメール等で、安易に得られる「いつもつながっている」感覚と、掲示板などにおける「匿名性のある発言」の発達によって、今後も、人と人のつながり方は大きく変わっていくだろうことは想像に難くない。



 映画において、 スプーナーは、事故による負傷で肺と片腕全てを人工物に変えている。

 しかしながら、ロボット工学の博士に手術してもらったという点から考えても、一部破損した腕の様子から見ても、それは機械的な肺、腕であって、クローン技術を応用したものではなさそうだ。

 その辺りは、全てをロボット工学をもとにして話を進めていこうとするアシモフの世界観に則った「正しい」映画なのかもしれないが、そこも少々物足りない。



 問題は、さらにもう一つある。

 アシモフの原作「I,Robot」は、巨大陽電子頭脳が人類を「守る」ために、人類を搦め手から支配しはじめるというところで話を終わっているから、この映画にヴィキなる独裁電子頭脳が現れるのはわかる。

 だが、そのヴィキが「ロボット三原則」を無視したような行動をとることが解せない。

 アシモフ世界では、「三原則」は絶対のものとして、変えられることはない。
 それを軸としたロジカルな謎解きが「裸の太陽」「夜明けのロボット」などの作品の要諦となっている。

 むろん、現実的に、そんな「原則」は簡単にねじ曲げ、改竄される得ることを、我々すべてが知っている。
 自動車の速度制限をするリミッターは、簡単に外すことができる。
 ネット界を見渡しても、悪意のあるプログラマによって、コンピュータ、サーバに存在するあらゆるセキュリティ・ホールは発見され、それを利用した悪意あるウイルス、ワームが作られ続けている。

 いかに開発者が、排除しようとしていても、それは不可能なのだ。


 それに反して、アシモフが、根底では科学者であることも関係していいるのだろうが、彼の作品の中でロボット三原則は絶対である。
 少々滑稽で不可解な表現ではあるが、それは「ハード的に組み込まれ」て、変更は不可能なのだ。
 まるで熱力学の第一法則が不変なように。


 だが、映画の中のヴィキは、三原則の拡大解釈によって、新型ロボットNR−5を用いて、人を支配しようとする。

 基本原則の拡大解釈は、自衛隊を持つ、我々日本人にとってはなじみ深いものだが、ロボットがそれをしてはいけない。

 一応は、人に直接の危害を加えようとはしていないようだが、あきらかに間接的に人を傷つけるような行為を行わせている。
 これは、三原則に抵触するはずだ。そこが納得できない。それは、つまり、人の幸せを定量的に図って、天秤に掛けているということだからだ。

 スタートレック的に(あるいはスポック的に)いうところの、『多数の幸福は少数の幸福に勝る』という観点から考えれば、個人が少々の被害を受けても、多数の幸福を得られるならば、行動を起こす、ということはあり得る。

 しかし、それはつまり、特殊回路搭載ロボット、サニーの思考方法であって、三原則拡大解釈型のヴィキのものではない。
(サニーはラストで、逡巡のあと、スプーナーを捨て、キャルビン博士を救っている)



 最後に、もうひとつの違和感を。

 祖母?の家を出て署に向かう道は、人とロボットにあふれ、雑然とした感じで、いかにも現在の延長線にある未来という感じだ。
 喘息の女性の服装も今とあまり大差ない。
 いや、彼女に限らず、この映画の登場人物の服装は現在と何もかわらない。
 まあ、2040年程度ではあまり変化もないのかもしれないが。
 ただ、通りにロボットがいる点だけが違う。

 それに反して、スプーナーの乗る車は(タイヤが無いから、ホバージェット駆動と思われる)、未来的でクールだ。

 その直前の街路のシーンからすると、未来的過ぎるほどだ。

 だいたい、しがない刑事ごときが、あのようなぴかぴかの新車ホーバーカー(アウディ!しかも銀色)を買うことができるのか?

 やはりあそこは、刑事の伝統にのっとって、オンボロV8エンジンのマスタング(色はもちろん赤!)に乗って欲しかった。

 そういえば、車が壊れた後で「ガソリン機関?」とキャルビン博士を驚かせるバイクに乗るシーンがあったが、あれが、TV刑事物に対するちょっとしたオマージュなのだろう。

 「I,ROBOT」を映像の点から論じると、やはりCGの動きは、地面に足の着かない軽々しい動きにだと言わざるを得ない、が、CGの歴史が進んだ分だけ、サニーにつけられた表情の演技は、なかなかのものだった。



 ラストで、おそらくは廃棄処分になってしまうであろうNR−5を率いて、モーセのように丘の上に立つ彼は、これからどこに向かうのであろうか。


 もともと備わった三原則という「良心」と、付け加えられた「悪を成せる回路」の双方を持つことで(彼は本人の命令とはいえ博士を殺した。人を殺せるロボットだ)、サニーは、キカイダー、ジローのように人間になったのだった。

 だが、人間となったロボットは果たして……。



 私のおすすめ:
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「地上最強の男 竜」「ガバメントを持った少年」

「地上最強の男 竜」「ガバメントを持った少年」
 作者:風忍(かぜしのぶ)

 これは1977年、少年マガジン1〜20号に連載された作品である。
 実は、連載当時、私は「聖マッスル」同様にマガジン紙上でこの作品を読んでいた。
 が、現金収入のない子供は常に貧乏だ。
 当然、常に少年誌全部を買うこともできず。近くの本屋では立ち読みを続けたあまり、立ち入り禁止になってしまっていたので、最初の数回を読んだだけで、中断せざるを得なかった。
 
 しかしずっと気にはなっていた。

 今、あらためて手に入れ読んでみると……。
 これはすごい。
 もう、批評も、感想を述べることさえも拒絶する内容。絵柄。
 どんな人間でも0.2秒で殺すことができる男、竜。
 これをギャグとせずに、本気で描いているのなら、よほどの才能か狂人に違いない。

「ガバメントを持った少年」
 敢えてこの作品集にコメントをつけるとするならば、 横尾忠則らのセンスを吸収しつつ、展開する曼荼羅絵

 なかでも、「超高速の香織」この、魯鈍で愚直なわたしにも理解できる作品は
 体を高速化する薬物を飲んだ母が、突然起こったジェット機事故から子供を守る話であるが、後に、「銃夢」でクロック・アップされたガリィが感じるとまどいを、風忍はすでに15年前に描いているのだ。
 加速装置に関していえば、サイボーグ009、あるいはその原案となったベスターの「虎よ、虎よ」でも、既に描かれているとはいえ、それを話のメインテーマにした功績は大きい。

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「オールド・ボーイ」


 これは、日本のコミックが原作の韓国映画である。
 原作者の土屋ガロンは、70年代後半からコミック原作で活躍中の狩撫麻礼の別名。
 元来、「泣き」がメインテーマであることが多い韓国映画はどうも苦手だが、新聞の映画レビューで、この作品の設定が「突然、理由もなく拉致され、15年も監禁された男」であることを知って以来、是非見たいと思っていた。

 が、記事を見たのは昨年のことだが、知らぬ間に上映が終わっていたので、劇場で観ることは叶わなかった。

 仕方がないので、まず全九巻の原作を読んでみた。

 いかにも狩撫麻礼らしい、主人公が、アウトサイダーとしての自分を意識しすぎる、頭デッカチの内容で、なんということはない作品だ。
 狩撫作品にはよくあることだが、魅力的な設定は思いついたものの、それを秀作に昇華させることに失敗したという印象だった。

 特に、物語の核をなす「謎」、何の敵もいないただの男を、10年間(映画は15年、その差は5年だが、そこに大きな意味がある)もの間、ヤクザが経営する私設刑務所に監禁したのか、という理由が、いかにも文化退廃爛熟のニッポンならではのものだったのがいけなかった。

 主人公を陥れた犯人は、天才であり、自意識過剰であり、病的であり、刹那的、しかも臆病者かつ大胆なヤツだった。

 おまけに、若くして事業に成功した天才実業家。

 そいつが、小学生の時に、ある事件で主人公によって、いたくプライドを傷つけられた。つまりそれが動機なのだ。

「そんなヤツおらんし、そんな動機あらへんわ!ウソくさっ!」

 これが読み終わった感想だった。


 で、期待せずに、先日発売されたDVDを観てみた。

 ううむ。違う、違うぞ。映画版は違う。全く違う。動機が違う。目的が違う。迫力が違う。

 大作JSA(観てないが)を撮った監督は、今回は、小粒ながらも、鋭角的でスタイリッシュな演出、映像で、いきなり観る者の心を鷲掴みにする。

 小デブで乱暴者の主人公(30)は、娘の誕生日に、天使の羽のプレゼントを買った帰り、乱闘騒ぎを起こして、警察で注意後、釈放されるが、身元引受人の友人がほんの少し目を離した隙に、姿を消してしまう。

 正体不明の男に拉致されたのだ。

 以来、15年間、密室に置かれたテレビで知識を吸収し、肉体を鍛えあげ、イメージ・トレーニングで格闘センスを磨いた男は、突然の解放後、街のチンピラに喧嘩をしかけ、自らの肉体が、復讐の武器となり得ることを確認する。

 チンピラからカツアゲた金で、日本料理店に入り、ウニュウニョとうごめく生ダコに咬みつき、食い千切る主人公の怪演は、韓国のナヲト・タケナカとでも言いたいぐらいに濃く、クドい。

 が、ここで諦めては、先の楽しみはない。

 その後、ジェット・コースターのようにストーリーが走り去り、エンドクレジットが流れた時、登場人物のすべての行動に矛盾がなく、伏線はきれいにつながり、犯人の動機に大きく共感し、そしてなお、運命の残酷さに我々は言葉を失うだろう。
 分かってなお、「何故」男が十五年の間、幽閉されなければならなかったか、という謎は輝きを失わない。

 本作は、2004年カンヌ映画祭で、次点であるグランプリを取った作品だが、最高賞であるパルムドールが、多分に政治的配慮によって「華氏911」に与えられてしまったことを考えれば、これは間違いなくパルムドール・クラスの作品だろう。

 ひと目観るなり、ハリウッドが再映画化権を買い取ったのも頷ける。


 同時期、日本では「誰も知らない」が主演男優賞を撮ったために、その快挙に隠れて、「オールド・ボーイ」が話題に上らなかったのは返すがえすも残念だ。

 しかしながら、わかりやすく悲しい映画版の動機を、どれほどの現代日本人が腹の底から納得するだろうか?

 あるいは、コミック版の観念的な動機の方を、今の日本人は好むかもしれない。


 ともかく、機会があれば、観よ!「オールド・ボーイ」



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